TS初心者娘が彼氏と初めてデートする話。~鱶澤くんの後日談~
序章 シノブの策略
ふたりぶんのコーヒーと、紅茶のシフォンケーキをお盆にのせて、階段を上がる。
鱶澤家は小さな家だから、キッチンから一分もかけず、兄の部屋に到着できる。コンコンコンと、扉をノック。
「お兄ちゃん、入るわよ」
おう、と兄の返事。しかし入室したわたしを迎えたのはベイオウーフ……と、いうアダナで呼んでいるわたしの友人であり、お兄ちゃんの彼氏でもある、桃栗太一くんだった。
「ありがとうシノブちゃん。……あっ、これシノブちゃんの手作り? 美味しそう」
さすが、ベイオウーフはよく気が付く。わたしは頷いて、彼に二人分のおやつを差し出した。
「実際美味しいわよ。ごはんの腕はお兄ちゃんにかなわないけど、お菓子とかなら、わたしのほうが得意だからね」
「作らないだけだ、やろうと思えばできる」
部屋の奥から文句が飛んできた。わたしはムッと頬を膨らませる。
「負け惜しみ。言っとくけどお菓子作りって、ごはんとはまた勝手が違うんだからね」
「学校では作ってるんだよ。興味ないだけだっつってるだろ。――俺は男なんだから」
兄のセリフに、ベイオウーフが苦笑い。わたしも肩をすくめた。
「その姿で言われてもねえ……」
わたしに言われ、美少女となった兄は細い眉を半分あげた。
兄、鱶澤ワタルが、この姿になってもう二か月。
夏休み、兄は広島の離島へ旅行に出かけていた。あとで聞いた話、そこにはこのベイオウーフもいたらしい。いやあ、びっくりだよね。大誤算。まさかお兄ちゃんが、高三にもなってあのアホ鮫団全員と団体旅行にいってただなんて。
もちろん、わたしは確認したのよ? だってわたし、このベイオウーフがアホ鮫団にいるのは知ってたからね。下級生は一緒じゃないよねって、出発前に聞いたもん。なのにお兄ちゃんったら……変な見栄を張って嘘つくから。
ほんと、ばかな兄だ。
それにしても、ベイオウーフと兄ができちゃうとは。人生、何があるかわからないものだわ。
旅行先でなにがあったのか、具体的には聞いてない。
兄は男の姿で帰ってきて、そのあと一か月間、ずっとそのままだった。失恋したんだろうと思って触れずにいたら一転。ベイオウーフが訪ねてきたあの日から、お兄ちゃん突然雌体化し、以後はずっと女の姿のままである。
――姿だけ、は。
「おい、いつまで部屋にいるんだ。用が済んだらさっさと出て行けよシノブ」
偉そうに言う兄。ふふふ、可愛い。大男だったときなら、このひとにらみでたいていのひとは震え上がったんでしょうけど、今は小柄な女の子。ただでさえちっとも兄を敬ってないこのシノブさんがビビるわけがないのである。お兄ちゃんったら可愛い。
ベイオウーフが気を使って、恋人をたしなめる。
「だめですよ鱶澤さん、シノブちゃんは僕らにお菓子持ってきてくれたんですから。ありがとうね、シノブちゃんも一緒にゲームする?」
そういって、ベイオウーフは無線ゲーム機を掲げて見せた。わたしは笑って手を振った。
「ううん。わたしもこれから、巫女侍とデートだから」
「そっか。久しぶりに、ボインゴGの流星コンボが見れるかと思ったけど」
「お前ら、ゲームユーザー名で会話するんじゃねえ!」
怒鳴る兄に、わたしは腰に手を当て嘆息する。
「いいじゃない、桃栗くんは、わたしのゲーム友達でもあるんだから。友達同士の会話を邪魔しないでよね」
「鱶澤さんはゲーム苦手だから、おれらが盛り上がっちゃうと入れないんだよ。マリオもやっと一面クリアしたとこ」
「やめろモモチ、それじゃあまるで俺がシノブに嫉妬してるみたいだろーが!」
「違うの?」
