鮫島くんのおっぱい
ぬるま湯と冷や水①
――これでいいのだろうか?
自分への問いかけは、決まって同じ答えが出た。
「――多分、良くない」
梨太は大きく嘆息した。吐き出した息で、胸元まである水面が揺れる。日も暮れ、凍えるほどに冷えた夜空に白い湯気が上がっていた。
水温は高いが、この冷気ならのぼせることはないだろう。
バルフレアの公衆浴場である。村にたったひとつだけある、日本人が思う岩風呂にそっくりのそこは温泉と言うわけではなく、人工的に水をひいたものらしい。
本来、ただの水浴び場である。湯を沸かすのは年に数度、掃除のためらしいが、梨太たち来賓のために即席の露天風呂にしてくれた。
お湯が張られたとたん、卵や洗濯物をもった村人がわらわらやってきたのはご愛敬。
それを追い払ってくれたのは、鮫島だった。村長に湯を張るよう頼んだのも彼である。このラトキア星で湯船に浸かるという概念はない。憔悴した梨太のために、鮫島が気を利かせてくれたのだ。
「こういうとこ、やっぱ男前だよねあのひとは」
呟く。
人払いされた風呂場で、梨太の声を聞くものは誰もいない。自身が鳴らした水音を相槌に、梨太は独白を続ける。
「良くない、気はする。でも……鮫島くんがいいって言ったし。鯨さんや騎士団、この国の人たちのためにもなるし。僕も何も失わないし……」
メリットを指折り挙げてみて、その数におののく。というよりもう一方の選択肢にデメリットが多すぎるのだ。失うものの数、それを救うための苦難、乗り越えるべき課題が余りにも多かった。
それで手に入るものはひとりの美女。
梨太はそこにデメリットをひっくり返す価値を感じていた。それは今も変わっていない。この旅を、未来の苦難を憂いたことは無かった。
だが代わりに、『鮫島くん』を失う。
そうなったとしたら――それはもう、コストパフォーマンスが釣り合わない。そう思ってしまった。
あれだけ好きだったのに。今でも好きなのに。
「……五年か」
――俺はもうアイツの顔もうろ覚えだ――
そう言ったのは虎である。梨太は鮫島の顔もちゃんと覚えていたし、彼らのように不可解な別れ方をしたわけではない。遠距離恋愛で交際しているくらいのつもりだった。自分が結婚するとしたら鮫島だという確信は、この五年で揺らぎはせず、今も同じままだった。しかし――五年。
ほんの少しだけ、熱が冷め、気持ちが離れた。
そこに『鮫島くん』が競り勝った。このラトキア星で、ふたりは仲良くしすぎたのだ――
「あーあ」
ばしゃん、と梨太は湯に顔をうずめた。水中でぶくぶく吹いて気を紛らわす。そんなことで晴れるわけもない。
(僕の望み通り、そうしましょうって二人で決めたのにまだ同じようにグズグズ悩んでる)
(未練がましい。結局僕は、やっぱり『彼女』も忘れられないんだ)
(……鮫島くんが、変身じゃなくて分裂してくれたらいいのに…………)
右にイケメン騎士団長、左に物静かでにこやかな美女、その三人で仲良く一緒に暮らせたらこれ以上なく楽しいだろう。
そんな妄想に、にへらっ、と梨太の頬が緩む。
だがすぐに、いや待てよ、と眉を寄せた。
(鮫島くんと鮫さんが僕を奪い合ってケンカになるかな? そうなったら女性にも手加減ヌキ、腕力で勝る鮫島くんに有利だ)
(いやでも鮫さんには色仕掛けと言う手段が残されている。あのひと普段どこまで意識的にやってたのかわからないけど、その気で誘われたらもうどうしようもないぞ、こちとら骨抜きだもの)
(そういえば五年前、あの時だってあっちからチューして押し倒してきたんだもんなあ、もしかして鮫さんってけっこう積極的?)
(いやでもそれで言うなら鮫島くんだって。まいったな本当に喧嘩になっちゃう、どうやって仲を取り持ったものか)
持前の思考力が高速回転し、なんの生産性も無い妄想が膨らんでいく。梨太は頭を抱えた。意味のないことに意味もなく懊悩し、一所懸命、対策会議を行う。そうして出た結論を、中空に向けて呟いた。
「とりあえず、真ん中にポテチを置いてみるか」
「ポテチってなんですか」
声は、湯気の向こうから聞こえた。
女の声――と言うには少しばかり異質。少年が無理をして女声を出しているような声質に、部分的に舌ったらずになる。
果たして、湯気の向こうからやってきたのは最もよく知るバルフレア人、ハーニャだった。
腰のあたりまで湯につかり、水面を大きく波立たせながら、彼女はこちらに邁進してくる。梨太はぎょっと目を見開いた。
「は――ハーニャ、どうしたの! 僕まだ入ってるよ、裸だよ!?」
クスっ、と彼女は笑った。淡い獣毛にふちどられた、ヒトと変わらぬ形の乳房を隠しもせずに。
「見ればわかりますわ。バルフレアの湯で、おくつろぎいただけてるようで何よりです」
「や、ちょ――あれおかしいな人払いしたはずだけど! ちょっと待っててすぐ出るから!」
「あら、お気になさらず。ここはもともと混浴ですし」
ひたすらに目を白黒させている梨太に、彼女はなにか、とびきり面白いものを見たように笑い出した。これ以上なく上機嫌で、さらに湯を進み、梨太の正面へやってくる。
手を伸ばせば触れる距離で、彼女は尻を下ろした。首の下まで湯につかり、フーゥ、と大きく息をつく。
「ああ、きもちいい。いいお湯ですね……」
「そ……そうだね」
どうやら『こういうもの』らしい。
梨太はとりあえず気を落ち着けて、腰を下ろした。これがバルフレアの風習ならば、異文化交流なのである。あまり大騒ぎして拒絶するのも心象が悪いだろう。
辛い酒を飲みほし、微笑んでみせた騎士たちを思い出す。
それでもさすがに、さりげなく股間は隠して。
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