風の調べと、竜の誓い【旧:男の娘だけど~】

高瀬暖秋

救いの在処【1】

 

 オーグは今、止めどない幸福感に包まれていた。

 触れあっている身体から身体へと伝播していく温もり。
 それが決して自身から伝わっていくものではなく、相手からも発せられているものであると気付けたから。

 自分は彼女を受け入れ、彼女も自分を受け入れてくれた。不器用ながらに、互いに互いの手を握った。
 そんな至極単純な関係の形成が何よりも誇らしく想えていた。

 視線を下に落とせば、彼女は笑っていた。
 少しの陰りや曇りが無く、悲愴、絶望、孤独、それらを全く感じさせない輝きがそこには存在していた。常闇を絶えず照らす満月の如く、慈愛に満ちた金色の双眸がただ一心にオーグを見つめていた。

 一言で言い表すならば、美しい。
 齢十歳程の彼女を形容する言葉としては些か不釣り合いなようなそんな言葉でさえ、彼女を言葉にするには遠く叶わない。それこそやはり、どこか不思議な美しさを宿し、まさに神秘的な美しさを宿す『月』という言葉が適当のように思えた。

「ほら、やっぱり可愛い」

 思わず、オーグの口から声が漏れた。
 無意識かつ不意に溢れたそんな言葉は、どんな言葉よりも強力な言霊を宿し、真っ直ぐにルナへと届く。

 それを受けて、ルナの頬がより一層紅潮する。
 どんなお世辞も純粋かつ素直で、淀みの無いその言葉はルナが喜びに至るのに十二分。
 そんな、まるで甘い果実のように真っ赤に染まるルナの顔を見て、オーグは自分の頬も赤く染め上げられる心持ちでいた。

 それについては、つい先程まで彼女に掛けていた言葉を振り返ってみれば理解に難しくない。幾ら彼女に笑ってもらうためとはいえ、先程までのやり取りは思い出してみれば非常にむず痒い。と言うか恥ずかしい。穴があったら入りたい。

 とは言え、オーグが連ねたそれらの言葉が全くの出任せであるのかと問われれば勿論そんな事は無く、掛け値無しであの言葉はオーグの本心と言えた。
 だからこそ、より一層引き立てられる羞恥心というのもあるのだが。

「うん……ありがとう、オーグ」

 しかし、そんな雑念はルナの微笑みを見れば、容易に吹き飛ぶ。
 自分の言葉はこんなに素晴らしいものを生み出す手伝いをしたのだと思うと、自然とオーグも微笑んでいた。

「オーグ、背中、痛い?」
「まだちょっと痛いけど、動けない程じゃないよ。心配してくれてありがと」
「……オーグ」

 オーグの名を呼び、ルナは再び僅かに離していた身体をオーグへと密着させる。そして、その小さな手をオーグの背中へと当てた。

 それにより僅かな刺激がオーグの患部を襲うも、声は漏らさない。正直なところ、触れられただけであっても痛みが走る程に患部の具合は悪かったが、そのルナの行動が決して悪意あるものではないことは分かっていた。

 恐らくは痛みを紛らわせるために患部を撫でただけだ。ならば、そう咎める必要はない。むしろその気持ちは十分に痛みを和らげてくれた。

 しかし、その気遣いはそれだけでは終わらなかった。

「痛いの痛いの、飛んでって」

 ルナは誰もが一度は耳にした事がある痛みを和らげる呪《まじな》いを唱え、柔らかな線を描きオーグの背を撫でた。
 するとそれを起点にして、奇跡は起きた。

 細く白いルナの手から、突如溢れ出す淡い光。その煌めきこそ小さいが、僅かに温もりを孕んだ光。
 そして、その光は自身の背後だけでなく、その宿り主であるルナからも僅かではあるが生じている。そうした光を纏い、ルナはオーグの身体をより強く抱き締めた。

 光を纏い、患部へと触れるルナの手。驚くことに、その手が触れた部位から一切の苦痛が霧散していく。全ての痛みがまるで元より存在してなかったもののように、完全に痛みが消えた・・・・・・
 そうして癒されたオーグの背中には、既に打ち身の痕は残されていなかった。

「……え?」

 自身に起きた現象が理解できず、オーグは腑抜けた声を漏らす。

 それは数秒の出来事。激しくその痛覚を刺激されていたオーグの背中は、それこそあっという間にその痛みが消え、その痕跡すら残さずに治癒された。
 言葉にしてみれば実に簡単な響きではあるのだが、それがいざ実際に現象として現れてみれば一気に理解は困難となる。

「魔法……なの?」

 理解を超えた現象に、オーグが真っ先に思い浮かべたのはアレンの姿。賢者の力を行使するアレンのように、ルナも賢者として選ばれたのではないかと思い至った。
 しかし、その考えはすぐに霧散する。

 アレンの話によると、賢者の力は万能では無いらしい。なんでも、賢者の力は火、水、風、土の四つに分けられ、おのおのその力に関係する使い方しかできないとのこと。アレンの言葉が本当ならば、ルナの今の力はどれにも当てはまらない。

「……違う」

 そしてやはりと言うべきか、オーグの呟きをルナはあっさりと否定する。

「……これ、ママ、力」
「お母さんの?」
「うん。……オーグ、来て」

 そう言ってルナは立ち上がり、オーグの手を引く。自分よりも年下の少女に手を引かれることに些かの羞恥心を覚えながら、オーグもその手に引かれて立ち上がった。
 ちなみにルナとオーグの身長差はややルナの方が低い程度であり、手を引こうと思えば引けない身長差でもない。

