家事力0の女魔術師が口の悪い使用人を雇ったところ、恋をこじらせました
第六話 汚部屋の混沌を収拾せよ
ミレーネの休暇一日目の朝。
朝食を食べ終えた後の皿が残るダイニングルームにて、イスに腰かけて二人は向かいあっていた。
「では、俺は皿を片付けたら、昨日やりきれなかった洗濯をしてくる。その間、物の分類をしておいてくれ。いる物といらない物、いる物はその種類を分けてくれさえすれば、後は俺が片付けるなり捨てるなりできる」
「頑張ります」
ギルバートの指示を受け、ミレーネは神妙な顔つきで頷いた。
その彼女の服装は汚れてもよいようにと、いつもより薄汚れ、所々に染みがついているワンピースだ。普段は錬金術における薬の調合をする際にローブの下に着ている。
「洗濯物を干し終えたら戻ってくる。それまでにダイニングの作業が終わったら、次はリビングをやっていてくれ」
「はい」
ダイニングルームの床に散らかっていた本や紙などは、おおむね一まとまりにされている。部屋を歩き回って物をかき集める手間もないのだから、自分が他の作業をしている間に済ませられるだろう。
ギルバートはそう考え、ミレーネがこれまで溜めに溜めていた家事の一つである洗濯をしに向かった。
二月のまだ弱いが晴れた日差しの下に洗濯物を干し終え、ギルバートは肩を回しながらダイニングルームに戻ってきた。
雇い主の作業の進捗を目の当たりにし、目を見開く。
ギルバートの入室に気付いて本から視線を上げたミレーネは、はっとした後、ばつの悪そうな表情になった。
彼女の手から、山に本が一冊戻される。
物の山にはほとんど手が着けられておらず、ギルバートが退室した際と同様の姿を保っている。
「なるほど……あんたは片付けよりも読書を優先させたわけか」
自然とギルバートの喉から低い声が出た。ミレーネは細い肩をびくりと震わせ、うつむいてしまう。
「よっぽど重要な本なのだろうな。呪文一つで部屋が片付く魔法でも載っているのか?」
そこまで言って、ギルバートはミレーネの反論を待った。
しかし、予想に反して何も言い返してこない。
「ミレーネ?」
ギルバートが屈みこみ、ミレーネの顔を覗きこむと、潤んだ赤茶色の目と目が合った。
「はぁっ?! あ、いや、悪かった。言い過ぎた」
ギルバートは仰天し、次いで自分の言葉を反省する。
「つい、前の家の同僚と話すときのように喋ってしまった。すまない。その……お茶でも飲まないか?」
ミレーネは首を縦にも横にも振らなかったが、ギルバートは独断でティータイムを設けることを決めた。
何らかの手段で空気を変えなければ、いつまでも気まずさが続きそうだと考えたためだ。
「待っていてくれ、用意してくる」
沈黙を保ったままのミレーネを部屋に残し、ギルバートは廊下へ出る。
「あーくそ、俺はまた……」
両手で頭を抱え、しばらくぶつぶつと呟いた後、彼は整った顔を後悔で歪ませながらキッチンへ向かった。
白いティーカップの持ち手を華奢な右手でつまみ、注がれた紅茶を一口すする。
そしてミレーネは深く息を吐いた。
ダイニングテーブルの対面から、ギルバートは彼女の顔色がいくらかよくなったことを視認する。
「ありがとうございます。少し落ち着きました」
小さな声でそう言った雇い主の言葉を受け、ギルバートは頭を下げる。
「すまなかった。明らかに俺の失言だ」
「あ、その、顔を上げてください。ギルバートは悪くありません。私が悪いのです」
ギルバートが目だけでミレーネを見ると、おどおどとしており、どうすればいいのか分からない様子だった。
これは頭を下げては逆効果だと判断し、ギルバートは姿勢を戻す。
「そうです、私が悪いのです」
目を逸らしながら、ミレーネは独り言のように呟く。
「やると言っておきながら、気が逸れてしまい約束を守れなかった、私が悪いのです」
再びミレーネは下を向いてしまった。
その視線は紅茶の水面上をぼんやりと滑っている。
何と言うべきか少し思案してから、ギルバートは口を開いた。
「あんたは悪くない。ただ、やり方が悪かっただけだ」
「やり方……?」
おずおずと、ミレーネは少しだけ視線を上げ、上目遣いでギルバートの顔を覗き見た。
