鮫島くんのおっぱい
鮫島くんの紅
梨太を置いて、どこかへ退室していった鮫島を、座して待つ。
夫婦にあてがわれた寝室、二人のために敷かれた布団、並んだ枕の傍らにあぐらをかいて、梨太は妻を待っていた。微動だにせずにひたすら待つ。
待ち続けて、夜も更けて――やがて明ける。
ふと、覚醒した時、足を組んだまま真横に倒れていた。
「……うぐぅっ、体がいたい」
いつ寝落ちしたのかも思い出せない。
ぼんやりしたままの頭を振って、固まった手足を伸ばしてみる。ベキバキと盛大な音を立てながら立ち上った。
すっかり明るくなった部屋を見回すが、ほかに人はいない。続く大部屋(リビング)のほうへ出てみると、知った顔が三つ座っていた。
虎と、バルフレアの村長、その娘のハーニャである。
おはようございますと声をかけると、三人同時に振り向いた。
「鮫島くんは?」
まっさきに尋ねた問いには、誰も答えなかった。村長が立ち上がり、
「申し訳ございません!」
そう言って土下座した。
「――いっ?」
「虎どのより先ほど話は聞きました。うちの娘が、大変な失礼をしでかしまして、リタさまにも鮫さまにも申し訳ないことでございました。ほんとうに、ほんとうに、なんとお詫びしていいか」
「あ、ああはい……」
「リタさまにはともかく、鮫さんにお詫びすることはなにもないわ」
ぼそりと、ハーニャ。村長はすかさず怒鳴りつけたが、やはり娘は聞く耳持たず、フンと鼻を鳴らして横を向いた。
「みんなしてあたしのこと悪役にして、やんなっちゃう。リタさまも『紅』も、あのひとがドウゾってくれたんだと言ったのよ」
「……『紅』って?」
「こちらにございます」
村長はうやうやしく、小さな物を差し出した。金属製の、細長い筒である。高級な万年筆っぽい――と思いながら蓋を引いてみると、穂先があった。先端が赤く染まっている。
「……筆ペン?」
「なんだリタ、実物みるの初めてか。それで目元を塗るんだよ。ラトキア有史以前からある化粧紅、そのばかみたいに高級なやつだな」
虎がいう。なるほど言われてみれば化粧品、地球ではアイラインマーカーとしておなじみのものである。同時に、鯨やカモメの目じりが紅く塗られていたのを思い出す。
物は理解して、改めて首をかしげる。
「なんでこんなものが、ここに?」
「このバカ娘が鮫さまから盗み取っておりました」
「盗んでないって言ってるでしょ! もらったの!」
「もらえるわけないだろう!」
叫ぶハーニャに叫び返す村長。そのままきゃんきゃんと親子喧嘩を始めたのを、虎が複雑な顔で眺めていた。意見を求めると、肩をすくめる。
「俺は何とも言えねえや。もらえるわけないけど、盗めたわけもないし。相手はあのだんちょーだ」
「じゃあやっぱりあげたんでしょ。要らないモライモノを回したとかで」
「――は? お前があげたわけじゃねえのか!?」
思いのほか、虎は大きな声を出した。金色の目を剥き動揺している。何度目かの首をかしげて見せた梨太に、虎は天を仰いで呻いた。
「あー……そうか、教科書には載ってなかったか……俺も蝶が結婚するときに初めて聞いたしなあ」
「なんのことだかわかんない。だから化粧品でしょ、ラトキアの女性が使う」
「これはただの顔面デコレーションじゃねえんだよ」
そこで、なぜか虎は声を潜めた。向かいのバルフレア親子がうるさいので、梨太は耳を澄ませて、彼の囁きを聞き取る。
「――名前の通り、婚儀で使うもの。地球でも結婚式やるときはなんか色々いるだろ」
「ああ、そういう儀式で使うのか」
「いや、ただの道具じゃない、男が贈ることに意味があって、それ自体が結婚式というか……あーなんだろうなあ、地球だと何に例えたらいいんだ?」
「じゃあ鮫島くんが自分で買ったんだと思うけど。なに、それがなんかおかしいの?」
「めちゃくちゃおかしいわ!」
虎は真顔でそう言った、直後、急速に赤面した。
「これを渡すのは、結婚してくださいっていうプロポーズになるんだぞ。受け取ることはその了承。渡したのがリタじゃないってんなら大惨事だ。いや、もしだんちょーが自分で買ったんだとしたらそれはそれで大惨事なんだけど」
早口でまくしたて、突っ伏してしまう。なにかとあけすけな虎が、こうまで照れるとは珍しい。やはり梨太はピンときていなかったが、虎の様子から逆算して物の意味を解釈していった。
……贈ることじたいがプロポーズ。ということは結婚指輪――いや、それなら妻が用意してもそれほどの違和感はない。プロポーズ用の婚約指輪といったところだろうか。現代日本、ドラマでしか見かけなくなったが。
梨太の感覚に近そうなもので、思いついたのがバレンタインチョコレートだった。「付き合ってください」の言葉の代わりに手渡すイベントだ。あれを性別逆転させて、もっとずっと重くした版といったところだろう。
……つまりこの紅を妻が買うということは――バレンタイン、チョコをもらえなかった男子が自ら店へ出向き、想い人から贈られたていで悦に入っているようなもの。
鮫島はそれをおくびにも出さず、この旅の道中、持ち歩いていたということになる。
梨太は頭を抱えた。
「――痛いっ。想いが重いというより、非モテ行動が痛々しいよ鮫島くんっ!」
「お前はまだいいよ、俺にとっては元上司だぞ……最悪だ。絶対見てはいけないものを見てしまった気分だ」
男二人、しばらくともに悶絶した。
惑星最強の英雄、としてはギャップが激しくダメージを受けたが、冷静になって考えてみると、いかにも鮫島がやりそうなことである。屋敷に巨大な露天風呂を作った前例がある。それと比べれば安いものだろう。内容としては痛々しいが。
「痛いッ! 叩いたわね、お父様のバカーっ!」
「痛い痛いなにするんじゃハーニャ、やめろ剥げる!」
くんずほぐれつ、交互に馬乗りになり毛をむしりあう村長親子。梨太は嘆息し、とりあえず二人をとりなした。
「ハーニャ、これをもらったのは、昨夜の……風呂に入ってくるときに、だよね。今朝とかじゃなくて」
「そうですよ! だからあたしっ」
弁論しようとするのを制し、
「ごめん、これ返して。盗んだわけじゃないのはわかってる。でもこれは……ほんとは僕のものだから」
返事を待たず、『婚儀の紅』をポケットにしまう。ハーニャは取り返そうとはしなかった。不機嫌なようすでもなく、むしろフフンと鼻を鳴らした。
「好きなひとと喧嘩して、アテツケに手放すようなものじゃないわよ」
わかっている。これをハーニャに渡した時、鮫島は大きな覚悟をしていた。
梨太に覚悟がなかったために、彼がそれを背負ってくれた。
化粧筆は、ポケットを膨らませられないほど小さなものだった。
それがずっしりと重い。
それでも、梨太は立ち上がった。歩くたび揺れる細い筒を、護るように手を添えて。
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