勇者が救世主って誰が決めた
49.5_【閑話】少女と亡者と菓子祭事
リーベルタ王国の交易都市、アイナリー。
時期は収穫期の終盤。その年の豊作を祝う盛大な祭りも終わり、街の熱気も下火となってきた頃。
王都の台所とも金庫番とも宝物庫とも言われるこの都市を……今とある都市伝説が席巻していた。
曰く……
『陽が落ち、月の見えない夜、上から気配を感じても決して見上げてはいけない。何故なら……死後の世界へと繋がる穴から、亡者が今まさにお前を狙っているからだ。
奴と目が合ったが最後、そのままあの世へ魂を持っていかれる』
というものである。
最初期の頃こそ、『どうせ酔っ払いの戯言だろう』と一笑に付されていたこの噂話であったが、実際に被害者が一人、また一人と増えるに従い……信憑性を増すとともに、解決を求める人々の声も比例して増えていった。
そして……下からの要望と上からの命令とによって、とうとう受け流しきれなくなったこともあり……アイナリー駐屯兵団は重い腰を上げたのだった。
すっかり日も落ちて、夕餉の時間も回った東地区。とある一組の年若い兵士が、巡回警邏を務めていた。
彼らはこの東地区に家があり、通常業務の終了後……決して少なくは無い手当と引き換えに、こうして残業を申し付けられたのであった。
「……仕方ねぇけどさ。やっぱ夜回りとか嫌だよなぁ」
「それな……只でさえ滅入ってんのによ……」
「引っ越しかー。タイチョーは知ってたんだろうなー」
「仕方ねぇよ……俺ら下っ端だし……」
大通りから少し離れた、人けも疎らな裏通り。
二人の兵士は思い思いに愚痴り駄弁りながら、それでも言われた通り警邏を続ける。
「元気出せって。別に街出たわけじゃ無ぇんだろ? 今に引っ越し先も分かるって」
「べ……別にそういうんじゃねーし? 別に会いたいわけじゃねーし?」
「……おい……アレお姫じゃね?」
「えっ!?マジどれ何処おい何処!?」
指差された方向を見回すも…それらしき姿は影も形も見当たらない。
どういうことかと相方を見遣ると……そこに表れていた表情で全てを察した。
「お前………ルクスお前……」
「悪かったって。謝るから。……悪かったよノースそんな凹むなって」
深い……深い溜息とともに、年若い兵士…ノースは俯いた。
同期の少年兵……ルクスとは、短くない付き合いだ。気心の知れた仲とはいえ、自分はそんなに解りやすい性格なのだろうか。
……単純な性格だと言われたようで、少し泣けてきた。知らず知らず、肩が震える。
詰所医務室の住人だった意中の少女…ノートの引っ越しがショックでは無いというと……もちろん嘘になる。
実際に言葉を交わしたことは数えるほどしか無いが、食堂や館内でその姿を目にするだけで幸せな気分になれるくらいには……ぞっこんだった。
そんな彼女が……なんと医務室から引っ越してしまったという。いち下っ端である自分に引っ越し先が開示される筈も無く、こうして悲しみに暮れるほか無いのであった。
……どうやら自分でも気づかないうちに、結構参っていたらしい。
震えが止まらない。……寒気が、止まない。
…………いや、違う。これは何か…違う。
ふと横を見ると……ルクスも小刻みに身体を震わせている。
気のせいかその顔色は……蒼白い。
………………まさか。
先程までの風景を、必死になって思い起こす。
確か空は暗かった。
……確か、月は、出ていなかった。
「……………なぁ、……ノース」
「言うな。絶対に言うな。……絶対に見るな」
………いる。
間違いなく、いる。
冥界の住人とはよく言ったものだ。確かにその通りなのかもしれない。
こんな怖気を放つ存在が、この世のものである筈が無い。
暗い裏路地。身じろぎひとつすることも出来ず、石になったかのように硬直する二人。
口の中はカラカラ、唾液はとうに枯れている。
