NUMB
2-4
落ち着いて湯船に浸かれるようになる頃、不思議と逆に披露が出てきていた。
というのも、怒らないからと自分で言っていた汐里も、洗い方に関しては口を出してきたのだ。強すぎ、女の子の肌は繊細だ、胸を揉むなと、口やかましく。
男の力からすれば、それは全然強い方ではなく、寧ろ弱いくらいに気を付けていたし、胸だって別に揉んでもいない。言いようのない居心地の悪さに対し、どちらかといえば気を遣っていた方だというのに。
しかし、そこで反論しても自分の立場は弱い。不慮の事故的な現象による居候な上に、性別まで違うのだ。それは当然、意見の食い違いや加減云々の話も出る。
「ふぅー……」
とはいえ、買ってはあるがあまり使っていない入浴剤を解禁してもらったことで、そんな疲れも存外と一気に吹き飛んでしまった。
香りとは素晴らしいものだ。
リラックス効果、なんて安っぽい売り文句も、馬鹿には出来ないらしい。
肩までしっかり湯に浸けて、出来得る限りのリラックス。
と、せっかくの至福の時間は、
――キーン――
例によって入れ替わりで遮られる。
『君が表にいる時、俺にはその気持ち良さが伝わんないんだよな』
「それはお互い様なのよね。私も、何も感じないんだから」
次いで言われる、「私が本体なんだし」という言葉を以って、琢磨の小さな愚痴も終わる。
大きく伸びをしながら身体をほぐして、大きく息を吐いて落ち着く汐里。「はふぅ」と小さく可愛らしい吐息をもらすと、天井を仰いで話し始めた。
「仲村さんの思っている通り、あの人は本当のお母さんじゃないわ」
その言葉に、だろうな、と横槍を入れるのを躊躇っていると、変な間がうまれて、汐里に大丈夫かと問われてしまった。
問題ないとだけ短く返すと、汐里は了解して続きを話した。
義母ならぬ偽母を語る上で、まず話されたのは宝石病についてのことだった。
それは初日に聞いた筈、と首を傾げる琢磨に、汐里は「その遺伝性について」だと言った。
そこまで言われれば流石に察しもついて、なるほど両親がいないのはそういうことかと得心がいった。
宝石病には、ウイルス性の病で言うところの『潜伏期間』がある。具体的ではないが、それは数年から十数年に及び、その間あるいは発症後に両親のどちらかが身籠ってしまった海外の数症例では、いずれも百パーセントの確立で子どもに遺伝している。
そうして母体から出て来た子どもは、生まれながらにして宝石病を患っているのだそうだ。
汐里が中学になってから聞かされた話によると、患っていたのは母で、宝石病の悪化で亡くなった。では父は、という話になるのだが、
「後追い自殺よ」と汐里が括ったことで、琢磨は何も返せなかった。
嫁が患い、娘までそれを持って産まれてくることに耐え切れず、程なくして身を投げたのだそうだ。
残された汐里に引き取り手は無かったのだが、その謎の奇病について研究しているのが国とあって、その機関より母親代行を請け負ってきているのが、
「あの人、塩澤渚さん。物心つく頃には居た人だから、彼女は私が気付いていることに気付いてはない…はず」
『国の……』
「ちょっと違うけど、ほら、出会い系の一つで『レンタル彼女』とか『彼女代行サービス』とかって聞いたことない? そんな感じ。何の義理もなく、国から依頼されたからってだけで、母親のフリをしてるの。ただの研究対象なんだよ、私は」
実の母の顔も、本当ならいる筈の父の顔も知らず、ただ他人に育てられた。
言葉にすれば、説明をするならば、確かにそれで合っているのだろう。
ただ、そこに一切の心が無い――と、そう決めつけるのは、どうなのだろう。聊か早計ではなかろうか。
琢磨はそう思ったが、口には出せなかった。
高々半年弱だけ一緒にいる奴に、何が分かるものか。そう言われるのが怖かったわけではなかったが、どうしても、言葉が喉でつかえて外には出なかった。
「知音と美希だけだなぁ、私には」
