風の調べと、竜の誓い【旧:男の娘だけど~】

高瀬暖秋

月の無い夜に【2】

 

「なっ!? どうして笑うのっ!」

 笑われるとは思っていなかったのか、顔を紅潮させてオーグに飛びついてくるアレン。笑っていたためか上手く力が入らずに、いとも簡単に組伏せられてしまうオーグだったが、依然としてその笑い声は止まりそうにない。

 アレンもそれを察したのか、今まで以上に怒りを露に表情を変えると、腰元に提げていた小袋の中から、オーグと食べるために持ってきていたであろう黒パンを取り出し、勢いよくオーグの口に放り込んだ。

「これでも食らえっ!」
「あっはは――もがっ!? もごっ! ごふっ! ……もぐもぐ」

 初めこそオーグは突如口に放り込まれた物に動揺を隠せなかったが、見知った味に何が放り込まれたのかを理解し、同時にアレンの目を見てアレンから手を引いてくれそうにない事を悟り、もぐもぐと食べ切りにかかった。

 そうしてあっという間に黒パンを食べ終えたタイミングで、アレンから水筒が差し出される。体を起こしてありがたくそれを受け取り、黒パンに持っていかれた水分を補給して、ようやくオーグは呼吸を整えた。

「で? どうして笑ったの?」

 オーグが話せる状態になったのを確認して今一度問いかけてくるアレン。その表情には既に怒りは無く、にこやかに笑っているものの、その表情か他のどんなものよりも恐ろしいのはオーグも身をもって経験している。

 無論、嘘を吐く理由も無いが、下手な事を言ってアレンの琴線に触れないようにと、慎重に言葉を選んでオーグは答えた。

「えっと、意外だったから、かな」
「意外? 何が?」
「アレンが、そうやって怒るのが」
「…………?」

 依然として言葉の意味を理解できずにいるアレンに、オーグは続けて答える。

「俺さ、アレンの事をもっと大人びた奴だと思ってたんだよ。頭も良いし、いろいろ知ってるし、……その、背も、高いし。……全然俺とは違うなって」
「……? 当たり前でしょ? 僕とオーグは別人なんだから」
「そういう話じゃなくてさ、いろんな事を考えてるか考えてないかって話。アレンは多分怪我した人を治したくて薬とかも勉強して、どうすれば痛みを無くせるかだとかを考えるんだろうけど、俺は今まで全然考えた事無かったからさ。……だから、大事な時に力になれなかった」

 アレンと出会ったあの日、自分の無力さを嘆いた数だけ涙を流したあの夜を、オーグは思い出していた。

「俺自身が情けないなって思ったのと同時に、アレンの事を凄いなって思った。年もそんなに離れてないはずなのに、尊敬した」

 正直なところ、オーグは自分とアレンを比較して落ち込む事が多々あった。
 経験と技術、頭の良さ、行動力、肝の据わり方、数え出せばキリが無い。
 それほどにアレン・ハーヴィという少年はオーグよりも優れていた。

 無論、そこにオーグの落ち度は無い。そもそも誰が悪いでもなく、アレン・ハーヴィが年相応以上の能力を身に付けているというだけの話なのだから。

 ただ、一番その近くに居たオーグが、ショックを受けるのも無理はなかった。そして、それ故に友人としての親しみよりも、恩人としての羨望や尊敬を抱くこともある種必然だった。

「それでさ、アレンと一緒に暮らすようになってからもっと凄い所が分かってきて、何だか……アレンが遠い人みたいに思えてたんだよ」

 アレンは自分とは違う。そんな考えがいつも頭のどこかにあり、ふとした瞬間にオーグの脳裏をよぎっていた。

「それで、それがほんの少しだけ、怖かった」

 僅かな抵抗から生まれる距離が、家族になってくれと頼んだ彼を、自分から遠ざけていくのが。否、自ら遠ざかっていこうとしている自分が。

 もっともっと親しくありたいと願っているのに、無意識の内に自分と彼を比べてしまい、負い目を感じてしまう。果たしてそれがアレンが父親の恩人であるが故なのか、オーグが臆病であるが故なのかは分からない。
 けれど、そんな不安が確かにあった。

