失敗しない寿命の使い方
やり直しの代償
目覚めの鼻をくすぐったのは、嗅ぎ慣れた香ばしい料理の香り。
耳に響くのは、規則正しいリズムで刻まれる包丁を振り下ろす音。
その中に紛れて微かに聞こえてくる鼻歌は、古くから伝わる、彼女が大好きな祈りの歌。
重い目を開くと、身分の上の者が住むような家にある、張りを設けた天井が視界いっぱいに広がった。
そのまま少し目線をずらせば、テンション高めで鍋に蓋をする使用人の姿が――
「……っ……!」
物音や使用人のリアクションなど気にも留めず飛び起き、辺りを見回す。
キッチン、窓、家具、そして自身が眠るベッドに至るまで、確かにそこにあった。
埃一つないと言えるまで掃除の行き届いた綺麗ないつも通りの部屋が、まだそこにある。
すなわち。
「また、戻ったのか……」
呟くように言って、安心したらいいのか後悔したらいいいのか、どっちつかずで曖昧な気持ちを孕んだ息を吐き出す。
「名前……そう、名前。俺は樹、樹だ。覚えてる。記憶は――大丈夫そうだ」
ぶつぶつと自分の名前を繰り返す可笑しな主の様子に、使用人はただ絶句。
そして固まる使用人に樹が気付いたことでようやく、使用人が控えめな声を上げた。
「びっくりしました。もう、急に目覚めないでください。お鍋をひっくり返しちゃうところでした。嫌な夢でも見たのですか?」
そう言いながら近寄り、丸い大きな瞳で覗き込む女性は、相も変わらず使用人にしておくには勿体ない容姿に地味な服装を纏った紫苑。
今の地位に就いた折、多忙な樹の代わりにと家事全般を請け負った、付き合いが長い一つ年下の知り合いだ。
当初、申し訳なさから一度は断ったが、むしろやらせてくれと強く言われ、押しに弱い樹は頷く他なにもできなかった。
「樹さん?」
返答を返さない樹にかけられる心配そうな声は、しかし樹の心に溶け込んで、言いようのない不安を優しく解きほぐす。
樹は慌ててかぶりを振ると、
「ごめん、紫苑。何だっけ?」
「もう、しっかりしてください。朝食も出来ますから、話は卓にて」
そう言って手早く料理を並べ始める紫苑を、樹も慌てて手伝う。
二人して人数分の準備を終えると、机を挟み向かい合って座る。
その際、和装の裾を手で丁寧に払う仕草は、何度見ても見惚れるくらい様になっている。
整った顔立ち、落ち着いた物腰を兼ね備えた紫苑には、それはもう似合い過ぎていた。
「どうかなさいました?」
「ううん。相変わらず上品な所作が似合うなって」
「ふふ、嗜み程度ですよ。いただきましょうか」
口元に手を当てて笑う姿さえも、彼女がやるだけで町の者と比べ雰囲気が違う。
向かい側で両手を合わせる紫苑に倣って、樹も手を合わせる。
目配せもなくぴったりと揃う「いただきます」は、紫苑が初めて料理をした時から既にあった光景だ。
お互い見知った相手だからか、緊張することなく、むしろ自然と呼吸も合う。
変わらぬ日常に満足し、噛み締めながら、樹は白米に箸をつける。
「ねえ、紫苑」
「はい、何でしょう?」
「今日って、何日だっけ?」
「え? えっと――」
わざわざ食事の手を止めて暦の札を確認して戻って来た紫苑が口にしたのは、国が襲撃に遭うより随分と前だった。
再びの地獄を思い描いて怖くなり、同時に少し安心もした。
いつも通り、今まで通りの風景が、ここにはあったから。
「何だか今日は変ですね、樹さん」
「そ、そう?」
「はい。それで、樹さん。何か悪い夢を?」
長い艶やかな黒髪を揺らして、紫苑が小首を傾げて言う。
「何でもない……って強がりたい気持ちもやまやまなんだけどね。ちょっと、いやかなり、キツイ夢を見た」
少年の悪夢レベルを想定していた紫苑は、思いがけない返答に思わず真剣な顔になる。
