勇者が救世主って誰が決めた
31_善意と害意と業務内容
[きき。 あなた、産む、貰う。 お願い、します。 繁殖。 産む、あなた、です]
耳にするのは二回目だが、それでも戸惑いは微塵も消えなかった。
目の前の彼女が何を言っているのか、理解出来ない。
言葉はわかる。魔物相手なので思念も伝わる。伝わったのだが。
相変わらず何を言っているのか理解出来ない。
ノートが生来の生娘であれば、その後訪れる結末を容易に想像できただろう。
すぐさま明確な拒絶の意思を表すことが出来ただろうし、人蜘蛛も断固とした拒絶を前にして、考えを改めたかもしれない。
しかしながら、二十年ほどの時間を人族の雄として……勇者として過ごした過去を持つノートにとっては…現在自分の置かれた環境と『繁殖』という言葉が、容易に結び付かなかった。
そうして生じた、長い思考停止の時間を……人蜘蛛は同意と解釈したようだった。
粛々と、それでいて満足気に、『繁殖』の準備を進めていった。
―――――――――――
首筋に、小さな刺激を感じた。
唯一動かせる頭を…視線を横へと向けると、さらさらとした少女の髪が視界に入る。髪と、おそらく聴覚器官は備わっていない、形ばかりであろう耳。それらを備えた…少女の頭が肩へと迫っており…
ノートの首筋に、控えめに噛みついていた。
「………ぁ、…いや……どく……いやぁ……」
脳裏を過ぎったのは、数日前に生死の境を彷徨う原因となった…毒。
足裏の掠り傷から回ってあの有様だったのだ、首筋に直に流し込まれたらどうなるのか。考えるまでもなかった。
わたしに危害は加えないと、命は奪わないと約束したはずだった。害意を持っていないのも確認した。それなのに反故にされた。
いったい何故。
……いや違う。彼女は今も尚、害意は持っていない。
噛みついている牙も、振りほどかれまいと深々と突き立てる長く鋭いそれではなく……可能な限り苦痛を、痛みを与えまいとしたもののようだった。
「…ど、く? ……わたし、しぬ、……どく…?」
薄っすらと表皮を突き破り、控えめに突き入れられた彼女の牙。その傷口からじわじわと身体に広がっていく熱は、毒によるものと酷似している。
しかしながら…糸による拘束で腕や脚は動かせないものの、拘束を逃れている末端部分…指は、なんの抵抗も違和感もなく動かせる。加えて、傷口から広がる熱がもたらすものは焼けるような痛みではなく、痺れるような痛みでもなく。……身体中の凝りがほぐれるような、身体の血行が良くなるような、身体が火照ってくるような……
違和感と疑問の処理に時間を要している間、数分に渡って控えめに噛みついていた彼女が、ようやく牙を離した。彼女が口を当てていた部分は、冷たさをもって空気の流れを機敏に伝え、彼女の唾液とわたしの血で湿っているのがわかった。
すると彼女は小さな口を開き、小さな舌を出したかと思うと…そのまま顔を首筋に近づけ、彼女の舌が傷口を…溢れた血を舐め取るように首筋を刷り上げ、
「、!? んいいいいい!!!??」
脳天から足の爪先まで、未知の刺激が走り抜け……無意識に絶叫が漏れ出た。
「……!? ……は、……はっ、……は…っ……?」
身体が熱を帯びる。心臓が早鐘を打ち始める。浅く早く繰り返される吐息は、明らかに温度が高い。
白く透き通った肌はにわかに赤みを帯びはじめ、身体中の感覚がどんどんと鋭敏化していくのがわかる。
へその下…おなかの奥……脚の付け根のその間に、存在しない筈の第二の心臓が脈打つような…なんともいえない違和感が生じる。
「…な、に……これ……なに、ぃ…」
明らかに異常を示す、わたしの身体。
相変わらずの無表情を貫く彼女に、視線で訴える。