「――でも、さっき分かったんだよ」

 迷いの無い、真っ直ぐな目をして、オーグは言う。

「アレンも俺も、一緒だって。怖かったら怖がるし、悲しかったら泣くし、恥ずかしかったら照れるし、嬉しかったら笑うんだ」
「……何それ、当たり前でしょ?」
「そう、当たり前。でも、俺はバカだから、分かってなかったんだ」

 でも、もう怖くない。自分とはまるで違う全知全能のような少年は、いくら身の丈に合わない能力を身に付けていたとしても、それでもやはりただの少年だ。
 もう、彼の横に立つことを躊躇うことはない。彼の背丈がどれだけ大きかろうと、彼の歩みがどれだけ速かろうと、きっと自分はそれに並んでいけるのだから。

 オーグはいまだキョトンとしているアレンに、精一杯の笑顔を見せた。それでもアレンは何か腑に落ちないような表情を浮かべていたが、やがて晴れた青空のようなオーグの笑顔につられて笑った。

 そんな時、ふとオーグは数分前にも感じた正体不明の恐怖を感じた。自分の理解の範疇を遥かに超えた、今までに感じたことのない恐怖を。
 しかも、オーグの直感に訴えかけてくるそれ・・は先程オーグが感じたものとは比べものにならないほど強く、大きい。
 オーグは思わず飛び上がり、慌てて周囲を見回した。

「――アレン、何かまずい気がする」
「…………? 何のことか分からないけど、とりあえず座ってよ。僕、話そうと思ってた事があるんだ」
「そんな悠長なこと言ってる場合かよ! 俺にもよくわかんないけどっ、なんかヤバイんだって!」

 声を大にしてオーグは忠告するが、一方アレンはまるで聞く耳をもとうとせず、それどころか身動ぎ一つせず座るように促してきた。
 どうしてそんな余裕があるのかとオーグが動揺していると、落ち着いた声色でアレンは呟いた。

「……来た」

 一瞬、何を言っているのか分からなかった。言葉の意味は理解できても、何もないはずの死の海を見つめてそう呟いたアレンの真意はオーグにも計りしれなかった。

 しかし、一拍遅れてオーグの第六感もそれを感じ取った。
 先ほども感じた、何らかの恐怖。それを見れば、それが人智を超えた存在の来訪を知らせるものだと知るのに、そう時間は必要無かった。

「……何だ、あれ?」

 オーグが見ていたのは、月の無い闇の空と完全に同化している、死の海。死の海は墨ですべてを塗り潰したように真っ黒で、何かが見えるとしても所々泡沫の白が浮かぶ程度。水平線すら飲み込んでしまう、闇そのもの。

 しかし、オーグはそんな闇の中に光を見た。冗談でも、比喩でも無い。ぼんやりと淡く、闇を取り払う光が、深い海の底から徐々に浮上してくる様を見た。

 理解を超えた現象に自分の目を疑うオーグに、相変わらず落ち着いて腰を落としているアレンが口を開く。

「前に君と今日のお祭りについて話した時、僕がもったいぶって全部は話さなかったこと、覚えてる? 話したい事って言うのはその事なんだけど」
「えっ……ああ、うん。覚えてる。そういえば見せたい物があるって言ってた」
「そう。それでね、単刀直入に言うと、君に見せたい物っていうのはアレの事なんだ」

 そう言ってアレンが指差した先にあったのは、尚も徐々に光を強めていく謎の存在。まだ遠い海の下でありながら、水面に絵の具を垂らしたようにジワジワとその光を海面へと広げ、荒々しいはずの死の海を不思議と美しく染め上げる。