「――内容を聞いても差し支えはありませんか?」
「うん、話すよ」
はっきりと脳裏にこびりついて離れない光景を想起し、深呼吸を一つして続ける。
「俺が――いや、皆が死ぬ夢」
「皆、ですか」
「うん。死ぬと言うか、あれは最早、全てが壊れると表現した方が合ってるかも。大規模な侵攻があって、町や人が焼かれて、巫女を護る最後の盾として食い止めていた俺も、誰一人例外なく壊れていく夢」
「それは――随分と酷な夢を見たのですね」
紫苑は箸を止め、正座した膝の上に手を置いて続ける。
「不安になりましたか?」
「正直、凄く不安になった。妙にリアリティがあったから」
答える声は、次第に弱々しくなっていく。
「怖くなりましたか?」
「圧倒的な力の差があったから、そりゃあ当然。何も出来なかった」
弱く、しかしはっきりと現実味を帯びた声で答える。
察していてか図らずか、紫苑は何かを感じ取っていた。
「樹さん」
震えてすら見える主の姿を視界の中心に捉えて、
「私はここにいますよ」
なるべく安心させるように、まだここに存在していることを伝える。
「私はここにいます。いますよ、ちゃんと。ですからどうか、悩みませんよう」
「紫苑――」
「いざとなれば、私が樹さんを護ってあげます。絶対に死なないよう、強い強い魔法をかけてあげますから」
樹は、袖を捲って華奢な腕を曲げて力こぶを作る紫苑の姿に頼りなさを感じつつも、どこかで安心できる自分がいた。
親を失っている樹にとって、悩んでいる時に手を差し伸べてくれるのはいつも紫苑だけだったからだ。
「そんな都合のいい魔法があるか?」
「ええ、あります。ちゃんとありますよ」
紫苑は力強く首を横に振る。
「その時が来れば、必ずや樹さんにかけてあげます。絶対と言い切れる、何より強い魔法を」
「何、それ?」
「秘密、です。ふふ」
最後に微笑んだことでようやく、樹の表情も崩れる。
口の端を上げて苦笑してみせる様子を見て、紫苑は少しばかりの手応えを感じた。
樹はお茶を一口含むと、浮かんでいた不安をかき消すように喉に送って、紫苑が拵えた料理に手を付けた。
「美味しい」
「良かったです。今までで一番の自信作ですから、まずいと言われたらどうしようかと」
「はは。それはないかな。紫苑の料理は常に美味しい」
「私には勿体ない言葉です」
微笑んで答える紫苑。
年下に気を遣わせるとは、大人になっても情けないのは、こちらも相変わらずであった。
(でも……)
紫苑のお陰で気持ちは和らいだが、やはり懸念は残る。
あの夢――いや、未来で起こる現実で、樹のみならず国自体が滅びる。
そんな、予言のような話を誰が信じようか。
気心許せる紫苑であっても、それを「はいそうですか」と受け入れるとは思えない。
だが、吐き出す場所は一つだけあった。
「ちょっと、那由多さんのところへ行ってくるよ」
「魔術師の?」
「うん。ちょっと用が」
何の、と確認しかけたところで、樹が少し浮かない表情を浮かべているのを目聡く見つけると、それ以上は何も言わず首を縦に振った。
「後片付け、帰宅の出迎えまで、全てお任せください。いつ戻られても大丈夫なように、しっかりと務めさせていただきますから」
「ごめんね。ありがと、よろしく。さっそくで悪いけど、もう出るよ」
「ええ。全部食していただけただけで、私は満足です。少しは元気になったようで」
そう言って、昔馴染みの使用人は優しく微笑む。
まったく、どこまでも安心できる笑顔だった。
「皿洗い、押し付けちゃってごめん」
「いえ。お荷物は?」
「手ぶらで大丈夫。それじゃあ」
「はい。いってらっしゃいませ」
立ち上がり、部屋を後にする樹を、紫苑は頭を下げて送り出す。
どうか、主に不運がありませんようにと。
―――
一時間も歩くとなれば、今日の天気はやや堪える。
