湯谷夜子の活動記録 ~二度目の人生は過ちから〜

ぽた

顛末、月下の語らい

 聞けば、夜子さんの能力も完全ではないのだそうだ。
 先ほど聞いた『その瞬間のビジョン』以外にもう一つ、場所や日時辺りまでは絞り込めてもそれが『誰か』は分からないという。
 ぱっと見の体格から、男か女かの区別は出来るようだが、それがどんな顔をしているか、どんな様子でそこにいるのか、どんな服装でいるのか、そういった詳細な情報は得られない。
 これまで夜子さんら自保は、俺同様、彼女が見たビジョンに映った場所にいた人物が一人であった為にその場で特定作業をする必要はなかった。波場さんも穂坂さんも岩山さんも三浦さんも、皆一様に一人での死を選ぼうとした。

 今回もおそらく、その筈だった。
 夜子さん曰く、一瞬映ったビジョンに居たのは確かに一人の男だった。一人で無人の廃墟の一室に佇み、一人でナイフを構え、振りかざし、といった風に。
 そして俺たちが先ほどいった場所は、正にそこで間違いはない筈なのだが――

 嫌な予感しかしなかった。

 岩山さんの無理なショートカットのお陰で戻ると、俺たちはすぐさま捜索を開始した。
 俺と夜子さん、波場さんがビジョンに映った家、他は散り散りになって念のため周辺地域を。

 答えは直ぐに出た。

「芳樹さん、私がさっき、そこの通りで言ったことは覚えていますね?」
「これを見れば、忘れていたって否が応でも思い出しますよ」

――三つ目は、人の弱みに付け込む悪です――

「あれは、眼鏡の男がその対象ではなかったんですね」
「ええ。あの時における”弱み”とはつまり――」
「『能力者』」

 夜子さんは「流石です」と頷いた。

「私の目に狂いはなかったようですね。貴方を仲間に出来て良かったと思います」

 役に立てなのなら幸栄だ。
 しかし、どうにも納得がいかない。

 夜子さんはこれを、当然と知っていたように思える。冷静に動き、不要な言葉を尽くさない辺り、おそらく初めから目星がついていたのだろう。
 ではなぜ、これを放置して、俊さんの言う通り事務所に戻ろうとしたのか。

「ここから先は、刑事組織の仕事です。確かに変わった体質の人間ではありますが、そう、人間であることに変わりはないのだから」
「現場の検証や事後処理は警察の仕事だから、見捨て――いや、これは人聞きが悪いですね」
「まったくです……」

 月明かりも届かず、波場さんが灯すライターの灯り一つだけの室内。
 暗がりの中で、夜子さんの肩が震えているのが分かった。

 例の事件を知った際に夜子さんがとれる行動としては、もう一つあったろうと思える。
 能力を持つ子供が殺されて怖い、危ない、そう思った時、先ずは自身を護ることを何より優先しても良かったのではなかろうか。
 それだというのにこの人が兄に相談したのは、自身の能力を利用し組織として他の能力者を見つけ出し、護る場所を作るということ。それは結果的に保身につながることでもあろうが、出だしの理由が違えば別物だ。

 湯谷夜子という女は、優しく、時に冷酷で非道とも思えようが、その実やはり他人を思いやる心を誰より強く持っている。

 だから、こんな大粒の涙が溢れるのだ。

「昨日の夜――に限った話ではないのですが、お嬢は毎回の仕事前夜、このようなことを危惧する発言をされていました。三人目――つまり、僕の次である茜さんの時から既に」

 なるほど。
 だから、俊さんに自らの行動を諭された時、あんなに納得のいかない表情をしつつも、割り切って帰ろうとしたのか。
 そして俊さん自身も、それを分かっていたから指摘した。
 流石に、まだ事を未遂で終っている相手に対して『骨を外す』なんて暴挙、出る筈もない。

