キッチンにさよならを

さたけまさたけ/茶竹抹茶竹

キッチンにさよならを

 私がガラスのショーケースの中からフォールディングナイフをうやうやしく取り出すと、客である老紳士は感嘆の溜め息を吐いた。厚手の柔らかい布にそれを包みショーケースの上に静かに置く。老紳士は両手に白の手袋をすると、そのナイフを彼の目の高さまで持ち上げた。手の平に収まる位のその柄は、焦げ茶色の木製であり、表面には丹念にニスが塗られて滑らかな煌めき湛えている。柄の中から顔を出した幅の広い刃は、鈍い銀色をしていて、触れれば指すら簡単に切り落としてしまいそうな鋭さをちらつかせていた。
 老紳士は何度かそれを手の平の上で転がし、細部をじっと見つめ、そして静かにショーケースの上に置いた。布越しに触れた硬い音が静かに鳴る。
 このフォールディングナイフは今から八十年以上も前に造られたヴィンテージ品であり、保存状態も非常に良い。そんな私のセールストークを遮って彼は一言、「買おう」と言った。
 私が一ケ月生活していける位の金額の「骨董品」を、その老紳士は躊躇う事なく買い上げていった。そんな彼の背中を見送る私に、店の奥から店主が声をかけてくる。
「なんだ、売れたのに釈然としない顔をして。何が売れたんだ?」
「零年代のフォールディングナイフあったじゃないですか、あれです」
「二十一世紀の幕開けを感じさせる、っていう宣伝文句が良かったんだろ」
 私の勤め先である骨董品店の店長は五十歳手前の中年男性である。私よりも背が低く、スキンヘッドにしているその姿は中々に小悪党らしく。この人相では客商売には向かん、として私が雇われた次第である。
 彼が数年前に立ち上げた、この骨董品店には様々な人が訪れる。毎日のようにそんな彼等の相手をしているわけだが、未だ私にはこの店で買い物をしていく気持ちが分からない。今から八十年前に造られたフォールディングナイフなど、わざわざ買っていく理由があるだろうか。もっとも、骨董品のナイフ以上に得体の知れない商品などこの店には幾らでもあるのだが。
 この骨董品店は店長の匙加減一つで何でも取り扱う。駅前の繁華街の隅、二十坪ほどの狭い店内には、所狭しと得体の知れない骨董品達がひしめき合っている。店構えからして異様だと分かるからか、訪れる客も「分かっている」人間しか来ない。
 例えば、コンセントだとかいう端子に有線接続する電灯だとか、今や紛争地域くらいでしか見ないガソリン車のパーツだとか、とにかく今の私達の生活には欠片も必要のない物に価値を見出せる人間だ。それがかつて価値を持っていた時代すら私は知らない。
 ショーケースの一部に空きが出来たので、店長が店の奥から別の骨董品を持ってきた。陳列をしながら、彼は先程の会話の続きを口にする。
「あの年齢だとフォールディングナイフって物に哀愁を感じることの出来る世代だろう」
「何に使うんですか、あれ」
「その話をするなら、丁度いいから昼飯にするか」
「はぁ」
 店の奥に事務所兼物置の手狭な部屋がある。使い終わった梱包材がそこら中に落ちていて居心地は決して良くないが、そこで昼を食べるのも休憩するのも慣れた。
 フードセンターから毎食配送されてくる昼食のセットを机の上に拡げる。抗菌処理が施された樹脂製の白い容器全体は綺麗にパッキングされており、運搬時には適切な温度で管理が行われている。今日の中身は中華風で、青椒肉絲だとか春巻きだとかが、中仕切りに区切られた枠の中で綺麗に陳列している。私が箸をつけると店長が語り出した。
「あの手のフォールディングナイフの用途は幾つかあるが、一般的なのは外での使用だな。折り畳みってのは持ち運ぶ為にあるわけだ」
「何を切るんですか、あれで」
「肉とかだよ」
「肉?」
「お前みたいな若い人間には想像も付かないだろうが、三十年位前にはな」
 店長の昼食は気が付けば既に半分が消えていた。その口が大きいのか、それとも殆ど咀嚼していないのか、少なくともよく味わっていないのは確かだ。とにかく彼は、昼食を勢いよく片付けながら話を続ける。
「フードセンターから毎日毎食、全ての食事が配給されるのが当たり前になるなんて、俺がガキの頃には考えもしなかった」
 私にとっては、この手元にあるパッキングされた料理の方が当たり前だった。
 フードセンターと呼ばれる官民連携施設から、毎日三食全ての食事が全国民に配給されている。徹底的に品質管理された工場で、大規模生産され、パッキングされて各自治体、各企業、各家庭、各個人に運ばれてくるのだ。これ以外に、私は食事を入手する手段を知らない。
「食事をする為に、それまで誰もが料理って事をしていた。自分で肉や野菜なんかを刃物で刻んで、それに火を通し、然るべき味を付ける。それが当たり前だったんだ。だから好む好まざる関係なく大体の人間は料理っていう行為に関わっていた」