「違うっ!」
兄は怒鳴った。
「こんな姿してるけども、今の俺は鱶澤ワタル――中身はまるきり男だって、何回言ったらわかるんだ。モモチのことは後輩の男友達としか思ってねーよ」
はいはい、と流すわたし。横で、ベイオウーフはちょっと複雑な顔をした。
兄が言っているのは、天邪鬼な照れ隠しなんかではない。彼の本心をそのまま口にしているのだろう。肉体は完璧に女性でありながら、精神は男のままなのだ。
二か月前の第四日曜日――立ち去ったベイオウーフを、男の姿で追いかけていった兄。そしてふたりは手をつないで帰ってきた。少女になった兄とその恋人は、わたしになにも語ることなく、二階の部屋へシケこんでいった。
じきに気を利かせて家を出たので、彼らがナニをやらかしていたのかは知らないわよ。ええ、なんにも。想像もつきませんとも。
「あっあっあっ無理ぃ壊れる、なにそれ、そんなの無理」
「だ、大丈夫、アユムちゃん。ゆっくり……ゆっくりするから」
「怖い。お願いモモチ、手を握ってて……」
「アユムちゃん。おれ止まんないよ。アユムちゃん」
……なんて声が聞こえてきたけども、なんのことやら。シノブさんは皆目見当がつきませぬ。
その夜、わたしが帰宅したときには兄はもう眠っていて、そこから丸三日も寝込んでいた。
起きた時には、こういうことになっていた。
「……ワタルはずっと、雄体優位で生きてたからねえ。いきなり優位性が逆転して、心も体も混乱してるんだよきっと」
そう言ったのは、母だった。
それから二か月。
兄は男の体に戻ることはなく、高校に休学届を出した。もともと三年生の九月だから、出席義務はほとんどない。出席日数だけは良かった兄は、休学したまま卒業できるらしい。
卒業後は、かねてから迷っていた、調理の専門学校に進むらしい。早いうちから教材を取り寄せて、自宅学習に励んでいる。
ベイオウーフは、週に二、三度、ぶらりとうちに遊びにやってくる。やってることはゲームとか、いっしょに勉強とか。普通に、男友達として遊んでいるだけらしかった。
……体は女の姿でも、男の心を持つお兄ちゃん。
兄にとって、「モモチ」はただ男言葉でも――彼にとっては、彼女――なんじゃないのかなあ。
……つらくないのかな、ベイオウーフ。
心身ともに。
「……でも、楽しそうにしてるのよねえ……」
ベイオウーフは間違いなく、自ら望んでここに通ってる。わたしが口を出すことじゃないよね。
わたしは彼らを放置して、自室で支度を済ませ、彼氏とのデートへ出かけようとした。
と、ちょうどトイレに降りてきた兄とかちあう。兄はわたしの姿を上から下までじっと見た。
「……デートか、シノブ」
「そうだけど。何よ、お兄ちゃん」
「いや……」
なにやらモゴモゴと、言いよどむ。見ている間に、どんどん紅潮している。口元に手を当て、うつむいてから、兄はわたしに耳打ちしてきた。
「その服、可愛い。……またその店にいったら、あたしにも、同じようなの買ってきて……」
わたしは目を向いて、兄を見つめた。思わず大きな声が出る。
「お兄ちゃん、アユムなの!?」
「ち、ちがうっ! 基本的には、ワタルなんだ。ほんとに」
兄は慌てて首を振った。
「でも、一日だけ……週に一度、毎週日曜日だけは、あたし……なんかこう、割り切るのが難しくて、よくわからないんだけど。……どうやら、モモチを好きになっちゃうみたいなんだ……」
「な、なによそれ……」
わたしは兄を睨みつけた。
お兄ちゃんのことは、まあ好きだけども、ベイオウーフだってわたしの友達だ。彼を思えば、許せる嘘ではなかった。
だってあまりにも残酷じゃない? ベイオウーフが可哀想だよ!