…しかしながら、ここまであっても彼女の意思に変化はない。悪意も、嘘偽りも感じられない。つまるところ、これは。
[き。 繁殖、準備。 人、我々、ちがう。 我、体液、人、使う、します。 き。 繁殖。 苦痛、無い、します]
微塵も変化の見られない、冷徹ともとれる無表情で、そう告げた彼女。
しかしこれは、恐らく彼女にとっての完全な善意。
今しがた丁寧に打ち込まれたこれは、繁殖を効率的に行うための効能を持った……魔殻蟲の神経毒とは全く異なった、殺傷のためではない毒。
ストレスを軽減させ、代謝を促進し、苦痛を和らげ、緊張をほぐし、……繁殖に対する欲求を肥大化させ、対象に強制的に準備を整えさせるための、毒。
………俗にいうところの、媚毒。
…ここまでされて、やっと理解した。
この子は、わたしに『主』を産ませる気だ。
蟲にとって、繁殖行為など日常茶飯事。何の違和感も忌避感も持ち合わせていない。であれば、そもそもそれが他者に対する危害であるという認識が無い。
他者に、他種族に対する意識も同様なのだろう。そもそも生命である以上、繁殖は切っても切り離せない行為だ。当然のように行われて然るべきだという考えは、別段おかしいわけではない。
だからといって。それが我が身に降りかかってくるなど。
蟲同士ではなく人の、わたしの身体を…胎を用いての繁殖など。
よりにもよって『蟲の主』を身籠ってくれなどという要求を、想定出来る筈が無い。
他の種族が、蟲たちが、どういう文化なのかは知らない。もしかしたら『多くの子を産んだ雌が魅力的とされる』ような文化なのかもしれない。
だが、少なくともヒト…特に人族に限って言えば、そんなことは無い。貞操観念は厳格であるし、特に……初めての行為は、ことさら大切にされる。
しかしながら残念なことに、彼らにそんな風潮は無いのだろう。でなければ『ちょっと産んでくれ』なんて突拍子もないことを頼む筈が無い。
先生にも忠告された。『安売りするな』と。安売りどころか無料解放なんて、さすがに冗談じゃない。そもそもそんなことに興味があるわけじゃない。
わたしが何者かの子を身籠るなんて、全く想像が出来ない。
人の子ですら考えられないのだ。ましてやそれが蟲の子だなんて。
嫌だ!さすがにそれは嫌だ!人として嫌だ!!
やめてくれ!それはさすがに勘弁してくれ!!
……そう伝えようと、口を開くも。
「……ゃ、ぁ、 ゃら、ぇぁ…! ……? ……!!?」
拒絶を表しようにも、泣き叫ぼうにも、口に力が入らない。
顎はかろうじて動くものの、唇の筋肉は思うように動かせず、明朗な言葉を発することが出来ない。
「……ぅぞ、……あぁぁ……」
彼女は今から行おうとしていることに、何の違和感も持っていない。
わたしがその誤りを訂正しなければ、止まってくれる可能性は限りなく低い。
しかしながら、わたしの口は……言葉を紡げない。
「やぇ………、ゃぇ……でぇ………」
魔力を失っている現状では、権能頼みの意思疏通は出来ない。
極度の緊張と混乱で震える口では、明瞭な言葉を紡げない。
彼女を止めることが、できない。
それによってこの後訪れるであろう、最悪の事態を予想して……あまりにもの非現実的な内容に、頭が理解を拒む。頭の処理が限界に達し、現実を拒絶するかのように、にわかに意識が遠のく。
だが。ここへ来て。
予想だにしていなかった、彼女の言葉が届く。
[あなた、準備。 き、しました。 我々、します、です。 準備、必要。 長い、あります]
「……ぇ…ぁ…?」
……我々は、準備をする?長い…時間を要する?
[き。 繁殖、つかう、我々、身体。 生産、必要、します]
………繁殖に使う蟲の身体? 個体を、生産する?
