風の調べと、竜の誓い【旧:男の娘だけど~】
本当の親子【1】
満月が明るく照らす森の夜道に生まれる影は三つ。
一つは大きな体躯を持つ大人のもの、残り二つはまだ小さい無邪気な子供のものだ。森を包む静寂を気にも止めず、そんな影達は賑やかな雰囲気を醸し出していた。
風の賢者の力と『竜』の放つ光を用いたトリックで何とかベルナルドを取り戻したアレンとオーグ。
門を潜り抜けた後に帝国から追手が出された様子は無く、海岸方向でアレンの合図に合わせて『竜』を呼び出してくれた村の者達と共に、三人は帰路に着いた。
そして現在、山の麓で村の者達とは別れ、三人でアレンの家へと向かっているのであった。
「本当に心配したんだからなっ!」
そう言って二人の前に飛び出したのは、頬を膨らませた銀髪銀眼の少年、オーグ。今はいつもの様なフードは着けておらず、普段は隠れている可愛らしいとも言える狼の耳が露になっている。
「ああ、分かってる」
「絶対分かってない!」
宥めるように言ったベルナルドの言葉に、オーグは飛び上がって反論する。
ベルナルドは帝都を出てから、こういった息子からの叱責を今まで途切れること無く浴びせられ続けていた。そんなオーグの気持ちを、アレンも理解できないでも無かった。
唐突に父が姿を消し、更にはその命の危機まであったのだ。小言位言われても仕方がない。それほど父の事を心配していたという事だ。
事実アレンは、ドナの前では大口を叩いていたオーグが、道中で何処か思い詰めている様な顔を浮かべているのが目に入っていた。触れてしまえばプツンと切れて仕舞いそうな、何かが砕けて仕舞いそうな、そんな表情。
だが現在、小言を言うオーグの表情は確かに険しい、けれどもそんな感覚を微塵も感じさせない、そんな優しい表情だった。
こんな光景が広がっているのはベルナルドの救出が上手くいったからだ。そんな当たり前な事にアレンはこの光景を見て初めて気が付いた。そしてそれがとても嬉しく思えた。
誰かを救う事が出来る、そんな感覚がアレンの胸中を巡っていた。
「ああ、本当にありがとうな」
「な!? お、お礼とか言ったって許さないからな! そんなんじゃ全然足らないぐらい心配したんだから! あと百回言ったって無理だからな!」
素直にお礼を告げられたのが気恥ずかしかったのか、オーグは顔を真っ赤にして尚も叫んでいた。そして、最終的にはふん、とそっぽを向くとまた数メートル先を歩いていった。
そんな様子があまりに微笑ましく、アレンとベルナルドはクスリと忍び笑いをする。
「喜んでいますね」
「君にも分かるかい?」
「ええ。分かりやすいですから」
「そうだな」
そうですね、とベルナルドに同調してアレンは微笑む。オーグの事をずっと見てきたからか、前を歩く後ろ姿からでも何処か意気揚々としている事が良く分かった。
和やかな空気の中、オーグが少し離れた事を確認したアレンは話を切り出した。
「……するべき事が分かったって、こういう事だったんですか?」
先程までの雰囲気を壊さないように、けれども誤魔化される事の無いよう正確にアレンはベルナルドに問う。アレンが思い出していたのはベルナルドと語らったあの夜の言葉。
(もう、分かった。私が、何をするべきなのか)
あの言葉をアレンは変わることの無い決意の表れだと受け取っていた。これからも今までの様にオーグの傍にあり続ける、そういう覚悟だと思っていた。
けれども、違っていた。ベルナルドは自らオーグの傍を離れ、姿を消した。それはオーグの事を思っての事だったのかもしれない。いずれ迫る自らの危機に愛する息子を巻き込んでしまう事を恐れたのかもしれない。
確かにそれもある種の父親の在り方なのだろう。しかし、それではいけない、と少なくともアレンはそう考えていた。少なくともその想いを伝えたつもりでいた。