『おいこら、あの会長はどうしたよ』
「……ふふ」
言葉で返さず、汐里は目を伏せて苦く笑った。
『何だよ?』
「ううん。てっきりそこは『俺はどうしたよ』って言い出すかと」
『アホ言え。俺が君の何だって言うんだよ』
「男ならそれくらいの甲斐性、見せてくれたっていいんじゃない?」
『ふん。どうせ俺に実体がないからな』
琢磨がそう答えると、汐里は「そうだね」と小さく返して、口元まで湯に浸けた。ぶくぶくと子どものように音を立てて、それ以上の追随を許さない。
と、そんなことを十秒ほど続けた後で、何か面白い話は無いかと無茶なボールを投げた。
『面白い話って言われて披露する題材は、大抵そうでもないやつだ』
「その発言から既に面白くないね――っと、そうだ」
汐里が何か閃いたように柏手を打った。
「貴方の話が聞きたいな。『茜』って子の話。貴方の記憶が入ってはいるけど、所々霞んでる部分もあるのよね……って、無理なら別にいいんだけど」
『あぁいや、別に構わないんだが……君の話を聞いた後で、その話題は』
「話しにくい?」
『ある意味では話し易い、かな。全然ものは違うけど、ちょっとだけ似てるんだよ、君と』
汐里の話を聞きながら、琢磨は『似てる』『そこも同じような感じだ』と、生前のことを思い出していた。
それが所々、汐里のそれと似ていたものだから、つい頭を過ってしまったのだ。
『そうだな……どこから話すか』
死して尚も覚えていることは不思議だったが、その深く刻まれた記憶を順に拾って、汐里に語り聞かせていく。
『まずは茜が誰かって話になるが――』
「彼女さん?」
どんな惚気話を聞かされるのかと、ワクワクいつもより高めの声で汐里が言う。
『フライングして盛り上がるな。残念ながら妹だ』
「あ……と、ごめん」
『あぁいや、別に』
浮かれた話を聞かされるのかとテンションが上がっていた汐里は、割と素直に少し反省すると、また口元まで湯に浸けてぶくぶく。
意外と子供っぽい側面もあるのだな、と笑う琢磨。
それにまた噛みついてくる汐里だったが、今度は憤慨ではなく照れ隠しのそれだった。
『俺が専門三回生になる歳だから、あいつは大学一年か。志望校にも受かってたみたいだし、今頃はキャンパスライフを……楽しんでくれてるといいんだけどな』
「遠い?」
『あぁ。学校に行く前、いつもテレビで天気予報見るだろ? チェックしている範囲からすると、三百、いや四百キロは離れてるな』
移動しようものなら、県を三つは跨ぐだろう。
「わ、遠いね」
『そこそこな。何だって急に?』
「えと……近かったら、何か理由をつけて訪問でも、と思って」
『嬉しいが、良い言い訳も思いつかん』
「見に行くだけなら?」
『不審者扱いだろうな』
琢磨がぶっきらぼうに言い放つと、それは嫌だなぁと汐里は肩を落とした。
そう思いながらも、汐里はまた別のことに思いを馳せていた。兄弟、姉妹、まして両親もいない汐里にとって、その存在とはどういう意味を持つのか。どれだけ大切か、どれだけ思っているか、どれだけの事を共にして、どれだけのことを覚えているのか。
嫌がられるかも分からなかったが、汐里は尋ねずにはいられなかった。
「妹さんのこと、好き?」
その全てを含んだ一言に琢磨は、
『何より大切で、誰より大好きな存在だ』と、臆面もなく言い放った。
「そうやって言えるの、凄いね」
『似てるって言ったろ。いないんだ、うちにも両親ってやつが』
「え……?」
一瞬、汐里は何を言っているのか分からなかった。
別居か、あるいは赴任中か、そんな辺りの理由からか、あるいは全く別のところで似ていると言っていたのか、そう思っていたのだ。
そこに急に、いないと言われては、固まりもする。
「俺が中学の頃だったかな。腸内の福引で当てた旅行の、帰り道だった。冬の雪山でスリップ起こして、そのまま崖下に。即死だったらしいな。死に目にはあえなかったけど、葬式は出来た。それだけが、まだいいところだな」
