風の調べと、竜の誓い【旧:男の娘だけど~】
芽吹き始めた心【1】
息を切らしながら、少女は山を駆ける。
木の根を踏んで足を挫かないように心掛けながら、自身を追尾する存在を拒絶するようにめいいっぱい足を動かした。
時折足がつりそうになり、少女の精神と肉体を恐怖が蝕む。普段から運動をしていなかった事を悔やんでも遅い。今はただ目前の危機を越えるために歯を食いしばって、地面を蹴った。
「……オーグ」
また会うことを約束した者がいる。また会いたい者がいる。だから、少女は強く地面を蹴った。
□□
うっすらと明るくなり始めた空。夜の冷たさがやや残る風。そして様々な覚醒を告げる小鳥たちのざわめき。
モルト山脈のそれらを受けて、オーグはゆっくりと目を覚ました。
「ふあぁぁぁ」
思わずオーグの口から欠伸が漏れる。それもそのはず、時はまだ早朝。太陽こそ顔を出しているものの、クレシアとアレンはまだ毛布の中。目を覚ましているのはオーグだけである。
加えて、オーグは朝が弱い。普段から先に起きるアレンに起こしてもらっているオーグには慣れない早起きは苦痛に変わりなかった。
しかしオーグは再発しそうな欠伸を噛み殺すと毛布から脱出し、手早く何かの準備を整える。これが朝が弱いオーグには考えられない手際で行われていく。
元々そういう予定だった、というような迷いがなくテキパキとした動きだ。
こうした動きはオーグの挙動としては極々珍しいものだ。常に条件反射と食い意地だけで行動しているようなオーグにはそもそも計画性という言葉が余りに似合わないのだから。
そうして全ての準備を終えるとオーグは眠っている二人へと向き直った。
「行ってきます」
オーグは二人へ向けて少し深めにお辞儀をする。
それは単純な挨拶であり、少しの罪悪感だった。
しかし、オーグとて何の理由も無しに家族同然の親友を出し抜くなんてことはしない。オーグはオーグなりに決断した、不器用な優しさがそこにはあった。
お辞儀を終えるとオーグは扉を空けて外へと出た。昨晩も見た、同様の光景である。ただし、それを見つめるオーグの心境は変わっていた。そしてそれを暗に示しているように、空には美しい朝焼けが描き出されていた。
「……んっ」
朝日を直接その身に受けてオーグは軽く伸びをする。深く息を吸い込むと清々しい空気が肺へと流れ込む。あまり開かれていなかった眠気眼がしっかりと開き、心地好さを覚えた。そして、これからの決意を固める。
「よし、行こう!」
そうしてオーグは白い花を追って、木々の中へと入っていった。
こうしてオーグがわざわざ早起きして支度をしたのにはわけがあった。
それには昨晩のアレンとの語らいが関係している。今まで触れることのなかったアレンの両親の話。それはオーグとアレンとの繋がりを真に深くするだけでなく、オーグの中の少女への救済の想いを強くさせた。
救済。
否、救済と言えるほどそれは慈悲に満ちたものではないだろう。それはただ勝手にオーグが少女へと自身の願望を押し付けている事に相違無いものだ。自身はそうありたいという願いを、相手の言葉を聞かずに相手もそうあって欲しいと決めつけている。
まるで見当違いかもしれない。ただの余計なお世話かもしれない。いざ手を差し伸べてみれば、以前のように拒絶を受けてしまうかもしれない。少女の孤独はその実じつ自身から望んでいるもので、幾らオーグが寄り添おうとしてもまた突き放されてしまうかもしれない。
そんな想定も当然オーグは繰り返した。嫌になる程に、繰り返した。
しかし、結果的に迷えるオーグの背を押したのは今は亡き父親とわがままなオーグと肩を並べてくれるアレンの存在だった。二人の存在が、オーグの想いを真っ直ぐに走らせた。二人の温もりが、温もりは伝播して周りを暖めていくものだと教えてくれた。
だから、オーグは決心した。
アレンへと一歩を踏み出せたように、また少女にも一歩を踏み出すことを。きっと、少女の氷を自身の温もりで溶かせると信じて。あの時背中から伝わった少女からの温もりが、決して紛い物などではないと信じて。