彼らの顔面は蒼白で、身体中にびっしりと冷汗が浮かんでいた。
……どれ程の時間、固まっていただろうか。
ふと唐突に、それが目に入ってしまった。
じっと視線を落としていた、足元の地面。
視界の隅に映る、道端に広がる水溜まり。
雨水が溜まったものだろうか。風も無い裏路地、片隅に広がるそれはまるで鏡のようで……
そこには俯く自分の頭に向けて、空から伸びる白い手が映っていた。
思わず、無意識に上空を仰ぎ見てしまい、
自分に向けて異様に長い腕を伸ばすそれと、
………目が、合った。
「ああああああああああああああああああ!!!!!!!!」
恥も外聞もなく叫び、情けなく尻餅を付く。
白く不気味な人外の腕は、大声に一瞬驚いたようだったが……一瞬の後再び腕を伸ばし始めた。
『……奴と目が合ったが最後、そのままあの世へ魂を持っていかれる』
ノースの頭の中に、件の一節が浮かび上がる。
肌は青白く、それでいて指は異様に長い……およそ生きたヒトのものとは思えない、まるでヒトの骨のような異形の手が、明確な『死』を纏いながらすぐ眼前に迫り……
突如として響き渡った硬質な音とともに、異形の腕の進路が曲がり、顔を掠め落下したかと思うと…
黒い煙となって唐突に霧消した。
…いや、正確には違う。
異様に長い腕はその半ばほどから断ち切られ、その長さを減じた腕は真っ暗な切断面を覗かせたまま、空中の顔から垂れ下がったままだ。
……頭が働かない。
唐突に生じた生命の危機と、唐突に訪れた予想外の救いの手に……
元々回転が悪いほうだった彼の頭は、完全に思考停止していた。
「…………なに、してる?」
思考の処理が追い付かない彼の頭に、突如として声が響いた。
……それはとても心揺さぶられる声。
彼の求めていた……可愛らしく、たどたどしく、どこか舌足らずな声。
「……あなた、は……だれ?」
尻餅を付いた彼の、すぐ目の前。
かつて自分たちが贈った…可憐なワンピースとケープを纏い、
純白の剣を提げた少女……ノートが立っていた。
「んい……? あなた、は………なに?」
ノートが、口を開く。
上空の得体の知れないそれに向かい、微塵も恐れる様子を見せず、問いかける。
それは、敵に対しての糾弾というよりは……単純な疑問に対する問いかけに近い声色。
「……ほしい? ……んい?」
言葉が通じているのか、何事か呟き、首を傾げるノート。
しかしながらそれを傍目に見る彼らは……若年兵士二名にとっては、完全に理解の範疇を超えていた。
「………ちかづく? におい、……んいい、…おなかが、すく? しゅうかく、みのり、…そっちは、ない、から? そう、なの?」
青白いそれは、おもむろに頷いた……ように見えた。
驚いたことに……ノートの問いかけに対し、反応して見せた。
それどころか明らかに意思の疎通が成されているようで……二度、三度と言葉のやりとりが行われている。
一体何が、起こっている?
一体何を、話している?
完全に思考能力を失った頭では、何もわからない。
推測も推論も立てることが適わず、ただただ疑問符を浮かべることしか出来なかった。
「……んい? ……のーす? こん、にちわ」
唐突に、自分の名を呼ぶ声に、意識が引き戻される。
これは夢か幻か……真っ白な少女がたどたどしくも自分の名を呼び、話し掛けてくれている。
いつもの飾り気のない病衣などではなく……年頃の女の子らしい可憐な装いの彼女。灯りの殆ど無い筈の夜にもかかわらず……真っ白な彼女は月明かりのように、淡く煌いて見えた。
「……のーす? こんにちわ?」
「え……あ…………こん、にちは……?」
かすれた声でなんとか返事を返すと……彼女はおもむろに頷き、告げた。
「のーす、わたし、おねがい。……んいい、……むね、おかし、……ほしい」
「……………は?」
胸? おかし? 欲しい?
