ななめ

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価値の発生について





今朝も動物園のどっかで見たことがあるようなのっそりした動作でベットから抜け出しいつものようにとりあえずリビングの椅子に座る。

大学生になってからというもの、ゆとり教育と言わんばかりのこの朝ののんびりさ。
高校生に戻りたいとよく話題に上がり盛り上がっているが、あんな異常に朝の早くから心に焦りと負担を背負いながら家を出なければならないのなら、私は一生高校生には戻りたくないし、いっそのこと社会人にもなりたかない。
朝のラッシュの電車に駄菓子の詰め放題のように駅員にこの身を押し入れ込まれるなんて真っ平御免である。

今日も今頃、人間扱いかギリギリのラインで駅員に押しつぶされて電車に乗り込む人がいるのだ、なんて哀れなのだ。
そんなことを考えて飲むブラックコーヒーはやたらの優越感と罪悪感の味でいっぱいだ。
罪悪感をしっかりと感じているあたり、私はまだ可愛い人間と言えよう。


しかし、あの電車に乗るほとんどがそれぞれの会社や持ち場に向かっていると考えると、彼らは誰かしらに必要とされ、社会に出ている、言わば選ばれし匠である。
世の中には就活してもしてもご縁のない人間も存在する。


どっかの、くさいドラマかなんかで「人間にはみんなそれぞれ同じだけ大切な価値がある」とかなんとか言っているのを聞いたことがあるが、果たしてそれは本当なのだろうか。

例えば、市場に出回るモノの価値というのはその希少さや需要の度合いで決まるわけだ。
人間それぞれの希少さというのは、みんな個々の違う人間であるから1で条件は同じとしよう。
ただし需要の度合いの点を考えたらどうだろうか。

就活中に内定をいくつも貰う輩もいれば、いつまでも就職先が見つからない迷える子羊もいる。
つまり、この時点で「あなたは我が社に必要な人材だ」「あなたは我が社には必要ない」と需要の差は明らかになっている。
それと同時に、そこに「価値」という概念が生じる。


大げさな話をすれば、今ここで私が死ぬのと、社会の経済を回すことに大きく貢献している、某携帯会社のS.まさよしが死ぬのとでは社会に及ぼす影響がまるで違う。
それはS.まさよしが私よりはるかに価値の高い人材であり、人生を歩んできたからであるということを誰が否定できるだろうか。


世の中というのは案外思いやりのないものなのだ。


しかしこんなことを言うといつかと同じように、反社会的人間、なんて呼ばれてもおかしくない。
それだけはなんとしてでも避けなければならない。

ただ、私にも1人だけこんな論理を笑って聞いてくれる友人がいるのだ。
今日はその人とバイト後に会う約束がある。
いけないいけない、忘れるところだった。
とりあえず今日は、その時を楽しみに生きることとしよう。


風は相変わらず冷たいが天気は良い。

きっと良いことが起こるに違いない。
そんな単純なことを思い、私は今日も家を後にするのだった。

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