それを聞いた途端のことだった。
こともあろうか、汐里が涙を流していたのだ。
思えば、妹だと言った時からだったかもしれないが。
琢磨が、おい、と声をかけると、それを誤魔化すように頭まで潜った。
『ちょ、おい、どうしたんだよ…?』
呼びかけ、
『おいって』
もう一度呼びかけて、
『陸上さんってば…!』
「ぷはっ…!」
三度目でようやく頭を出して、湯船の縁に頬杖をついた。
「私の病気は、確かに重い。重いけど、私よりも辛い思いをしてるのは、仲村さんの方だったね。ごめん」
『何だよ、急に』
汐里は、ついている両腕を寝かせ、枕のようにしてそこに頭を預けた。
「だってそうでしょ。ちゃんと知っているご両親がいて、でも事故で亡くしてしまって。妹さんと二人っきりになっちゃって、それなのに……ご両親と同じ亡くなり方なんて、そんな…」
気が付けば、また涙が溢れていた。
琢磨には「悩みなんてそれぞれの捉え方だ」と言っておきながら、わざわざ自分のことを比較して持ってきて、それで泣いているだなんて、我ながら馬鹿馬鹿しい話ではあった。
それでも、それが分かっているに、どうしても涙が止まらない。知りもしない両親のこと、どうでもいい親代わりの他人、それらを悩み事のように琢磨に向かって話していた自分が恥ずかしくて、同時に琢磨がとにかくも可哀そうで。
死に際に助けたいと願った相手が自分だなんて。
ちゃんと治療を受けて、時間をかけて、リハビリもこなしていれば、あるいはまだ――そう考えると、琢磨が今こうして笑っていることが、忘れもせずに語れていることが、ただただ無念で仕方がなくて。
勝手な同情は相手の怒りを買うこともある。それは分かっているのに。
どうして。
『汐里』
どうして、
『ありがとう』
彼は、お礼を言えるのだろう。
どうして、そんなに穏やかな声が出せるのだろう。
彼を今こうしている原因の一端は自分にあるのに、とお門違いな後悔まで出て来るというのに、どうしてそうやって言えるのだろう。
彼の言葉、思い、行動に至る全て、汐里には理解が及ばなかった。
「どうして、そんなに強いの…?」
しまった、と思った時には既に遅く、そんな言葉が口をついていた。
『また唐突だな。俺が強いって? どこがだ?』
「強いよ。少なくとも、私よりかは」
『どうしてそう思う?』
琢磨の問いに、汐里は枕にしていた腕を解いて、今度は縁に背中を預けて答えた。
「貴方には、大切なものがあったから。妹さんはまだ生きているのに……私は、正直とっても怖い。死んじゃうことも、知音と美希を心配させちゃうことも、全部全部、怖い」
『それは――』
確かにそうであろうが、そうでもなかった。
『それは、違うと思うぞ』
汐里はすぐに、どうして、と返した。
『さっきの話だがな、やっぱり、変化ってやつは必要なんだよ』
「変化…?」
『あぁ。今は怖い、辛い、思うことはアホほど浮かぶだろ。だが、それは決してマイナスじゃない』
「何で? 私は、もうちょっとしか生きられないんだよ?」
『一日でも、あれば十分、いや十二分だろ』
当たり前のように琢磨は言ってのけた。
それは、琢磨が現に死んでいるからであった。生前の琢磨でえあれば、そんな思いも浮かばなかったことだろう。
『知ってるか? 今じゃあ、日本の端から端まで行くのに、飛行機使えば三時間もかからないんだ。凄くないか?』
「すご――え、いや、何でそんな話…?」
『まぁ聞け。あくまで俺の持論だが、必要な時間は半日もいらない』
「どういうこと…?」
尋ねる汐里に、こほんと一つ咳払い。
『やり残しがあったら怖いだろ。嫌だろ。悔しいだろ。でもな、今はそれが、半日ありゃ何だって出来るんだ。あぁ、国内に限った話な』
「うん…」