胸と欲しいは解る。…だが『おかし』は。『おかし』は何だ。どういう字だ。
………まさか。いやまさか。いくらなんでもそんな筈は無い。
いくら野郎に下着を履かせるくらい恥薄い彼女とはいえ……こんな幼い少女が、そんな痴女めいた依頼をする筈が無い。
とはいえ…迂闊に返事をするわけにもいかず、しばし硬直していると……彼女は尚も言葉を重ねてきた。
「………んいいい……のーす? それ、おかし……ほしい」
それ。……彼女の指の指す方向……自分の胸ポケットを漁る。
するとそこから出てきたのは……挽いた小麦を練り上げた焼き菓子だった。
夜回りに出た際、小腹が空いたとき用にと、家を出る際に包んできたものだった。
「それ、わたし、ほしい。……おねがい、します」
あぁ、『お菓子』。
だよね、知ってた。最初からそうだと思っていた。何も悲しくない。当然だ。
さして値の張るものでもない。彼は頷くと……ノートに焼き菓子を差し出した。
それを受け取ったノートは……満面の笑顔でもって、彼に返した。
「んい、………のーす、あり、がとう」
花の咲くような笑みを受け……若手兵士ノースの意識は飛んだ。
………………
そのことを知る者は殆どいないが、この世界のすぐ傍にはいわゆる『死者の国』があるらしい。
いわゆる別次元の存在らしく、普段は干渉することはおろか、存在に気づくことすら出来ないらしい。
だがそれでも年に数回、こちらの世界と波長が近づくらしく……時たま小さな穴が開くことがあるらしい。
……そしてその小さな穴から、あちらの世界には存在しない……とてもおいしそうな香りが漂ってきたらしい。
容疑者の彼…あるいは彼女は、あちらの世界でも有数の実力者らしい。そのためほんの小さな穴を一時的に押し広げ、使い魔のようなもので形作った腕を伸ばすことが出来たらしい。
そうして……おいしそうな香りを放つもの…『菓子』を手に入れ堪能し、その際に姿を見られた場合は目撃者を昏睡させ、その隙に雲隠れしていた……ということらしい。
明確に、言葉をもって説明を受けたわけではない。
だが白剣の通信魔法に介入してきた意思を読み取る限りでは、概ねそんな感じだったように思う。
焼き菓子の提供と引き換えに、犯行動機を告げる……白い影。
現在アイナリーで囁かれている都市伝説……宵闇に浮かぶ不気味な顔と、魂を引きずり込まれる冥界の噂の真相。
気を失ったノースの相棒、ルクスと名乗る若手兵士から得た情報と照らし合わせると、ことの真相が見えてきたようだった。
……そもそもノートにとっては、そんな噂があったことすら初耳だったのだが。
白い影の彼…あるいは彼女は、良くも悪くもこちらのことを知らなかったようだ。他人の持ち物を奪うことがいけないということも、今回初めて知ったようだった。……もしかすると、まだ幼い子どもなのかもしれない。
……幸いというか、今まで犯行に及んだ際に昏倒させた魔法は…深い眠りに落とすだけだという。
数日もすれば目覚めるだろうし、命に別状は無いハズ…とのこと。
もうやめるんだ、いけないことだと叱りつけるのは、簡単だろう。
しかしながら、相手は得体の知れない世界の得体の知れない住人。こちらの命令をどこまで聞いてくれるかも、わからない。今回のようなことが今後起きないとも限らないし、その際の被害者が……今度は眠らされるだけで済む保証もない。
……そもそも、この子と意思の疎通が出来る者すら殆ど居ないのだ。
しかしながら別の次元、別の世界の住人とはいえ……お菓子を欲する幼い子どもがお菓子にありつけないというのは……少しかわいそうだと思った。
……なので、こちらからお膳立てをしてやろうと思った。
人けのない路地裏で急遽開かれた、二人と一体(棄権一人)による作戦会議。
幸いにして若手兵士ルクスはノートの提案に賛同的で、とんとん拍子で以下の取り決めが定められた。
一、 そちらの住人(以下『甲』という)は、こちらの住人(以下『乙』という)が規定の通り定めた菓子のみ、無条件で享受することができる。
一、 乙は甲に対し、年に一度、収穫祭の最後の日に、菓子を供出することを定める。
一、 乙は菓子の供出に際し、夜闇を照らす目印として、特産品である南瓜を用いた行燈を共に供えるものとする。
