風の調べと、竜の誓い【旧:男の娘だけど~】
不可侵の国境【3】
アルバーン帝国からクレイジオ王国に渡るには、両国の国境代わりとしてスペルネツィア大陸を二分する、モルト山脈を越えなければならない。
モルト山脈は、過去に人間と獣人が争った末に二国が創られた際に、争い合うことを憐れんだ神々によって生み出されたと言い伝えられている。
また、その言い伝えからも分かる通り、このモルト山脈があることで、ここ数十年単位で両国の間に武力衝突は起きていない。
たとえ戦争に勝って領地を手に入れたとしても、税や物資を運ぶ際にモルト山脈を越えなければならないのだ。悪戯に兵力や兵糧を消費してまで手に入れるほど敵国の領地に魅力は無く、ある意味このモルト山脈が両国の平和を保っていると言える。
そうしたモルト山脈の特徴として真っ先に挙げられる事は、その標高の高さである。山頂部には雪が降りしきる険しい山道が続き、その雪が足元だけでなく数メートル先の視界さえも奪ってしまう。
ほとんど密着して並び立つ山々は国境越えを断固として許さず、登山者達にとって絶望を絵に描いたような存在であり、今まで数々の冒険者達の命を奪ってきた。
つまり、海路を除けば両国を渡る手段はほとんど無いと言える。
しかし、両国は睨みあっているとは言え、交易すら行われていないわけではない。帝国にとって王国の特有な品は他大陸との交易の重要なエサになるし、王国にとって帝国の港は他大陸との交易の中継地として大きな役割を果たしている。
そこで、両国は山脈の比較的なだらかな山道の一つに関所を起き、その山道でのみ各国の通行証を持つ者に限って両国の往復を許可していた。
まさしく自然の国境というべき、モルト山脈。
つまるところ、国を渡るには海路を使うか関所を越える以外手段は無いのだが、国境を越えたいと思う者は往々にして正式な手段を踏まずに国を渡ろうとする――いわゆる亡命者である。
そういった者達は関所を通るわけにはいかず、また必ず検問の入る海路を用いるわけにもいかず、険しい山脈越えを余儀無くされる。
しかし、絶望の体言たるモルト山脈はそれを許さない。
たとえ十全に準備をしていった者であっても、山頂部に降りしきる雪と険しい山道が体力、気力を浪費させ、そして一面の銀世界が方向感覚を奪い去り、無法者の滞在に怒りを露にする。
そうした自然の猛威を前に、登山者のほとんどはその命を落としていった。
故に、近年において両国から新規ルートの調査団が派遣されたり、無鉄砲な冒険者が山に登ったという話は全く無い。
しかし今日、新たな冒険者がモルト山脈に挑んでいた。
まだ植生の見られるモルト山脈の中腹部を抜けた先、雪と岩だけで視界が構成される岩山地帯に、その二人の姿はあった。
二人はちょうどいい大きさでかまくらのようになっている窪みに身を潜め、体を休めていた。
今にも吹き消されそうな弱々しい焚き木の火を頼りに、体力だけは奪われないようにと干し肉と黒パンをかじる。
今や立ち上がれないほどに荒々しさを増していく豪雪の中で、それだけができる限りの足掻きだった。
「……ああ、寒い」
誰に聞かせるでもなく、ボソリと二人のうちの一人、オーグが呟く。何重にも毛皮のコートを羽織っていたとしても、気温や風、何より気の持ち様がそうさせるのだろう、体の冷えが収まる様子は無い。
しかし、それでもまだマシな方である。
今はアレンが起きているため、窪みに流れ込む風を追い払ってくれてはいるが、交代で眠るとなるとそうはいかない。
流れ込んでくる寒波に、話し相手がいないため気をまぎらわせることもままならない。口寂しさに食事を取ろうとすれば、少しずつだが確実に食糧は減っていく。
そうこうしているうちに、山を登り始めて早三日目。
序盤の森林地帯は相応のペースで登ってこれたが、岩山地帯が壁のように二人の前に立ちはだかった。
不安定な天候に、急激に下がる気温。ただでさえ悪い足場に、分厚く積もった雪が足を取る。
はぐれないように、進行方向を見失わないように。そう言い聞かせて登っていると、まるで足に鉄球を付けられているように目に見えて二人の足取りは遅くなっていた。
「大丈夫、オーグ? 寒いなら僕の上着を貸そうか?」
体を小さくして震わせていたオーグを見て、アレンはそんな提案をしてきた。
「アレンが倒れても困る。だから、いいよ。本当に不味くなったら言うから」
オーグを案じての提案に、オーグは心からアレンに感謝したが、結局その申し出は気持ちだけ受けとり断った。
