少年と武士と、気になるあの子。

B&B

目覚めた少年(三)


 一悶着起こした俺は、結局数日のうちに、いとも簡単に病院を出ることができた。医者である川原によれば、記憶に混乱が見られるが体自体はどこにも異常が見られないという診断で、生活すること自体には影響はないという判断だったことによる。
 こうもあっさり出ることができるとは思いもせず、俺は拍子抜けしてしまった。記憶に混乱が見られるとは川原もいってはいたが、こちとら混乱などない。戦場から逃げ落ち、そこで意識を失ったかと思えば次に目覚めた時にはこんな場所にいた。記憶の混乱などという問題以上の問題を抱えているのだ。
 ともかく、病院に敵がいないということだけは判明して以来、すっかりと大人しくなって療養に専念することにした。初めこそこの医術は野蛮なものだと決め付けてかかったが、あのトシマにいくつか話を聞いていくうちに、中々に合理的な治療法であると思えるに至ったというのもある。
 敵がおらず、治療に専念できるというだけで環境としては文句のつけようもないが、何よりも朝と昼、夜にきちんと食事が用意されているということがかくも素晴らしい環境だとうねってしまった。十分に味があって、三食白米が食えるこの環境に何の文句があろうか。あるはずがない。
 それともう一つ、むしろ俺にはこちらの方が遥かに驚きがあったことがあった。それは、この国にもはや武士という身分は存在しないということであった。それを聞いた時、衝撃的であったと同時に、即座にそれを否定した自分がいた。それはそうだろう、武士である自分そのものを否定されたようなものなのだ。
 否定した手前、我が眼でそれを確認するまでは信じないとトシマには凄んだが、ただただ憐れみの表情を向けるだけで、彼女は何もいうことはなかった。そうこうしているうちにあっという間に五日が経ち、ついぞ病院を出ることになったのが数時間前のことだった。
 もっとも、今の俺にとっては、その後の方がよほど連中の手を借りたいと思えるくらいに狼狽してしまっていた。まず、”竹之内善貴”について、即ちこの体の持ち主についてだった。
 乱世を生きる武士であるはずの俺が、どういうわけかなよなよとした体の持ち主である竹之内善貴という、全くの別人になってしまっていること。これがどうにも俺の気を削いで仕方ないのである。
 意識の戻った五日前、この母親に泣かれてしまって以来、それとなく竹之内善貴を装ってはみたものの、ますます母親と周りの人間たちを混乱させるだけで、ますます溝が深まってしまったようだった。その結果、川原や豊島らに連れられて別の医者の元にやってきた俺は、今度はそこでまるで何の装置かも分からないものに寝かされて、頭の中をいじられることになったのである。
 流石にそんな訳のわからない装置に頭の中を調べられてたまるかと、再び暴れだした俺に、またも数人で押さえつけられて何か腕に針を突き立てられるとあっという間に頭が朦朧としてしまい、そのまま寝かされてしまった。
 結局のところ、頭を開くなどという鬼畜の所業を行うと思いきや、そのまま検査は終了し、また病室に戻された。二日としないうちに結果を知らされて、何も問題がないことを確認されると同時に、退院という流れになったわけである。