転移の魔法でも使えれば楽なのだが、使えない樹には歩く他なかった。
中央通り、町を抜けて更に進んだ、人も寄り付かない辺鄙な場所にある小屋。
町のものとは明らかに違う見た目のそれが、魔術師那由多の住まいだ。
人間が嫌いだとか、異端としてここに送られたとか、諸説あるその真実は、真逆も真逆だった。
どちらかと言えば人間に興味があって、町中に住むことも提案されたのだが、自ら断ってここに住んでいるのだという。
指折りの極少数だけがその理由を知っていて、樹はその内の一人だった。
小屋の前に着くや、幾度か訪れたその扉を躊躇いなく開けて、中で待つ那由多に視線を送った。
「やあ。そろそろ来る頃だと思っていたよ。要件はいつもと同じだね?」
大魔術師、あるいは人の上に立つ者であることを示すかのような大それた口調で、見透かした様子で那由多が言う。
それこそが、那由多が人の輪の中に混ざらない理由だった。
「戻って来たようだね」
「ええ、まあ」
この会話も、もう何度目かになる。
初めての時は、那由多の方から樹にコンタクトがあった。
自分と同じ臭いがするからと、この小屋に招かれたのだ。
那由多は右手の人差し指を一振りして、その場にポットとコップを出した。
浮かしたその二つをそのまま指先で操り、慣れた手つきで飲み物を注いでいく。
「紅茶、というらしい。異国の地より取り寄せた。味は保証するよ」
「はあ、まあ有難く」
渡されたそれを受け取り一口飲んで息を整えると、樹は早速と話を進める。
「きっかけは今回も『殺されること』でした。いつも通り、死ぬその直前ですが――って、もうご存知ですよね」
「ああ、視た。まあ随分と派手だったね」
「惨状なんてレベルでないことは確かですね。一方的でした。僕を含め、対策を固めていたというのに、誰もがカカシのように倒れていくんです」
見て来た光景を思い浮かべると、むせ返るような香りと耳を劈く音までもが蘇ってきて、一瞬吐き気を覚える。
辛うじてそれを飲み込むと同時に、今度は那由多が続けた。
「まだ朝だ。休めた感覚すら、あまりないんじゃないのかい?」
「ええ。身体は健康そのもので異常は何もないんですけれど、心は全く」
「ふむ。じゃあ、今日は早いところ検査と行こうか。その間に寝ておくといい」
「分かりました」
樹はそれに応じると、那由多の促しで奥の部屋へと入っていく。
「じゃあそこに寝てくれ。すぐに結果だけ調べて教えるから、その後で休んでいくといい」
「すいません」
「構わない。じゃあ、始めようか」
仰向けになった樹に両の手をかざすと、詠唱も無しに術を発動させた。
現れた光の環はひとりでに動き、足先から上へスキャンしていく。
頭頂部までくると光は収まり、やがて消え、代わりに那由多の前にその結果を表示した。
それを見て「やはり」と小さく漏らし、那由多はしばし言葉を失う。
嫌な結果が出たのか気になり、樹は不安になって思わず那由多に問いかけた。
「ああ、すまない……」
冷静を装う顔はやや強張っている。
何か出ていることは間違いない。そう確信できたから、覚悟を決めてその内容を尋ねたところ、
「後悔しないと言い切れる自信はあるかい?」
と。
まさか嫌な病や、あるいは余命が分かってしまったのか。
様々な予感が頭をよぎり、不安は一瞬で加速する。
しかしそれも聞かないことには、どうも収まりがつかない。
「だ、大丈夫です」
何とか絞り出すように、一言。
「過去、現在、未来を視ることが出来る、輪廻の渦から外れた異端者であるこの僕でさえ、こんなのは見たことがない。知らない。聞いたことがない。いや、あり得ない」
表示された結果を樹に向けて、
「君は過去に戻る度、寿命を『削って』いる。それも、数年単位で」