 その存在の来訪と同調するかのように、先ほどまで落ち着いていたはずの海が目を覚ました。波は荒立ち、居ないものだと思っていた魚類達が叩き起こされたように海上へと飛び上がり、オーグの立つ崖際には大きな波が打ち付けられ、跳ねた水滴がオーグの髪を濡らした。

 今までに見たこともない異常事態。まさしく天変地異と呼ぶに相応しい状況に恐怖を禁じ得ないオーグだったが、ほんの僅かな好奇心と安全を確信しているかのようなアレンの姿が、そんなオーグをその場に踏みとどめさせた。

 そして、それは遂にその全貌をオーグの前に晒した。

 初めに海上へと浮上してきたのは、美しい水晶のような球体だった。それは水面下の時から見えていた、他ならぬあの光源であり、何か角らしきものに突き刺さっている形でそれは死の海を照らしていた。
 その光量たるや、世闇を照らす満月にも負けないだろう。少なくとも、数キロ離れた所から見ているオーグが、満月が海から生まれたと見間違うほど、それは神々しく輝いていた。

 続けて浮き上がってきたのは、寸胴な胴体だった。半身しか海面から露出していないため、全体的な大きさは計り知れないが、見えている部分から全体を想定するだけでも、数百メートル以上の全長を誇ることは分かった。

 また、やはり頭部とおぼしき部位には角のような器官が備わっており、それに突き刺さる形で例の光源が海を照らしていた。
 あまりにも光源に近いためか、その目や口といった器官はオーグには見ることが出来なかったが、全体像を見る限りそれは魚類に近い生き物のように思えた。

「君は僕に聞いたよね、どうして世界を滅ぼした竜を僕らは信仰しているのかって。それに今、答えるよ」

 アレンはおもむろに立ち上がり、海上に現れた巨大な生物を手で指し示し、オーグへと向き直って言った。

「僕らが竜を信仰するのは、賢者が竜の力を使って壊れかけた世界に平和をもたらしたから。そして――その竜は今も尚、ああして実在して世界を浄化しているから」

 その瞬間、アレンが竜と呼んだ存在が放っていた光が、より一層まばゆいものへと変化した。その一瞬の輝きに波は煌めき、木々はざわめき、そしてオーグは圧倒された。

 視界が、輝いていく。
 まるで生の痕跡など感じさせなかった死の海が、深海より生まれた月に見守られて光を受けていく。その姿はまるで海そのものが光を放っているようで、一つ一つの小さな命がその全ての息を合わせて動いているようで、オーグはその圧倒的な存在感に思わず後ずさった。

「竜は普段死の海を回って恵みをもたらしているんだけど、この時期だけ、遠い遠い海の終わりからこの入り江へとやってくるんだ。深海に潜って移動する竜も、この場所でだけは海上に姿を現す。そして、こうして僕らに恵みを与えてくれる」

 アレンは続けてこうも言った。
 確かにアレン達にアレが竜であると証明する手段は無いが、間違いなく自分達にとってはアレが竜であるのだ、と。ああして現人神あらひとがみならぬ現竜神がいて、その奇跡を目の当たりにすれば、それを心の拠り所にするのは当然だった、と。

 それを聞いたオーグは、素直にそれを理解できた。何故なら、今こうして奇跡を目の当たりにしている自分も、他ならぬ同じ気持ちに包まれていたから。

 初めて、感じた感動だった。
 自分よりも明らかに偉大な存在の前に立って、今まさに自分の身にあまる奇跡を見た。

 そして、それは臆病なオーグに、ほんの少しの勇気を与えた。

「なあ、アレン」

 ふと、沸き上がってきた想い。ふと、沸き上がってきた言葉。
 それは他ならぬオーグの本心で、オーグの思考を介さずに自然と口から漏れた。

「もう、家族ごっこは止めよう」

 大きな波が、崖際を打った。

 オーグは、まっすぐにアレンを見つめていた。アレンも、自然とオーグを見つめていた。それ故にハッキリと、残酷なほど鮮明に、その言葉を聞いたアレンの顔が歪むのが分かった。