「なんで彼に言わないの。週に一度だけでも、男と女になってイチャイチャすればいいじゃない!」
「大きな声を出すなっ。わ、わかってる。わかってるよ。でも……」
「でもなによ。いつかはちゃんと話すつもり? いつ?」
「い、いつかは。でも……まだもう少し。その。覚悟が……」
「覚悟って何?」
「だからその――」
「さっさとハッキリしなさいよ!」
わたしが怒鳴りつけると、兄はビクゥッと縦に跳ねた。ゆであがったタコみたいに急速に赤面し、その場にしゃがみこんで、
「いっ……痛かったんだもんっ……!」
「……。……ああ。まあそりゃね。でも最初の数回だけだから。そのうち平気に」
「その最初も……無理だった……」
兄は膝を抱え、そのまま動かなくなってしまった。わたしは腰に手を当て、しばらく思考。そしてエーッと声を上げた。
「えっなに、お兄ちゃんベイちんこ入れてないの、未貫通なの?」
「だからお前はなんでそうセリフがダイレクトなんだ! ていうかベイちんこってなんだ!」
「だってそんなの枕でも噛んどきゃどーにかなるじゃない。ホントの箱入り娘ならまだしもケンカ番長のお兄ちゃんが耐えられない痛みじゃないでしょ。持前のド根性はどうしたの」
「い、いや、痛みとか根性とかじゃなくて、その……物理的に……入らなくて……」
わたしは再び、声を上げた。
「なにそれお兄ちゃんが〇×▽小さいの、それともモモチんこが思いのほか巨大なの」
兄は何も言わずに頭を抱えた。
この様子だと……両方かな。
ふーん、とわたしは適当な声を漏らす。
正直、わたしも自分の親、ラトキア星人の生態についてはよく知らない。わたしたちは混血だし、生まれも育ちも地球だから、性教育が母親からしか受けられないのだ。
その母曰く、個人差が激しいことなんだと。
「……んー。たぶん、お兄ちゃんみたいに雄体優位から逆転して女になるのと、わたしが雌体優位からそのまま成長し完成したのとでは、心身の負担が全然違うのでしょうね」
わたしの言葉にうなずく兄。膝を抱えたまま、ぼそぼそと。
「でも、まだ未熟なだけ……だと思う。あたしはまだ、女の子初心者だから。これからまだ、すこしずつ変わっていくんだ。胸が大きくなったのと同じように……」
なるほどね。
たぶん、それは正しいのだろうけど――わたしは腰に手を当てて、兄を見下ろした。
「あのねお兄ちゃん……イイコト教えてあげようか」
「……ん?」
「セックスって――気持ちいいのよ」
ブッ、と兄は吹き出した。一気に紅潮し汗を浮かべてのけぞる。
「……な、な……何言うんだよイキナリッ! 何の話?」
「だからセックスの話。痛いのは最初だけだから。一線越えたら、一人でするのなんかお話にならないくらい超絶気持ちよくって、もう一日中つながってなきゃたまんないってくらいハマるわよ」
「ばっ、バカ言うな、嘘だそんなの。お前な、あたしがそういうの知らないと思って大ウソつくなよ。もしほんとにそうなら、世の中みんなずーっと乱交してるじゃねえか。男はともかく、女は普通、彼氏のために仕方なく――」
「個人差とピンキリじゃない? 好きでもない男にまさぐられたらオエーだし、好きな人には髪を撫でられただけでイキそうになるじゃない。――でしょ?」
「う、うん」
頷く兄。……頷かれてしまった。いまのはツッコミ待ちのボケってやつだったのだけど。
「でも……」
兄は呻いてうつむいた。思うところがないわけじゃないんだな。じゃあもう一押しか。わたしはとっておきの言葉を突き付けた。
「自分の体で、彼がイク時の顔や声――想像してみて」
「……え…………っ……」
そのとき、階段をトントンを降りてくる、ベイオウーフの足音がした。わたしたちは口をつぐみ、彼を振り返る。
「おれ、今日は塾だからこれで帰るね。お邪魔しました」
「お、おう、またな」
兄は意味もなく低い声で応じ、横柄に胸を張って見せた。彼を見送りに、玄関の方までついていく兄。
リビングを出ようとし、振り返る。
「服、忘れないでくれよ」
そう言い残していった。
ナカムラくんとの、待ち合わせ場所である駅。まだ約束の時間十分前なのを確認し、携帯電話を取り出す。
電話帳登録――ベイオウーフの名を探して、わたしは電話をかけた。
ベイオウーフはすぐに出た。
『もしもし、シノブちゃん。どうしたの』
「おっつー。いま大丈夫?」
『大丈夫。今、休憩時間だよ』
じゃあそんなに長話はできないか。わたしは単刀直入に、ベイオウーフに言った。
「ベイオウーフ、お兄ちゃんの中身が女の子だって気が付いてるよね」
『……君のようなカンのいい子は大好きだよ』
意外とノリのいいベイオウーフ。わたしは思わず笑ってしまった。