 勿論知識としてはフードセンターによる完全供給制度までの歴史を知っている。それ以前の時代は、各個人の手で食事を用意しなければならなかったという事は知っている。
 それでも私にとっての食事とは、工場で製造されて毎日滞りなく届けられる物だという認識がある。あのフォールディングナイフが使われる光景が、自分で料理というものをする環境が、私にはそのイメージが湧かない。現在、工場生産されているそれらの工程を行える設備が各家庭の何処にあったというのだろうか。私の素朴な疑問に店長は笑う。
「昔の家にはな、キッチンって言って火を起こせて水を使える場所があったんだよ」
「各個人で行うのは不衛生じゃなかったんですか? 安全面も気になりますし。それに、各個人で健康に必要な栄養素を全て計算出来たとも思えません、不健康じゃないでしょうか」
「そりゃ今の『給食センター』に比べりゃな、そういう点は全てが劣っていただろうさ。それでも殆どの人間は、それで上手くやっていたんだ」
 給食センターという聞き慣れない単語が出てきたが、私がその意味を問い返す前に店長は言葉を続ける。
「あの手のフォールディングナイフは、外で料理をしたい人間が好んで使ってた。山の中なんかでな、あのナイフで食材を切って、火を起こしてな」
 外で、しかも山中なんて場所で。自分の口に入れる物に手を加えるというのは、酷く不衛生な事に感じられた。
 今、私達が日頃食べているものは。徹底的に品質管理をされ、厳密な検査をされ、厳重にパッキングをされた、安全で清潔なものだ。それが当たり前であり、それが食事の正しい姿だと私は思っている。
 骨董品を買いに来たあの老紳士は店長の言う様な時代を経験している筈だった。私と違って、あのフォールディングナイフで料理をする事に嫌悪感を覚えない人間のだろうか。
 植物樹脂素材でパッケージされた飲料水を一気に飲み干し、店長はどこか寂し気に言った。
「食事っていうのは、もっと違う意味の持つ行為だったんだよ」
 店長の言葉の意味が分からないまま食事を終えて店番に戻る。午後になると一人の客がやってきた。
 この店を訪れるには珍しい若い女性である。歳は二十代前半くらいだろうか、私と大差ないように見える。綺麗に結った長い髪が印象的だった。
 彼女は狭い店内を興味津々といった様子で何度も眺め回し、そうして暫く行ったり来たりを繰り返した後に私のいるカウンターに来た。店内に並んでいる年代物の電気製品だとか、奇妙な形の情報端末だとか、そういったものを見るのと同じような奇異の目で彼女は私を見た。
 何かお探しですか、と私は微笑み問い掛ける。彼女は私と違ってガラクタ紛いの骨董品に価値を見いだせる人間なのだろうか。彼女はショーケースの中身に隈無く視線をやってから再び私を見つめてくる。
「店長さんですか?」
「いえ、雇われですよ」
「ごめんなさい。お若いので、つい驚いてしまって」
「よく言われます。宜しければ、店長を呼んできましょうか」
「いえ、心配だとかそういうわけじゃないんです。むしろ少し安心しました」
 本心の様で彼女は笑顔を造る。
古い時代の物に価値を見いだせる人間は、年寄りばかりとも限らない。それを「お洒落」と捉えて生活様式やファッションの一部に取り入れる人もいる。ただ、そういう趣味の人間は、もっと煌びやかで清潔感のある店に行くのだ。
この店はそういった趣味で着飾るには少々方向性が違う。もっとジャンクで、思い切りガラクタな物ばかりだ。
 今のちょっとしたやり取りで気が緩んだのか、彼女は本題を切り出してくる。
「実は探している物がありまして」
「表に無くても奥に仕舞ってある物も御座いますし、ツテを辿って探し出してくる事も出来ますので、何なりと」
「調理器具を探しているのです。家庭用の」
「調理器具ですか」
「なんで、と思われるかもしれませんが」
 そもそも骨董品店で買い物をする客に理由など求めてはいけない。必要なくても欲しい、彼等はそんな不合理な感情で来るのだ。
 しかし、家庭用の調理器具を求めてきた客は初めてだった。そもそも家庭用の調理器具というものを私は見たこともない。家庭で料理をする、という文化自体が遠い時代の物である。
 これは店長を呼ぶしかなさそうだ、と私が思案していると彼女は取り繕うように語り出す。
「料理をしてみたいと思いまして」
「ご自分で、ですか」
「はい。その、奇妙に思われるのは分かっているのですが」
 私は口ではそれを否定したが内心では頷いていた。奇異であると同時に、とても危険で不衛生な事だとも思う。そもそも自分で料理を行うという事自体、上手くイメージし切れていない。店長に言わせれば私達の世代の方がおかしいのかもしれないが。