 それ程までに――彼らの行いは、見事に夜子さんの琴線に触れたということか。

「感謝します、芳樹さん」

 ふと、夜子さんが弱々しくそんなことを呟いた。

「事件で散っていった子たち……可能なら、守ってあげたかったし、弔ってあげたかった……兄に任せて誤魔化して来ましたが、本当は凄く……凄く、苦しかったんです…!」

 初めて聴く声音。
 まだ一週間という短い付き合いだが、何が起ころうとも、湯谷夜子はこんなに声を荒げるような人ではないと思っていたが、それは大きな間違いだったようだ。
 どれだけ凄いとこちらが思えど、やはり一人の人間なのだ。
 腐っても、感情なんて殺せる筈はない。

 自ら志願して護らんとした命の火が、こんな残酷な形で消えようものなら。

「ごめんなさい……ごめんなさい、名前も知らない、幼く無垢な命……どうか人を恨まず、憎まず、安らかに眠って欲しいと願います……」

 膝をついて泣き崩れながら、夜子さんはゆっくり、しっかりと言葉を紡ぐ。
 きっと、腹に抱えていることは真逆なのだろうが。
 指摘すれば、無粋が過ぎるというものだ。

 今はせめて、他のメンバーが到着するまでは、枯れるまで泣かせてあげよう。

―――

 結局、合流してすぐに聞こえて来たサイレンの音に気付くや、俺たちは悟られないように裏から回ってその場を後にした。
 俊さんだけなら気付いていようが、対象には指一本触れてはいない故、検証に支障はないだろう。
 俺たちの指紋も残ってはいまい。
 残っていたとしても、協力関係にあるこの組織が目をつけられることはないだろうが。

 事務所につくなり、皆が自室へと向かった。
 その表情は力なく、あるいは憎しみに満ちているようにも見えたが、誰もそのことには敢えて触れないでいるようだった。
 一度ひとたび語り出せば、止まらなくなってしまうことは目に見えていたからだ。
 ここにいる全員は少なからずその事情を知り、自らもまた助けられた一員であるから。

 今日のところは俺も早く眠ってしまう。
 そう思っても、あの光景が脳裏に焼き付いて、なかなか瞼は重くならない。
 ハードだった数時間にも関わらず、身体の疲労さえも感じない。

 時刻は二十三時を過ぎた辺り。
 夜風にあたろうと、俺は自室を出て階段を上がった。

 一週間前にも、似たような景色を見たな。
 基本的に開放されている屋上だが、特にようが無ければ誰も、俺も近寄らない為、めったにこの重い古ぼけた扉を見る機会はない。
 それだけに、一番近い記憶は一週間前のあの時なのだ。

 ゆっくりとドアノブを捻り、すっと通る涼しい夜風が頬を撫でた。
 瞬間、すぐ傍らに人の気配を感じてそちらを見れば。

「母と言うだけあって、親子ですかまったく」

 何のことです?
 と首を傾げるのは夜子さんだ。
 おそらく俺と同じ理由でここにいるのだろう。

「この間の穂坂さんの話ですよ、あの方も、そこでそうして足を三角に組んで座ってました」
「あらあら、それは何だか嬉しいわ」

 そう言う口元は、全く緩んでいなかった。

 嫌味の一つも覚悟しながら無言で夜子さんの隣に座る。
 広い屋上ですよ、なんて言葉を思い浮かべていたのだが、夜子さんは黙ったままで膝に顔を埋めた。
 言葉ばかり強がって感情を隠し切れないのは、この人の悪いところだ。
 この短い期間で、それに何度苛立ちを覚えたことか。

 しかし今回ばかりは、それで良かったのだと思う。
 気まぐれでも俺がここに来なかったら、きっと誰もこの人の弱みを吐露させてあげられなかっただろうと思えるからだ。
 自惚れもいいとろだと自分でも分かっている。他のメンバーも、敢えてそうしないのかも分からない。
 けれど、やはり痛みは自分一人で抱えるものではないと思う。
 新参者が勝手なことを言うな、くらいは思われそうだけれど。

