幸福論
#3
男が今は亡き妻に出会ったのは新聞社に勤めて3年目の頃であった。
休憩時間にいつも通っていた定食屋にたまたま彼女が来て、そこからほぼ毎日、定食屋で顔を合わせるようになった。
彼女はいつも、お疲れ様です、と挨拶をしてごく自然に男の前に座り、決まってカレイの煮付けを頼んだ。
「魚、お好きなんですね。」
「あなたは、お肉がお好きなのね。」
「あ、いや僕は。たまたま生姜焼きがこの店で安いものですから。」
「じゃあ、魚もお好き?」
「魚は好きですよ。釣りにも行きます。」
「そうですか、どこへ行かれるの?」
「だいたいいつも、そこの1番近くの海で釣ってますよ。人も少ないですから。のびのびと釣りができます。」
「それは素敵ね。今度、私も連れてってくださいよ。」
女は少し俯いていて、まつ毛が窓から溢れる日光に反射してキラキラしていた。
ああ、綺麗だ、と男は口に出していた。
「え?」
女は少し驚いて男の顔を見ていた。
「あ、いや、その。あー、困ったな。」
女は困った男の姿を見て笑った。
「ねぇ、今週末なんて、いかがかしら。」
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車の速度を上げる男の耳元で、あの時の波の音がした。
彼は反射的にアクセルを踏む足を弱めた。
海など周りに無いが、彼の耳があの時の幸せを記憶しているのだ。
ふと、男は疑問に思った。
あの時、妻に、今週末に釣りへ行こうと言われた日、2人は傘を持っていた。
そうだ、あの日は曇り空の雨だった。
だとしたら、まつ毛に日光など反射するわけないのだ。
あの時も男は幸福であった。
裕福な家庭に育ち、学級委員になり、有名校へ進学したことよりも、もっと偉大な幸福を男は感じていたのだ。
彼が死ねば、もうその幸福を知る者はこの世にいなくなる。
きっと、何事もなかったように日々は過ぎていく。
それでも死ぬのだ。
これから男は死ぬのだ。
男はアクセルをもう一度踏みなおそうとしたところで喉の渇きに気づいた。
唾が思うように飲み込むことができない。
男は一度、高速を降りて1番近くにあった自動販売機で買った水を一度に半分まで飲み干した。
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