アレンの問い掛けはそれが伝わっていなかったのか? と暗に告げているものだった。
そんな想いを酌んだのか、ベルナルドは申し訳なさそうに答えた。
「君の言いたい事は分かる。本当にすまなかった」
「ベルナルドさんは少しも分かっていません。大体ベルナルドさんは――」
ベルナルドの言葉を聞くと、間髪入れずアレンは言葉を放った。思わず反射的に放った言葉は奇しくもオーグを真似る形になってしまった。だが、それは同時にアレンもオーグと同じ気持ちを抱えている事を示している。
そう口にしながらベルナルドの方へ目を向けると、そこにはあまりの驚きに小さく口が開いたままになったベルナルドがいた。
途端にアレンは自分の失態に気付く。
失態と言うのも、その時の感情に任せて目上の人であるベルナルドに偉そうな口を利いてしまった事だ。話の成り行きとは言え、本来は敬うべきであるベルナルドにましてや説教をするなど失態以外の何だと言うのか。
「す、すみません。僕に説教なんてされたく無いですよね」
慌ててそう謝罪したアレンだったが、そんな考えはベルナルドの言葉によって否定される。
「いやいや、そうじゃないんだ。ただ、君の表情が初めて見るものだったから、ついね」
「変、でしたか?」
アレンはむにむにと頬を撫でて、自分の顔を確かめる。とは言っても、当然分かるわけも無い。
表情など自然と表れてしまうものだ。実際に自分の表情を完全に把握出来る者など、道化師ぐらいのものでは無いだろうか。
そんなアレンの質問をベルナルドはいいや、と台詞を返す。
「変、と言うより珍しかったんだ。さっきの君は何時もと違って何処か子供らしかったから」
「そう、でしたか」
先程のアレンの表情は、ベルナルドには約束を反古にされて膨れている子供の様に映っていた。そしてそれは今までアレンが見せた事の無い、その本来の幼さが表れているものだった。
だから、ベルナルドは思わず驚いてしまったのだ。普段は毅然としているこの少年の想像出来ない一面を目の当たりにして。この少年にも年相応の一面があるのだ、と。
本来、幼い少年の幼い態度に差異を感じると言うのも可笑しな話ではあるが、ベルナルドはそれがアレンならばどうにも可笑しくは思えなかった。
それだけ、ベルナルドはアレンを買っていたのだ。そのイメージがふと見せた表情一つで崩れ去った。そんな時、ベルナルドに生まれた感情は僅かな驚きと安堵だった。
どれだけ知識を持つ少年であっても、やはり年相応なのだ、と。そして何より――
「信頼されている、ということか」
アレンの態度が決して他人に侮られない為のものだとするならば、それを取る必要の無くなったベルナルドはそれだけ信頼を置かれているということ。
そんなベルナルドの呟きにアレンは小さく勿論ですよ、と返した。
「すっかり話が逸れちゃいましたけど、本当に分かってくれたんですか?」
「ああ、それについては断言しよう。私はオーグの傍にいる。それは私のしなければならない事では無く、私の、自分の意志でしたい事なんだ。そして、その覚悟も出来ている」
強い意志の籠った口調でベルナルドはそう言った。そして、その答えこそ紛れもないベルナルド・ブラウンの本心。子を守りたいと想う父の在り方そのものだった。
オーグの傍にいる。そう言ったベルナルドには身も心も衰弱していたあの時の姿は無い。例え、本当の父親で無くとも。血の繋がりが無くとも。誰であっても異議を唱える事の出来ない、父親の姿がそこにはあった。
「本当に君には感謝している。もう少しで、私は自らオーグの父親である権利を捨ててしまうところだった」
「………羨ましいです」
羨ましい、それは極自然にアレンの口から発せられた言葉。父親を知らないアレンの、その寂しさや虚しさを表した一言だった。