料理というものを個人で行っていた、そんな時代を知らない私達にとって極めて理解し難い行為である。フードセンターから毎日毎食、何の滞りも不具合もなく、パッキングされた食事セットが送られてくる。工場で安全清潔に製造された食事を何の苦労もなく受け取ることが出来る。健康的な生活を送るために計算された完璧な食事を、だ。それが今の時代の当たり前である。
 しかし、彼女はそんな時代にありながら自分で料理をしてみたいという。
 私は裏にいる店長を呼んだ。調理器具を探している客が来たと言うと、楽し気な笑みを浮かべて表に出てくる。在庫に調理器具の類は無いらしいが、しかし店長は用意してみようと応える。
「知り合いにツテがありますから探してみましょう」
「本当ですか」
 店長が自信満々に答えるので、彼女は期待に満ちた表情をして帰っていた。客のいなくなった店内で私は聞く。
「家庭用の調理器具なんてもの何処から見つけてくるつもりですか」
「アテはあるんだよ。昔は探すまでも無かったんだが」
「各家庭に調理器具があった時代ですか」
 喪われた時代とでも言うべきだろうか。今の住宅には、その為の作業スペースすら無い。
「とはいえ、昼飯の時にああは言ったがよ。ある日みんなが一斉に料理ってものを辞めたわけじゃない。そもそも家庭内から家事というものが徐々に消えつつあった時代だった。家事のアウトソーシングってやつだな。マーケットに行けば調理済みの食品が山ほど売っていて、それを買う事で全て済ませていた人だって大勢居た。だからこそ、自分で料理をしない時代の到来にそれほど抵抗が無かったのさ」
「手間だった事が楽になるに越した事はないと思うんですけど」
「まぁ楽にはなったな。フードセンターから毎食、決められた決めた健康的なメニューが送られてくる。それを楽だと、時代の進歩だと、そう捉えることは否定しないさ」
 それ以前の時代の事を私は知らないが、その労力を外注に出した事を私は至極当然な流れだと思った。それでも、店長の言葉は何処か棘が混じる。
「この住所に行ってみてくれ。調理器具が手に入るかもしれない」
 その言葉と共に店長から渡された住所に私は首を傾げた。買い付けに行け、という意味なのだろうが頼まれる事自体初めてである。今まで何の「イロハ」も教わっていないのだが。
 そんな私の反論を制する様に彼は口角を上げて笑う。
「ぼちぼち覚えていっても良い頃合いだろう? 習うより慣れろってやつだな」
 結局、何が何だかよく分からないまま私はお使いに出された。
 渡された住所は隣町を指していて、そこに何があるのかは一切不明である。腕に装着している携帯情報端末に、その住所までのナビゲーションを指示して私は近くの公共タクシーに乗り込んだ。誰も座っていない運転席に向けて住所を喋ると、十五分程度で到着すると機械音声で返答される。自動運転のタクシーは静かに走り出した。
 私の乗っているタクシーの前をフードセンターの配給トラックが走っていた。
背面に政府のロゴマークとフードセンターのロゴマークが描かれた大型トラックである。配給トラックは何百台も街中を走っていて、フードセンターと各配送センターを往復している。その各配送センターからは、各企業、各家庭、各個人に至るまで配送車やドローンが食事を運ぶ。そのネットワークは非常に広大でありながらエリアの隅々まで細かい網を張り巡らさせているのだ。それはさながら蟻の巣の様である。
 「毎日に、絶対の食事を保証します」というキャッチコピーを喧伝していきながら、フードセンターのトラックは交差点で左折していった。
 そう、その保証を、絶対という言葉を、誰もが求めた。授業でそんな風に教わったのを思い出す。
 フードセンターの成立には三十年以上前に起きた世界的な大飢饉が関わっている。人口急増と環境悪化を発端とした食糧危機は、それ以前より警告をされ続けていたものの、各国はそれを回避出来なかった。大規模な食糧危機は世界中で過酷な価格高騰と輸出規制を引き起こし、そして内紛と武力衝突に行きついた。
 そんな中、我が国の政府は全国民に対する食事の完全供給を推し進める。政府主導による食糧買い付けと管理による食料の中央集中化。大規模な食品工場を建設し、そこから全国民に対して平等に食事を提供する。フードセンターは今でこそ当たり前の社会インフラとなっているが、それを強硬して整備しなければならない程に、当時の世界は飢えていた。
 絶対の保証。それを求めて私達の社会は姿を変えた。そして今、私達は何の心配もなく毎日毎食、安全で清潔で完璧な食事を得る事が出来る。それが絶対的に保証されている。
 タクシーが目的地に着いた。古びたビルばかりが並ぶ区画整備の遅れている一帯だった。目的地に設定されているビルを目の前にして、私は何度も間違いが無いか腕の端末と見比べる。店長が言うには、このビルの一階に目的の物が手に入るかもしれないアテがあるらしい。