 きっと、普段のオーグなら恐ろしくて思わず目を逸らしただろう。アレンに嫌われるのが恐ろしくて、アレンが悲しむのが辛くて、色んな物から目を逸らしただろう。

 けれど、竜から受け取ったほんの少しの勇気は、オーグの背を押した。まっすぐにアレンと向き合って、その言葉を言うことができた。

 そんな、あまりにまっすぐなオーグの眼差しにハッとしたように、アレン一度自分の顔を両手で叩いて、オーグに問いかけた。

「理由、聞かせてもらっていい?」

 もちろん、と快く頷いて、オーグは言葉を続ける。

「さっきも言ったけど俺、アレンの事を俺とは違う凄い奴だと思ってた。いや、実際はそうなんだろうけど、要するに俺はアレンとはあんまり仲良くなれないと思ってた。どっかでアレンの事、ドナ婆ちゃんやガーネットみたいに『歳の離れた親しい人』くらいに感じてた」
「……………………」
「でも、違ってた。アレンは全然そんな事なくて、まだ子供で、俺と一緒でドジな所もあって、俺と同じ目線で話してくれる奴だった。それで、気が付いたんだ。目線を合わせようとしてなかったのは、俺の方だった」

 黙るアレン。何も言葉を紡ぐ意志は無く、その面持ちからはただオーグの言葉を一心に受け取っているのが分かる。
 そんなアレンに、何一つ言葉を誤魔化すことなく、オーグは告げる。

「俺とアレンは、家族じゃない。もちろん、血の繋がりが無くたってそういう形はあるけど、だからと言って家族であることだけが幸せなわけじゃない。だから、アレンとは家族になりたくない。だって――、」

 告げる言葉は、アレンと出会ったあの日に抱いた、淡い願望。

「俺はアレンと、友達・・になりたいから!」

 それは、もしかすると家族よりも距離ができてしまうものかもしれない。場合によってはアレンを傷付けてしまうかもしれない。
 けれど、オーグは『偽物家族』よりも『本物友達』を選んだ。

 そして、そんなオーグの意図を察したのか、数秒後固まった後で、アレンはいつものように柔らかな笑みを浮かべた。

「なんだか随分大袈裟に言うけど、要するに僕とは仲良しでいたいって話だよね?」
「えっ。ああ……うん」

 図星を付かれて、今までの自分の言動を振り返って羞恥に至り、やや照れと共に頬を赤く染めるオーグ。
 そんなオーグに畳み掛けるように、アレンはオーグへと近付いて、耳元でそっと呟いた。

「家族でいられないのは残念だけど、ありがとう。とっても嬉しい。今の言葉、君らしくって僕――大好きだ」
「――え?」

 アレンの言葉の最中、またも大波が崖際に打ち付けられ、その声を遮った。耳元でささやかれていたために、唇の動きも何もオーグには分からなかった。

「ちょっと待って! アレン、今なんて言ったの?」

 言いたいことを言って満足げな表情を浮かべ、アレンはオーグの横を通り抜けて祭事場への帰り道を進んでいく。慌てて振り返ってその背中を呼び止めた。

 アレンはその声に足を止め、振り返る。そして、僅かに意地の悪そうな笑みを浮かべて、オーグに言った。

「これからは友達としてよろしくねって言ったんだよ」

 文脈、言葉の長さはまるで合わない。それ故に、オーグは分かった。もう二度と、アレンがその言葉を言ってくれないことを。結局、仕方が無いと、オーグは諦めてアレンの背を追った。

 背が違えど、性格が違えど、二人は並んで歩いた。
 真っ暗でも、足場が悪くても、二人は並んで歩いた。

 その背中を、今宵だけの満月が明るく照らしていた。


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