風の調べと、竜の誓い【旧:男の娘だけど~】
不釣り合いな椅子【1】
――腹が、減った。
身体に、力が入らない。頭が、回らない。体の末端という末端から胃袋へと力を吸いとられてしまうようで、立っているだけでも気が滅入った。
「じゃあオーグ、僕はクレシアの手伝いをしてくるから、ここで待っててね」
「……ウン」
気の抜けた声でアレンに返事をして、オーグができる限りカロリーを節約しようと無心を心がけた。
ちょうど、そんな時だった。オーグの視界に、さっと横切るものが映ったのは。
木の枝が落ちたり木の葉が散ったというような自然的な変化ではない。明らかに生命ある何かが起こした風景の変化だ。
視界に映ったそれ・・は視界の端にその金色の頭髪だけを残して、瞬きの間にそれすらも消して、その場から立ち去った。
その金色の頭髪に、オーグはまずクレシアの存在を頭に浮かべたが、すぐにその可能性を否定する。クレシアは今、目の前にいるのだ。あり得るはずがない。
次に浮かんたのが、この山で生まれた亜獣の存在。だが、これも否定。一瞬ではあったが視界に映ったその頭髪は獣のように荒れているものでは無かったからだ。
そうして導き出されるのは第三の可能性。クレシアのような山の住民でも獣でもない、すなわちこの山に迷い込んだ第三者の可能性だ。オーグ達と同様に山に潜ったが故に、道に迷ってしまったと考えれば合点がいく。
そこまで思考したところでオーグは己が知らぬ間にその影を追いかけていた。その先の危険を考慮することもなく、考慮する必要もないかのように、自然にオーグの足は一歩を踏み出していた。
すぐ後ろを振り向けば、そこにはきっとアレンが居る。そして、一度はぐれてしまえば二度と再会することはできない。しかし、オーグはアレンに見向きもせずに一心不乱にその影を追った。
そうして影を追って木々の間を走っていく中で、オーグはその影の正体を頭に思い浮かべる。様々な可能性を選別し、改めてその姿を回想した今になってその正体が理解できた。
「……女の子だった」
前を走っていた筈の影は既にその姿を消している。だが、それでも一瞬捉えたその姿から確信を得ることができた。
影の正体は金色の髪をもった少女。背丈がオーグよりも小さく、恐らくはまだ幼い。ならば、やはり迷い込んだものと判断するべきだろう。
姿が消えたことで草をかきわける音を頼りにオーグは少女の背を追った。腹が減っていたとしても、その程度であれば容易にこなせる。
決してその音を逃さないように細心の注意を払いながら進んでいく中、オーグの視界に何か光る物が映り、その足を止めた。
「なんだろ?」
しゃがみこみ、それを注意深く観察する。銀色の光を放つそれと似たようなものを、オーグはクレアプールで見たことがあった。それは、ロケットペンダントだった。
「……これ、もしかしてあの子の?」
恐らくは夢中になって走っている内に知らぬ間に落としてしまったのだろう。綺麗な銀色から大切に磨かれている事が分かる。それほど大切な物を自ら捨てるなんて事は無いはずだ。
「届けてあげなきゃ、だよな。――って、あれ?」
ペンダントを拾い上げ、改めて少女を追い掛けようとしたところでオーグは気が付いた。
「ここ、何処だ?」
自分が道に迷った事に、気が付いた。
□□
ようやく自分が迷子になったことを自覚したオーグは、慌てて周囲を見渡した。
しかし、無我夢中で少女を追いかけてきた道が偶然にも一直線で、かつ元居た場所から見えるほど見晴らしが良い、なんて事は無く、まるで見覚えの無い光景にオーグは思わずたじろいだ。
動揺するオーグの心中とは対照的に、悠然とそびえ立つ樹木達。迷いをより色濃いものへと変えようと、ヒソヒソとからかうように笑う草花達。そして、立ちすくむオーグに意を介そうともせずに、悠々と空を舞う雲と鳥達。
そのどれもが普段の光景とは在り方を大きく変えており、自分勝手な行動を取ったオーグを責めているようにさえ思えた。
唐突に見渡す限りの荒野に独り置いていかれたような、恐怖、焦燥、不安、孤独が入り交じった感情が、普段意識しないような胸の底から手を伸ばして這いずってくる感覚を感じた。
震えそうになる胸を咳き込むほど強く叩き、オーグは何とか己を震え立たせた。