「……怒ってはいないみたいね。それでいいの?」
『怒ることはないよ。そりゃ、ちょっと寂しいけどね』
「寂しい? ……あのね、わたしがわざわざ電話したのは、ベイオウーフに、もう押し倒してしまえと言いたかったのよ」
ぶっ、と電話の向こうで吹き出す気配。むせている間にわたしは続けた。
「こないだは挿入できなかったんだって? あのね、わたしたちって、異性との肉体的接触により、劇的に心身が変化するの。だから挿入はできなくても、いろいろできることすればいいのよ。チューしたりハグしたりモミモミしたりレロレロしたり」
『ちょ、ちょっと、ゲホッ――ゲフンッ』
「そうやって日数を重ねていざ本番。前戯みたいなもんよ。二、三回挑戦すればきっとうまくいくようになるわ。男友達のフリをして、心の準備なんか待ってたってどうにもなりゃしないんだから。押し倒せベイオウーフ。チューしてハグして揉んで舐めろ」
『ちょっと待ってってもう……』
ベイオウーフは呻いた。わたしをたしなめるように、穏やかな声で言ってくる。
『……いいんだよ、これで。おれたちはこれでいいんだ』
「……なんでよ。ベイオウーフは平気なの? 彼女のこと欲しくならないの」
『欲しいよ、もちろん』
ベイオウーフは即答した。しかしその口調に卑屈さはない。
『おれも男だし、アユムちゃんのこと好きだから、もっと色んなことがしたい。抱きたいよ、そりゃ。たとえその、なんだ、一線越えるってのは無理でも、抱き合うだけでも』
「だったら……」
『でもダメ。おれにアユムであることを隠すのも、週に六日も心が男に戻るのも、まだ覚悟が出来てないからだろう。そんなの無理やり犯せないよ。彼女には――怖い記憶があるんだし』
……。怖い記憶? 広島旅行で、なにかあったんだろうか。
さすがに聞きとがめるわたしに、ベイオウーフは穏やかに笑った。
『いいんだ、これで。ゆっくりいくから。出会った日から、おれたちはちょっと走りすぎたんだ。今を逃すともう二度と会えないかもしれないとか、今夜で男に戻るとか、タイムリミットを背負って急いでた。――でも、もう大丈夫だから。何年かけてでも……』
「……ふうん。そっか」
わたしは頷いた。
なんか……思ってたよりホント、ちゃんと恋愛してるんだ、お兄ちゃんたち。
それはなんだか不思議な感覚だった。わたしにとってお兄ちゃんは男、それもアホで単純で、自分の顔面偏差値を自覚せず、小学生みたいに遊び惚けてた万年童貞小僧。ベイオウーフも似たようなものだ。地味で大人しくて、男らしいとこなんか見たことない。もうちょっと女子の前でカッコツケれば、すごくモテるとおもうんだけどね。
この二人がデキたのは、男子の性欲処理ってのが、大きなウェイトを占めると思ってた。だってあまりにも凸凹なカップルなんだもの。
ちょっと、その印象を改めよう。ただの友達、そして妹であるこのわたしには、見えていない一面が彼らにある。お互いにしか見せていない、本当の顔があるのだ。
もう、むやみに口を出すのはやめておこう。
――すこしだけ、さみしいけれど……。
そう思ったとき、正面から巫女侍――もとい、中村くんが歩いてくるのが見えた。わたしはベイオウーフに別れの挨拶をしようとして、ふと、眉を顰める。
「あっごめん、じゃあわたしお兄ちゃんに余計な事言ったかな」
『ん、なに?』
「ベイオウーフが可哀想って思ったから、つい。ヤッチマイナーッてハッパかけちゃった」
『……。……まあ、大丈夫だよ。そんなことで気負うほど卑屈じゃないだろうし、僕もちゃんと断るから』
「そうじゃなくて、逆に押し倒してくるかも。そしたらごめんねー。純愛ストーリーぶち壊しだよね❤」
『えっ? なにそれ、どういうこと』
彼の声に重なる、プップッ、と小さな電子音。あちらへの着信、キャッチホンだ。
一度表示を確認して、ベイオウーフは慌ててわたしとの電話を切った。
……さては、相手はお兄ちゃんだな。
まあ、彼らのことは、彼らに任せよう。
わたしは電話を片付けると、わたしの恋人、中村くんの手を取った。
すると彼はいつもの通り、体温を上げる。
彼の手から伝わる、彼の想い。
――今日も可愛いシノブ。愛してる、大切なシノブ。愛してる。――
わたしはその手を握り返し、同じ温度で想いを返す。
わたしは純正地球人だったことはないから、ほかのひとがどうかなんて知らない。だけどきっと、地球人だってそうなんじゃないかな。男でも女でも、そういうふうになっているんじゃないのかな。
好きな人から愛されると、その人のことをもっともっと好きになっちゃう。もっと愛してもらえるように、どんどん可愛くなっちゃう。
……さて、ベイオウーフ。
発情したお兄ちゃんのエロ可愛さに勝てるかな?
