少年と武士と、気になるあの子。

B&B

恋花の咲き開く時(三)


 さわさわと揺れる木々の新緑が奏でる心地良い音に、俺は意識を取り戻した。同時に、自然と左手が動いて太刀を求める。
 見慣れない天井。聴き慣れてはいるが、今の自分に馴染みのない穏やかな時間の流れを感じさせる音。それを確かめようとぐっと身を絞るように体を動かそうとした。だがしかし、それは途端に体から力が抜けてうまくいかなかった。
「一体……」
 とりあえず自分が横になっていることは理解できた。のそのそと、かけられている布団の中で腕を動かそうとしてみたが動きが硬い。強引に中から出してみると腕には肩にかけて晒が巻かれており、どうやらそれが動きを阻害しているらしかった。
「くっ……」
 それでもなお動こうと試みる俺だったが、全身に全く力が入らない。というよりも力を入れようとすると、熱さを持った痛みがじゅくじゅくと俺の意識を侵食してきていた。
 その痛みが極端に自分の体力を奪っていることは明白で、腕を動かそうにも脚を動かそうにも、とにかく全身の至る箇所に痛みを感じてもはやどこが痛むのか、それすら曖昧になるほどだった。
 その痛みに耐えかねて、無駄な抵抗を止めるとそれがどこで起きているのか、朧げながらに輪郭がつかめてきた。どうやら痛みの原因は背中らしい。背中から鋭い痛みと、叩きつけられたような痛みの両方が襲ってきていたのだ。
 流石に、こんな痛みはこれまで経験したことがなく、ただ小さく呻くだけだった。しかし、その呻きに誰かが反応した。閉じた襖の奥から何者かが動く気配を察して、すぐに意識が切り替わる。
「お気づきになられましたか」
「おぬしは……」
 動きたくても動けない状態で、肘に肩を突き上げるよう固定させ頭を上げるだけが精一杯だった俺は、開かれた襖の隙間から覗かせたその人物を凝視する。
「女、か……」
 襖から半身でそっと顔を覗かせた女に、凝視したまま呟いた。まだ若い、恐らくまだ二〇にも達していないであろう若い娘がそこにいた。
 ただの村娘というには身なりの良い娘で、長い髪が艷やかな娘はそれを耳の後ろにかけている。きちんと化粧を施しているのか、しかしその割りには白さの感じられない肌は自然に近い白さであるように思われた。
「お加減はいかがですか」
 一応は気遣ってくれているのか、そうは言った娘だったが、その目にはまるでそれらしさは微塵も感じられず、ただ物を見ているだけの目であった。そんな瞳で娘は立ったまま無遠慮にこちらを見下ろしていた。
「ああ、どうやらわしは生きているらしいな」
 その何の感情も持たない瞳を見据えながらそう言って、起こしかけるので精一杯だった体を再び横にしした。どうやら、この娘が俺を介抱してくれたらしいことは間違いない。とすれば、少なくとも先立って命の危険はないということだ。
「はい。お侍様はここから近くの沢にて倒れておりました故、ここまで運ばせた次第です」
「運ばせた?」
「ご安心なさいませ。私の従者たちです。あなた様に危害は加えませぬ」
 一瞬、俺の緩んだ警戒心が起こったのを感じ取ったのか、娘は先んじてそう告げた。身なりが良いとは思ったが、なるほど。ここは庄屋の屋敷ということであろう。
「……家主は出かけておるのか」
「はい。……いえ、出かけてはおりますが、帰ってくるのかは分かりませぬ」