「迷ったことに、気が付かなければいい」
唱えるのは、親友が教えてくれたおまじない。
本来の意味合いは既に迷ったことに気が付いたオーグの心には通用しないが、心の動揺を抑える暗示としてならまだ効力はある。
無理に意識してしまえば逆効果にすらなり得るが、とりあえずその時のオーグには微かであれど効果はあった。
オーグ自身に自覚は無いが、言葉と共に思い浮かべたアレンの姿が、何よりもオーグの揺らいでいた心の波をおさめていた。
そうして比較的落ち着いた心境で、オーグは再度周囲を見渡す。
「アレンと合流するのは……無理、だろうな」
走り抜けた距離を体感的に測ったならば、元居た場所からおよそ二百メートルほどは離れているはず。
クレシアから聞いた『迷ってしまえば二度と元の場所に戻れない』というこの山のルールが、どのような具体的な線引きをしているのかにもよるが、やはり元の場所に戻ることは現実的ではない。
それに、今のオーグには自分の身よりも優先するべきことがあった。
「あの女の子、探さなきゃ」
自分が今こうして戸惑っているように、きっとあの少女も不安に駆られているに違いない。
そう思うと、不思議と体が楽になった。すくんでしまっていた足が、思うままに動き始めるのを感じた。
そうして、迷ってしまった事を開き直って少女を探し始めて、おおよそ十分が経過した時のことだった。
宛もなくブラブラと歩いていたオーグの目に、ようやく少女の手がかりになりそうな物が映った。
オーグが歩いていた先にあったのは、白い花がその一面に咲き誇る小規模の庭と、その中心に位置する一軒の家屋だった。
同じようにこの山にあるクレシアの住む家と比較すると、その大きさは一回り大きく、対してその外見は劣化が激しい。
しかし全く補修がされていないわけではなく、ある一定の高度から下は不器用ながらも多少手を加えられた痕跡が見られる。
何より、その周囲に存在する花の庭がその家に住む何者かの存在を暗示していた。
庭は世話をする者がいなければ成り立たない。特にこの山のようなところでは雑草に埋もれるのが当然だ。
しかし、その庭はとても入念に手入れが行われており、この家の家主のこの庭に対する想いがオーグにはひしひしと伝わった。
「……ここは」
目の前に広がる光景にオーグは思わず息を呑む。
余りにも生活感のあるその空間を見て、一種の奇妙ささえを覚えた。
クレシアの家にあった物は本当に必要最低限の物ばかりだったのに対して、この家には僅かではあるが少しでも生活の質を上げようと試みた、そんな痕跡があったからだ。
それらのクレシアの家には見られない数々の不自然さ――否、この場合は自然さと言った方が適切か。自身の住む環境をより良くしようという欲求はある種当然のものであるはずなのだから。
しかしそれらの形跡は、この山に存在するには不自然なその家は、一度クレシアに家を見ているオーグに何かが噛み合わないような違和感を与えるには充分だった。
「人の匂いがする」
加えてオーグを驚かせたのは、やはり匂いだった。
この空間には様々な生活臭が漂っている。その中には誰かが生活を営み、流した汗の匂いもあった。
また、庭の周囲の土は踏み固められており、それも人の存在を示していた。
単に驚きに身を任せ、オーグは大した警戒もせずにゆっくりと家の扉へと歩み寄る。そしてふう、と一息吐くとコンコンと二回ノックをした。
ただし、昨日のように武器に手は掛けない。この家の補修の状況や庭の様子から、オーグにはある事へのおおよその見当がついていた。その見当がもしも当たっていたならば、武器を用意していたところで意味は無く、むしろ恐怖を与えることにしか繋がらないからだ。
だが、オーグのノックに対して返ってくるものは無く、ただの沈黙だけが訪れる。
「誰か、いないかな? 俺、森で迷っちゃってさ。出来れば道を教えて欲しいんだけど」
なるべく接しやすいように心掛け、オーグは優しく声を掛ける。するとやはり家に誰かいたのか、今度は答えが返ってきた。
「……来な……いで」
それは拒絶のような叫びだった。これ以上自分の領域に踏み入れて欲しくはない。そんな意味合いを暗に示している悲鳴だった。
その悲鳴にオーグは顔をしかめた。