「ついたわよ」
 竹之内善貴の母親に促されて、”自動車”から降りた俺は結局、竹之内家屋敷にまでやってきていた。もっとも、退院の流れになった際、病院にいたところで治療以上の収穫も得られない以上、この体の持ち主の母であるという彼女についていく以外、選択肢がなかったというのが大きな理由だった。
 車を降りて目の前の屋敷を見上げる。玄関の前に構えた門の横に、竹之内と書かれた表札がかかっている。それを見て、ここが竹之内の家なのだなと、なんの感慨もなくそう思った。それよりも感じたことは、二階建ての母屋が、自分の知る限りでは異様なまで大きく感じることくらいだ。
 少なくとも、こんな大きな屋敷を構えるだけの財力が、この竹之内家にはあるということを如実に示していると思われる。が、どうもそれは違うのかもしれないとも思う。周りの家々は、皆この竹内家のように大きめの屋敷ばかりが立ち並んでいるのだ。
 これがこの日の本において、普通の庶民の暮らしぶりなのだろうか……。いずれにしろ、俺自身にはあまり関係のないことだが、今は立派な家屋で過ごすことができる身分に感謝すべきだろう。
「ちょっと、”ドア”は閉めなさい」
「”どあ”?」
 玄関に向かおうとした俺に、母親が車の扉を音を立てて閉める。
(ふむ。あれが”どあ”か)
 その様子を見て頷いた。母親は反対に、そんなこちらの様子に首を傾げんばかりに訝しんでいる。それを気にしていても仕方ないので、俺は次こそ門を通って玄関までやってくると、病院と同じような作りになった扉に据え付けられた棒に手をかけて引く。
「む?」
 鈍色の棒を掴んで横に引いているにも関わらず、玄関の扉はびくともせず開かないのだ。これはおかしいと、両手で棒を掴み思い切り横に引くも、同様だった。
「……何してるの」
「う、うむ……扉が開かんのだ」
 母親はまとも複雑な表情を浮かべてため息をつくと、棒の横にある小さな穴に金属の棒を差し込んで、それを捻った。すると、乱暴に横へ引こうとしていた扉が一瞬こちらに向かって開いた。
「おおっ?」
 扉が手前に開いたのを見て、この扉が横に引くのではなく手前に引くのだと分かった。片開きだが、ようは観音開きのような形になっているらしい。俺は興味深げに二度三度と、片開きの玄関扉を開け閉めする。
「遊んでないで、さっさと入んなさい」
 呆れて言う母親に俺は、小さく咳払いして玄関をくぐった。全く、この日の本の扉はよくよく分からん仕組みになった扉が多くてかなわない。思えば病院を出る時だってそうだった。近くに寄ると独りでに動き出す透明な扉、あれは一体何なのだろう。どういう仕組になっているのかわからず、思わず何度もあの扉を眺めていたものだが、あれに比べればこちらはまだ理解できなくはない作りだ。
 靴を脱いで玄関を上がると、たった今の今まで留守にしていた家の何ともいえない空気感と匂いを感じた。当然といえば当然なのだが、この空気感はいつの世も変わらんのだなと、妙に感慨深かった。
「靴は脱ぐのね……」
 玄関に上がったこちらの様子に、母親は少し驚いたように言った。何がそんなにおかしなことがあろうかと、今脱いだ靴を見下ろしながら言った。
「靴を脱ぐのは当然だと思うのだが……」
 でなくては家が汚れてしまうではないか。何もおかしなことはやっていないし言ってないはずだが、それが逆にこの母親の疑念を深くさせてしまったらしい。