 ビルに足を踏み入れると強烈な臭いが混じった熱気が立ち込めていた。鼻腔を突き刺さす刺激臭に思わず咳き込む。建物の奥へ進んでいくと小さな店らしきスペースがあった。扉が半開きになっていたので、そこから中を覗き込む。十坪程の店内には背もたれのない座椅子が並んでおり、店の真ん中を区切るようにして背の低いカウンターがあった。
 カウンターの中には恰幅の良い一人の中年女性がいた。女将らしき彼女はステンレス製の平たい容器の様な物を手にして、それを火にくべていた。ビルに充満していた強烈な臭いは、この店からの様だ。
 狭い店内には七席分の椅子が並んでいたが、肩を寄せ合うようにして様々な身なりの人達が座っていて、この店内で食事をしていた。どうやら此処は飲食店らしい。しかし何故かその光景に違和感を覚える。暫く凝視していて、その理由に気が付いた。
 彼等の皿に並んでいるメニューが、それぞれ違うものになっているのだ。そしてその何れもが今日のフードセンターのメニューと一致していない。フードセンターのメニューは全て一律だ。健康的な生活を送る為の必要な栄養素、それが計算され尽くしたメニューによって、私達の毎日の食事は決まる。しかし、彼等の食べている食事は先程私が食べたメニューとは程遠い。どういうことだろうか。
 店内に足を踏み入れた私を見てカウンターの中の女将は大声で言う。
「満席だから、待ってておくれよ」
「いえ、その」
 貪る様に目の前の料理を平らげていく、そんな彼等の姿に圧倒されて私は立ちすくむ。女将は忙しそうに狭いカウンター内を動き回っては手慣れた様子で何かをしていた。手にしたステンレス製の刃物らしきものを振るっている。写真でしか見た事がなかった未加工の野菜を細切れにし、赤いゴムの様な塊を叩き切っている。頭と鱗の残った生の魚が見知った加工済みの姿に変わっていく。
 そこでふと、店長の言葉を思い出した。アテとやらの意味を理解する。
 此処は調理場なのだ、と。
 充満している臭いは料理や食材の臭いだ。様式は違うものの学生時代に見学した事のあるフードセンターで行われていた光景と、今目の前にしている光景は本質的には同じだった。大規模な工場で殺菌された機械と清潔な服装に身を包んだ作業員によって、幾つものラインで生産されていた物と、此処で行われている物は同じである。しかし今、私の目の前で調理が行われている場所も彼女も、あまりに不衛生に見えた。
 何もかもが初めて見る異様な光景で、圧倒された私は店の隅で身動きが取れなかった。しかし、この場所を指定された意味はよく分かる。壁に並ぶ名前も知らない器具だとか、女将が今まさに使っている刃物だとかが、探していた調理器具という事だ。確かに此処でないと手に入らないだろう。
 レストランや喫茶店も食事を提供する場所ではあるものの、そこで提供される食事はフードセンターから運ばれた物を再度盛り付け直しただけのものだ。それが当たり前だった。
 私の目の前の男性が食べ終わった様で満足気な溜め息を吐く。待たせて悪いな、と彼は私に言って席を立った。女将の腕の携帯情報端末に彼のそれを重ねた。金銭のやり取りの仕草である。やはりここは有償で食事を提供する場所らしい。
 女将は私の目の前に出来た空席を顎で指した。とりあえず席に座ると目の前に走り書きらしき文字が刻まれたプレートがあった。料理名が連なっている事から、それがメニューであると遅れて理解する。食事のメニューを選ぶ事が出来るという事だろうか。
 メニューの下に書かれている金額を見て私は驚いた。その一食分でフードセンターの毎月分の利用料に近い。これが一食に支払う額であるという事を俄かには信じがたいが、私の横に座る彼等はさも平然と料理を平らげては女将に代金を支払って帰っていく。その顔には満足気な雰囲気はあれど不満じみたものはない。
「何にするんだい、お嬢ちゃん」
 女将にそう聞かれて私は慌てて首を横に振った。私の目的は彼等とは違うのだ。
「いえ、客としてきた訳ではないのですが」
「何か御節介を焼きに来たっていうなら間に合ってるよ」
 鋭い視線を向けられる。この時代において料理を行い提供するという特異な店を営業していれば、何かしらのトラブルもあるからだろうか。警戒心を抱かせてしまったようだ。
 そうではないのだ、と私は腕の携帯情報端末で古物商店の肩書を見せた。
「古物商をやっている者です、雇われですけど」
「営業かい? 買うもんも、売るもんも何もないよ」
 女将の口調は変わらなかったが、先程よりは声の調子が柔らかくなった気はする。彼女はその作業の手を休めず、刃物が木の板を叩くリズミカルな音が店内に響き続けた。それは未だ不思議な光景で、私は本題よりも先に疑問を口にする。
「この店では調理というか、料理をしているんですか」
「そうだよ。フードセンターから来た食事を皿に盛り付けるだけじゃない。本当の飯屋さ」