こう言ってはあれだが、樹はその瞬間、確かに思った。
ある程度の限界が分かる余命など、生ぬるいと。
耳に響くのは、規則正しいリズムで刻まれる包丁を振り下ろす音。
その中に紛れて微かに聞こえてくる鼻歌は、古くから伝わる、彼女が大好きな祈りの歌。
重い目を開くと、身分の上の者が住むような家にある、張りを設けた天井が視界いっぱいに広がった。
そのまま少し目線をずらせば、テンション高めで鍋に蓋をする使用人の姿が――
「……っ……!」
物音や使用人のリアクションなど気にも留めず飛び起き、辺りを見回す。
キッチン、窓、家具、そして自身が眠るベッドに至るまで、確かにそこにあった。
埃一つないと言えるまで掃除の行き届いた綺麗ないつも通りの部屋が、まだそこにある。
すなわち。
「また、戻ったのか……」
呟くように言って、安心したらいいのか後悔したらいいいのか、どっちつかずで曖昧な気持ちを孕んだ息を吐き出す。
「名前……そう、名前。俺は樹、樹だ。覚えてる。記憶は――大丈夫そうだ」
ぶつぶつと自分の名前を繰り返す可笑しな主の様子に、使用人はただ絶句。
そして固まる使用人に樹が気付いたことでようやく、使用人が控えめな声を上げた。
「びっくりしました。もう、急に目覚めないでください。お鍋をひっくり返しちゃうところでした。嫌な夢でも見たのですか?」
そう言いながら近寄り、丸い大きな瞳で覗き込む女性は、相も変わらず使用人にしておくには勿体ない容姿に地味な服装を纏った紫苑。
今の地位に就いた折、多忙な樹の代わりにと家事全般を請け負った、付き合いが長い一つ年下の知り合いだ。
当初、申し訳なさから一度は断ったが、むしろやらせてくれと強く言われ、押しに弱い樹は頷く他なにもできなかった。
「樹さん?」
返答を返さない樹にかけられる心配そうな声は、しかし樹の心に溶け込んで、言いようのない不安を優しく解きほぐす。
樹は慌ててかぶりを振ると、
「ごめん、紫苑。何だっけ?」
「もう、しっかりしてください。朝食も出来ますから、話は卓にて」
そう言って手早く料理を並べ始める紫苑を、樹も慌てて手伝う。
二人して人数分の準備を終えると、机を挟み向かい合って座る。
その際、和装の裾を手で丁寧に払う仕草は、何度見ても見惚れるくらい様になっている。
整った顔立ち、落ち着いた物腰を兼ね備えた紫苑には、それはもう似合い過ぎていた。
「どうかなさいました?」
「ううん。相変わらず上品な所作が似合うなって」
「ふふ、嗜み程度ですよ。いただきましょうか」
口元に手を当てて笑う姿さえも、彼女がやるだけで町の者と比べ雰囲気が違う。
向かい側で両手を合わせる紫苑に倣って、樹も手を合わせる。
目配せもなくぴったりと揃う「いただきます」は、紫苑が初めて料理をした時から既にあった光景だ。
お互い見知った相手だからか、緊張することなく、むしろ自然と呼吸も合う。
変わらぬ日常に満足し、噛み締めながら、樹は白米に箸をつける。
「ねえ、紫苑」
「はい、何でしょう?」
「今日って、何日だっけ?」
「え? えっと――」
わざわざ食事の手を止めて暦の札を確認して戻って来た紫苑が口にしたのは、国が襲撃に遭うより随分と前だった。
再びの地獄を思い描いて怖くなり、同時に少し安心もした。
いつも通り、今まで通りの風景が、ここにはあったから。
「何だか今日は変ですね、樹さん」
「そ、そう?」
「はい。それで、樹さん。何か悪い夢を?」
長い艶やかな黒髪を揺らして、紫苑が小首を傾げて言う。
「何でもない……って強がりたい気持ちもやまやまなんだけどね。ちょっと、いやかなり、キツイ夢を見た」
少年の悪夢レベルを想定していた紫苑は、思いがけない返答に思わず真剣な顔になる。