その為にオーグはまず少女をあの家から出し、アレンとクレシアの元まで連れていくことに決めた。
当然、これは拒絶されるだろう。少女の両親が既に死去しているのであれば、あの場所は少女にとって何より大切なもののはずだ。かつてアレンがそうだったように、少女もそうあるはずだ。
だが、それでも少しでも可能性があるのなら賭けてみたかった。
「そう言えば、まだ名前聞いてなかったな。今日は教えてくれるといいんだけど――」
若干ちらつく朝もやを視界の中に捉えながら、オーグは少女に想いを馳せた――その時、その朝もやがより一層深いものへと姿をかえる。もやがかかっていたもののある程度開けていた視界は一変し、数メートル先ですら視認することができなくなる。それはまさしく、霧《・》と呼べるものだった。
「……何だ、これ」
突然周りを覆った濃霧に、眉をひそめるオーグ。
地帯によっては山に朝もやがかかることはそう不思議ではないが、オーグを包んだ霧には湿気が無く、かといって煙のような臭いもしない。
それはどういうわけか、オーグの視界を遮るためだけの役割を持っているような、不思議な霧だった。
明らかな違和感を感じて警戒を露にするオーグだが、少女を怖がらせる可能性のある槍はクレシアの家に置いてきてしまっている。
オーグにできることは、最大限五感を働かせておくことだけだった。
そうしてオーグが周囲に視線を散らばせていると、やがてオーグの視界は霧の向こう側に影を捉えた。
それはオーグよりも一回りも二回りも大きく、それでいてそのシルエットは異様。一見は人型であるのだが、胴は大きく四肢は異常に細い。
人では無いことは断言できるが、だからと言って亜獣であるとは断言できない。亜獣は既存の生物を基本として様々な特有の器官を持っている事案が多い。その点、そのシルエットからはベースとなるような生物が全く想像もつかない。
その影は突如飛びかかって来るようなことはなく、更にはオーグの出方を伺っているようにゆっくりと歩み寄ってくる。
オーグは恐怖と緊張に体を支配され、全く足を動かせずにいた。
そうして、露になる全容。
金色の毛皮に鋭い牙と爪を持った野獣。三つの尾と如何にも獣を主張するような鋭い顔つきと頭部の耳。
しかし、何より印象的なものは通常の獣には見られないその体躯。三メートルはあるだろうか。異様に細長い手足がそれに似つかわしく無い強靭な胴体に引っ付けてある様な、まるで悪魔を体現している様なその容貌は十分に二人に恐怖を植え付ける。
強いてその全貌に似通っているものを挙げるならば、狐だろうか。
鋭く伸びた眼と口は否応なしに恐怖を感じさせ、オーグの体の自由を奪った。
逃げなければ。
人々の恐怖を集結したような存在を前にして、オーグは即座に相手をしてはいけないものだと理解した。
けれど、オーグが体の硬直を解いて逃げ出す前に、事態は動き出した。
「――タチサレ、イノチガオシクバ」
声が、聞こえた。
低く、重く、胸の奥まで響いてくるような、恐ろしい声が聞こえた。
けれど、今ここに居るのはオーグと亜獣らしき存在だけ。
そして、オーグは全く話してはいない。
それらの事実から、オーグは数秒遅れてあの亜獣が発した言葉であることに気が付き、更に数秒遅れてその言葉が自分に向けられたものであることに気が付いた。
「タチサレ。サスレバ、イノチハミノガシテヤル」
亜獣は先ほどの言葉を繰り返す。
どうして亜獣が話せるのかなんて疑問はもはや抱かなかった。
そんな事よりも、オーグを見逃してくれるという亜獣の意図が理解できず、オーグは更に警戒を強めた。
「……どうして、見逃してくれるんだ?」
言葉は分かっているのだろうが、会話ができるとは限らない。あわよくば穏便に事を済ませて、急いでアレンの元へ逃げ戻る。