 盛り付けの華麗さ、内装のセンス、接客の態度。そういったもので、飲食店のサービスは成り立っている。そこで提供される食事は全てフードセンターから来た食事だ。それが当たり前だと思っていた。
 だが、この店ではそうではなく。そして客もそれを求めて来ている。フードセンターの食事では無い事、その場で調理をされている事、彼等はその事に価値を見出せる人間だという事だ。
 女将は私の方を一瞥して作業を続ける。
「来たのは初めてだろ。此処がそういう店だって知らなかったのかい?」
「はい、こんな店があるとは驚きました」
「若い子は知らないかもね、昔は何処もこうやってたんだ。飯を食うっていう事がフードセンターから来る物をただ受け入れる行為になって、それを当たり前だとみんな思い始めて、それどころか自分達で料理するなんておかしいとまで思い始め前まではさ」
「それでも来る人はいるんですね」
 少なくとも、安くはない金額を支払って。私がメニューの価格の部分を見ている事に気が付いてか、女将は此処で食べるのは安くはないと頷く。
 フードセンターは国内全ての農業、畜産業の企業と一括契約を結んでいる。そして企業は各農家と専属契約を結び、農産物を全て買い上げる形を取っている。
 つまり、この店に回ってくる分の食材は無いという事になる。当たり前ではある。フードセンターが国民の全ての食事を提供しているのだから。
「ウチが買ってるのは品質基準から漏れた食材さ。それも本来は廃棄すれば、その分を政府が補填してくれるからウチに回す必要もないんだよ。だから、それより上乗せした金額で買ってるのもあって安くはないさ」
「本来なら廃棄される食材を使ってるって事ですか」
「別に品質基準から外れたからってさ。危険なわけでも食べれないわけでもないさ」
 国民に絶対の食事を保証する。その為にフードセンターという巨大な生産工場が出来た。そしていつしか食事は完全で完璧な物になって、それを支える為に出来たのが女将の言葉を借りれば「馬鹿みたいな」品質基準だと言う。加工に手間がかかる不格好なだけの物も弾く位の。それもまた、絶対の保証を求めた結果だろうか。
 そんな話と共に女将が私に見せたのは確かに不揃いの野菜であった。私が知っている未加工の野菜は写真だけ、それと比べると形が違い過ぎて本当に同じ野菜であるかの判断も出来ない。それらを器用に切り刻む女将に私は思い浮かんだ疑問を問う。
「でも、それならば。ここで食べる物に何の優位性があるんでしょうか」
 女将の言葉通りなら、品質も衛生面もフードセンターの食事の方が上だと言う事になる。わざわざ安くはないお金を払う人間が何故いるのだろうか。
「損得じゃないのさ。自分で食べる物を自分で決める。そういう事をしたい人ってのがいるのさ」
 私は曖昧に頷いた。
 フードセンターから供給される食事よりも、割高でも不健康でも不衛生でも、自分で食事を選ぶということ。彼等はその行為に価値を見出せる人間なのだ。それが私には分からない。
 フードセンターの食事のメニューを確かに私達は選ぶことが出来ない。そもそも、その事に違和感だとか閉塞感を抱いた事もない。健康的な生活を送る為に必要な栄養素、それらが全て計算された食事に、一体何の不満があるというのだろう。
そして、こんな場所で調理されている食事で、その不満を満たせるというのだろうか。私には目眩のする光景でしかないが、彼等には違って見えるのだろうか。
「それで、古物商さんは何をしに来たんだい?」
「調理器具を探していまして」
 成程ね、と少し苦笑して彼女は頷く。
「ウチにあるのを渡すわけにはいかないが、手に入れられるとこなら教えられるよ」

 翌日。
 私は女将に教えてもらった住所へ向かった。その住所に職人とやらが住んでいると言う。
 電車に二時間程揺られて目的の駅で降りると、駅前には店どころか通行人の姿もない。人口減少で交通インフラの再開発計画から外された寂れた土地である。一昔前の建物が幾つか並んでいるが、何れも封鎖されていた。勿論、公共タクシーの類など見付からず、私は目的地まで徒歩で向かう事にした。居住区を外れると山並みが眼前に近付いてくる。腕の携帯端末を見ると、このまま山に入れとナビゲーションしてくる。
 こんな所に人が住んでいるらしい。暫く山の斜面を眺めながら歩いていると山道の入り口らしき場所を見つけた。形骸化したコンクリートの舗装が地面にあって、その痕跡は山中へ伸びている。それ以外に道は無い様に見える。
 足元に草花が生い茂る中、微かに残る一本の線を辿る。風化して残骸に変わったコンクリートの欠片を何度か蹴飛ばす。目を凝らせば、草花が踏み倒された跡が見えた。人の出入りはあるようだ。
その形のない標識に誘われて私は進んでいく。木々の葉が重なり合って私の頭上を覆い隠すと山中はいよいよ鬱蒼としてきた。このまま進めば山奥に迷い込んでしまうのではという不安が過る。