「――内容を聞いても差し支えはありませんか?」
「うん、話すよ」
はっきりと脳裏にこびりついて離れない光景を想起し、深呼吸を一つして続ける。
「俺が――いや、皆が死ぬ夢」
「皆、ですか」
「うん。死ぬと言うか、あれは最早、全てが壊れると表現した方が合ってるかも。大規模な侵攻があって、町や人が焼かれて、巫女を護る最後の盾として食い止めていた俺も、誰一人例外なく壊れていく夢」
「それは――随分と酷な夢を見たのですね」
紫苑は箸を止め、正座した膝の上に手を置いて続ける。
「不安になりましたか?」
「正直、凄く不安になった。妙にリアリティがあったから」
答える声は、次第に弱々しくなっていく。
「怖くなりましたか?」
「圧倒的な力の差があったから、そりゃあ当然。何も出来なかった」
弱く、しかしはっきりと現実味を帯びた声で答える。
察していてか図らずか、紫苑は何かを感じ取っていた。
「樹さん」
震えてすら見える主の姿を視界の中心に捉えて、
「私はここにいますよ」
なるべく安心させるように、まだここに存在していることを伝える。
「私はここにいます。いますよ、ちゃんと。ですからどうか、悩みませんよう」
「紫苑――」
「いざとなれば、私が樹さんを護ってあげます。絶対に死なないよう、強い強い魔法をかけてあげますから」
樹は、袖を捲って華奢な腕を曲げて力こぶを作る紫苑の姿に頼りなさを感じつつも、どこかで安心できる自分がいた。
親を失っている樹にとって、悩んでいる時に手を差し伸べてくれるのはいつも紫苑だけだったからだ。
「そんな都合のいい魔法があるか?」
「ええ、あります。ちゃんとありますよ」
紫苑は力強く首を横に振る。
「その時が来れば、必ずや樹さんにかけてあげます。絶対と言い切れる、何より強い魔法を」
「何、それ?」
「秘密、です。ふふ」
最後に微笑んだことでようやく、樹の表情も崩れる。
口の端を上げて苦笑してみせる様子を見て、紫苑は少しばかりの手応えを感じた。
樹はお茶を一口含むと、浮かんでいた不安をかき消すように喉に送って、紫苑が拵えた料理に手を付けた。
「美味しい」
「良かったです。今までで一番の自信作ですから、まずいと言われたらどうしようかと」
「はは。それはないかな。紫苑の料理は常に美味しい」
「私には勿体ない言葉です」
微笑んで答える紫苑。
年下に気を遣わせるとは、大人になっても情けないのは、こちらも相変わらずであった。
(でも……)
紫苑のお陰で気持ちは和らいだが、やはり懸念は残る。
あの夢――いや、未来で起こる現実で、樹のみならず国自体が滅びる。
そんな、予言のような話を誰が信じようか。
気心許せる紫苑であっても、それを「はいそうですか」と受け入れるとは思えない。
だが、吐き出す場所は一つだけあった。
「ちょっと、那由多さんのところへ行ってくるよ」
「魔術師の?」
「うん。ちょっと用が」
何の、と確認しかけたところで、樹が少し浮かない表情を浮かべているのを目聡く見つけると、それ以上は何も言わず首を縦に振った。
「後片付け、帰宅の出迎えまで、全てお任せください。いつ戻られても大丈夫なように、しっかりと務めさせていただきますから」
「ごめんね。ありがと、よろしく。さっそくで悪いけど、もう出るよ」
「ええ。全部食していただけただけで、私は満足です。少しは元気になったようで」
そう言って、昔馴染みの使用人は優しく微笑む。
まったく、どこまでも安心できる笑顔だった。
「皿洗い、押し付けちゃってごめん」
「いえ。お荷物は?」
「手ぶらで大丈夫。それじゃあ」
「はい。いってらっしゃいませ」
立ち上がり、部屋を後にする樹を、紫苑は頭を下げて送り出す。
どうか、主に不運がありませんようにと。
―――