「そう、やり方だ。あんただって、例えば、そうだな、魔法のことで上手くいかないことがあったらどうしてる? 一度やってみて成功しなかったら、そこで諦めるのか?」
「いえ。別のアプローチを試します」
即答され、ギルバートは苦笑する。
落ちこんでいても魔法に関することなら思考が切り替わるらしい。
「そうだろ? 今回だって、別の方法を試せばいいだけだ。俺も手伝う。……そろそろ昼食の支度をする必要があるから、その後にな。仕切り直しだ。飯ができたら呼ぶから、休んでいてくれ」
「……はい」
ミレーネが動く様子はないので、ティーセットはそのままに、ギルバートは昼食の準備へ去っていった。
ダイニングのイスに座ったまま、ミレーネはティーカップの中身を飲み干して横にどけ、ぽつりと呟く。
「ペン、インク瓶、紙」
魔力を使ってキーワードを唱えることにより、述べたものが空間を飛び越えてミレーネの眼前のテーブルに至る。
羽根ペンを手に持ち、インク瓶に浸けて黒のインクを含ませ、白紙に向き合った。
紙の中央に「部屋の物の片付け」と書く。
次いで、左上辺りに「一人で物を分類する」と書き、その上に大きなバツ印を記す。
そこでミレーネの手は止まってしまい、テーブルに肘をついて頭を抱えた。
「大丈夫か?」
「……はい」
昼食中、ミレーネは終始沈んだ面持ちで、無理矢理食べ物を口に運んでいるかのようだった。そのため、ギルバートもあえて話しかけることはしなかった。
沈黙の食事が終わり、ギルバートが食器をキッチンで洗ってきた後。
使用人からの問いかけに、ミレーネは返答できる程度にはなっていた。
暗い顔で大丈夫と言われても全く説得力はないのだが、ギルバートは手を動かせた方が気分転換にもなってよいだろうと判断する。
「では、ここの整理整頓を始めるか」
「は、はい。よろしくお願いします」
立ち上がったミレーネは、ギルバートに対して深々と頭を下げた。
雇い主らしからぬ態度に調子が狂うなと感じながら、ギルバートは物を部屋の壁際に寄せただけの山に向かう。
「まずは本から分けるか」
ミレーネがおどおどと見守る中、彼は一つの山の天辺にあった本を手に取る。
水色の厚紙で表紙が覆われた、大きめの本だ。
二、三メートル離れた所で立ち尽くしているミレーネに本を見せる。
「これはいるものか?」
「必要なものです」
「あんたが後でやりやすいように分けるとしたら、これの分類は何になる?」
「幻惑術、です」
「なら、ここには幻惑術関連の本を置いていく」
そう言ってギルバートは、昼食準備の合間に用意しておいた一メートル四方の布を床に広げた。
そして、水色の表紙の本を布の上に置く。
「作業は俺がする。あんたは、いらない物ならいらないと、いる物なら分類を言ってくれ」
「それだけでいいのですか?」
「あんたに本を持たせたら、また読みふけりかねないからな。……ああ、いや、冗談だ」
「いえ、私のことは私もよく分かっていますから。ギルバートのアイディアの通りにやりましょう。お願いします」
自分がミレーネの顔を悲しげに歪ませてしまったことから目を背けるために、ギルバートは次の本を手に取った。
「これは?」
「治癒術の本です」
新しい布を床に置き、治癒術のコーナーとする。
次の本。
「これは?」
「あ、それは小説です」
「魔術の本だけじゃないのか」
「物語もよく読むんです。息抜きなどに」
「小説は、小説一分類でいいか?」
「んー……分けてもらった方が後から分かりやすいですよね。それは冒険物語です」
三枚目の布を床に敷き、小説は下位分類ごとにこのコーナーに置いていくことと仮に決める。もしもギルバートの想像よりも小説本が多いなら、もう一つ布を用意すればいい。
そうやってギルバートが本を提示し、ミレーネが分類を伝えることで、本の山をさばいていった。
作業を続けていく内に、二人の呼吸が合っていく。
「これは?」
「破壊術の本です。あなたには使いませんから、ご心配なく」
ギルバートは内心驚いた。ミレーネの口から冗談が出てくるとは思ってもみなかったのだ。
「あー、こっちは?」