言うが早いか、人蜘蛛は背を向け、硬質な足音とともに歩き出した。
この世の終わりかと身構えていただけに、唐突に肩透かしを食らったような気分で、呆然と見送る。
小部屋の入口で、彼女がこちらを振り返る。特徴的な…黒一色の瞳と、目が合う。
[き。 準備、はじめ、します。 後で、戻る。 養分、摂取。 手伝う、します、です]
…………準備を始め、その後で戻る。養分を摂る手伝いをする。
そう伝えると人蜘蛛の彼女はこちらに背を向け…
ちゃちゃか、ちゃちゃかと足音を立て、小部屋から去って行ってしまった。
唐突に訪れた、静寂。
壁際に置かれた照明の魔道具、その頼りなく明滅する明かり以外に、
何も動くものが無い、岩に囲まれた空間。
…そういえば…おなかすいたなぁ。
ぼんやりと、そんな場違いともいえる思考が浮かんだ。
想像を絶する事象の連続で、限界以上の労働を強いられたわたしの頭は、
今や、完全に思考力が失われていた。
耳にするのは二回目だが、それでも戸惑いは微塵も消えなかった。
目の前の彼女が何を言っているのか、理解出来ない。
言葉はわかる。魔物相手なので思念も伝わる。伝わったのだが。
相変わらず何を言っているのか理解出来ない。
ノートが生来の生娘であれば、その後訪れる結末を容易に想像できただろう。
すぐさま明確な拒絶の意思を表すことが出来ただろうし、人蜘蛛も断固とした拒絶を前にして、考えを改めたかもしれない。
しかしながら、二十年ほどの時間を人族の雄として……勇者として過ごした過去を持つノートにとっては…現在自分の置かれた環境と『繁殖』という言葉が、容易に結び付かなかった。
そうして生じた、長い思考停止の時間を……人蜘蛛は同意と解釈したようだった。
粛々と、それでいて満足気に、『繁殖』の準備を進めていった。
―――――――――――
首筋に、小さな刺激を感じた。
唯一動かせる頭を…視線を横へと向けると、さらさらとした少女の髪が視界に入る。髪と、おそらく聴覚器官は備わっていない、形ばかりであろう耳。それらを備えた…少女の頭が肩へと迫っており…
ノートの首筋に、控えめに噛みついていた。
「………ぁ、…いや……どく……いやぁ……」
脳裏を過ぎったのは、数日前に生死の境を彷徨う原因となった…毒。
足裏の掠り傷から回ってあの有様だったのだ、首筋に直に流し込まれたらどうなるのか。考えるまでもなかった。
わたしに危害は加えないと、命は奪わないと約束したはずだった。害意を持っていないのも確認した。それなのに反故にされた。
いったい何故。
……いや違う。彼女は今も尚、害意は持っていない。
噛みついている牙も、振りほどかれまいと深々と突き立てる長く鋭いそれではなく……可能な限り苦痛を、痛みを与えまいとしたもののようだった。
「…ど、く? ……わたし、しぬ、……どく…?」
薄っすらと表皮を突き破り、控えめに突き入れられた彼女の牙。その傷口からじわじわと身体に広がっていく熱は、毒によるものと酷似している。
しかしながら…糸による拘束で腕や脚は動かせないものの、拘束を逃れている末端部分…指は、なんの抵抗も違和感もなく動かせる。加えて、傷口から広がる熱がもたらすものは焼けるような痛みではなく、痺れるような痛みでもなく。……身体中の凝りがほぐれるような、身体の血行が良くなるような、身体が火照ってくるような……
違和感と疑問の処理に時間を要している間、数分に渡って控えめに噛みついていた彼女が、ようやく牙を離した。彼女が口を当てていた部分は、冷たさをもって空気の流れを機敏に伝え、彼女の唾液とわたしの血で湿っているのがわかった。
すると彼女は小さな口を開き、小さな舌を出したかと思うと…そのまま顔を首筋に近づけ、彼女の舌が傷口を…溢れた血を舐め取るように首筋を刷り上げ、
「、!? んいいいいい!!!??」
脳天から足の爪先まで、未知の刺激が走り抜け……無意識に絶叫が漏れ出た。
「……!? ……は、……はっ、……は…っ……?」
身体が熱を帯びる。心臓が早鐘を打ち始める。浅く早く繰り返される吐息は、明らかに温度が高い。
白く透き通った肌はにわかに赤みを帯びはじめ、身体中の感覚がどんどんと鋭敏化していくのがわかる。
へその下…おなかの奥……脚の付け根のその間に、存在しない筈の第二の心臓が脈打つような…なんともいえない違和感が生じる。
「…な、に……これ……なに、ぃ…」
明らかに異常を示す、わたしの身体。
相変わらずの無表情を貫く彼女に、視線で訴える。
…しかしながら、ここまであっても彼女の意思に変化はない。悪意も、嘘偽りも感じられない。つまるところ、これは。