『三時間あれば、日本の端っこにいる大好きな人に、それも直接顔を見合わせて気持ちが伝えられる。四、五時間あれば車でも三つは県をまたげるし、六時間ありゃあもっと行ける。新幹線なら、その時間の内に気持ちを伝えてデートも出来て、一石二鳥ってな』
「何が言いたいの?」
何が言いたいか。
結論は、こうだ。
『君の方が強い。いや、強くなれるんだ。それも、今よりもっと、更にずっとだ。綺麗にリミットが決まっている分、一日以上の余裕は確実にあると分かってる。さっき会長を誘えて、明日は言ってみればデートだ。それが終われば、またやり残しを全部洗って、次の日からでも遅くはない。勿論、君が望めばだけどな』
望めば、叶う。
その言葉は、良くか悪くか、汐里の胸に突き刺さった。
『俺はもういない。死んだからな。でも、君はまだいる、生きてる。動き出せば、自分から望んでいけば、何だってまだ出来るんだ。出来る身体を持ってるんだ。俺はそうは思わんが、今は俺に劣っていると思うのも良いだろう。ただ、それも努力次第で二転三転出来るなら、どうだ? あとたったの二週間しかない命も、そう考えれば、まだまだ捨てたものじゃないとは思えないか?』
もう何度目になるかは分からないが、汐里は素直に、驚いた。
ついさっき語られた昔話も、今見せつけられた持論も、琢磨はどちらも当然のことのように言い張っていたから。
私よりも苦しんで、私よりも辛い思いをして、私よりも報われなくて。
そんな思いを一瞬でも抱いていたのが、失礼もいいところだった。
琢磨は微塵も、そんなことを考えてはいなかった。考えようとしていなかった。
最小も時間でも、出来ることは残っている。そんな考え方、したこともなかった。
今日踏み出したのだって、自分ではただ、意地のようなものだったのだ。だが琢磨は、それすらも変化の一つだと、そう言っているのだ。
どうすれば、何を食べれば、こんなに豊かな人間になれるのだろうか。
「……お、思う」
『だろう? じゃあ、今の段階でどっちが強い、なんて線引きは必要ないわな』
「うん――貴方より、強くなるくらいじゃないと」
『その息だ。そう言ったからには、途中で投げ出さんようにな。少なくとも、自分からは』
琢磨のそんな言葉に、汐里は強く「勿論!」と答えた。
意気込みが勝ったからではない。
そうやって明るく振舞いながら語る琢磨だったが、その中に少し感じ取れた後悔のようなものが、針や棘が刺さっているように、チクりと痛かったからだ。
俺が出来なかった後悔を、せっかくこうして話している君には経験して欲しくない。
そう言われているようで、自然と気合も入ったのだ。
琢磨が死んだ原因は事故なのに、後悔なんて考える余地もなかったであろうに、それを幾らでも考えることの出来る汐里には、後悔しない残りを生きろと言う。
「どうかしてるね、仲村さんって。こんなに親切な人、初めて出会ったよ」
『悪いがそれも見当違い、視野が狭いってな。世界には七十億を超す人間がいるんだ。そいつら全員と話してみりゃ、その見解も変わるぞ、きっと』
「……かもね」
ただ、自然と零れるだけの言葉。
意識せず、それを美徳と思わず、特別だとも感じずに。
命を繋いでくれたのが、この人で良かった。
汐里は改めてそう感じた。
もう一度大きく伸びをして、立ち上がる。
「ちょっと、長風呂しすぎちゃったかも。風邪ひかなきゃいいけど」
『なるようになるさ。明日のことは誰にも分からん』
「そうだよね。これからは、渚さんとも話を――」
湯船の縁に手を置いて体重を支え、お湯から出ようとした、その瞬間。
「けほっ、こほっ…ごほっ…!」
『おい、大丈夫か? 本当に風邪でもひいたんじゃ――』
――コツン、コツン、コロコロコロ……――
咳込むと当時に、何かが口から零れ落ちた。
視界の先五十センチは排水溝前。
「……やっぱり。そろそろ、なのかな」
キラリと光る、琢磨もどこかで見たことのある六角形。
今までで一番大きな、ダイヤモンドの欠片が転がっていた。