一、 甲は乙による菓子の供出がある限り、催眠を含む一切の危害を加えることを固く禁ずる。
―――以上。
白い影の子がどこまで理解できるかは不明だが……最低限『行燈のあるところからなら貰っていいよ』だけでも覚えさせれば良いだろう。そうすればあちらの子も喜んでくれるはずだし、こちらの被害も抑えられる筈だ。
あちらの代表者たる白い影の子は一応理解してくれたらしく、どうやら喜んでくれているようだ。
こちらの対処……告知のほうは、ルクスと所属するアイナリー駐屯兵団に任せることにした。リカルドとギムタイチョーなら、きっとなんとかしてくれることだろう。
………………
喜色の念とともに、白い影の子が去った後。
ノートはルクスと……未だ意識のないノースに向け、『帰る』と告げた。
「ほうこく、おねがい。……たいへんなの、おねがい、…ごめん、なさい」
気にするな、と口にするルクスに対し、ノートはお礼とばかりに爆弾を返した。
「こんど、わたし……おれい、する。 ……おれい、なんでも、する」
去り際に無意識の爆弾を落とされ……
多感な年ごろの若手兵士は、大いに混乱するのだった。
………………………………………………
数年後。
王国の台所たるアイナリーにおける収穫祭、その締めくくりとなる行事。
数年前から新しく始まった、その年に採れた作物を用いた菓子を作り、周囲に盛大に振舞うという行事。
死者の魂を模したという行燈を供え、『生者も死者も分け隔てなく、皆で豊作を祝う』という趣向の行事は好評を博し、
アイナリーの定番行事となっていったとか。
そのことでアイナリーの地価が跳ね上がったり、周辺住民の移動や農業の改革やそれに伴う改善や改革があったりなかったりするのだが、
それはきっとまた別の話。
時期は収穫期の終盤。その年の豊作を祝う盛大な祭りも終わり、街の熱気も下火となってきた頃。
王都の台所とも金庫番とも宝物庫とも言われるこの都市を……今とある都市伝説が席巻していた。
曰く……
『陽が落ち、月の見えない夜、上から気配を感じても決して見上げてはいけない。何故なら……死後の世界へと繋がる穴から、亡者が今まさにお前を狙っているからだ。
奴と目が合ったが最後、そのままあの世へ魂を持っていかれる』
というものである。
最初期の頃こそ、『どうせ酔っ払いの戯言だろう』と一笑に付されていたこの噂話であったが、実際に被害者が一人、また一人と増えるに従い……信憑性を増すとともに、解決を求める人々の声も比例して増えていった。
そして……下からの要望と上からの命令とによって、とうとう受け流しきれなくなったこともあり……アイナリー駐屯兵団は重い腰を上げたのだった。
すっかり日も落ちて、夕餉の時間も回った東地区。とある一組の年若い兵士が、巡回警邏を務めていた。
彼らはこの東地区に家があり、通常業務の終了後……決して少なくは無い手当と引き換えに、こうして残業を申し付けられたのであった。
「……仕方ねぇけどさ。やっぱ夜回りとか嫌だよなぁ」
「それな……只でさえ滅入ってんのによ……」
「引っ越しかー。タイチョーは知ってたんだろうなー」
「仕方ねぇよ……俺ら下っ端だし……」
大通りから少し離れた、人けも疎らな裏通り。
二人の兵士は思い思いに愚痴り駄弁りながら、それでも言われた通り警邏を続ける。
「元気出せって。別に街出たわけじゃ無ぇんだろ? 今に引っ越し先も分かるって」
「べ……別にそういうんじゃねーし? 別に会いたいわけじゃねーし?」
「……おい……アレお姫じゃね?」
「えっ!?マジどれ何処おい何処!?」
指差された方向を見回すも…それらしき姿は影も形も見当たらない。
どういうことかと相方を見遣ると……そこに表れていた表情で全てを察した。
「お前………ルクスお前……」
「悪かったって。謝るから。……悪かったよノースそんな凹むなって」
深い……深い溜息とともに、年若い兵士…ノースは俯いた。
同期の少年兵……ルクスとは、短くない付き合いだ。気心の知れた仲とはいえ、自分はそんなに解りやすい性格なのだろうか。
……単純な性格だと言われたようで、少し泣けてきた。知らず知らず、肩が震える。
