風の調べと、竜の誓い【旧:男の娘だけど~】

高瀬暖秋

本当の親子【3】

 

 アレンはオーグを抱き抱え、暗い森の中を走っていた。
 完全に日は暮れ、目を凝らしていても前が分からない。胸にオーグを抱えている事で、当然身体を操る力は程度が知れる。例え無我夢中で闇の中を走り抜いていたとしても、子供のアレンの膂力には確かに限界があった。

 しかし、例えその歩みが微弱なものであっても、アレンは前へ進むのを止めない。その背にはベルナルドの想い、その胸には自身の覚悟を担っているのだから。

「放してっ! 止まって! お願いだよっ、アレン!!」
「オーグ! ちょっと黙ってて! それと、出来たら動かないで!」

 だが、そんな逃走は長くは続かない。流れる汗はそのままに、震える脚を前へと押し出す。劣悪な環境の中で無我夢中に身体を動かしてきたアレンには、おおよそ体力と言えるものが残ってはいなかった。

「はなっ、して、ってば!!」

 当然、そんな状態で暴れるオーグを抱える腕の力を維持する事が出来ない。アレンはその場に転がり込む様にオーグと共に額を地に着けた。

「何してるんだよ! オーグ! 早く逃げないと!」
「だから嫌だって言ってるだろ! 俺は父さんの所に戻るから、アレンだけで逃げなよ!」

 束縛から解き放たれたオーグは、すぐに立ち上がってベルナルドの元へ戻ろうとアレンに背を向ける。
 ベルナルドの決意を無駄にさせまいと、慌ててオーグの肩を抑えるアレンだったが、ただの人間と獣人の間に隔たる筋力差は大きく、全体重をかけたとしてもオーグの歩みは抑えきれない。

「止まってってば!!」
「――――っ!?」

 どうにかして、オーグを止めなければ。
 そんな衝動に駆られたアレンは次の瞬間、無意識の内にオーグの頬に掌を叩きつけていた。僅かな加減も無く接触したそれは、静寂に鈍く乾いた音を響かせた。

 強い一撃を受けて、ようやくオーグの足が止まる。二三歩よろよろと後ずさり、オーグは顔を伏せた。

「あ……ごめん」

 アレンもまたオーグを掴んでいた手を離しその場から一歩二歩と後ずさった。
 故意では無いとは言え、咄嗟に出てしまったその掌には明らかに過剰に力が入っていた。そんな自らの行動から目を逸らす様に、アレンはオーグからも目を逸らした。

 しかし、オーグは何も言わずにそこに立っていた。
 既に拘束は解かれているため、走り出そうとすればそれもできただろう。だが、それでもオーグはそこに立っていた。

 それがどうしてなのか、アレンには到底見当が付かなかった。
 先程の一撃で怯んでいるのか、今度こそアレンの話を聞く気になったのか、思い浮かぶ事はあったがどれも的外れであるような気がしてならなかった。ただ、これは好機だと思い、アレンはオーグに声をかけた。

「……話を聞いてくれる気になった?」
「うん、ありがと。少し落ち着いた」
「だったら――」

 一緒に行こう、そう続く言葉はオーグによって遮られる。

「でも、アレンが言うみたいに逃げる事はしない」
「え?」
「俺は、逃げないよ」

 静かながらに力の籠った言葉で、オーグはそう言い切った。弱々しくも明確な意志の籠ったその言葉は、まるで弱い自分を奮い起たせる鼓舞の様にアレンには聞こえた。

「……どうしてだよ、どうしてなんだよ! 死んだらそこで終わりじゃないか! 君はまだ子供だ、この先まだまだいっぱいやれる事があるじゃないか! なのに、なのにどうしてなんだよっ!」
「大切だから」
「……え?」
「大切だからだよ。父さんもそう思ってくれてると嬉しいけど、俺は父さんが大切なんだ。だからずっと一緒に居たいんだ。楽しい時も、大変な時も、嬉しい時も、辛い時も。ずっと、一緒に居たいんじゃないか。……だから、俺は行くよ。多分、父さんも寂しいと思うから」

 オーグは言葉を続けた。変わらず、時折見せるような落ち着いた、強い意志を宿した口調で。

「……そんなことで?」
「そんなこと……が、大事なんだよ」

 わけが、分からなかった。

 帝都へとベルナルドを取り戻しにいった時はまだ危険は少なかった。敵前に姿を晒すのはアレンの役割であったし、たとえ危険な状況に陥ってもベルナルドを諦めさえすればオーグの命は助かった。

 けれど、今は違う。
 今、あの場所に、あの絶望に立ち向かえば、間違いなく死は免れない。確率云々の話ではない、それはもう火を見るよりも明らかな事なのだ。

 にも拘わらず、オーグの目はその中に未だ希望を見出だそうとしている。

「大切なのは分かるよ! 当たり前だ! 僕だって好きでこんな事をしてるわけじゃない! でもっ! 君まで失うわけにはいかないからっ、君を失いたくないからっ、君に行ってほしくないんだよっ!」
「……ありがとう、アレン」
「何がだよっ! 本当にっ、そう思ってるならっ、僕と一緒に逃げてよっ!」