わたしはフフッと声を漏らした。
中村くんの隣を歩きながら、にやにや笑いが止まらない。
どのみち相思相愛よね。わがギルドの盟友、巨人族の騎士ベイオウーフ、それからお兄ちゃん。末永く二人でお幸せに。
鱶澤家は小さな家だから、キッチンから一分もかけず、兄の部屋に到着できる。コンコンコンと、扉をノック。
「お兄ちゃん、入るわよ」
おう、と兄の返事。しかし入室したわたしを迎えたのはベイオウーフ……と、いうアダナで呼んでいるわたしの友人であり、お兄ちゃんの彼氏でもある、桃栗太一くんだった。
「ありがとうシノブちゃん。……あっ、これシノブちゃんの手作り? 美味しそう」
さすが、ベイオウーフはよく気が付く。わたしは頷いて、彼に二人分のおやつを差し出した。
「実際美味しいわよ。ごはんの腕はお兄ちゃんにかなわないけど、お菓子とかなら、わたしのほうが得意だからね」
「作らないだけだ、やろうと思えばできる」
部屋の奥から文句が飛んできた。わたしはムッと頬を膨らませる。
「負け惜しみ。言っとくけどお菓子作りって、ごはんとはまた勝手が違うんだからね」
「学校では作ってるんだよ。興味ないだけだっつってるだろ。――俺は男なんだから」
兄のセリフに、ベイオウーフが苦笑い。わたしも肩をすくめた。
「その姿で言われてもねえ……」
わたしに言われ、美少女となった兄は細い眉を半分あげた。
兄、鱶澤ワタルが、この姿になってもう二か月。
夏休み、兄は広島の離島へ旅行に出かけていた。あとで聞いた話、そこにはこのベイオウーフもいたらしい。いやあ、びっくりだよね。大誤算。まさかお兄ちゃんが、高三にもなってあのアホ鮫団全員と団体旅行にいってただなんて。
もちろん、わたしは確認したのよ? だってわたし、このベイオウーフがアホ鮫団にいるのは知ってたからね。下級生は一緒じゃないよねって、出発前に聞いたもん。なのにお兄ちゃんったら……変な見栄を張って嘘つくから。
ほんと、ばかな兄だ。
それにしても、ベイオウーフと兄ができちゃうとは。人生、何があるかわからないものだわ。
旅行先でなにがあったのか、具体的には聞いてない。
兄は男の姿で帰ってきて、そのあと一か月間、ずっとそのままだった。失恋したんだろうと思って触れずにいたら一転。ベイオウーフが訪ねてきたあの日から、お兄ちゃん突然雌体化し、以後はずっと女の姿のままである。
――姿だけ、は。
「おい、いつまで部屋にいるんだ。用が済んだらさっさと出て行けよシノブ」
偉そうに言う兄。ふふふ、可愛い。大男だったときなら、このひとにらみでたいていのひとは震え上がったんでしょうけど、今は小柄な女の子。ただでさえちっとも兄を敬ってないこのシノブさんがビビるわけがないのである。お兄ちゃんったら可愛い。
ベイオウーフが気を使って、恋人をたしなめる。
「だめですよ鱶澤さん、シノブちゃんは僕らにお菓子持ってきてくれたんですから。ありがとうね、シノブちゃんも一緒にゲームする?」
そういって、ベイオウーフは無線ゲーム機を掲げて見せた。わたしは笑って手を振った。
「ううん。わたしもこれから、巫女侍とデートだから」
「そっか。久しぶりに、ボインゴGの流星コンボが見れるかと思ったけど」
「お前ら、ゲームユーザー名で会話するんじゃねえ!」
怒鳴る兄に、わたしは腰に手を当て嘆息する。
「いいじゃない、桃栗くんは、わたしのゲーム友達でもあるんだから。友達同士の会話を邪魔しないでよね」
「鱶澤さんはゲーム苦手だから、おれらが盛り上がっちゃうと入れないんだよ。マリオもやっと一面クリアしたとこ」
「やめろモモチ、それじゃあまるで俺がシノブに嫉妬してるみたいだろーが!」