というのも、怒らないからと自分で言っていた汐里も、洗い方に関しては口を出してきたのだ。強すぎ、女の子の肌は繊細だ、胸を揉むなと、口やかましく。
男の力からすれば、それは全然強い方ではなく、寧ろ弱いくらいに気を付けていたし、胸だって別に揉んでもいない。言いようのない居心地の悪さに対し、どちらかといえば気を遣っていた方だというのに。
しかし、そこで反論しても自分の立場は弱い。不慮の事故的な現象による居候な上に、性別まで違うのだ。それは当然、意見の食い違いや加減云々の話も出る。
「ふぅー……」
とはいえ、買ってはあるがあまり使っていない入浴剤を解禁してもらったことで、そんな疲れも存外と一気に吹き飛んでしまった。
香りとは素晴らしいものだ。
リラックス効果、なんて安っぽい売り文句も、馬鹿には出来ないらしい。
肩までしっかり湯に浸けて、出来得る限りのリラックス。
と、せっかくの至福の時間は、
――キーン――
例によって入れ替わりで遮られる。
『君が表にいる時、俺にはその気持ち良さが伝わんないんだよな』
「それはお互い様なのよね。私も、何も感じないんだから」
次いで言われる、「私が本体なんだし」という言葉を以って、琢磨の小さな愚痴も終わる。
大きく伸びをしながら身体をほぐして、大きく息を吐いて落ち着く汐里。「はふぅ」と小さく可愛らしい吐息をもらすと、天井を仰いで話し始めた。
「仲村さんの思っている通り、あの人は本当のお母さんじゃないわ」
その言葉に、だろうな、と横槍を入れるのを躊躇っていると、変な間がうまれて、汐里に大丈夫かと問われてしまった。
問題ないとだけ短く返すと、汐里は了解して続きを話した。
義母ならぬ偽母を語る上で、まず話されたのは宝石病についてのことだった。
それは初日に聞いた筈、と首を傾げる琢磨に、汐里は「その遺伝性について」だと言った。
そこまで言われれば流石に察しもついて、なるほど両親がいないのはそういうことかと得心がいった。
宝石病には、ウイルス性の病で言うところの『潜伏期間』がある。具体的ではないが、それは数年から十数年に及び、その間あるいは発症後に両親のどちらかが身籠ってしまった海外の数症例では、いずれも百パーセントの確立で子どもに遺伝している。
そうして母体から出て来た子どもは、生まれながらにして宝石病を患っているのだそうだ。
汐里が中学になってから聞かされた話によると、患っていたのは母で、宝石病の悪化で亡くなった。では父は、という話になるのだが、
「後追い自殺よ」と汐里が括ったことで、琢磨は何も返せなかった。
嫁が患い、娘までそれを持って産まれてくることに耐え切れず、程なくして身を投げたのだそうだ。
残された汐里に引き取り手は無かったのだが、その謎の奇病について研究しているのが国とあって、その機関より母親代行を請け負ってきているのが、
「あの人、塩澤渚さん。物心つく頃には居た人だから、彼女は私が気付いていることに気付いてはない…はず」
『国の……』
「ちょっと違うけど、ほら、出会い系の一つで『レンタル彼女』とか『彼女代行サービス』とかって聞いたことない? そんな感じ。何の義理もなく、国から依頼されたからってだけで、母親のフリをしてるの。ただの研究対象なんだよ、私は」
実の母の顔も、本当ならいる筈の父の顔も知らず、ただ他人に育てられた。
言葉にすれば、説明をするならば、確かにそれで合っているのだろう。
ただ、そこに一切の心が無い――と、そう決めつけるのは、どうなのだろう。聊か早計ではなかろうか。
琢磨はそう思ったが、口には出せなかった。
高々半年弱だけ一緒にいる奴に、何が分かるものか。そう言われるのが怖かったわけではなかったが、どうしても、言葉が喉でつかえて外には出なかった。
「知音と美希だけだなぁ、私には」
『おいこら、あの会長はどうしたよ』
「……ふふ」
言葉で返さず、汐里は目を伏せて苦く笑った。
『何だよ?』