その叫びはかつてアレンと出会った時の自分を回想させ、その悲しみを声の主に投影させた。そして同時にその声を聞いたことで自身の見当が確信に至り、その哀れみを増大させる。
その声はまだ幼く、か弱い少女のものだった。
「ごめんね、入るよ」
だからこそ、オーグはその領域に足を踏み入れた。
オーグには分かっていたのだ。最初の沈黙が少女からの拒絶では無かったことを。
あの沈黙は決して拒絶から生まれたものではなく、あくまで自分を脅かす存在に恐怖を抱いて生まれたものなのだと。かつての自身もそうだったように。
オーグは決意を固めて扉を開いた。
扉を開いた先には、オーグが追いかけていた幼い少女が、身の丈に合わない大きな椅子の上で身体を縮めていた。自分の事を怯えているのだ、とオーグはすぐに感じ取った。
「こんにちは。君、一人?」
警戒を生まないように、可能な限り穏やかな声色で話し掛ける。その姿は普段のオーグにはどうにも性に合わないが、クレシアやアレンの仕草を思い浮かべた事で、不器用ながらもそれなりに形にはなっていた。
そんなオーグの姿に少女は今以上に警戒を強めることは無く、恐る恐るではあったが伏せていた顔を挙げた。
そうして、オーグは初めて少女の顔を見る。
顔立ちはまだ幼いが、その幼さに合った可愛らしさが溢れる端正な顔立ち。
だが恐怖の影響か、その可愛らしさは恐れで塗り潰されてしまっている。それこそが、幼い少女にとって今の状況が如何に恐怖心を掻き立てるものかを物語っていた。
外見だけの判断になるが、少女はまだ幼い。恐らくはかつてのガーネットと同年齢か、それ以下か。それを鑑みれば、少女の怯えようも納得できた。
オーグは少女に対して一歩を踏み出す。
「……来ないで」
酷く、掠かすれた声だった。同時に、少女の表情が歪む。
「俺、怖いかな?」
少しおどけて、笑いながらオーグは言葉を返す。
少女はそれに小さな頷きで返事をした。
ならば、と思い、オーグはとある策にでた。
「ねえ、俺と目を合わせて」
俯きかけていた少女の顔をまた挙げさせるために、そうしてオーグは少女と視線を合わせようと試みる。少女はオーグの挙動を訝しげに確認しながら、ゆっくりと視線を合わせた。
髪と同じ綺麗な金色の双眸。その輝きに陰がかかっていることがオーグにはとても勿体無いように思えた。
少女と完全に目が合った瞬間、オーグはむにぃ! と自分の頬を引っ張り、変顔を作る。突然の事に少女は一瞬ビクッとしたものの、それ以上の反応は見せなかった。
「こへでも、こはい?」
少しでも警戒を解いて貰えれば、そう考えての行動だった。しかし、それは無意味。少女はまた小さく頷くだけだった。
だが、その結果によってオーグが残念がったかと言えば、そうでもない。むしろほっとしていた。
少女の胸にある恐怖が『嫌悪』から来るものであれば、もう手の打ちようが無い。オーグが何をしたところで少女を動揺させて終わる。
だが少女の恐怖があくまでも『未知』から生じるものであれば、その恐怖は打ち消すことができる。
『未知』に対する恐怖には必ず好奇心が伴うからだ。自分の知らないものを知ろうとする、そして『未知』への不安を消滅させようとする気持ちが。
実際、少女は恐怖を抱きながらも『未知』の対象であるオーグと目を合わせた。それはオーグに興味を持ったか、自身への害意を確認しようとしたのかは定かではないが、少なくともオーグを知ろうとする意欲があったことを意味していた。
そして、そこに可能性は生まれる。その『未知』を消滅させることが出来れば、少女の恐怖は打ち消される。『未知』を知ったことによる安心によって。
かつて、『未知』に恐怖した自身がそれを打ち消し、その『未知』と最高の友に、否、家族になれた事で、オーグは知っていた。少女にも恐怖を打ち消すことができるということを。
「俺の名前はオーグ・ヴィングルート。君も名前を教えてよ」
「……来ないで」
「そう、ならいいや。ねえ、話をしようよ? 俺はもうこれ以上近付いたりしないからさ。だから、話をしようよ。俺はもっと君を知りたいからさ」
「……来ないで」
「じゃあ、まず俺の話から。あのね――」
そうして、オーグは語りだした。
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