 俺はどこを見るでもなく、室間の中心に腰を据えてぼんやりとしていた。広さは六畳程度だろうか。もう少し広いかもしれない。そこには病院にあった”ベッド”と呼ばれる寝具に、妙に背のある机とそれに一対になっているかのような小さい台、開かれっぱなしの大きな台に何冊も押し込まれてある書物の数々……。それに、壁には襖とは違う木目調の引戸もあった。
 俺はその室間の中心に、腕を組んで胡座をかいで座り込んでいた。母親によれば、ここが竹之内善貴の自室らしい。室間に案内されてしばらくは、この部屋の主である竹之内善貴という人間がどんな人間かを調べるべく物色してはみたが、結局人間性を窺わせるようなものは見つからなかった。
 気を引いた書物を数冊手にとって中を見てみたが、まるきり自分には理解できそうにない内容で、あまりの難解さに、すぐにそれらを元の場所に戻していた。とりあえず分かったことは、竹之内善貴という人間は頭の出来が良いということ位だった。
「さて」
 思わず、そう口をついていた。ここからどうすべきか本気で考えなくてはならないが、どうしたものか。正直なところ、何か妙案があれば良いが、そんなものがぱっと浮かんでくるはずもなく、俺は改めて頭を抱えた。
 おまけに、普段ならすぐそばにあるはずの物がないのが、何とも心細く感じられて仕方なかった。結局、病院から出る時に持っていたはずの刀が返却されることはなかった。その辺について、見送ってくれた豊島にそれとなく質問してみたが、そもそも刀自体持って病院に送られてきたわけでもないらしいのだ。
 その事実は何ともまたもいらない混乱を呼ぶに相応しいことであったが、同時にやはり……と、半ば諦めにも似たものがあるのも事実だった。竹之内善貴という人間になってしまっている事実に伴い、刀自体もどこか遠い彼方に捨て置かれてしまっているのではないかという、漠然的な予想が的中したことになる。
 事実、川原や豊島の言っていたように、母親に連れられてこの屋敷に来るまでの間、それとなく眺めていた街の様子を見て、その漠然としたものを確定的にさせた。街行く人々の誰一人も刀を携えている者がいなかったことに、一縷の望みをかけていた俺にとって大きな衝撃を与えていたのだ。
 その光景は彼らの言った、武士は存在しないということを見事に裏付けていた。この眼で見るまではと虚勢を張った自分が虚しくなるくらいに誰の一人もだ。とりあえずここは日の本の国のようだが、だとしても誰一人として刀を携帯していないとはどういう了見だろうか。
(もし突然ならず者どもに襲われでもしたらどうする気なのだ)
 その光景を目の当たりにして、車の中で俺はだんまりしてしまっていた。この日の本において、今のところ混乱と呼べるようなものはないらしいが、それに伴って全く武装する者がいないという異様な光景。それがどういうわけか俺の深層に深く何かが刻まれたような気がして仕方なかったのだ。
(ただ……)
 道行く人々はどのような身分の者かは分からないまでも、その全てといっても良いほど安心しきっている様子であるように見受けられた。思えば、街の至るところが整然としているだけでなく、道は石と石で硬められ、その道幅には所々に木々が等間隔に植えられている。建物も病院で見た向こう側を透かして見える薄い壁と、大小様々で似てはいるが配色の異なる家々。
 これらに驚かないはずもないが、人々の印象も俺の知っている民衆とは違っているように感じられたのだ。中には何を思っているのか、鬱屈して物を眺めていそうなひどく後ろ向きで、陰険な雰囲気の者もいないわけでもなかったが、概ね、身の危機を感じて身ぐるみ剥がされてしまうことへの恐怖は感じていなかった。
 街の様子がこうだと、少なくとも大きな戦乱は長い期間起きていない明白な理由であるように思われた。病院でもそうだったが、安定的に食事が出るということは、それだけ経済が安定している証拠でもある。このことから、俺はこの日の本が基本的には安全であると認識した。
「だが、ここはどこだ」
 俺は座り込んだままじっと虚空を見つめたまま考える。自分の知る日の本とは明らかに様相が違っていることに、戸惑いを感じないはずがない。いくら経済的にも安定し、争いがないとしても、ここまで違っていると、どうしようもなく落ち着かない。
 そんな自分がなぜこんな場所にいるのかもである。戦場を生きてきた自分にとって、こんな世界に全くの別人となって存在しているということ自体、あまりに奇怪で恐ろしい話ではないか。
「善貴ー」
 しかめっ面で虚空を彷徨わせていたところ、室間と廊下を間切る戸の向こうから母親の声がした。俺のことをヨシキなどと呼ぶ彼女にとって、今の俺が間違いなく彼女の息子であることを意味していたが、どうにもすぐに反応できない。
 そもそもが全くの別人であるわけだから、名を呼ばれてもすぐに自分であると結びつかない。何もかもが自分にとって頭の痛くなるようなことばかりで疲れていたのかもしれない。呼ばれても反応しなかったことを疑問に思った母親が、再度すぐ近くにやってきて呼ばれた。
「善貴」
「む、ああ。ところで母上殿。そのヨシキというのは俺のことか」
 呼ばれ慣れない名で呼ばれても反応できずにいた俺は、いい加減きちんと確認しておくべきかと問い返した。すると母親である彼女は、火を見るより明らかに困惑しつつ落胆にため息をついた。
「やっぱり記憶、戻らないのかしら……性格まで変わって……」
 彼女のため息から察するに、よほど俺と竹之内善貴の性格は違うらしい。見た目は同じでも中身は別人なのだから仕方ないが、普段どんな話口調なのか見当もつかない。あるいは、男児にはあるまじき軟弱者なのだろうか。
「何とも情けなし」
「は?」
 落胆する母親の様子にいくらかの同情の念をこめて言ったつもりだったが、彼女は俺の言ったことの真意を理解することなく、肩を落として再度ため息を漏らした。むぅ、一体どういう意味だ。男児たるもの、屈強に育ってほしいと思うのが母として望むことではないのか。母親の様子に、こちらも肩をすくめる他なかった。