まさか、山の中に簡単に人を殺せる爪を持って、言語を話せるほどの亜獣が居るとは思ってもみなかった。このままでは、脱出する方法を見つける以前に命が危うくなる。
そう考えたオーグは一か八か会話に持ちかけようと、亜獣へと話しかけた。
その思考には亜獣の返事がどうだとかは一切無く、 会話に持ち越せたとしても隙あらば逃走するつもりの心構えでいた。
だが――、
「アノショウジョニハ、ノロイガカケラレテイル。シニタクナケレバ、チカヅクナ」
その亜獣の言葉に、その一切の思考が一瞬にして失われた。
どうして、亜獣があの少女の事を知っているのか。どうして、オーグがあの少女の元へ行こうとしていたことを知っているのか。どうして、あの少女にかかっている呪いとは何なのか。
分からないことだらけだった。アレンであればあっという間に整理したであろう事も、オーグには事態の把握に努めるのが精一杯だった。
けれど、そんなオーグにも一つだけ確かに分かったことがあった。霧に包まれ、亜獣が立ちはだかり、まさしく八方塞がりの状況で、自分が何をするべきなのか、その指標になることがあった。
「――嫌だ」
気が付けば、そう答えている自分がいた。
おぞましい全容の亜獣を目の前にして、下がりかけた足を何とか踏みとどまらせ、臆病ながらもそう啖呵を切っていた自分がいた。
けれど、その後に後悔はやってこなかった。震えそうになった足は、無理矢理殴り付けて止めた。
それは、知ってしまったから。
両親を失って孤独になってしまったあの少女に、更なる苦痛が待っているのだと。最悪命すらも危ぶまれる最後が待っていると、亜獣の物言いから分かってしまったから。
それを知ってしまったら、オーグにも自分は止められなかった。
「俺は、あの女の子の所に行くんだ。そこを退いてくれ」
「……イノチガ、オシクナイノカ?」
「怖いさ。でも、ここで退けば後で後悔する。……もう、後悔はしないって決めたんだ」
アレンのように思い通りにならなかった過去を納得はできない。自分は、彼のように賢くはない。
彼はそれでもいいと言ったが、それもまた自分には納得できなかった。
故に、オーグは選ぶ。
目前に提示された、後悔の無い道を。
「ヨカロウ。ナラバ、トオルトイイ」
オーグの答えに何かを感じたのか、獣はその巨体をどけて存外あっさりと道を開けた。視界を覆っていた巨体が失せて見晴らしがよくなる。
否、それだけではなかった。獣が道を開けたと同時に辺り一帯に広がっていた霧は霧散して、全ての視界がクリアになる。そうして拓けた景色の中の一筋には白い花が咲き、線を成していた。
オーグには獣が完全に道を開けたのだと理解出来た。闘う意志を捨て、更には道を用意してくれているのだと分かった。
「ありがと。じゃあ、俺は行くよ」
軽く頭を下げて、オーグは花の道を歩きだす。
獣の身体を通り過ぎ、いざ行かんとした――その時、オーグとのすれ違い様に獣は今までと全く違った様相で、オーグへと言葉を発した。
『行ってらっしゃい。小さな旅人さん』
「――えっ?」
不意にオーグを襲った衝撃にオーグは咄嗟に振り返る。だが、そこには既に獣の姿はなく、ただ自然の風景と僅かに残る朝もやが広がっていた。
しかし、オーグの耳には確かに残っていた。いつしか聞いた、あの声の、あの言葉が。おぞましいはずの存在から聞こえるはずのない優しい声が。
だが、オーグはその衝撃を吐き出す事なく、胸の内に閉まっておく事にした。それを害意あるものではなく、その者本来の温もりから来たものだと思う事にした。
あくまでただの楽観視かもしれない。何の根拠も無しにただそう思っているだけなのだから。
だが、オーグには何故かその獣の言葉が純粋にオーグの良い未来を願っているように思えた。だから、オーグは恐れずに進む。ただ女の子に会いに行くために。
「ありがと」
誰もいない風景に再び礼を告げ、オーグはまた歩きだした。
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