 アレンは叫んだ勢いのままに、オーグへと手を差し出した。

「君が選んでくれるなら、僕はこの山を出て君についていく。……だから、僕を選んで?」

 今まで、一度も考えたことが無かった。
 唯一の母親との繋がりである、この山を出るなんて事は。

 けれど、その時はただただ夢中で、気が付けば声に出していた。
 何の皮肉か、こうした危機的状況に置かれて初めて、こうしたオーグを脅迫するような形になって初めて、アレンはこの山を出る決心をした。

 しかし――、

「ごめん、アレン」

 オーグは、その手を取らなかった。
 ただ、申し訳なさそうに、アレンを見ていた。

「どうっ、してっ! ベルナルドさん、は――」

 寸前、何かが切れる音がした。アレンの中の何かが。

 踏み出してはいけない。そう分かっていた。

 けれど、アレンにはその激情を止める術は無かった。

「君の、本当の父親じゃ無いのに!!」

 それは、嘆きとも言える慟哭。そして、親友に対してあまりに酷で、あまりに卑怯な叫び。

 どうしてこんな事を口走ってしまったのか、アレンには分かっていた。
 親友を止める為? 否、そんな輝かしい理由などありはしない。ただ、そこにあったのは嫉妬だった。

 どれだけ手を伸ばそうとも届かない、どれ程近くに居てもそれはとても遠いものだった。自分には無く彼にはあるそれに憧れ、更には強欲にも手を伸ばした。そして、それでも届かず、遂には手に入らないと分かった上でそれを剥奪しようとした。

 なんて醜い、おぞましい事だろうか。しかしそれでも、アレンの本心には代わり無かった。だからこそ、それを正面から受け入れるしか無かった。

 胸の中をそんな自身を恥じ責める気持ちで埋め尽くされ、アレンはオーグに対して面を上げる事はできなかった。

 そんな中、アレンは後悔と自責の念を抱えながら考えていた。

 自分の言葉に一体どれ程オーグは傷付いてしまっただろうか、どれ程オーグの心を抉ってしまっただろうか、と。

 依然として、オーグは黙り込んでいた。一度ひとたび目を合わせれば、それが分かる。しかし、アレンには到底叶わない事だった。

 そして、沈黙が訪れた。色も音も温度も時間さえも全てがゼロになった様な、そんな感覚に襲われる。それがまた二人の孤独をより一層深くした。

 何時になれば終わりが訪れるのかすら分からない空間。そんな空間を破ったのは、他でもないオーグだった。

「……うん、知ってた」
「…………え?」
「知ってたよ。父さんが、父さんじゃない事は」

 少年は小さく落ち着いた声色で答えた。余りにも残酷な知らせに対して。

「だから、だよ。本当の親子じゃないってことは、本当の親子になれる・・・ってことじゃないか。なれるよ、絶対」

 少年は力強く確かな声色で答えた。余りにも卑怯な知らせに対して。

「本当の親子になりたいから、ずっと傍にいたいから、俺は行くんだ。父さんの所に」

 その時、アレンは初めてオーグと目を合わせた。

 そして、アレンの予想は意とも簡単に裏切られた。

 そこにあったのは父親と同じ決意を固めた輝きを放つ銀の瞳。そこに迷いなど無く、ただ希望だけを見つめていた。

「今行かないと、一生その時が来ないって、俺は思うから」
「……オーグ」

 アレンは自分のオーグに対する印象が間違っていたものだと気が付いた。

 今までアレンはオーグの事を、自分とは違って子供らしい優しい少年だと思っていた。怖いものには怯え、無理だと分かれば諦める、そんな少年だと。

 しかし、それは違った。
 オーグは今、恐怖に立ち向かおうとしている。圧倒的な畏れと父親を失う恐れ。そのどちらも少年のオーグには有り余る程の畏怖を与える。それに対して、立ち向かおうとしているのだ、この少年は。

 そして、それがアレンにはとても誇らしく思えた。こんな勇敢な少年を親友に持てた事を。

 そして、それと同時に悔しくもあった。どれだけ自分が言葉を紡ごうとオーグの想いが揺らぐ事などありはしないのだと。

 アレンには分からなかった。分かるはずが無かった。オーグを突き動かす原動力が。それがアレンには欠乏していたから。

 親子の愛。

 何処にでも存在しているそれが、どれ程強固な絆を生み出すのかを。

 しかし、それでも良かった。今のアレンにとって、最も大切なものは、目の前にいる少年だったのだから。

「分かった、行こうオーグ」
「うん! って、え? アレンも来るの?」
「当たり前だよ。君みたいな危なっかしい奴を独りで行かせる訳には行かないよ」
「……うん。ありがと」

 もう、迷わない。
 月明りしか宛のない、暗い夜道であったとしても、もう道を違えることは無い。

 そうして二人はまた歩き出した。父親の元へと続く道を。




 例えその先に有るものが、地獄だったとしても。


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