「違うの?」
「違うっ!」
兄は怒鳴った。
「こんな姿してるけども、今の俺は鱶澤ワタル――中身はまるきり男だって、何回言ったらわかるんだ。モモチのことは後輩の男友達としか思ってねーよ」
はいはい、と流すわたし。横で、ベイオウーフはちょっと複雑な顔をした。
兄が言っているのは、天邪鬼な照れ隠しなんかではない。彼の本心をそのまま口にしているのだろう。肉体は完璧に女性でありながら、精神は男のままなのだ。
二か月前の第四日曜日――立ち去ったベイオウーフを、男の姿で追いかけていった兄。そしてふたりは手をつないで帰ってきた。少女になった兄とその恋人は、わたしになにも語ることなく、二階の部屋へシケこんでいった。
じきに気を利かせて家を出たので、彼らがナニをやらかしていたのかは知らないわよ。ええ、なんにも。想像もつきませんとも。
「あっあっあっ無理ぃ壊れる、なにそれ、そんなの無理」
「だ、大丈夫、アユムちゃん。ゆっくり……ゆっくりするから」
「怖い。お願いモモチ、手を握ってて……」
「アユムちゃん。おれ止まんないよ。アユムちゃん」
……なんて声が聞こえてきたけども、なんのことやら。シノブさんは皆目見当がつきませぬ。
その夜、わたしが帰宅したときには兄はもう眠っていて、そこから丸三日も寝込んでいた。
起きた時には、こういうことになっていた。
「……ワタルはずっと、雄体優位で生きてたからねえ。いきなり優位性が逆転して、心も体も混乱してるんだよきっと」
そう言ったのは、母だった。
それから二か月。
兄は男の体に戻ることはなく、高校に休学届を出した。もともと三年生の九月だから、出席義務はほとんどない。出席日数だけは良かった兄は、休学したまま卒業できるらしい。
卒業後は、かねてから迷っていた、調理の専門学校に進むらしい。早いうちから教材を取り寄せて、自宅学習に励んでいる。
ベイオウーフは、週に二、三度、ぶらりとうちに遊びにやってくる。やってることはゲームとか、いっしょに勉強とか。普通に、男友達として遊んでいるだけらしかった。
……体は女の姿でも、男の心を持つお兄ちゃん。
兄にとって、「モモチ」はただ男言葉でも――彼にとっては、彼女――なんじゃないのかなあ。
……つらくないのかな、ベイオウーフ。
心身ともに。
「……でも、楽しそうにしてるのよねえ……」
ベイオウーフは間違いなく、自ら望んでここに通ってる。わたしが口を出すことじゃないよね。
わたしは彼らを放置して、自室で支度を済ませ、彼氏とのデートへ出かけようとした。
と、ちょうどトイレに降りてきた兄とかちあう。兄はわたしの姿を上から下までじっと見た。
「……デートか、シノブ」
「そうだけど。何よ、お兄ちゃん」
「いや……」
なにやらモゴモゴと、言いよどむ。見ている間に、どんどん紅潮している。口元に手を当て、うつむいてから、兄はわたしに耳打ちしてきた。
「その服、可愛い。……またその店にいったら、あたしにも、同じようなの買ってきて……」
わたしは目を向いて、兄を見つめた。思わず大きな声が出る。
「お兄ちゃん、アユムなの!?」
「ち、ちがうっ! 基本的には、ワタルなんだ。ほんとに」
兄は慌てて首を振った。
「でも、一日だけ……週に一度、毎週日曜日だけは、あたし……なんかこう、割り切るのが難しくて、よくわからないんだけど。……どうやら、モモチを好きになっちゃうみたいなんだ……」
「な、なによそれ……」
わたしは兄を睨みつけた。
お兄ちゃんのことは、まあ好きだけども、ベイオウーフだってわたしの友達だ。彼を思えば、許せる嘘ではなかった。
だってあまりにも残酷じゃない? ベイオウーフが可哀想だよ!
