あと30日です。

日々谷紺

 朝起きて、仕事へ行き、夜中に帰宅して、寝る。

 「夏休みの日記」なるものの提出を課せられたとして、その約40日分の記述の大半が冒頭の一行で始終する。日記を宿題として出されたのが小学生の夏休みだけだったという薄ぼんやりとした記憶から「夏休みの日記」という言い回しを持ちだしたが、そもそも私の職場に夏期休暇など存在しないし、私自体もとうに三十路を越えている。更には夏期のみならず秋期・冬期・春期のいずれをとっても「朝起きて、仕事へ行き、夜中に帰宅して、寝る。」が私の1日テンプレートだ。その文節の隙間すきまに「何を食べた」「どんな仕事をした」などと細かなことを書き込めば多少はコントラストの効いた日記帳になることは言わずもがなであるが、テンプレートが崩されないほど些細な出来事をわざわざ記すことに私は必要性を感じられない。

 日記帳とはつまり記憶の比喩で、毎晩私の脳ミソには1行しか記述されない。差異の見いだせない日々は、言ってしまえば「5年前」すら「昨日」になりえる。


 とはいえ、無意識に記憶している事象もある。感覚が脳ミソを通さずカラダに直接記述される。

 行動範囲に変化のない繰り返しの日々の中で、頻繁に目にしているもの。気が付けばいつもと同じにそこにあるもの。通勤路の途中にある居酒屋の看板。電線を飲み込んでいる街路樹。近所にあるケーキ屋の開店前に漂う甘ったるい匂い。駅前の横断歩道が青になってから次の横断歩道の青に間に合う歩行速度の感覚。降りてから一番階段に近い地下鉄の乗り場番号。イントネーションに違和感を覚える車内アナウンス。午前8時半の8番車両に乗り込むと必ず座っている乗客。

 どれにしたって自ずから「覚えよう」と意識したでもないのだが、勝手に毎日そこにあるものだからふとした瞬間にそれらの光景・習慣がすっかりと生活に組み込まれていることに気が付くのである。

 中でも「人」というのは流動的であるはずが、特定の真っ赤な他人を無関心の代名詞である私が記憶してしまっているというのは、よっぽど代わり映えのない生活を過ごしているのだろう、お互いに。毎朝まいあさ、同じ車両に乗り合わせる。その他の一切の情報を知らずとも、それだけで相手もテンプレートの日々を送っているのだなと勝手に想像してしまう。とりわけ、午前8時半の8番車両に乗り込むと必ず座っている乗客については、乗車口の左真横の吊り革の下という自分が一番収まりの良いと感じる立ち位置の目前の席に高頻度で座しているのだから覚えていても無理はない。

 その乗客は、決まって目前に座ってさえいなければ、記憶に残ることもない典型の一般人である。とびきりの美人ではないが、取り立てるような欠点も見られない女性。ぱさついた黒い髪、基本的に無地で暗い色合いの服装を見るに、社交性の高さは窺えない。使い古した合成皮革のバッグを抱きかかえながら、スマートフォンを一重のささやかな目で一心に見つめている。わずか5インチ程度の硬い平面の向こうにどれほど興味深い世界が広がっているのかなんぞ、最近ケータイをスマートフォンに切り替えたばかりの私には想像できない。

 地下鉄に揺られながら、5秒後には忘れているような軽薄な思考を並べているうちに、目前の彼女の見つめる長方形へと視線が辿り着いていた。

 ツッチーニ @kaeru 2分
 死ぬまであと30日です。朝です。

 今の世の中では誰しも存在くらいは知っているであろう某SNS。無防備に天井を向いた彼女の手元のスマートフォンの画面に表示されているその言葉が、今しがた彼女の指先で組み立てられていくのを私の目は捕らえていた。

 何が死ぬのだろう。

 主語のない文章のやっかいなことといったらない。ひとり言をひたすら呟くのが目的のこのSNSで主語が省かれたら、だいたい自分のことを指しているのではないか。否、他人に対する愚痴などは、誰を指しているか悟られないよう曖昧にするかもしれない。死ぬまであと30日。自殺の宣言というのが最もしっくり来るような表現。

 真面目そうな容姿で案外、痛々しい女だ。

 寝ぼけているも同然の鈍い頭によって乱雑に並べられた思考は、よっぽど軽薄だったのか地下鉄の停車する緩やかな衝撃によってあっけなく散らかっていった。

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