「ううん。てっきりそこは『俺はどうしたよ』って言い出すかと」
『アホ言え。俺が君の何だって言うんだよ』
「男ならそれくらいの甲斐性、見せてくれたっていいんじゃない?」
『ふん。どうせ俺に実体がないからな』
琢磨がそう答えると、汐里は「そうだね」と小さく返して、口元まで湯に浸けた。ぶくぶくと子どものように音を立てて、それ以上の追随を許さない。
と、そんなことを十秒ほど続けた後で、何か面白い話は無いかと無茶なボールを投げた。
『面白い話って言われて披露する題材は、大抵そうでもないやつだ』
「その発言から既に面白くないね――っと、そうだ」
汐里が何か閃いたように柏手を打った。
「貴方の話が聞きたいな。『茜』って子の話。貴方の記憶が入ってはいるけど、所々霞んでる部分もあるのよね……って、無理なら別にいいんだけど」
『あぁいや、別に構わないんだが……君の話を聞いた後で、その話題は』
「話しにくい?」
『ある意味では話し易い、かな。全然ものは違うけど、ちょっとだけ似てるんだよ、君と』
汐里の話を聞きながら、琢磨は『似てる』『そこも同じような感じだ』と、生前のことを思い出していた。
それが所々、汐里のそれと似ていたものだから、つい頭を過ってしまったのだ。
『そうだな……どこから話すか』
死して尚も覚えていることは不思議だったが、その深く刻まれた記憶を順に拾って、汐里に語り聞かせていく。
『まずは茜が誰かって話になるが――』
「彼女さん?」
どんな惚気話を聞かされるのかと、ワクワクいつもより高めの声で汐里が言う。
『フライングして盛り上がるな。残念ながら妹だ』
「あ……と、ごめん」
『あぁいや、別に』
浮かれた話を聞かされるのかとテンションが上がっていた汐里は、割と素直に少し反省すると、また口元まで湯に浸けてぶくぶく。
意外と子供っぽい側面もあるのだな、と笑う琢磨。
それにまた噛みついてくる汐里だったが、今度は憤慨ではなく照れ隠しのそれだった。
『俺が専門三回生になる歳だから、あいつは大学一年か。志望校にも受かってたみたいだし、今頃はキャンパスライフを……楽しんでくれてるといいんだけどな』
「遠い?」
『あぁ。学校に行く前、いつもテレビで天気予報見るだろ? チェックしている範囲からすると、三百、いや四百キロは離れてるな』
移動しようものなら、県を三つは跨ぐだろう。
「わ、遠いね」
『そこそこな。何だって急に?』
「えと……近かったら、何か理由をつけて訪問でも、と思って」
『嬉しいが、良い言い訳も思いつかん』
「見に行くだけなら?」
『不審者扱いだろうな』
琢磨がぶっきらぼうに言い放つと、それは嫌だなぁと汐里は肩を落とした。
そう思いながらも、汐里はまた別のことに思いを馳せていた。兄弟、姉妹、まして両親もいない汐里にとって、その存在とはどういう意味を持つのか。どれだけ大切か、どれだけ思っているか、どれだけの事を共にして、どれだけのことを覚えているのか。
嫌がられるかも分からなかったが、汐里は尋ねずにはいられなかった。
「妹さんのこと、好き?」
その全てを含んだ一言に琢磨は、
『何より大切で、誰より大好きな存在だ』と、臆面もなく言い放った。
「そうやって言えるの、凄いね」
『似てるって言ったろ。いないんだ、うちにも両親ってやつが』
「え……?」
一瞬、汐里は何を言っているのか分からなかった。
別居か、あるいは赴任中か、そんな辺りの理由からか、あるいは全く別のところで似ていると言っていたのか、そう思っていたのだ。
そこに急に、いないと言われては、固まりもする。
「俺が中学の頃だったかな。腸内の福引で当てた旅行の、帰り道だった。冬の雪山でスリップ起こして、そのまま崖下に。即死だったらしいな。死に目にはあえなかったけど、葬式は出来た。それだけが、まだいいところだな」
それを聞いた途端のことだった。
こともあろうか、汐里が涙を流していたのだ。