 どれ程歩いただろうか。突然、目の前に湧いて出たかのように、その家はあった。古民家風の見た目をしているが、よく観察してみると古い建物ではない。
 私の来訪を監視カメラが捉えていたのか、引き戸風の自動ドアが勝手に開いた。恐らく壁に仕込んであるのだろうスピーカーから男性の声がする。奥までどうぞ、と言われて私は躊躇いながらも奥に進む。廊下の先までライトが点いていて、突き当りの部屋に着くと車椅子の老人がいた。白い口ひげの男性は私の姿を認めてほほ笑む。
「ようこそ、古物商さん。話は聞いてるよ」
「はじめまして」
 女将が連絡をしていてくれたようで、私が調理器具を求めてきたというのは分かっていたらしい。
彼は個包装コーヒーをドリンクプレッサーにセットした後に私に差し出してきた。ドリンクプレッサーの圧力により個包装コーヒーのパッケージがカップ状に変化して、中で固形化していたコーヒーが熱い液体に変わっている。それを受け取りながら、ふと以前取り扱った骨董品の事を思い出す。コーヒーの原材料は豆であるが、その骨董品の機械はコーヒー豆をその場で粉末にし、そこにお湯を注ぐ事で液体を抽出するというものだった。昔はドリンクプレッサーとパッキングされた固形化飲料など存在しなかったらしい。この一杯ですら、私達の知らない間に姿を変えている。
 彼はカップから立ち昇る湯気の向こうで、その口ひげを撫でつける。
「古物商というと中古の品やビンテージな品のイメージが強くてね、僕の所にある物で良いのか分からないが」
 少なくとも家庭用の調理器具は時代遅れの産物であり、古物であるかは別として旧い物であることには違いない。女将が言うにはここで調理器具が手に入るということであったが、と私は尋ねる。
「あぁ、僕が造っているからね」
 そう言われて、私は改めて部屋を見回した。部屋の天井は非常に高く、私の身の丈の二倍はあるだろう大型の機械が室内に並んでいた。部屋の壁にはステンレス製の板や棒が立て掛けられている。加工前の素材らしい。
 工房とでも呼ぶべきこの場所で、彼はステンレスの加工をしているのだという。彼はコーヒー片手に車椅子のまま室内を動き回って機械の説明を始めた。大まかな工程の話から始まり、それに絡めて機械の役割と構造の解説に続き、機械の進歩とその歴史についての講義が始まった辺りで私は話を遮った。
 個人でこんな事をしている理由は、と私は聞く。純然たる興味だった。
「昔、これを仕事にしていたのさ。今は殆ど趣味だけれどね」
 出来るから、欲しがる人がいるから。それ以上の理由はいるだろうか、と逆に問われた。私は曖昧に首を横に振る。
 どうやら作業途中だったようで、彼は近くの機械をタッチパネルで操作しだす。白い箱の見た目をした機械が唸りを上げるように駆動音を立て始めた。機械の正面に付いている小窓から、その中で火花が散るのが見えた。それはまるで朱色の針に見える。激しく光を纏って飛び散る無数の閃光は直ぐに何処かへ消えていく。
 先程よりは静かに、しかし唸りを上げ続ける機械の表面を愛おしそうに撫でながら、彼は口を開く。
「少なくとも今、君の役に立てるわけだからね。多少の意味はあったんだろう」
 素材の加工作業はほぼ全自動で進むらしい。それは技術の発展の賜物だ、と彼は言う。使い方さえ覚えてしまえば一人でも何の不具合もなく使いこなせる、自らの手を動かす事は殆ど必要ない、と。
 その構図に、彼の言葉に、私は違う物を連想していた。故に聞いてみたくあった。彼もまた喪われた料理という存在に関わっていて、そしてそれが違う意味を持つ時代に生きていた人間だったからだ。
「私には分かりません。わざわざこの時代で料理をしようとする気持ちが」
 少なくともフードセンターに勝る利点は無い様に思える。私がそう付け加えると、彼は穏やかに笑った。
 フードセンターは便利で、存在しなければ既に生活は成り立たなくなっていると、彼は意外にも肯定的だった。少なくとも自分で作るよりは美味しいと冗談めかした言葉も付け加えて。私は笑えなかった、愛想笑いすら忘れていた。
 彼の語ったその物差しを、その選択肢を、その価値観を、私は知らない。それを選び取る間もなく、それは基準から外されて切り捨てられたものだ。
 彼はどこか哀愁じみた口ぶりであった。
「フードセンターが成立した時代、飢えで死ぬ可能性は幾らでもあった。切り捨てられる可能性のある者は幾らでもいた。それを救うために出来上がったシステムを、否定する事など出来ない。ただいつしか、それがなければ立ち行かない社会に変わってしまったのも事実だ」
 始まりは誰かを救うための仕組みだった。いや、今もそれは変わっていない筈なのだ。