一時間も歩くとなれば、今日の天気はやや堪える。
転移の魔法でも使えれば楽なのだが、使えない樹には歩く他なかった。
中央通り、町を抜けて更に進んだ、人も寄り付かない辺鄙な場所にある小屋。
町のものとは明らかに違う見た目のそれが、魔術師那由多の住まいだ。
人間が嫌いだとか、異端としてここに送られたとか、諸説あるその真実は、真逆も真逆だった。
どちらかと言えば人間に興味があって、町中に住むことも提案されたのだが、自ら断ってここに住んでいるのだという。
指折りの極少数だけがその理由を知っていて、樹はその内の一人だった。
小屋の前に着くや、幾度か訪れたその扉を躊躇いなく開けて、中で待つ那由多に視線を送った。
「やあ。そろそろ来る頃だと思っていたよ。要件はいつもと同じだね?」
大魔術師、あるいは人の上に立つ者であることを示すかのような大それた口調で、見透かした様子で那由多が言う。
それこそが、那由多が人の輪の中に混ざらない理由だった。
「戻って来たようだね」
「ええ、まあ」
この会話も、もう何度目かになる。
初めての時は、那由多の方から樹にコンタクトがあった。
自分と同じ臭いがするからと、この小屋に招かれたのだ。
那由多は右手の人差し指を一振りして、その場にポットとコップを出した。
浮かしたその二つをそのまま指先で操り、慣れた手つきで飲み物を注いでいく。
「紅茶、というらしい。異国の地より取り寄せた。味は保証するよ」
「はあ、まあ有難く」
渡されたそれを受け取り一口飲んで息を整えると、樹は早速と話を進める。
「きっかけは今回も『殺されること』でした。いつも通り、死ぬその直前ですが――って、もうご存知ですよね」
「ああ、視た。まあ随分と派手だったね」
「惨状なんてレベルでないことは確かですね。一方的でした。僕を含め、対策を固めていたというのに、誰もがカカシのように倒れていくんです」
見て来た光景を思い浮かべると、むせ返るような香りと耳を劈く音までもが蘇ってきて、一瞬吐き気を覚える。
辛うじてそれを飲み込むと同時に、今度は那由多が続けた。
「まだ朝だ。休めた感覚すら、あまりないんじゃないのかい?」
「ええ。身体は健康そのもので異常は何もないんですけれど、心は全く」
「ふむ。じゃあ、今日は早いところ検査と行こうか。その間に寝ておくといい」
「分かりました」
樹はそれに応じると、那由多の促しで奥の部屋へと入っていく。
「じゃあそこに寝てくれ。すぐに結果だけ調べて教えるから、その後で休んでいくといい」
「すいません」
「構わない。じゃあ、始めようか」
仰向けになった樹に両の手をかざすと、詠唱も無しに術を発動させた。
現れた光の環はひとりでに動き、足先から上へスキャンしていく。
頭頂部までくると光は収まり、やがて消え、代わりに那由多の前にその結果を表示した。
それを見て「やはり」と小さく漏らし、那由多はしばし言葉を失う。
嫌な結果が出たのか気になり、樹は不安になって思わず那由多に問いかけた。
「ああ、すまない……」
冷静を装う顔はやや強張っている。
何か出ていることは間違いない。そう確信できたから、覚悟を決めてその内容を尋ねたところ、
「後悔しないと言い切れる自信はあるかい?」
と。
まさか嫌な病や、あるいは余命が分かってしまったのか。
様々な予感が頭をよぎり、不安は一瞬で加速する。
しかしそれも聞かないことには、どうも収まりがつかない。
「だ、大丈夫です」
何とか絞り出すように、一言。
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表示された結果を樹に向けて、
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