TS初心者娘が彼氏と初めてデートする話。~鱶澤くんの後日談~

とびらの

嬉しい理由

 
「このバス、霞本駅まで回るんだって。これ一本で地元まで帰れるよ」

 アユムちゃんに導かれ、言われるままに、バスに乗る。週末の四時、中途半端なタイミングで、バスは空いていた。二人で並んで座れる席をとり、窓際に彼女。走り出してすぐ、窓ガラスをポツッと水滴が叩いた。

「降ってきたね。ギリギリセーフ」
「……でも駅から濡れちゃうな。おれんちすぐ近くだからいいけど、アユムちゃんは?」
「どうしよう。ちょっともったいないけど、コンビニで傘を買うかな」
「うちの置き傘貸そうか。走れば三分だよ」

 他愛のない、薄い会話。雨が強まるごとに、バスに人が増えてくる。電車と違い、通路に人がたつということはないが、座席はもういっぱいになっているようだった。並んで座れたのは幸運だったろう。

 動物園前のバス停から、地元駅まで、一時間もかからない。残りの距離が少なくなるごとに、おれは口をひらき、また閉じる。

 何かを言わなきゃいけないのに、なんて言っていいかわからない。ごめんなさいも違う気がする。言葉のアヤだと言えばうそになる。気にしないでってのは、おれが言うのは余計に失礼なんじゃないだろうか。
 どうしていいか、わからなかった。

 雨粒の滴る窓の向こうに、見覚えのある景色がうつった。もう地元が近い。
 おれの頭の中はもう、駅に着いた後、いかにしてデートを延長するかってことしかなかった。夕飯を食べて行こうって言うには早いし、もう一軒どこかにいくにはもう遅い。それにこの雨だ。動物園は堪能できたけども、これで今日を終えるわけにはいかないよ……。

 膝の上で、硬く握った拳――その、甲が、ふわりと柔らかなぬくもりに包まれた。ぎょっとして見下ろす。
 アユムちゃんが、おれの手を握っていた。

「あ、アユムちゃ……」
「なんか、また黙ってるのなんで」

 上目遣いで、首をかしげる。
 凶悪に可愛い所作も、今のおれは気が気じゃない。思わず視線を泳がせながら、それでもやっと訪れた機会だった。おれはとりあえず第一声、ごめんなさいと謝った。

「おれ、失礼なこと言ったよな」
「えっなにが?」

 アユムちゃんの返事は、あっけらかんとしたものだった。
 ……あー、うん。なんとなくこのひとなら、そんな反応する気はしてたよ。
 さっき自分でも言っていた通り、彼女はどこか抜けていて、とくに自分自身を対象にした色恋にはすごく鈍い。気まずい空気、はちゃんと察するけど、その理由が思い寄らないんだ。
 ……未熟者のくせにクールぶりたがる、おれの心のうちなんて……

 おれの手の甲に載せられた、彼女の指が、トントンとそこをノックする。――手を、つなぎ返せというリクエスト。おれは手をひっくり返し、彼女と重ねた。
 細い指が、おれの指のすきまに入り込む。二度、三度、むぎゅむぎゅ。おれの手ごと持ち上げて小さく振ったり、揺らしたりするアユムちゃん。幼稚園児がはしゃいでいるみたいだ。なにやってんだ、と訝って、おれはやっと、アユムちゃんの顔を見た。

 ……満面の笑み、だった。

 へへっ、と声に出して、彼女は本当にうれしそうに笑っていたんだ。

「ももち、ももち」
「な、なに?」
「あのね、さっきの、もう一回言ってほしい」
「ん? さっきのって――ゴメンナサイ、もう失礼なこと言わない」

 ちがうちがう、と首を振られる。掴んだ手もぶんぶん振り回しながら、赤面してにやにや笑っている。そして彼女は、おれのほうへ体を寄せてきた。頬に唇がふれそうなほどすぐそばで、そっと囁く。混雑するバスのなか、おれ以外のだれにも聞こえぬように。

「……あたしのカラダ、おれの大事なもんだぞって、いうの。……嬉しかった」

 おれは彼女に顔を向けた。

「アユムちゃん」
「うん」
「今すぐめっちゃキスしたい」
「セリフ違うぞ」
「すきです」
「だからセリフ違うっての。何言ってんだよ、ばーか」

 コツン、と小さく頭突きをされた。意外と痛かったけど、そんなことはどうでもいい。
 おれは首を伸ばし、彼女のほうへと乗り出した。アユムちゃんは目を閉じて、わずかに顔を傾けてくれる。

 バスの振動が二人を引き寄せる。
 おれたちは、たったの一度、触れるだけのキスをした。

 ……ほんとだから。一回だけで、ちゃんとセーブしたからなっ!

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