「なんで彼に言わないの。週に一度だけでも、男と女になってイチャイチャすればいいじゃない!」
「大きな声を出すなっ。わ、わかってる。わかってるよ。でも……」
「でもなによ。いつかはちゃんと話すつもり? いつ?」
「い、いつかは。でも……まだもう少し。その。覚悟が……」
「覚悟って何?」
「だからその――」
「さっさとハッキリしなさいよ!」
わたしが怒鳴りつけると、兄はビクゥッと縦に跳ねた。ゆであがったタコみたいに急速に赤面し、その場にしゃがみこんで、
「いっ……痛かったんだもんっ……!」
「……。……ああ。まあそりゃね。でも最初の数回だけだから。そのうち平気に」
「その最初も……無理だった……」
兄は膝を抱え、そのまま動かなくなってしまった。わたしは腰に手を当て、しばらく思考。そしてエーッと声を上げた。
「えっなに、お兄ちゃんベイちんこ入れてないの、未貫通なの?」
「だからお前はなんでそうセリフがダイレクトなんだ! ていうかベイちんこってなんだ!」
「だってそんなの枕でも噛んどきゃどーにかなるじゃない。ホントの箱入り娘ならまだしもケンカ番長のお兄ちゃんが耐えられない痛みじゃないでしょ。持前のド根性はどうしたの」
「い、いや、痛みとか根性とかじゃなくて、その……物理的に……入らなくて……」
わたしは再び、声を上げた。
「なにそれお兄ちゃんが〇×▽小さいの、それともモモチんこが思いのほか巨大なの」
兄は何も言わずに頭を抱えた。
この様子だと……両方かな。
ふーん、とわたしは適当な声を漏らす。
正直、わたしも自分の親、ラトキア星人の生態についてはよく知らない。わたしたちは混血だし、生まれも育ちも地球だから、性教育が母親からしか受けられないのだ。
その母曰く、個人差が激しいことなんだと。
「……んー。たぶん、お兄ちゃんみたいに雄体優位から逆転して女になるのと、わたしが雌体優位からそのまま成長し完成したのとでは、心身の負担が全然違うのでしょうね」
わたしの言葉にうなずく兄。膝を抱えたまま、ぼそぼそと。
「でも、まだ未熟なだけ……だと思う。あたしはまだ、女の子初心者だから。これからまだ、すこしずつ変わっていくんだ。胸が大きくなったのと同じように……」
なるほどね。
たぶん、それは正しいのだろうけど――わたしは腰に手を当てて、兄を見下ろした。
「あのねお兄ちゃん……イイコト教えてあげようか」
「……ん?」
「セックスって――気持ちいいのよ」
ブッ、と兄は吹き出した。一気に紅潮し汗を浮かべてのけぞる。
「……な、な……何言うんだよイキナリッ! 何の話?」
「だからセックスの話。痛いのは最初だけだから。一線越えたら、一人でするのなんかお話にならないくらい超絶気持ちよくって、もう一日中つながってなきゃたまんないってくらいハマるわよ」
「ばっ、バカ言うな、嘘だそんなの。お前な、あたしがそういうの知らないと思って大ウソつくなよ。もしほんとにそうなら、世の中みんなずーっと乱交してるじゃねえか。男はともかく、女は普通、彼氏のために仕方なく――」
「個人差とピンキリじゃない? 好きでもない男にまさぐられたらオエーだし、好きな人には髪を撫でられただけでイキそうになるじゃない。――でしょ?」
「う、うん」
頷く兄。……頷かれてしまった。いまのはツッコミ待ちのボケってやつだったのだけど。
「でも……」
兄は呻いてうつむいた。思うところがないわけじゃないんだな。じゃあもう一押しか。わたしはとっておきの言葉を突き付けた。
「自分の体で、彼がイク時の顔や声――想像してみて」
「……え…………っ……」
そのとき、階段をトントンを降りてくる、ベイオウーフの足音がした。わたしたちは口をつぐみ、彼を振り返る。
「おれ、今日は塾だからこれで帰るね。お邪魔しました」
「お、おう、またな」
兄は意味もなく低い声で応じ、横柄に胸を張って見せた。彼を見送りに、玄関の方までついていく兄。
リビングを出ようとし、振り返る。
「服、忘れないでくれよ」
そう言い残していった。
ナカムラくんとの、待ち合わせ場所である駅。まだ約束の時間十分前なのを確認し、携帯電話を取り出す。
電話帳登録――ベイオウーフの名を探して、わたしは電話をかけた。
ベイオウーフはすぐに出た。
『もしもし、シノブちゃん。どうしたの』
「おっつー。いま大丈夫?」
『大丈夫。今、休憩時間だよ』
じゃあそんなに長話はできないか。わたしは単刀直入に、ベイオウーフに言った。
「ベイオウーフ、お兄ちゃんの中身が女の子だって気が付いてるよね」
『……君のようなカンのいい子は大好きだよ』
意外とノリのいいベイオウーフ。わたしは思わず笑ってしまった。
「……怒ってはいないみたいね。それでいいの?」
『怒ることはないよ。そりゃ、ちょっと寂しいけどね』
「寂しい? ……あのね、わたしがわざわざ電話したのは、ベイオウーフに、もう押し倒してしまえと言いたかったのよ」