「それは付与術の本です。そこにある、同じ暗い緑色の表紙をしている本は全て付与術のものです」
「分かった」
手に持っていた本を付与術のコーナーに置いてから、ミレーネが伝えた同色の本を、山の中から抜き出していく。
効率が上がったこともあってか、百冊を優に超えていた本の山の整理は一時間程度で終了した。
なお、元々は乱雑に放られていたものであるのに、ミレーネが不要だと判断した本は一冊もなかった。
「よし、次は紙の整理だ。……その前に、疲れていないか? 休むか?」
「私は平気です。ギルバートこそ、大丈夫ですか?」
「俺はこういう仕事を物心ついた頃からやってきたんだ。これくらいなんてことない。では、紙の方の整理に移るか?」
「はい」
ミレーネの顔色は悪くない。それを確認して、ギルバートは山と積まれた紙の最初の一枚を手に取った。
「これは?」
「えっと……」
しかし、紙に書かれた文字を細かく判断するには、距離を空けていては難しい。
ミレーネはギルバートのすぐ側まで歩み寄り、彼の手中の紙を覗きこんだ。
「うーん、これは変性術に関するちょっとした覚え書きです。別に捨てても……いえ、この発想は使えるかも……」
「おい」
「はい?」
紙から目を上げずにミレーネは言葉の続きを促した。
ギルバートは紙を持っていない方の手で頭を抱えた。
こいつは今、どれだけ俺の近くにいるのか分かっているのか、と彼は苦悩する。
二人の距離はごく近い。あとほんの少しでお互いの体が触れあいそうだ。
「いや……何でもない。判断できないならとりあえず取っておけ。今は時間が惜しい」
「そうですね。では、変性術の所にお願いします」
ミレーネが顔を上げる前にギルバートはさっと歩き出し、布の上に紙を置いた。
そしてミレーネの方を振り返ると、彼女は山から紙を一枚取り、紙面を眺めている。
「これはいりません」
「あ、ああ、そうか。では分けておいて、後でゴミとして処分する」
「はい、お願いします」
ミレーネは紙をギルバートの方へ差し出した。
彼はそれを受け取り、また布を敷いてゴミコーナーを設け、そこに紙を置く。
その間、ミレーネは次の紙を取っていた。
「これは治癒術のアイディアです」
「おう」
手渡す。置きに行く。戻ると、ミレーネは次の紙を渡す。
どうやらミレーネは作業の手順に慣れた様子だ。
紙を自分の手に取っても読みふけることなく、内容の傾向だけを読み取り、必要な物なのか、必要であるのならばどの分類なのか、滔々と述べた。
ミレーネが主体的になったおかげでさらなる効率化がなされ、約十五秒で一枚のペースでどんどんと紙を片付けていく。
その結果、こちらも一時間と少しで紙を分類しきることができた。
「これで終わりだな」
「……終わるとは思いませんでした」
惚けた様子のミレーネに、ギルバートは苦笑する。
「二人の人手をかけたんだ、終わるに決まっているだろう」
「ええ、そうですね……」
しまう先の部屋をまだ片付けていないため、本も紙も床に敷かれた布の上に置かれたままではあるが、そこには秩序があった。
床一面に散らかり放題であった際とは雲泥の差だ。
「ギルバート、あなたのおかげです。心より感謝します」
ミレーネは深々と頭を下げた。
困惑がギルバートの顔に表れる。
「……なあ、前から疑問だったんだが。俺はあんたの使用人だぞ? あんたが金を払っているんだ。それなのになぜ、いちいち礼を言う?」
自分よりいくらか背が高いギルバートを見上げ、ミレーネはぱちぱちと目を瞬かせた。
「私のために力を尽くしてくれた方にお礼を述べるのは当たり前ではありませんか? 感謝していますから、それを言葉として伝えたいのです」
感謝している。そのフレーズがギルバートの思考の中で反響した。
むずがゆさを覚え、ギルバートは彼女から目を逸らす。
「あー、今日の片付けはこれくらいにしておけ。まだ二日ある。続きはまた明日やればいい。喉が渇いていないか? お茶を入れてくる」
「まあ。ありがとうございます」
彼女が微笑んだ気配がして、思わずギルバートは横目でそちらを窺った。
穏やかな表情で笑うミレーネは美しかった。