 妙な言い回しだと思った俺は、目だけ娘に向けて続きを促した。
「数年前、父が豊臣方の家臣の者に兵を出す折、共に出立して以来音沙汰がないのです。使者を出して文を寄越したこともありましたが、もうこの二年はそれもなくなりました」
「……そうか」
 皆まで言わずと分かる。つまり、娘の父は村の若者たちと戦場に出たが、そのまま帰らぬ人となったということだろう。この乱世において、こうしたことはままあることだった。概ね庄屋と言えばあまり戦場に出るわけではないが、そうまでしなくてはならない理由があったのだ。
「すまんが……」
「なんでございましょう」
「話すつもりがあるなら側に寄ってくれ。首が痛くて敵わん」
「そこまで言えるのでしたら、もう十分回復されたようですねお侍様」
 棘のある言い方だった。別に施しを受けようというわけでもないのだが、何か恨みでもあるらしい。
 しかし娘はそんな小言を言いつつも、そっと俺の側にまでやってきて着座した。それでも興味のない、無感情な表情はまるで変えることがない。
「ところでわしはどれほど眠っておった」
「一週間ほどでございます」
 道理で力が抜けるはずだ。痛みはもちろんだが、痛みに体が耐えられなかったのは、それだけ体の筋が萎えたということだ。確かに、先程布団の中から出した腕が、心なしか細く感じられたのはもう随分長く眠っていた証拠だろう。
「あなた様が集落にほど近い沢に流れ着いておりましたところ、村の者が見つけた次第。具足(=甲冑のこと)は水に流されたのか、一部が失くなっておりました。背中や太ももに刀傷がありましたので回復の見込みは薄いとのことでしたが良くお助かりに」
 娘にそう言われて、徐々に沢に流されてきたという自分のそれまでの行動を思い起こしていた。街道より峠越えしようとして、気の良い老人から近くで戦があったので峠は気をつけろと諫言されていた中、その戦の落ち武者であろう者たちにつけられて山中を抜けた。そのことまでは覚えている。
「その後、現れた五人と戦って……そうだ。三人を仕留めた後、残りの二人と交戦したのだ。それから……」
 それから俺はどうなった? 三人までは傷を負うことがなかったから、背中に感じる痛みは後の二人と戦った際に負わされたものだろう。娘と俺の記憶と織り交ぜるならそういうことになる。
「沢に流れ着いていたあなた様は、それはもうひどい有様で、特に出血がひどく、それはまるで死人の様でした。交戦した折に斬られ、意識を失ったのでございましょう」
「……かもしれぬ。思えば、森を抜けた先は石がごろごろした枯れ川だった。意識を失った後に流されたということか」
「あなた様が流されてくる前日、一帯を嵐が襲いましたのでそのお陰でしょう」
「……そうだったのか。そうかもしれん」
 俺は曖昧な記憶はもう頭の片隅に追いやり、今どうすべきかを考える。行うはまず静養しかない。こんな時自分の生きようとする力に呆れてしまうくらいだが、今はそれを感謝したい。まだ道半ばで死ぬわけにはいかなかった。
「ともかく私どもができることは限られておりますが、今お侍様はきちんとご養生なさいませ」
 俺もそれに頷くだけで、後に会話はなかった。女もそれだけ言うと、すっと立ち上がり部屋を出ていった。一人残された俺は、しばらくの間ぼんやりと天井を見つめていたが、いつの間にかひどい眠気に襲われて、完全に眠りこんでしまった。