 とりあえず、母親がヨシキを呼んだのは食事の準備ができたので、建屋一階の”りびんぐ”なる場所に降りてこいというものだった。俺は食事という言葉を聞いた途端に腹を空かせてしまい、すぐに行くと言って母親の後をついて降りていった。”りびんぐ”にはすでに二人分の食事が用意されている。
「いただきます」
「かたじけない」
 そう言って箸を手に、まず炊きたての白米に箸をつける。母親はといえば、かたじけないといった俺に目を見開いてこちらを凝視しているが、何がおかしいのか良く分からない俺はそれを無視して無言のままに白米と味噌汁をかきこんでいった。
「ほんと、どうしちゃったのかしら……」
「む、母上。どうなされた」
「母上? ……はあ」
 そんなにもおかしなことを言っただろうか? 不本意ではあるが、一応は庇護下に置かれている立場であり、ヨシキの母親であるようだから敬い、そう呼んだだけなのにそんな態度はあんまりではないか。俺はそう思いつつも、これまで食べたこともない美味い飯に舌鼓を打っていた。
「どうされた」
「なんでもないわぁ……お母さん、あんたのこと本当心配」
 そういって母親も箸を手にとってぽそぽそと食べ始めた。解せない俺だが、そんなことよりも今はこの食事だ。とにかく美味い。白米は立ち、味噌汁は白味噌、それも上品な京の都で貴族たちが嗜むようなそんな感のする味噌だ。それにこれは魚だろうが、何の魚だろうか。
「ところで母上、これは何の魚だろうか」
「これ? 鯛だけど」
「鯛? 鯛だと」
 まさか。何気なく言った母親だが、特に何か気にしている様子もなく鯛を頬張っている。俺はといえば、何気なく食していたこの魚がまさか鯛とは思いもせず、驚きに食すのを止めて食べかけの切り身を凝視した。
「まさか、これが鯛、だと……」
「何いってんのよ。しょっちゅうじゃないまでも鯛くらい食べるじゃないの」
「鯛くらいだと!」
 抜け抜けという母親に、思わず語気を荒げてしまった。
 当然だ。これまで鯛など滅多と口にしたことがないのだ。そもそも自分の育った集落では、海魚自体が稀少品で、かつての主君、織田信長公が開かせた楽市楽座でも海魚は中々手に入らないものだった。約四〇年の人生でも鯛を食したことがあるのは、ほんの数える程度だ。ちなみに鯉も高級で、やはり縁起物としてほんの数回しか口にしたことはない。
 そんなものをさしも珍しいものでもなく食べている……この事実は俺を大きく動揺させた。人が何を食べても良いとは思うが、だとしてもこんな縁起物、引いては高級魚を何気なく食べているこの竹之内家とは、まさかさぞ名だたる名家なのではないか。俺はそう思わざるを得なかった。
 思えば、竹之内という家名も、かの武内宿禰たけのうちのすくねに端を発した名家であると思えば、十分に納得ができる。”タケノウチ”など世間広しといえど、俺の知りうる限りそれくらいしか姓の出所は知らない。
「そうか、タケノウチ……名家だったのだな」
 うんうんと一人頷きながら、俺は納得した。ヨシキの母親は、またも怪訝そうにこちらを見つめていた。



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