ぶっ、と電話の向こうで吹き出す気配。むせている間にわたしは続けた。
「こないだは挿入できなかったんだって? あのね、わたしたちって、異性との肉体的接触により、劇的に心身が変化するの。だから挿入はできなくても、いろいろできることすればいいのよ。チューしたりハグしたりモミモミしたりレロレロしたり」
『ちょ、ちょっと、ゲホッ――ゲフンッ』
「そうやって日数を重ねていざ本番。前戯みたいなもんよ。二、三回挑戦すればきっとうまくいくようになるわ。男友達のフリをして、心の準備なんか待ってたってどうにもなりゃしないんだから。押し倒せベイオウーフ。チューしてハグして揉んで舐めろ」
『ちょっと待ってってもう……』
ベイオウーフは呻いた。わたしをたしなめるように、穏やかな声で言ってくる。
『……いいんだよ、これで。おれたちはこれでいいんだ』
「……なんでよ。ベイオウーフは平気なの? 彼女のこと欲しくならないの」
『欲しいよ、もちろん』
ベイオウーフは即答した。しかしその口調に卑屈さはない。
『おれも男だし、アユムちゃんのこと好きだから、もっと色んなことがしたい。抱きたいよ、そりゃ。たとえその、なんだ、一線越えるってのは無理でも、抱き合うだけでも』
「だったら……」
『でもダメ。おれにアユムであることを隠すのも、週に六日も心が男に戻るのも、まだ覚悟が出来てないからだろう。そんなの無理やり犯せないよ。彼女には――怖い記憶があるんだし』
……。怖い記憶? 広島旅行で、なにかあったんだろうか。
さすがに聞きとがめるわたしに、ベイオウーフは穏やかに笑った。
『いいんだ、これで。ゆっくりいくから。出会った日から、おれたちはちょっと走りすぎたんだ。今を逃すともう二度と会えないかもしれないとか、今夜で男に戻るとか、タイムリミットを背負って急いでた。――でも、もう大丈夫だから。何年かけてでも……』
「……ふうん。そっか」
わたしは頷いた。
なんか……思ってたよりホント、ちゃんと恋愛してるんだ、お兄ちゃんたち。
それはなんだか不思議な感覚だった。わたしにとってお兄ちゃんは男、それもアホで単純で、自分の顔面偏差値を自覚せず、小学生みたいに遊び惚けてた万年童貞小僧。ベイオウーフも似たようなものだ。地味で大人しくて、男らしいとこなんか見たことない。もうちょっと女子の前でカッコツケれば、すごくモテるとおもうんだけどね。
この二人がデキたのは、男子の性欲処理ってのが、大きなウェイトを占めると思ってた。だってあまりにも凸凹なカップルなんだもの。
ちょっと、その印象を改めよう。ただの友達、そして妹であるこのわたしには、見えていない一面が彼らにある。お互いにしか見せていない、本当の顔があるのだ。
もう、むやみに口を出すのはやめておこう。
――すこしだけ、さみしいけれど……。
そう思ったとき、正面から巫女侍――もとい、中村くんが歩いてくるのが見えた。わたしはベイオウーフに別れの挨拶をしようとして、ふと、眉を顰める。
「あっごめん、じゃあわたしお兄ちゃんに余計な事言ったかな」
『ん、なに?』
「ベイオウーフが可哀想って思ったから、つい。ヤッチマイナーッてハッパかけちゃった」
『……。……まあ、大丈夫だよ。そんなことで気負うほど卑屈じゃないだろうし、僕もちゃんと断るから』
「そうじゃなくて、逆に押し倒してくるかも。そしたらごめんねー。純愛ストーリーぶち壊しだよね❤」
『えっ? なにそれ、どういうこと』
彼の声に重なる、プップッ、と小さな電子音。あちらへの着信、キャッチホンだ。
一度表示を確認して、ベイオウーフは慌ててわたしとの電話を切った。
……さては、相手はお兄ちゃんだな。
まあ、彼らのことは、彼らに任せよう。
わたしは電話を片付けると、わたしの恋人、中村くんの手を取った。
すると彼はいつもの通り、体温を上げる。
彼の手から伝わる、彼の想い。
――今日も可愛いシノブ。愛してる、大切なシノブ。愛してる。――
わたしはその手を握り返し、同じ温度で想いを返す。
わたしは純正地球人だったことはないから、ほかのひとがどうかなんて知らない。だけどきっと、地球人だってそうなんじゃないかな。男でも女でも、そういうふうになっているんじゃないのかな。
好きな人から愛されると、その人のことをもっともっと好きになっちゃう。もっと愛してもらえるように、どんどん可愛くなっちゃう。
……さて、ベイオウーフ。
発情したお兄ちゃんのエロ可愛さに勝てるかな?
わたしはフフッと声を漏らした。
中村くんの隣を歩きながら、にやにや笑いが止まらない。
どのみち相思相愛よね。わがギルドの盟友、巨人族の騎士ベイオウーフ、それからお兄ちゃん。末永く二人でお幸せに。
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