朝食を食べ終えた後の皿が残るダイニングルームにて、イスに腰かけて二人は向かいあっていた。
「では、俺は皿を片付けたら、昨日やりきれなかった洗濯をしてくる。その間、物の分類をしておいてくれ。いる物といらない物、いる物はその種類を分けてくれさえすれば、後は俺が片付けるなり捨てるなりできる」
「頑張ります」
ギルバートの指示を受け、ミレーネは神妙な顔つきで頷いた。
その彼女の服装は汚れてもよいようにと、いつもより薄汚れ、所々に染みがついているワンピースだ。普段は錬金術における薬の調合をする際にローブの下に着ている。
「洗濯物を干し終えたら戻ってくる。それまでにダイニングの作業が終わったら、次はリビングをやっていてくれ」
「はい」
ダイニングルームの床に散らかっていた本や紙などは、おおむね一まとまりにされている。部屋を歩き回って物をかき集める手間もないのだから、自分が他の作業をしている間に済ませられるだろう。
ギルバートはそう考え、ミレーネがこれまで溜めに溜めていた家事の一つである洗濯をしに向かった。
二月のまだ弱いが晴れた日差しの下に洗濯物を干し終え、ギルバートは肩を回しながらダイニングルームに戻ってきた。
雇い主の作業の進捗を目の当たりにし、目を見開く。
ギルバートの入室に気付いて本から視線を上げたミレーネは、はっとした後、ばつの悪そうな表情になった。
彼女の手から、山に本が一冊戻される。
物の山にはほとんど手が着けられておらず、ギルバートが退室した際と同様の姿を保っている。
「なるほど……あんたは片付けよりも読書を優先させたわけか」
自然とギルバートの喉から低い声が出た。ミレーネは細い肩をびくりと震わせ、うつむいてしまう。
「よっぽど重要な本なのだろうな。呪文一つで部屋が片付く魔法でも載っているのか?」
そこまで言って、ギルバートはミレーネの反論を待った。
しかし、予想に反して何も言い返してこない。
「ミレーネ?」
ギルバートが屈みこみ、ミレーネの顔を覗きこむと、潤んだ赤茶色の目と目が合った。
「はぁっ?! あ、いや、悪かった。言い過ぎた」
ギルバートは仰天し、次いで自分の言葉を反省する。
「つい、前の家の同僚と話すときのように喋ってしまった。すまない。その……お茶でも飲まないか?」
ミレーネは首を縦にも横にも振らなかったが、ギルバートは独断でティータイムを設けることを決めた。
何らかの手段で空気を変えなければ、いつまでも気まずさが続きそうだと考えたためだ。
「待っていてくれ、用意してくる」
沈黙を保ったままのミレーネを部屋に残し、ギルバートは廊下へ出る。
「あーくそ、俺はまた……」
両手で頭を抱え、しばらくぶつぶつと呟いた後、彼は整った顔を後悔で歪ませながらキッチンへ向かった。
白いティーカップの持ち手を華奢な右手でつまみ、注がれた紅茶を一口すする。
そしてミレーネは深く息を吐いた。
ダイニングテーブルの対面から、ギルバートは彼女の顔色がいくらかよくなったことを視認する。
「ありがとうございます。少し落ち着きました」
小さな声でそう言った雇い主の言葉を受け、ギルバートは頭を下げる。
「すまなかった。明らかに俺の失言だ」
「あ、その、顔を上げてください。ギルバートは悪くありません。私が悪いのです」
ギルバートが目だけでミレーネを見ると、おどおどとしており、どうすればいいのか分からない様子だった。
これは頭を下げては逆効果だと判断し、ギルバートは姿勢を戻す。
「そうです、私が悪いのです」
目を逸らしながら、ミレーネは独り言のように呟く。
「やると言っておきながら、気が逸れてしまい約束を守れなかった、私が悪いのです」
再びミレーネは下を向いてしまった。
その視線は紅茶の水面上をぼんやりと滑っている。
何と言うべきか少し思案してから、ギルバートは口を開いた。
「あんたは悪くない。ただ、やり方が悪かっただけだ」
「やり方……?」
おずおずと、ミレーネは少しだけ視線を上げ、上目遣いでギルバートの顔を覗き見た。
「そう、やり方だ。あんただって、例えば、そうだな、魔法のことで上手くいかないことがあったらどうしてる? 一度やってみて成功しなかったら、そこで諦めるのか?」