 足りないものを奪い合う、この世をそんな地獄に変えてしまわぬ為にその仕組みは出来上がった。誰にも等しく絶対の保証を与える為の巨大なそれは、社会構造そのものすら変えて、そしてその仕組み自体も変質していった。絶対の保証の意味すら、きっと変わってしまった。私がその意味を知らないままに。
 それは不満な事ですか、私の静かな問いに彼は首を横に振った。
「いや、それを僕等が否定してしまったのなら呪いでしかないよ。でも本当は、そこに至るまでに幾つもの分岐点があった筈だとは思うがね」
 飢えで死ぬ時代を、そんな世界を、私は知らない。その時代を経て出来上がったシステムしか私は知らない。その分岐点は既に歴史の教科書の一文になっていて、それは選び取る事すら出来ない。人が安定を求めて農耕を始めた様に、人が安定を求めて社会を作った様に、もう既に別の時代の出来事に変わっている。
 私は、いや私達は、それでも何の問題もなく生きてきた。故にそう言葉にする。私には分からない、と。その基準を、価値観を、切り捨てたものを私達は知らない。
コーヒーのカップを両手で包み込み、その揺れる水面に彼は視線を落とす。
「料理をしていた世代、飢えを知っている世代。そんな僕達と君の様な若い人の間に隔たりがあって当然だろう。フードセンターの食事が、どんな行程を経て運ばれてくるのか、どんな風に作られているのか。知らずとも生きていける社会だ。いや、何もかもが同じだよ。知らなくても無関心でいても、それでも生きていけるのが成熟した社会というものだ」
 何故、私は今。穏やかな口調で語られる彼の言葉に胸をしめつけられているのか、その意味にようやっと辿り着く。
 今、私が対面している言葉は、この社会が捨ててきたものの欠片なのだ。いつしかガラクタになっていくものなのだ。その価値を見出す事、いやそんな価値観があったことすら忘れ去られていくもの。それが必ずしも正しいとは限らない、ガラクタでジャンクで、時代に切り捨てられて当然だったものかもしれない。けれども、私達はその上にまた別の何かを積み上げていく。誰かを救うために出来た仕組みの上に、私達は無意識の内に生きていて、無意識の内に積み重ねてしまう。
故に、その仕組みはそうである為だけの、ただ形骸化したものになってしまう可能性を含んでいる。それはいつだって呪いに変わる分岐点を孕んでいる。
 私はその次の言葉を待った。答えと呼べるものが欲しかった。
「だからこそ、せめて。僕達は知らない事を知らないと知る必要があると思う」
「ソクラテスの様な事を言いますね」
「生きるために食べよ、食べるために生きるな。ソクラテスは言ったけれどね。今の社会は、その言葉に従えばきっと何よりも正しいのかもしれない」
 けれども、という言葉を呑み込んだように感じた。
 それでも、その時代よりもずっと、私達は豊かな時代に生きている。

 例の女性は連絡した翌日には店まで引き取りに来た。私が新品の調理器具を並べて見せると驚いた表情でそれを眺めていた。私が言われるがまま持ち帰ってきた調理器具の一式であるが、これで最低限は揃っているらしい。ショーケースの上に並んだ銀色の器具を何度も見つめ直し、彼女は納得した様子で頷いた。
「多分、大丈夫だと思います」
 彼女はそう言ってから、何か思案している様に見えた。暫しの間があって、躊躇いがちに口を開く。
「良ければ、一緒にいかがでしょうか」
「え?」
「その、料理を」
 その突然の申し出に少し悩んでから私は頷いた。
 約束の日になって彼女を訪問する。彼女の家は広い庭のある戸建て住宅であり、そこで何かしらの準備が進んでいた。彼女はジーンズと黒のシャツという飾らない出で立ちで、その手には目の粗い白の手袋をはめている。金属製の長い棒を持っていて庭に置かれている土の壺らしきものの中に突っ込んではかき回していた。壺の中では黒い塊が静かに燃えていて、その上に焦げ付いた金網を乗せている。
「昔はキッチンというものが家にあって、料理の出来るスペースがあったというのですが。私の家にはそれがないので」
 彼女は此処で食材に火を通すつもりらしい。
 料理を屋外で行うという事実に私は少々目眩がした。しかし料理屋で見た光景と言葉を思い出す。加熱するので大丈夫だろうと信じたい。
 この壺は、七輪と呼ばれる道具らしい。中で燃えているのは炭化した木材、所謂炭と呼ばれる物だ。これを用いる事により熱効率が非常に良くなるとの事だった。
 骨董品として売れるだろう代物を、何故彼女が持っているのかが気になった。彼女にそう問いかけると、そもそも料理をしてみようと思った切っ掛けがこの七輪なのだと言う。
「倉庫から出てきた祖母の遺品なのですが、使い方も知らないまま捨ててしまうのは何故か寂しくて。それに料理という文化を知りたかったんです」
 七輪を覗き込むと独特の匂いが目に染みた。炭の内側から赤色が漏れだしていて、微かな熱を感じる。これで火の用意は出来たらしい。飲食店の時とは随分様子が違う。
