幸福論
#4-1
水を飲み干し、男がふと、足元を見下ろすと
そこには10円玉が一枚転がっていた。
男は目を閉じて一つ大きな呼吸をした。
それはまだ、男が新聞社に入社して1年目のことだった。
男には、草野という同期の友人がいた。
彼には父親はいなかったが、明るく、人情に厚い人柄で、彼には東京の大学へ行くという夢があった。
しかし、まだ残暑のある9月その日は突然にやってきた。
草野の母親が突然倒れたという。
彼は社から病院へ駆け込んだ。
彼の母の脳には大きな腫瘍があり、手術をしなければならなかったがそんなお金を彼は持ち合わせていなかった。
母は、死ぬならば、最期は家で息子と共に居たいと言ったので
草野は仕事を休むことになった。
彼は母と共に実家でひっそりと、看病しながら過ごしていた。
草野が仕事を休み始めてから2ヶ月後、
男は仕事後に草野の実家を尋ねた。
狭い家だったが、物が少なく、実際よりも広く感じた。
「突然訪ねて、すまなかったな。」
「いやいや、会えて嬉しいよ。母は寝ているがゆっくりしていってくれ。」
草野は痩せて、頬はこけていた。
「大丈夫か?」
「大丈夫って、なにが。」
「あ、いや、その。お前が疲れてるように見えて。今日来ない方がよかったかなと。」
「なに、そんなことはないさ。俺らは同期だ。いつでも会いたいさ。まあ、疲れていないかと言われれば嘘になるかもしれないが。」
「俺にできることはあるか?」
「いや、気持ちは嬉しいがなにもないよ。これは俺の問題だ。」
「お前の問題?さっき自分で言ったろ?俺らは同期だ。なんでも話せ。」
草野は天井を見上げてからひとつ大きなため息をつき、ゆっくりと話しだした。
「俺、もう、嫌なんだよ。仕事ができないで、家に拘束されていることも。毎日毎日衰退していく母親を見ながら身の回りの世話をしてやることも。家にいても大学へ行くための勉強もできやしない。ただ、こんなことを思う自分が最低だということもわかってるんだ。俺はなにもしてやれない。ただ、淡々と死へ向かおうとしている母親に、なにもしてやれないんだ。  時には思うさ、もう、死んでくれないかと。母親はもう歩けないし、寝ている時間も長くなった。明日死ぬかもしれないと、毎日毎日思うんだ。その度に、俺にもっと金があって、心の余裕もあって、親思いであればよかったと。でももう無理なんだ。母親は、だんだんと言葉が話せなくなる。どんどん他人になるんだよ。他人のために尽くす必要があるのか?俺はそう心でそう思った自分を見逃さなかったのさ。」
草野はしきりに左手の手相をなぞりながら話した。
男はなにも言えなかった。
草野は今度、男の目を見て続けた。
「わかるか? 俺の母親は自分が死ぬ時のために俺をここに置いているんだ。俺は母親が死ぬ時のためにここにいる。他人の死を待つ人間だ。それってさ、おかしいだろ?」
男は唾を飲み込んで言葉を発した。
「そうだな。でもそれが、お前がお前の母親にできる最高の親孝行になるんだ。お前は最低なんかじゃない。」
5秒ほどの沈黙の後
そうなのかもな、と草野は言って少し笑った。
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