「いえ。別のアプローチを試します」
即答され、ギルバートは苦笑する。
落ちこんでいても魔法に関することなら思考が切り替わるらしい。
「そうだろ? 今回だって、別の方法を試せばいいだけだ。俺も手伝う。……そろそろ昼食の支度をする必要があるから、その後にな。仕切り直しだ。飯ができたら呼ぶから、休んでいてくれ」
「……はい」
ミレーネが動く様子はないので、ティーセットはそのままに、ギルバートは昼食の準備へ去っていった。
ダイニングのイスに座ったまま、ミレーネはティーカップの中身を飲み干して横にどけ、ぽつりと呟く。
「ペン、インク瓶、紙」
魔力を使ってキーワードを唱えることにより、述べたものが空間を飛び越えてミレーネの眼前のテーブルに至る。
羽根ペンを手に持ち、インク瓶に浸けて黒のインクを含ませ、白紙に向き合った。
紙の中央に「部屋の物の片付け」と書く。
次いで、左上辺りに「一人で物を分類する」と書き、その上に大きなバツ印を記す。
そこでミレーネの手は止まってしまい、テーブルに肘をついて頭を抱えた。
「大丈夫か?」
「……はい」
昼食中、ミレーネは終始沈んだ面持ちで、無理矢理食べ物を口に運んでいるかのようだった。そのため、ギルバートもあえて話しかけることはしなかった。
沈黙の食事が終わり、ギルバートが食器をキッチンで洗ってきた後。
使用人からの問いかけに、ミレーネは返答できる程度にはなっていた。
暗い顔で大丈夫と言われても全く説得力はないのだが、ギルバートは手を動かせた方が気分転換にもなってよいだろうと判断する。
「では、ここの整理整頓を始めるか」
「は、はい。よろしくお願いします」
立ち上がったミレーネは、ギルバートに対して深々と頭を下げた。
雇い主らしからぬ態度に調子が狂うなと感じながら、ギルバートは物を部屋の壁際に寄せただけの山に向かう。
「まずは本から分けるか」
ミレーネがおどおどと見守る中、彼は一つの山の天辺にあった本を手に取る。
水色の厚紙で表紙が覆われた、大きめの本だ。
二、三メートル離れた所で立ち尽くしているミレーネに本を見せる。
「これはいるものか?」
「必要なものです」
「あんたが後でやりやすいように分けるとしたら、これの分類は何になる?」
「幻惑術、です」
「なら、ここには幻惑術関連の本を置いていく」
そう言ってギルバートは、昼食準備の合間に用意しておいた一メートル四方の布を床に広げた。
そして、水色の表紙の本を布の上に置く。
「作業は俺がする。あんたは、いらない物ならいらないと、いる物なら分類を言ってくれ」
「それだけでいいのですか?」
「あんたに本を持たせたら、また読みふけりかねないからな。……ああ、いや、冗談だ」
「いえ、私のことは私もよく分かっていますから。ギルバートのアイディアの通りにやりましょう。お願いします」
自分がミレーネの顔を悲しげに歪ませてしまったことから目を背けるために、ギルバートは次の本を手に取った。
「これは?」
「治癒術の本です」
新しい布を床に置き、治癒術のコーナーとする。
次の本。
「これは?」
「あ、それは小説です」
「魔術の本だけじゃないのか」
「物語もよく読むんです。息抜きなどに」
「小説は、小説一分類でいいか?」
「んー……分けてもらった方が後から分かりやすいですよね。それは冒険物語です」
三枚目の布を床に敷き、小説は下位分類ごとにこのコーナーに置いていくことと仮に決める。もしもギルバートの想像よりも小説本が多いなら、もう一つ布を用意すればいい。
そうやってギルバートが本を提示し、ミレーネが分類を伝えることで、本の山をさばいていった。
作業を続けていく内に、二人の呼吸が合っていく。
「これは?」
「破壊術の本です。あなたには使いませんから、ご心配なく」
ギルバートは内心驚いた。ミレーネの口から冗談が出てくるとは思ってもみなかったのだ。
「あー、こっちは?」
「それは付与術の本です。そこにある、同じ暗い緑色の表紙をしている本は全て付与術のものです」
「分かった」