思えば、妹だと言った時からだったかもしれないが。
琢磨が、おい、と声をかけると、それを誤魔化すように頭まで潜った。
『ちょ、おい、どうしたんだよ…?』
呼びかけ、
『おいって』
もう一度呼びかけて、
『陸上さんってば…!』
「ぷはっ…!」
三度目でようやく頭を出して、湯船の縁に頬杖をついた。
「私の病気は、確かに重い。重いけど、私よりも辛い思いをしてるのは、仲村さんの方だったね。ごめん」
『何だよ、急に』
汐里は、ついている両腕を寝かせ、枕のようにしてそこに頭を預けた。
「だってそうでしょ。ちゃんと知っているご両親がいて、でも事故で亡くしてしまって。妹さんと二人っきりになっちゃって、それなのに……ご両親と同じ亡くなり方なんて、そんな…」
気が付けば、また涙が溢れていた。
琢磨には「悩みなんてそれぞれの捉え方だ」と言っておきながら、わざわざ自分のことを比較して持ってきて、それで泣いているだなんて、我ながら馬鹿馬鹿しい話ではあった。
それでも、それが分かっているに、どうしても涙が止まらない。知りもしない両親のこと、どうでもいい親代わりの他人、それらを悩み事のように琢磨に向かって話していた自分が恥ずかしくて、同時に琢磨がとにかくも可哀そうで。
死に際に助けたいと願った相手が自分だなんて。
ちゃんと治療を受けて、時間をかけて、リハビリもこなしていれば、あるいはまだ――そう考えると、琢磨が今こうして笑っていることが、忘れもせずに語れていることが、ただただ無念で仕方がなくて。
勝手な同情は相手の怒りを買うこともある。それは分かっているのに。
どうして。
『汐里』
どうして、
『ありがとう』
彼は、お礼を言えるのだろう。
どうして、そんなに穏やかな声が出せるのだろう。
彼を今こうしている原因の一端は自分にあるのに、とお門違いな後悔まで出て来るというのに、どうしてそうやって言えるのだろう。
彼の言葉、思い、行動に至る全て、汐里には理解が及ばなかった。
「どうして、そんなに強いの…?」
しまった、と思った時には既に遅く、そんな言葉が口をついていた。
『また唐突だな。俺が強いって? どこがだ?』
「強いよ。少なくとも、私よりかは」
『どうしてそう思う?』
琢磨の問いに、汐里は枕にしていた腕を解いて、今度は縁に背中を預けて答えた。
「貴方には、大切なものがあったから。妹さんはまだ生きているのに……私は、正直とっても怖い。死んじゃうことも、知音と美希を心配させちゃうことも、全部全部、怖い」
『それは――』
確かにそうであろうが、そうでもなかった。
『それは、違うと思うぞ』
汐里はすぐに、どうして、と返した。
『さっきの話だがな、やっぱり、変化ってやつは必要なんだよ』
「変化…?」
『あぁ。今は怖い、辛い、思うことはアホほど浮かぶだろ。だが、それは決してマイナスじゃない』
「何で? 私は、もうちょっとしか生きられないんだよ?」
『一日でも、あれば十分、いや十二分だろ』
当たり前のように琢磨は言ってのけた。
それは、琢磨が現に死んでいるからであった。生前の琢磨でえあれば、そんな思いも浮かばなかったことだろう。
『知ってるか? 今じゃあ、日本の端から端まで行くのに、飛行機使えば三時間もかからないんだ。凄くないか?』
「すご――え、いや、何でそんな話…?」
『まぁ聞け。あくまで俺の持論だが、必要な時間は半日もいらない』
「どういうこと…?」
尋ねる汐里に、こほんと一つ咳払い。
『やり残しがあったら怖いだろ。嫌だろ。悔しいだろ。でもな、今はそれが、半日ありゃ何だって出来るんだ。あぁ、国内に限った話な』
「うん…」
『三時間あれば、日本の端っこにいる大好きな人に、それも直接顔を見合わせて気持ちが伝えられる。四、五時間あれば車でも三つは県をまたげるし、六時間ありゃあもっと行ける。新幹線なら、その時間の内に気持ちを伝えてデートも出来て、一石二鳥ってな』