雪山ではほんの少しの油断が命取りになりかねない。この道中でそれを重々承知していた二人は互いに納得して、まずは自分の身を大切にすることを約束していたのだった。
しかし、そんな意地を張ったところで寒さが凌げるわけではない。寒波に晒されている体は依然として震え上がり、体温は奪われていく。
そんなオーグを見かねてか、アレンは何かを閃いたようにポンと手を打った。
「そうだ、オーグ。抱き締め合おうか」
「…………は?」
一瞬、何と言われたのか、そしてどういう意味合いで言われたのか理解できず、思わず顎が外れそうな勢いで口が開いた。
その瞬間、寒波が喉に突き刺さり、オーグは激しくむせかえる。
しかし、そんなオーグを尻目に、まるで僕は天才かもと言わんばかりに満面の笑みを、アレンは浮かべている。
「ほらっ、人肌って温かいじゃない? だから抱き締め合おうよ。そうすれば二人とも温かいよ?」
「い、いや。……俺はちょっと抵抗があるんだけど、アレンは無いの?」
「……え? 抵抗なんてあるわけないじゃない。相手が赤の他人ならそりゃ嫌かもしれないけど、オーグの事は大好きだし」
「まっ、眩しい! さては男前かっ!?」
ニコニコと笑みを浮かべながら、おいでよと言うように両手を広げるアレン。一方、オーグは相手が相手であるためにそう簡単に納得はできず、しかし寒さにこれ以上耐えれる自信も無く、悶えるように胸中で葛藤が生まれていた。
よくよく考えれば、男同士で行うこの行為自体やましいものではないし、相手にやましい感情があるわけでもない。……一時的にとは言え、かつてアレンを異性として認識していたオーグ側にやましさが無いと言えば嘘になるかもしれないが、体を温め合うという行為としてみれば問題は無い、はず。
「……大丈夫、大丈夫だよ。相手はアレンだし、家族みたいなもんだし。て言うか男だし、うん、目をつむれば問題無い。……ああ、でもアレンって何か柔らかいんだよな。男なのに良い香りとかするし、何かちょっと顔が赤くなってるのとか気になるし」
「……どうかした、オーグ?」
「そう、問題無いんだよ。俺が、俺が気にさえしなければ、アレンは男なんだから。そう、アレンは男、アレンは男、アレンは男――」
「オーグ? 本当に大丈夫? 熱でもあるんじゃ――」
ブツブツと自己暗示を呟き、今まさにその覚悟を決めようとしていたその時、オーグの額にヒヤッと冷たい感触が伝わる。
「ひゃっ!?」
思わずその場から飛び退くと、追い討ちをかけられるように岩の壁に後頭部をぶつけるオーグ。痛みに目を細めながら周りを見て、ようやくアレンがオーグを心配して額の熱を測ろうとしていたのだと気付いた。
「なっ、何するんらろっ!?」
「ご、ごめんね。オーグがぼうっとしてるみたいだったから」
「だからって冷たい手で触ることは無いだろっ!?」
「でも、この前おでこで熱を測ろうとしたらオーグ怒ったじゃない?」
「おでこは絶対ダメ!!」
何が悪いのかとキョトンとするアレンに、オーグは声を大にして叫ぶ。
どうにも、アレンには自分の容姿が特殊であることを無自覚な節がある。
これまでも思わせ振りな行動を取らないように、と口を酸っぱくして言ってきたオーグだが、どうにもそれは改善される様子は無い。
何せ、アレン自身に悪気は無いのだ。
きっと山に籠って人と接してこなかったのが原因だろうが、アレンどういった行動を取ると人が勘違いするのかに、ただただ疎い。
このままだと悪い男に誑かされないだろうか、と全く的外れな心配をオーグがしていると、これまた何故か上目遣いでアレンはオーグに聞いてくる。
「それで、抱き締めてくれないの? ……もしかして、オーグは僕の事……嫌い?」
――無自覚。
これで、無自覚なのである。
この場に、二人の他に誰かが居たとしたら、間違いなくオーグと顔を見合わせてため息を吐いていた事だろう。
しかし、こんな局地に二人以外の人影などあるはずもなく、オーグは小さく縮こまった体を震わせて、仕方無くアレンの提案を飲む他無かった。
「……じゃ、じゃあ、お言葉に甘えて」
「うん、どうぞ」
震える肉体と異様な抵抗を見せる精神との葛藤の末、オーグはアレンと向かい合って抱き着いた。
もちろん二人は完全防寒装備のため、ほとんど肌は外に露出していない。いないのだが、全身を密着させていると妙な温かさを感じた。
まるで、幼い頃にベルナルドに張りついて眠った夜のような、心から温まる感覚をオーグは何故か思い出した。
そんな温かさを感じて、オーグは明らかになっているはずの現実を再確認する。