それを聞いたベルナルドはその大きな掌をアレンの頭に載せ、ゆっくりとその髪を撫でた。突然頭に伝わる温もりにアレンは少し驚いた。しかし、載せられた掌は優しく、そして暖かいものだった。だから、アレンはそのままその温もりに身を委ねた。
「君は賢い。多くの知識を蓄え、何かを成せるだけの行動力も持っている。きっと世界を全て見て回ったとしても、君ほど優れた少年はいないだろうね。それは君にとってはある意味寂しい事かも知れない。誰に対しても優れた存在である事はそれだけ大変な事だ」
「…………」
「けれど、辛い時には弱味を見せればいいんだ。さっき見せた様な、君の素直な無邪気な感情を見せればいいんだ。例え、誰にも見せる事が出来なくても、私とオーグがいる。私とオーグだけは君の事を理解している」
ゆっくりと優しい、父が子に言い聞かせる様にベルナルドは言葉を紡いでいく。頭から伝わる温もりとはまた違った暖かさがアレンには伝わっていた。胸の奥に沸き上がる様な感情が溢れてくるのが分かった。
もしかすると、ベルナルドの存在を父親というものに投影したのかも知れない。自分の中に空いていた何かをベルナルドに埋めてもらった。そんな事をアレンは思った。
ふと前を向けば、先を歩いていたオーグが振り返ってアレンに対して微笑んでいた。その微笑みからはベルナルドとはまた違った温もりがアレンには感じられた。
「オーグは君に、家族ごっこは止めようと言ったらしいが、私はまだ――君と家族でいるつもりだ」
その言葉を聞いたその一瞬、風が凪いだその一時だけ、アレンはオーグから父親を奪ってしまった様な想いに襲われた。けれど不思議と罪悪感は生まれなかった。それはオーグの事もまた、友達ではあれど家族の様に感じていたから。
「ありがとう」
アレンは胸に溢れる思いを、そんな簡素な一言で言い表した。確かに簡素ではあるけれど、どんな言葉よりも思いの籠った一言。
何時も使っている様な畏まった口調が出ることは無かった。
その言葉には、ただ一生こんな当たり前の幸せが続けばいいのにと、儚い願いが込められていた。
□□
そこにあったのは、絶望だった。
明確にそう判断出来る材料がその場に点在していた訳では無い。ただ、素直に、自然に、そう在るのが当たり前の様に、アレンはその肌で絶望を感じた。
談笑も一段落を終え、各々が喜びに浸って、絶望など視野に写っておらず、今夜の食事についてなんて下らない事を話しながら、この一連の事件の終着点に、とうとうアレンの家に辿り着いた、そんな時。
夜が更け木々も静まっており、生気を感じさせない無機質な光景を背に、絶望はその地に立っていた。
返り血で染まってしまった様な赤黒い頭髪。灯りが消え失せ、まるで深淵を見つめている様な橙の双眸。細身ではあるがその全てを筋肉で構築している体躯。
一目見て、震えた。
もう一度見て、畏れた。
更にもう一度見て、絶望した。
身体中が警報を鳴らし、直ぐにでも逃げろと叫んでいた。
しかし、それすらも儘ならない程に、アレンの足はすくんでいた。恐怖のあまり、唾を飲み込むことすら許されなかった。どうしてここまで来て、と柄にも無く悪態をつきたいとすら思った。
そんなアレン達の存在に気が付いたのか、男はその瞳にアレン達の姿を映した。
視線が重なる。確実に自分の存在を確認された。もう、逃げる事はできない。
自分の身体の血の気が引いていくのが、アレンにはよく分かった。妙に冷たい冷や汗が、額を伝った。
思考の全てを男の警戒に回しているアレンを見て、男は僅かに哀しみの籠った表情を浮かべ、言葉を紡いだ。
「問おう。お前がベルナルド・ヴィングルートか?」
音の無い、この物語の終わりを告げる鐘の音が、哀しげに鳴り響いた。
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