[き。 繁殖、準備。 人、我々、ちがう。 我、体液、人、使う、します。 き。 繁殖。 苦痛、無い、します]
微塵も変化の見られない、冷徹ともとれる無表情で、そう告げた彼女。
しかしこれは、恐らく彼女にとっての完全な善意。
今しがた丁寧に打ち込まれたこれは、繁殖を効率的に行うための効能を持った……魔殻蟲の神経毒とは全く異なった、殺傷のためではない毒。
ストレスを軽減させ、代謝を促進し、苦痛を和らげ、緊張をほぐし、……繁殖に対する欲求を肥大化させ、対象に強制的に準備を整えさせるための、毒。
………俗にいうところの、媚毒。
…ここまでされて、やっと理解した。
この子は、わたしに『主』を産ませる気だ。
蟲にとって、繁殖行為など日常茶飯事。何の違和感も忌避感も持ち合わせていない。であれば、そもそもそれが他者に対する危害であるという認識が無い。
他者に、他種族に対する意識も同様なのだろう。そもそも生命である以上、繁殖は切っても切り離せない行為だ。当然のように行われて然るべきだという考えは、別段おかしいわけではない。
だからといって。それが我が身に降りかかってくるなど。
蟲同士ではなく人の、わたしの身体を…胎を用いての繁殖など。
よりにもよって『蟲の主』を身籠ってくれなどという要求を、想定出来る筈が無い。
他の種族が、蟲たちが、どういう文化なのかは知らない。もしかしたら『多くの子を産んだ雌が魅力的とされる』ような文化なのかもしれない。
だが、少なくともヒト…特に人族に限って言えば、そんなことは無い。貞操観念は厳格であるし、特に……初めての行為は、ことさら大切にされる。
しかしながら残念なことに、彼らにそんな風潮は無いのだろう。でなければ『ちょっと産んでくれ』なんて突拍子もないことを頼む筈が無い。
先生にも忠告された。『安売りするな』と。安売りどころか無料解放なんて、さすがに冗談じゃない。そもそもそんなことに興味があるわけじゃない。
わたしが何者かの子を身籠るなんて、全く想像が出来ない。
人の子ですら考えられないのだ。ましてやそれが蟲の子だなんて。
嫌だ!さすがにそれは嫌だ!人として嫌だ!!
やめてくれ!それはさすがに勘弁してくれ!!
……そう伝えようと、口を開くも。
「……ゃ、ぁ、 ゃら、ぇぁ…! ……? ……!!?」
拒絶を表しようにも、泣き叫ぼうにも、口に力が入らない。
顎はかろうじて動くものの、唇の筋肉は思うように動かせず、明朗な言葉を発することが出来ない。
「……ぅぞ、……あぁぁ……」
彼女は今から行おうとしていることに、何の違和感も持っていない。
わたしがその誤りを訂正しなければ、止まってくれる可能性は限りなく低い。
しかしながら、わたしの口は……言葉を紡げない。
「やぇ………、ゃぇ……でぇ………」
魔力を失っている現状では、権能頼みの意思疏通は出来ない。
極度の緊張と混乱で震える口では、明瞭な言葉を紡げない。
彼女を止めることが、できない。
それによってこの後訪れるであろう、最悪の事態を予想して……あまりにもの非現実的な内容に、頭が理解を拒む。頭の処理が限界に達し、現実を拒絶するかのように、にわかに意識が遠のく。
だが。ここへ来て。
予想だにしていなかった、彼女の言葉が届く。
[あなた、準備。 き、しました。 我々、します、です。 準備、必要。 長い、あります]
「……ぇ…ぁ…?」
……我々は、準備をする?長い…時間を要する?
[き。 繁殖、つかう、我々、身体。 生産、必要、します]
………繁殖に使う蟲の身体? 個体を、生産する?
言うが早いか、人蜘蛛は背を向け、硬質な足音とともに歩き出した。
この世の終わりかと身構えていただけに、唐突に肩透かしを食らったような気分で、呆然と見送る。
小部屋の入口で、彼女がこちらを振り返る。特徴的な…黒一色の瞳と、目が合う。
[き。 準備、はじめ、します。 後で、戻る。 養分、摂取。 手伝う、します、です]
…………準備を始め、その後で戻る。養分を摂る手伝いをする。
そう伝えると人蜘蛛の彼女はこちらに背を向け…
ちゃちゃか、ちゃちゃかと足音を立て、小部屋から去って行ってしまった。
唐突に訪れた、静寂。
壁際に置かれた照明の魔道具、その頼りなく明滅する明かり以外に、
何も動くものが無い、岩に囲まれた空間。
…そういえば…おなかすいたなぁ。
ぼんやりと、そんな場違いともいえる思考が浮かんだ。
想像を絶する事象の連続で、限界以上の労働を強いられたわたしの頭は、
今や、完全に思考力が失われていた。
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