詰所医務室の住人だった意中の少女…ノートの引っ越しがショックでは無いというと……もちろん嘘になる。
実際に言葉を交わしたことは数えるほどしか無いが、食堂や館内でその姿を目にするだけで幸せな気分になれるくらいには……ぞっこんだった。
そんな彼女が……なんと医務室から引っ越してしまったという。いち下っ端である自分に引っ越し先が開示される筈も無く、こうして悲しみに暮れるほか無いのであった。
……どうやら自分でも気づかないうちに、結構参っていたらしい。
震えが止まらない。……寒気が、止まない。
…………いや、違う。これは何か…違う。
ふと横を見ると……ルクスも小刻みに身体を震わせている。
気のせいかその顔色は……蒼白い。
………………まさか。
先程までの風景を、必死になって思い起こす。
確か空は暗かった。
……確か、月は、出ていなかった。
「……………なぁ、……ノース」
「言うな。絶対に言うな。……絶対に見るな」
………いる。
間違いなく、いる。
冥界の住人とはよく言ったものだ。確かにその通りなのかもしれない。
こんな怖気を放つ存在が、この世のものである筈が無い。
暗い裏路地。身じろぎひとつすることも出来ず、石になったかのように硬直する二人。
口の中はカラカラ、唾液はとうに枯れている。
彼らの顔面は蒼白で、身体中にびっしりと冷汗が浮かんでいた。
……どれ程の時間、固まっていただろうか。
ふと唐突に、それが目に入ってしまった。
じっと視線を落としていた、足元の地面。
視界の隅に映る、道端に広がる水溜まり。
雨水が溜まったものだろうか。風も無い裏路地、片隅に広がるそれはまるで鏡のようで……
そこには俯く自分の頭に向けて、空から伸びる白い手が映っていた。
思わず、無意識に上空を仰ぎ見てしまい、
自分に向けて異様に長い腕を伸ばすそれと、
………目が、合った。
「ああああああああああああああああああ!!!!!!!!」
恥も外聞もなく叫び、情けなく尻餅を付く。
白く不気味な人外の腕は、大声に一瞬驚いたようだったが……一瞬の後再び腕を伸ばし始めた。
『……奴と目が合ったが最後、そのままあの世へ魂を持っていかれる』
ノースの頭の中に、件の一節が浮かび上がる。
肌は青白く、それでいて指は異様に長い……およそ生きたヒトのものとは思えない、まるでヒトの骨のような異形の手が、明確な『死』を纏いながらすぐ眼前に迫り……
突如として響き渡った硬質な音とともに、異形の腕の進路が曲がり、顔を掠め落下したかと思うと…
黒い煙となって唐突に霧消した。
…いや、正確には違う。
異様に長い腕はその半ばほどから断ち切られ、その長さを減じた腕は真っ暗な切断面を覗かせたまま、空中の顔から垂れ下がったままだ。
……頭が働かない。
唐突に生じた生命の危機と、唐突に訪れた予想外の救いの手に……
元々回転が悪いほうだった彼の頭は、完全に思考停止していた。
「…………なに、してる?」
思考の処理が追い付かない彼の頭に、突如として声が響いた。
……それはとても心揺さぶられる声。
彼の求めていた……可愛らしく、たどたどしく、どこか舌足らずな声。
「……あなた、は……だれ?」
尻餅を付いた彼の、すぐ目の前。
かつて自分たちが贈った…可憐なワンピースとケープを纏い、
純白の剣を提げた少女……ノートが立っていた。
「んい……? あなた、は………なに?」
ノートが、口を開く。
上空の得体の知れないそれに向かい、微塵も恐れる様子を見せず、問いかける。
それは、敵に対しての糾弾というよりは……単純な疑問に対する問いかけに近い声色。
「……ほしい? ……んい?」
言葉が通じているのか、何事か呟き、首を傾げるノート。
しかしながらそれを傍目に見る彼らは……若年兵士二名にとっては、完全に理解の範疇を超えていた。
「………ちかづく? におい、……んいい、…おなかが、すく? しゅうかく、みのり、…そっちは、ない、から? そう、なの?」
青白いそれは、おもむろに頷いた……ように見えた。
驚いたことに……ノートの問いかけに対し、反応して見せた。
それどころか明らかに意思の疎通が成されているようで……二度、三度と言葉のやりとりが行われている。
一体何が、起こっている?