「何が言いたいの?」
何が言いたいか。
結論は、こうだ。
『君の方が強い。いや、強くなれるんだ。それも、今よりもっと、更にずっとだ。綺麗にリミットが決まっている分、一日以上の余裕は確実にあると分かってる。さっき会長を誘えて、明日は言ってみればデートだ。それが終われば、またやり残しを全部洗って、次の日からでも遅くはない。勿論、君が望めばだけどな』
望めば、叶う。
その言葉は、良くか悪くか、汐里の胸に突き刺さった。
『俺はもういない。死んだからな。でも、君はまだいる、生きてる。動き出せば、自分から望んでいけば、何だってまだ出来るんだ。出来る身体を持ってるんだ。俺はそうは思わんが、今は俺に劣っていると思うのも良いだろう。ただ、それも努力次第で二転三転出来るなら、どうだ? あとたったの二週間しかない命も、そう考えれば、まだまだ捨てたものじゃないとは思えないか?』
もう何度目になるかは分からないが、汐里は素直に、驚いた。
ついさっき語られた昔話も、今見せつけられた持論も、琢磨はどちらも当然のことのように言い張っていたから。
私よりも苦しんで、私よりも辛い思いをして、私よりも報われなくて。
そんな思いを一瞬でも抱いていたのが、失礼もいいところだった。
琢磨は微塵も、そんなことを考えてはいなかった。考えようとしていなかった。
最小も時間でも、出来ることは残っている。そんな考え方、したこともなかった。
今日踏み出したのだって、自分ではただ、意地のようなものだったのだ。だが琢磨は、それすらも変化の一つだと、そう言っているのだ。
どうすれば、何を食べれば、こんなに豊かな人間になれるのだろうか。
「……お、思う」
『だろう? じゃあ、今の段階でどっちが強い、なんて線引きは必要ないわな』
「うん――貴方より、強くなるくらいじゃないと」
『その息だ。そう言ったからには、途中で投げ出さんようにな。少なくとも、自分からは』
琢磨のそんな言葉に、汐里は強く「勿論!」と答えた。
意気込みが勝ったからではない。
そうやって明るく振舞いながら語る琢磨だったが、その中に少し感じ取れた後悔のようなものが、針や棘が刺さっているように、チクりと痛かったからだ。
俺が出来なかった後悔を、せっかくこうして話している君には経験して欲しくない。
そう言われているようで、自然と気合も入ったのだ。
琢磨が死んだ原因は事故なのに、後悔なんて考える余地もなかったであろうに、それを幾らでも考えることの出来る汐里には、後悔しない残りを生きろと言う。
「どうかしてるね、仲村さんって。こんなに親切な人、初めて出会ったよ」
『悪いがそれも見当違い、視野が狭いってな。世界には七十億を超す人間がいるんだ。そいつら全員と話してみりゃ、その見解も変わるぞ、きっと』
「……かもね」
ただ、自然と零れるだけの言葉。
意識せず、それを美徳と思わず、特別だとも感じずに。
命を繋いでくれたのが、この人で良かった。
汐里は改めてそう感じた。
もう一度大きく伸びをして、立ち上がる。
「ちょっと、長風呂しすぎちゃったかも。風邪ひかなきゃいいけど」
『なるようになるさ。明日のことは誰にも分からん』
「そうだよね。これからは、渚さんとも話を――」
湯船の縁に手を置いて体重を支え、お湯から出ようとした、その瞬間。
「けほっ、こほっ…ごほっ…!」
『おい、大丈夫か? 本当に風邪でもひいたんじゃ――』
――コツン、コツン、コロコロコロ……――
咳込むと当時に、何かが口から零れ落ちた。
視界の先五十センチは排水溝前。
「……やっぱり。そろそろ、なのかな」
キラリと光る、琢磨もどこかで見たことのある六角形。
今までで一番大きな、ダイヤモンドの欠片が転がっていた。
「現代ドラマ」の人気作品
書籍化作品
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