 どう思われようと、この人に救われた命。
 何でも良いからこの人の為に使おうと思って、誰が悪いと言えよう。

 そんな格好つけたことを妄想しながらも、この場に似合った言葉は浮かばない。
 ただ静かに、時と空気だけが流れる。

 すると、いい加減少々冷え込んで来た時、ふと夜子さんが顔を上げ、俺の肩に寄せて来た。
 別に、力が強かったわけではない。睨みをきかされ、その圧力に気圧されたわけでもない。まして無理な体勢にあったわけでもない。
 それだというのに、俺の身体は動かなかった。
 夜風の冷え込みを差し引いても、とても生きている人間の体温とは思えない程に、首元にあたる夜子さんの頬が酷く冷たかったから。

「いいんですよ、別に今くらい泣いても」
「嫌味は結構です…! さっき、嫌と言うほど涙は流しましたから……とっくに枯れてしまいました」
「そうですか」

 そのまま力なく倒れ込んで、果てには、伸ばした俺の膝の上に頭を乗せて倒れ込んだ。
 抵抗しない俺に短く「すいません」と謝ると、そのまま目を閉じて溜息を吐いた。

 普段は温厚ながらも毅然としている夜子さんが、今こうして力なく項垂れているのは何だか変な気分だ。
 あれだけ言葉が上手く、一件完璧に何でもそつなくこなせそうに思えるこの人でもこうして悲しんだりするのだと思うと――少し、こう、言いようのない何かが押し寄せて来る。

「なるほど……」
「あまり良いことは考えてなさそうですね」
「そんなことは。ただ、こうして弱っている夜子さんを見てると、どうしても逆に、兄か父親にでもなった気分になるんです」
「あやしてあげたい、なんて思ってませんよね?」
「ええ。ただ、おこがましいことは百も承知なんですが――守ってあげたいな、と。だから、家族だって言うのかーなんて思うわけです」
「……っ!」

 一瞬、目に雫を浮かべると、夜子さんはすぐに目を逸らした。
 きっとこれは、俺の驕りだ。

 夜風が、止むことなく俺たちの頬を、髪を撫でる。
 心地よくもあるが、どこか現実離れしている。
 ついさっき――と言っても数時間前だが、あんな現場に居合わせた後で、こんなに穏やかに時間が流れても良いのだろうかと不安になる。

「どうして彼らは、あんなことを……メリットがまるでない。能力者だと知っているのなら、あるいは利用しようと考える筈。そうでないなら、殺める理由すら――」
「人の欲望なんて、曖昧なものなんです。こうだからこう、といった具合にはいかないものです」
「そういうものでしょうか」
「そういうものです。例を出しましょう。この世全ての人間が幸福であると感じる世界を作る為に、何かを犠牲にしなければならないとします。貴方ならどうします?」
「俺ですか」

 今の話を加味して考えろ、ということだろうか。
 完全な個人意見を述べるなら――そんなことは不可能だ。
 であれば、やはり先の自分の発言を考えての答え。

 いずれにせよ、まるで見当もつかない。
 常識と言っていいのかは分からない、月並みな答えしか。

「何でしょう……全ての悪を断罪する、とかですかね」
「正解です。ですが、正しくは正解の一つです」
「どういうことですか?」
「他にもう一つ、『全ての人間を犠牲にする』という答え方も出来るということです」
「そんな――」

 それでは、まるで理論があべこべだ。
 楽園などという世界を作るなら、悪を消せばいいだけのことだろう。悪はいなくなれば、自然と皆幸せになる。至極順当な答えではないのだろうか。

 ――いや、そうではないか。

「皆一様に消えてしまえば、誰も苦しまなくて済む、という考え方です。たまに勘違いをする連続殺人犯なんかによくある考え方ですね」
「それは――何と言いますか、ただただ怖い世界です」
「ええ。ですが、貴方の答えだって完全ではありませんよ?」
「どうして?」
「例えば――そうですね。空気です」
「空気?」
「はい。二酸化炭素が増えれば苦しくなり、酸素を欲する。この関係を善悪だとします。ですがそうすると、二酸化炭素の存在がいらなく感じませんか?」
「それは……いえ、それも程よく混ざっているから、バランスが――あっ」
「そういうことです」