――アレンは本当に男なんだよな、と。
どうして、こんなにも抱き心地が良いのか。
まるで干したての布団を丸めて抱き枕にしたような、温かさと柔らかさがアレンにはあった。
加えて、胸の辺りから感じる、謎の膨らみ。男であるはずのアレンにあるはずの無いモノを、オーグは緊張と興奮のあまり、あるように錯覚した。
実際の事を言うと、それはただ分厚い防寒具の熱と感触がオーグに伝わっただけであるのだが、今のオーグにそれを理解する冷静さは無かった。
そんなオーグに追い討ちをかけるように、アレンはオーグの耳元でふっと呟く。
「えへへ。こうしてると、まるで夫婦みたいだね」
漏れる吐息。その温もり、その声が冷たくなったオーグの耳をくすぐり、ゾクリと背筋を粟立てた。
しかもその内容が内容なだけに、オーグは胸の高鳴りを抑えることができない。
「どっ、どっ、どどっ、どっ、どういう意味だらろっ!?」
まるで心臓の鼓動がそのまま口から出たかの如く、全くろれつの回っていないオーグ。
言わずもがな、アレンの発言に他意は無く、何かしらを意識して言った言葉では無いのだが、そんなことオーグの知った事ではない。
そして同時に、そんなオーグの胸の高鳴りもアレンの知った事ではなく、無自覚に止めを刺しにかかってくるアレン。
「昔ね、村の人から聞いたんだ。寂しくて、寒い夜に抱き合った男女は夫婦になるんだって。僕らは男同士だけど、状況だけみたら夫婦みたいだねって」
「――――っ!?」
オーグはただ、パク、パクパクと口を動かす。
言いたいこと、ツッコミたいことは頭いっぱいにあるのに、何から言えばいいのか整理がつかず、体は冷えているのに脳はショート寸前。
恐らく本人は意味の分かっていないだろう言葉に、何故かオーグだけが意識してしまい、胸が内側から打ち破られそうなほど、その鼓動を全身に伝えてくるので、慌ててアレンと体を引き離した。
「あ、あのな、アレン。抱き合うって言うのはこういう事じゃなくて、だな」
「…………? 違うの? じゃあ、どういう意味? 何をしたら夫婦になるの?」
「そっ、それはっ!?」
無邪気にも首を傾げて尋ねてくるアレンだが、オーグはそれに答えるわけにはいかない。
それを詳しく説明するにはどうにも気恥ずかしく、またこの場が気まずくなる可能性が高い。
それに、アレンは知らなかったそういう事をオーグは知っていたと知られるのが、どうにも年頃のオーグには恥ずかしかった。
故に、
「ああっ! 眠くなってきた! 仕方が無いなぁ! 寝るね! おやすみぃ!」
オーグは現実から目を背けて、眠る事にした。
毛布にくるまって眠る背後で、なんだか納得のいかない様子のアレンの呟きが聞こえたが、オーグはもう寝ているのだ。聞こえないったら聞こえない。
全てを説明して気まずくなるよりは、多少の不信感を持たれる方が幾分かマシだ。
叶うことなら早く眠りに落ちてくれと、願っていたオーグの胸は依然高鳴り続け、いつの間にか全身の寒さは姿を消していた。
□□
「――オーグ! オーグ!」
「…………ん?」
突然耳元で名前を呼ばれて、オーグは目を覚ましておもむろに起き上がる。
どうやら思いのほかグッスリと眠ってしまっていたらしく、全身の筋肉が固まっているようで、起き上がる際に驚くほど気だるく感じた。
いや、気だるいのは気温が低いからか。はて、起こされたと言うことは雪が弱まったのだろうか。
オーグがそんな事を考え、目を擦って外の様子を確認した時、オーグは信じられない光景を目にした。
「大変なんだ、オーグ」
オーグの肩を激しく揺さぶって、オーグの目を覚まさせようとするアレン。
けれど、そんな事をしなくても、オーグの目はパッチリと覚めていた。
慌てているアレンが可愛いだとか、案外自分は腹が膨らんでさえいればどこでも眠れるだとか、そんな事を考えたのも束の間。
アレンに肩を揺さぶられて、されるがままに揺らぐ視界で、オーグは見た。
「雪が、無くなってる」
雪と岩だけしか映っていなかった視界が、一転していた。
それは雪が止んだだとか、奇跡的に晴れ上がって雪が溶けていただとか、そんなレベルの話では無い。
吹雪も、岩山も、それに積もっていた積雪も全て消え去り、代わりに広がっていたのは、極普通の山の風景。
地面からは木や芝生が生い茂り、まばらに広がる雲の切れ間からは日光が差し込む、自然の厳しさの体現とはほど遠い、豊かな自然の光景だった。
「…………は?」
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