 オーグが立ち上がった事を確認してルナは歩きだした。向かった先は現在身を潜めている洞窟の更に奥。

「奥に進むの?」
「……足元、気をつけて」
「分かった、ありがと」

 奥へ進むにつれて外界から射し込む光が減り、洞窟はその闇を深くする。僅かに湿っているのか足元は不安定であり、時折躓きそうになる小石に注意を払いながら一歩一歩慎重に進む。

 しかしオーグにはそれほど心配は無かった。霧があるわけではないために視覚は生きている。ならば獣人の夜目をもってすれば、多少の暗闇は問題はなかった。

 加えて、この洞窟の内部はそう複雑に入り組んでわけではない。多少の段差はあるものの、ルナが真っ直ぐに足を進める道中は自然にはそう成り得ないほど平坦に整えられている。
 それに何よりも、オーグの手を引く少女の存在が心強い道標となっていた。

 そんな繋がりを心地好く想いながら歩みを進めること数分。
 暗闇を歩き二人が辿り着いたのは、洞窟の最深部。とは言え、洞窟自体そう深いものではないために、最深部とは名ばかりのただの行き止まりだった。

「……着いた」

 目的地に到着した事を確認して、ルナは足を止める。それに気が付いたオーグも同様に足を止める。すると、行き止まりを示す洞窟の壁のそばにある何かが目に入った。

「……お墓。……それと、白い花」

 それは墓だった。
 一般的に岩と呼称される物よりも些か小振りな石を不器用に、けれども丁寧に、一つ一つ積み上げられている。また、その石の山には石と石をぶつけて多少形を整えた痕がある。

 一見、ただの乱雑な石の集積。それこそ、誰かが邪魔になった石材をこの洞窟に放り捨てたような、そんな統一感のない塊。
 しかし、オーグはそんな石の集積がすぐに何者かの死を弔うための物だと理解できた。

 その理由としては様々なものが挙げられるだろう。ルナがわざわざこの場所まで連れてきた理由。多少なりとも手の加えられた痕跡。道中の道が何度も踏み固められていて比較的歩きやすかった事。そして、まだ摘まれてから長くは経っていない白い花。

 それらを踏まえれば、ルナがこの場所にあるこの石の集積に何かしらの思い入れがあり、幾度となく通っている事が推察できる。
 しかし何よりオーグにその可能性を浮かび上がらせたものは、ほかでもないオーグ自身の記憶だった。

 この石の集積を見て真っ先にオーグの脳裏を過ったのは、かつて亡き者にされた父を弔うために自分が作った決して立派とは言えない墓。その不器用さが、目前の墓と重なった。そこに籠められた思いの丈が、目前の少女から感じられた。

「……オーグ」

 ルナはオーグの名を呼ぶ。
 ルナが何を思ってオーグをここまで連れてきたのかは分からない。単純に獣に見つかる事を危惧しての事かもしれないし、それ以上の深い意味がルナにはあるのかもしれない。

 唯一、オーグにも分かることがあるのだとすれば、それはルナの心境に大きな変化があったということだ。それも、今まで日の当たらなかった場所に光を当てたような、決して悲愴的でない変化が。

 オーグはその事を察知し、それに応えるように口を開いた。

「ねえ、ルナ。もし良かったらなんだけど……ルナの話、聞かせてくれない?」

 それは昨日と同様の問いだった。
 唯一異なる点があるとするならば、その問いの真意。あの時の問いはあくまでルナとの距離を縮めるためのものであった。
 だが、今の問いは純粋にオーグの好奇心から生まれたものだ。もっとルナの事を知りたい、そんな純粋な感情が働いていた。

 断られるだろうか、とオーグは不安に煽られ、ルナの方へと目を向ける。

 ルナは依然として墓標を見つめていた。
 その真意はオーグには分からない。オーグの頼みを承諾するか否かを迷っているのか、自身のこの先の事を案じているのか、はたまたその墓に眠る者を想っているのか。

 どちらにせよ、ルナには確かに迷いがあった。それ一つで今までの自分の生き方を大きく変えてしまうような、大きな迷いが。

 しかし、その迷いは何も決断を誤ったからといってルナの身に厄災が降りかかろうものではない。寧ろ、その決断次第でルナの先の人生は大きく好転するだろう。今までに提示されていなかった道が新たに現れるだろう。

 だが、そこへ歯止めを掛けるものがある。
 あくまで直感的なものであるが、オーグはそう確信していた。そして同時に、それだけは自分にはどうにもできない事を。

 だから、オーグは静かにその時を待った。その決断の全てをルナに委託し、オーグにはただ待つ以外の選択肢は無かった。

 一時的に、沈黙が洞窟の中を支配する。それ故、どんな些細な物音でさえ強く、大きく、鼓膜を震わせる。一定の拍子で訪れる地に打つ雫の音は、自身の鼓動と繋がれる手から伝わる少女の鼓動とが同調しているような錯覚を生む。

 そして、その時は来た。
 それを伝えたのは、オーグの右手に繋がれるルナの左手。ルナはその手をより強く握った。それは恐らく、何かの決意の表れ。

「……私、話す。オーグ、聞いて」

 オーグはそれに応えるように、手を握り返した。


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