一体何を、話している?
完全に思考能力を失った頭では、何もわからない。
推測も推論も立てることが適わず、ただただ疑問符を浮かべることしか出来なかった。
「……んい? ……のーす? こん、にちわ」
唐突に、自分の名を呼ぶ声に、意識が引き戻される。
これは夢か幻か……真っ白な少女がたどたどしくも自分の名を呼び、話し掛けてくれている。
いつもの飾り気のない病衣などではなく……年頃の女の子らしい可憐な装いの彼女。灯りの殆ど無い筈の夜にもかかわらず……真っ白な彼女は月明かりのように、淡く煌いて見えた。
「……のーす? こんにちわ?」
「え……あ…………こん、にちは……?」
かすれた声でなんとか返事を返すと……彼女はおもむろに頷き、告げた。
「のーす、わたし、おねがい。……んいい、……むね、おかし、……ほしい」
「……………は?」
胸? おかし? 欲しい?
胸と欲しいは解る。…だが『おかし』は。『おかし』は何だ。どういう字だ。
………まさか。いやまさか。いくらなんでもそんな筈は無い。
いくら野郎に下着を履かせるくらい恥薄い彼女とはいえ……こんな幼い少女が、そんな痴女めいた依頼をする筈が無い。
とはいえ…迂闊に返事をするわけにもいかず、しばし硬直していると……彼女は尚も言葉を重ねてきた。
「………んいいい……のーす? それ、おかし……ほしい」
それ。……彼女の指の指す方向……自分の胸ポケットを漁る。
するとそこから出てきたのは……挽いた小麦を練り上げた焼き菓子だった。
夜回りに出た際、小腹が空いたとき用にと、家を出る際に包んできたものだった。
「それ、わたし、ほしい。……おねがい、します」
あぁ、『お菓子』。
だよね、知ってた。最初からそうだと思っていた。何も悲しくない。当然だ。
さして値の張るものでもない。彼は頷くと……ノートに焼き菓子を差し出した。
それを受け取ったノートは……満面の笑顔でもって、彼に返した。
「んい、………のーす、あり、がとう」
花の咲くような笑みを受け……若手兵士ノースの意識は飛んだ。
………………
そのことを知る者は殆どいないが、この世界のすぐ傍にはいわゆる『死者の国』があるらしい。
いわゆる別次元の存在らしく、普段は干渉することはおろか、存在に気づくことすら出来ないらしい。
だがそれでも年に数回、こちらの世界と波長が近づくらしく……時たま小さな穴が開くことがあるらしい。
……そしてその小さな穴から、あちらの世界には存在しない……とてもおいしそうな香りが漂ってきたらしい。
容疑者の彼…あるいは彼女は、あちらの世界でも有数の実力者らしい。そのためほんの小さな穴を一時的に押し広げ、使い魔のようなもので形作った腕を伸ばすことが出来たらしい。
そうして……おいしそうな香りを放つもの…『菓子』を手に入れ堪能し、その際に姿を見られた場合は目撃者を昏睡させ、その隙に雲隠れしていた……ということらしい。
明確に、言葉をもって説明を受けたわけではない。
だが白剣の通信魔法に介入してきた意思を読み取る限りでは、概ねそんな感じだったように思う。
焼き菓子の提供と引き換えに、犯行動機を告げる……白い影。
現在アイナリーで囁かれている都市伝説……宵闇に浮かぶ不気味な顔と、魂を引きずり込まれる冥界の噂の真相。
気を失ったノースの相棒、ルクスと名乗る若手兵士から得た情報と照らし合わせると、ことの真相が見えてきたようだった。
……そもそもノートにとっては、そんな噂があったことすら初耳だったのだが。
白い影の彼…あるいは彼女は、良くも悪くもこちらのことを知らなかったようだ。他人の持ち物を奪うことがいけないということも、今回初めて知ったようだった。……もしかすると、まだ幼い子どもなのかもしれない。