 食材の準備をするという事で家の中に招かれた。リビングのテーブルの上に木の板が敷いてあり、その上には私が持ち帰ってきた調理器具の一つである包丁が置いてあった。調理専用の大振りの刃物の事である。
 テーブルの上には他にもステンレス製のボールだとかトングだとかが並ぶ。殺菌用のアルコールスプレーをテーブルの隅々まで吹きかけて、彼女は気合を入れるように一つ頷いた。
 テーブルの隅には未加工の野菜と生の魚が置いてあった。フードセンターから送られてくる加工済みの料理とは全く違う臭いがする。生臭さ、と呼ぶべきその臭いに顔が歪まない様に我慢をした。生の魚がテーブルの上に横たわっている光景は、なかなかに強烈で、私は目を合わせないようにしながら疑問を口にする。
「食材はどうやって手に入れたんですか」
「親戚に農場を経営している方がいまして、野菜は譲ってもらいました。魚もです。本当は自分で用意すべきだったのでしょうが」
「それは難しいと思います」
「でも、それでは料理というものを全て理解出来ていないのではないかと思って」
 彼女が言いたい意味は分かった。これが過程を知るための儀式めいたものだとするならば。欠けているものが幾つもある。料理という行為に、いや食べると言う行為に、関わるその全てを知るべきではないかと彼女はきっと思っている。
 けれでも、と私は首を横に振る。その言葉は確かに正しいけれども、と。
「きっとそれだけで十分です」
 多分、そうであろうとするだけで価値がある事もあるのだろう。
 あの料理屋の女将と比べると遥かにぎこちない手付きで彼女は包丁を動かし始めた。素人目に見ても危うく見える。危険な行為だと思ったが、しかし数十年前までは誰もが行っていた行為なのだ。私達はそのリスクを負う必要すら無くなった時代に生きている。
 野菜を一口大に切ると、銀色の串にそれらを刺し通していく。その行程は私も手伝った。問題は魚だった。ヤマメという手の平程の大きさの川魚であったが、これを捌くのに苦戦する。腹の部分に包丁を差し入れて身体を開くという行為に、私のみならず彼女も顔をしかめていた。腹から掻き出した血の混じった内臓に、彼女が手を止めてしまって。私は意を決して彼女と交替した。
 手に触れる柔らかで水気の含んだ感触。それを我慢しながら内臓を取り除く。彼女から教わった方法通りに、串を魚の口から通して身を貫いていく。身が柔らかくて上手く串が通らなかった。既に死んでいるのだと分かっていても、その魚の目を見ないようについ視線を背けてしまう。
 一連の作業が終わっても掌には、あの柔らかな感触が消えなくて、私は何度も手を握り締めた。作業を肩代わりした事について、彼女は何度も私にお礼を言う。
 殆どの食材に串を通し終わると、それを持って庭の七輪へ向かう。七輪の適した使い方として串に通して食材に火を通すのが良いらしい。全部串焼きにしてしまったのは味気なかったかもしれない、と焼き始めた後に彼女は言う。
 そうは言っても私には他の選択肢が分からない。熱に煽られて串に通した魚の身から水滴が垂れた。彼女はそれを真剣に眺めている。
「何を作ろうか、何が出来るのか。そんな事を悩んだのも初めてでした」
 彼女の言葉に私はただ頷いた。
 フードセンターから送られてくる食事のメニューは全て決まっている。選択肢など無いし、無いと感じた事すら無かった。
 毎日、適切な量が、適切な内容が、適切に送られてくるのが当たり前だった。けれども、きっとその裏には私の知らない工程が幾つもあって。其処に至るまで様々な歴史があって。私はそれをどう評価すべきか知らない。それが価値ある成果なのか、私は知らない。それ以外の世界を、それ以前の世界を、知らないのだから。あの老人の言葉を、あの老人達の選択肢を信じる他ないのだ。
 けれども、それがいつしか呪いに変わってしまわない様に、私達は知る必要がある。掌を何度も握り締め直しながら、その感触を確かめながら、私はそう思う。
「焼けてきましたね」
 魚の皮が黒く焦げ付き始めて、その身から透明な汁が溢れ出す。先程までの姿とは打って変わって、その瞳は白濁して色を喪う。水分が抜けて萎縮し始めていた。横に並べていた野菜も徐々に色が変化していく。表面が炙られて軽く焦げると以前嗅いだ事のある匂いが周囲に充満しだす。
「初めてですから、上手くいったか分かりませんけれど」
 彼女が言い訳の様にそう言ってから、恐る恐るといった様子で串を手に取った。私もそれに倣う。
 この社会から消えていく物。私達が土台にしてきた物。私は、それに価値を見出せる人間だろうか。
そして、これは、どんな味がするだろうか。
「いただきます」

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