 夜子さんは静かにそう言った。
 つまりこの人は、善だけでなくある程度の悪もあるから、この世が拮抗していると言いたいのだ。
 あるいは風俗経営、あるいはパチンコ経営、それらを統括する組織も、時に必要なのではないだろうか、なんて、考えなかったわけではないが、正しいとも思えない。
 それらに対するニードがある以上、どうにも処置のとりようはないけれど、それが必ずしもこの世に必要であるという理由には、ならないのではないだろうか。

「あくまで極論、ものの例えです。そう深く考えずとも」
「いえ、随分と面倒というか、考えてみればおかしな秩序で成り立ってるなと」
「そうでもありませんよ。持論ですが、物事はおおよそ、割合というバランスによって成り立っているんですよ。ある集団を一つ作りまして、そこには一割の悪がいるとしましょう」
「はぁ」
「あまりに不正や悪事を働くものだからと、それら一割の人間を切り捨てます。そうしたら、どうなると思いますか?」
「平和になるのでは?」

 俺の答えに、夜子さんは「残念ながら」と首を横に振った。
 曰く、正解は”新たな悪が生まれる”と。

「残った悪事の『情報』正しくは記憶なんかを頼りに、今度はそれよりもっと上手くやろうって輩が生まれるんです。そしてそれを繰り返して最後に二人だけ残った時には、片方、あるいは両方が悪に染まり、互いを騙し合う。そんな結末になるんですよ」
「そんなこと――!」
「完全な善である人間は存在しませんよ。もちろん逆も然りですけれど」

 なんて悲しい話をするのだろうか。
 いや、なんて現実を見据えているのだろうか。

 全く、恐れ入る。

「今話したことは、一つのゲームに対する仮設だと思ってください。その方が、きっといい」

 また無茶を言う。
 そういえば、と夜子さんが顔を上げた。

「芳樹さんも、眠れずここに来たんですか?」
「ええ、まあ。流石に、あんな光景を目にして、一人易々と寝ていられなくて」
「同意見です。初仕事だというのに、酷な物をみせてしまい、申し訳ありません」
「夜子さんが謝らないでください。遅かれ早かれ、知っていたであろう現実です。であれば、それを早めに受けて、後に生かす方が幾分いい。既に逝ってしまった命を無碍にするつもりはありませんが、やはりこの仕事に就いてしまったからには、前を向いていかないと……なんて、生意気なことも考えているんです」
「芳樹さん……やっぱり、貴方が仲間になってくれて嬉しいです」
「買い被りですよ、それは。何か出来ることは無いかって足掻いているだけですから」

 何尾知らず、何の役にも立てなかった自分が憎い。
 そんな考えの元に生まれた意見だとは言えない。

 そこでふと気になるのは、夜子さんの能力『千里眼』についてだ。

「未来視に映った人が手遅れだったとなると――その場合、夜子さんの千里眼はちゃんとした効果を発揮していなかったということですか?」
「言い方を変えるとそうなりますが、正しくは不完全なのです」
「不完全?」
「ええ。本来の力が存分に発揮されていない――いえ、発揮できないのです、私には」
「それってどういう――」

 聞きかけたところで、夜子さんは立ち上がった。
 それ以上は何も言うな、聞くな、そんな意味を孕んでいるように思えて、俺は咄嗟に黙った。

「……そろそろ戻りましょう。風も強くなってきました」
「俺はもう少しここにいます。まだしばらく、床に付く気分にはなれなさそうだ」
「――分かりました。事は、今頃兄がちゃんと何とかしてくれている筈ですから、あまり貴方が深く考えこまないでくださいね」
「そのまま返してあげますよ。目を腫らして鼻水垂らして、説得力の欠片もない」

 ハッと気づいて、夜子さんは袖で目元と鼻元を全力で拭くと、

「なんでさっき言わないで、今…! 意地悪です! 意地が悪いです! おやすみなさい! 風邪をひかないように!」

 畳みかけるようにそう言い残し、建物の中に入って強く扉を閉めた。

「おやすみなさい」

 夜子さんの去った空間に吐いた独り言のような挨拶は、誰に届くでもなく、静寂が支配する夜の町中へと溶けていった。

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