手に持っていた本を付与術のコーナーに置いてから、ミレーネが伝えた同色の本を、山の中から抜き出していく。
効率が上がったこともあってか、百冊を優に超えていた本の山の整理は一時間程度で終了した。
なお、元々は乱雑に放られていたものであるのに、ミレーネが不要だと判断した本は一冊もなかった。
「よし、次は紙の整理だ。……その前に、疲れていないか? 休むか?」
「私は平気です。ギルバートこそ、大丈夫ですか?」
「俺はこういう仕事を物心ついた頃からやってきたんだ。これくらいなんてことない。では、紙の方の整理に移るか?」
「はい」
ミレーネの顔色は悪くない。それを確認して、ギルバートは山と積まれた紙の最初の一枚を手に取った。
「これは?」
「えっと……」
しかし、紙に書かれた文字を細かく判断するには、距離を空けていては難しい。
ミレーネはギルバートのすぐ側まで歩み寄り、彼の手中の紙を覗きこんだ。
「うーん、これは変性術に関するちょっとした覚え書きです。別に捨てても……いえ、この発想は使えるかも……」
「おい」
「はい?」
紙から目を上げずにミレーネは言葉の続きを促した。
ギルバートは紙を持っていない方の手で頭を抱えた。
こいつは今、どれだけ俺の近くにいるのか分かっているのか、と彼は苦悩する。
二人の距離はごく近い。あとほんの少しでお互いの体が触れあいそうだ。
「いや……何でもない。判断できないならとりあえず取っておけ。今は時間が惜しい」
「そうですね。では、変性術の所にお願いします」
ミレーネが顔を上げる前にギルバートはさっと歩き出し、布の上に紙を置いた。
そしてミレーネの方を振り返ると、彼女は山から紙を一枚取り、紙面を眺めている。
「これはいりません」
「あ、ああ、そうか。では分けておいて、後でゴミとして処分する」
「はい、お願いします」
ミレーネは紙をギルバートの方へ差し出した。
彼はそれを受け取り、また布を敷いてゴミコーナーを設け、そこに紙を置く。
その間、ミレーネは次の紙を取っていた。
「これは治癒術のアイディアです」
「おう」
手渡す。置きに行く。戻ると、ミレーネは次の紙を渡す。
どうやらミレーネは作業の手順に慣れた様子だ。
紙を自分の手に取っても読みふけることなく、内容の傾向だけを読み取り、必要な物なのか、必要であるのならばどの分類なのか、滔々と述べた。
ミレーネが主体的になったおかげでさらなる効率化がなされ、約十五秒で一枚のペースでどんどんと紙を片付けていく。
その結果、こちらも一時間と少しで紙を分類しきることができた。
「これで終わりだな」
「……終わるとは思いませんでした」
惚けた様子のミレーネに、ギルバートは苦笑する。
「二人の人手をかけたんだ、終わるに決まっているだろう」
「ええ、そうですね……」
しまう先の部屋をまだ片付けていないため、本も紙も床に敷かれた布の上に置かれたままではあるが、そこには秩序があった。
床一面に散らかり放題であった際とは雲泥の差だ。
「ギルバート、あなたのおかげです。心より感謝します」
ミレーネは深々と頭を下げた。
困惑がギルバートの顔に表れる。
「……なあ、前から疑問だったんだが。俺はあんたの使用人だぞ? あんたが金を払っているんだ。それなのになぜ、いちいち礼を言う?」
自分よりいくらか背が高いギルバートを見上げ、ミレーネはぱちぱちと目を瞬かせた。
「私のために力を尽くしてくれた方にお礼を述べるのは当たり前ではありませんか? 感謝していますから、それを言葉として伝えたいのです」
感謝している。そのフレーズがギルバートの思考の中で反響した。
むずがゆさを覚え、ギルバートは彼女から目を逸らす。
「あー、今日の片付けはこれくらいにしておけ。まだ二日ある。続きはまた明日やればいい。喉が渇いていないか? お茶を入れてくる」
「まあ。ありがとうございます」
彼女が微笑んだ気配がして、思わずギルバートは横目でそちらを窺った。
穏やかな表情で笑うミレーネは美しかった。
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