……幸いというか、今まで犯行に及んだ際に昏倒させた魔法は…深い眠りに落とすだけだという。
数日もすれば目覚めるだろうし、命に別状は無いハズ…とのこと。
もうやめるんだ、いけないことだと叱りつけるのは、簡単だろう。
しかしながら、相手は得体の知れない世界の得体の知れない住人。こちらの命令をどこまで聞いてくれるかも、わからない。今回のようなことが今後起きないとも限らないし、その際の被害者が……今度は眠らされるだけで済む保証もない。
……そもそも、この子と意思の疎通が出来る者すら殆ど居ないのだ。
しかしながら別の次元、別の世界の住人とはいえ……お菓子を欲する幼い子どもがお菓子にありつけないというのは……少しかわいそうだと思った。
……なので、こちらからお膳立てをしてやろうと思った。
人けのない路地裏で急遽開かれた、二人と一体(棄権一人)による作戦会議。
幸いにして若手兵士ルクスはノートの提案に賛同的で、とんとん拍子で以下の取り決めが定められた。
一、 そちらの住人(以下『甲』という)は、こちらの住人(以下『乙』という)が規定の通り定めた菓子のみ、無条件で享受することができる。
一、 乙は甲に対し、年に一度、収穫祭の最後の日に、菓子を供出することを定める。
一、 乙は菓子の供出に際し、夜闇を照らす目印として、特産品である南瓜を用いた行燈を共に供えるものとする。
一、 甲は乙による菓子の供出がある限り、催眠を含む一切の危害を加えることを固く禁ずる。
―――以上。
白い影の子がどこまで理解できるかは不明だが……最低限『行燈のあるところからなら貰っていいよ』だけでも覚えさせれば良いだろう。そうすればあちらの子も喜んでくれるはずだし、こちらの被害も抑えられる筈だ。
あちらの代表者たる白い影の子は一応理解してくれたらしく、どうやら喜んでくれているようだ。
こちらの対処……告知のほうは、ルクスと所属するアイナリー駐屯兵団に任せることにした。リカルドとギムタイチョーなら、きっとなんとかしてくれることだろう。
………………
喜色の念とともに、白い影の子が去った後。
ノートはルクスと……未だ意識のないノースに向け、『帰る』と告げた。
「ほうこく、おねがい。……たいへんなの、おねがい、…ごめん、なさい」
気にするな、と口にするルクスに対し、ノートはお礼とばかりに爆弾を返した。
「こんど、わたし……おれい、する。 ……おれい、なんでも、する」
去り際に無意識の爆弾を落とされ……
多感な年ごろの若手兵士は、大いに混乱するのだった。
………………………………………………
数年後。
王国の台所たるアイナリーにおける収穫祭、その締めくくりとなる行事。
数年前から新しく始まった、その年に採れた作物を用いた菓子を作り、周囲に盛大に振舞うという行事。
死者の魂を模したという行燈を供え、『生者も死者も分け隔てなく、皆で豊作を祝う』という趣向の行事は好評を博し、
アイナリーの定番行事となっていったとか。
そのことでアイナリーの地価が跳ね上がったり、周辺住民の移動や農業の改革やそれに伴う改善や改革があったりなかったりするのだが、
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2.4万
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2.3万
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