「先生」
 ヨシタカの呼びかける声に俺は閉じていた意識を起こした。ヨシタカの視界に映るのは、赤い夕焼け色に染まった秋空が広がっている。
『ん、おお。なんだ』
「だから、もう一通り終わりました」
『おお、そうか』
 俺は適当な相槌を打って、意識を集中させる。ヨシタカのやつは、あれほど苦手としていた素振りを二千回も振れるようになっていた。ほんの三、四ヶ月前まではろくに素振りすらできなかったというのに、今では一通りの形も習得できており、体の動きもまずまずといったところだった。
『ならば陽の構えを取ってみろ』
「はい」
 ヨシタカは返事しながら、重い木刀の切先を落としてスッと右の腰に木刀持っていった。体にベタつかせず、かと言って浮かせすぎない微妙な感覚を身につけさせるために、俺自身が何度も行ってきた稽古がようやく実を結びつつあることを、その構えの取り方一つでも分かる。
『お前が言っておった”剣道”は長さに定めがあるようだが、実戦の場において太刀の長さなどに定めなどない。つまり、どんな長さの太刀を使うも自由。二尺五寸の太刀も、身の丈六尺半(一尺=約三〇・三センチ)ある者にとっては短きもの。逆に身の丈五尺の者にとっては長きものよ。
 即ち、おのが使いやすき物を使うが正しきと心得よ。戦いにおいて自身の太刀の長さを悟らせるなど愚の骨頂。故に陽の構えは相手との間合いを図り、瞬時に斬り込むを容易とするのだ』
 ヨシタカはじっと虚空に浮かんだ仮想敵めがけて、後ろに引いた右足を大きく踏み出すと同時に太刀を逆袈裟に斬り込む。仮想敵は左脇に斬られてなおも命を振り絞った一撃を加えようと動く。
 すかさず、後ろの左脚を右へと移動させると同時に太刀を振り冠っていき、ヨシタカは袈裟に仮想敵の右へと打ち込んだ。
 初太刀から二太刀まで一呼吸とあっただろうか。俺と交互に入れ替わっているためか、以前に比べると格段に動きが良くなっている。これならば、多少のことは此奴一人でも何とか出来るくらいには動けるようになっていると見て良いだろう。
『まずまずだ。だが、まだ腰が高い。腰を浮かせすぎるな。腰が高いとそれだけ重心も高くなる。特に斬り込む瞬間は最も注意すべき瞬間。打ち返しを狙ってくる者もおるからな。つまり攻撃する時、一番の防御であると同時に、一番の隙であることも忘れるな。たとえ攻撃し時であろうとも、いつでも守りに転じることが出来て初めて本物よ。攻防は常に一体。真意は守りこそが攻め、攻めこそ守りだ』
 ヨシタカは俺の言ったことを何度も何度も反芻させながら、形から形へ、動きを確認しては同じ動きを繰り返した。すると、ある時、動こうと脚を出した瞬間、膝から力が抜けて上体が大きくぶれた。それでも、袈裟懸けに斬ろうとした木刀の切先が、地面を深く打ち付ける。
「っとと……」
 上体を崩してしまったヨシタカは、こけそうになりながらも何とか姿勢を保とうとする。脚に踏ん張りを効かせて姿勢を保とうとした瞬間を見て、此奴を止めた。
『待て。もう一度脚の力を抜いてみろ』
「え? いや、それだと踏ん張りが効かないですよ」
『良い。そろそろ動きの極意というのを教えてやる。踏ん張りは効かせるな』
 ヨシタカは解せない様子だったが、もう一度陽の構えから木刀を斬り込み、その瞬間に敢えて膝から力を抜いた。再び体が揺れる。
『今の瞬間を使って体を落とし込め。体を動かすと同時に力を……いや、むしろ力を抜いた瞬間に体を落とし込みながら動け』
「そんなこと言われても……」
 拙いながらも言われた通りに動こうとするが、どうも思い通りに動けない。何度やっても力を抜いた瞬間に体が前に抜けるのではなく、一端下に沈んで、上がりながら前に出てしまう。
(まだ早いか……)
 何度やっても上手くいかないヨシタカを止めて、一人ごちた。いくら動きが良くなったとは言っても、まだまだ表面的な部分も多い。やはり、まだ形だけに囚われている部分も多いのだ。それをいくら言おうが、その動きが難なく、かつほとんど頭で考えることなく自由にできるようになるまでは時間がかかる。
(口で言ってできるほど簡単ではないのは分かるが)
 だとしても、その手を緩めるわけにもいかない。この体が徹底して武の動きができるようになるまでは、ひたすらに体に染み込ませ、業を練り上げていくしか方法がない。ほんの一日二日で上手くいくのなら誰も修行などしない。
 それこそ何万回何十万回、何百万という動きを繰り返すことで初めて本物になるのだ。それをたった数ヶ月でモノにさせようというのだから、これが如何に困難な道であるか恐らく此奴は分かっていないだろう。それでも、自分が生き残るために必要な物を自分と、その基となるこの体にどうしても馴染ませておく必要があった。
『力を抜くと同時に動くのは、それこそ熟達した者が行うべき錬法。それを昨日今日武を修行するお前にできはせん。だが止めるな。それがいつかお前の身を助けることもあるだろう。あるいは……』
「あるいは?」
『……いや、今はまだお前の気にするところではない。今はとにかくやれることをやっておけ。お前たちがやっておる勉学と同じぞ。とにかく生き残るため、何かをしたいがためならば、考えることを捨てるな。考えることを止めた者から死んでゆくのは戦場でも、この今の時代も同じぞ』
「……まぁ、今は死ぬことはないと思いますけどね」
 つくづく一言多いやつだ。俺が言ったことはそんな表面的な意味ではない。……まぁ良い。人間がどれだけ他の加護なく生きていけるかなど、いざその時になってみなければ分からないものだ。それを口で言って聞かせてやって全てを理解できるほど大人でもないだろう。
 ならばせめて、少しでもその理解を深めるために身の危険を感じさせてやろうというものだが、今のヨシタカにまだ開花の兆しが見られない以上は、馬の耳に念仏。心して待つ他にないだろう。
「善貴、ごはんだから上がってらっしゃい」
「あ、うん」
 リビングの窓から顔を覗かせた母に頷いて、ヨシタカも後仕舞を始めた。
『では今日の稽古はここまで。後は勉学に励めよ』
「はい。分かりました」
 家に戻っていくヨシタカを迎え撃つかのように、突風が吹き抜けた。思わず上体を揺らしたヨシタカをよそに俺は、いよいよ本格的な秋がきたと思いながら開かれた視界の先に見えた茜色のうろこ雲を見つめた。




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