鮫島くんのおっぱい
雨の町②
「えっ、宿、やってないんですか!?」
梨太の悲鳴じみた声は、豪雨の爆音にかき消される。それでもその表情だけで、叫んだ内容は察したらしい、門番は申し訳なさそうにうなずいた。
「二年前まではたくさんあったんだけどね。もう入植も落ち着いて、みんな個人宅を構えちまったからな。大きいところから順番に閉鎖されてしまったよ」
「じゃあ、旅人はどうしているんですか?」
「そりゃ町の外に、自前のテントを張れるだろ?」
「……まじか。参ったなあ」
素直に、梨太は嘆息した。
平常ならば、それですんなりと諦める。だが今日に限って大雨、それもおそらく、スコールの真っ最中だ。
テントを張るにはかなり厳しいものがある。
「……ま、しょうがねえじゃん。俺は車で寝てるぜ」
そう言って、虎は手荷物を持ち上げて見せた。中にはテイクアウトの弁当。町に入った途端、虎はこの状況を察したらしい。すぐに食事を買い込んだのだ。
もともと、町で同伴しないと宣言していた通り、虎は二人を置いて町を出て行った。
「どうしよう……僕らも戻る?」
不安げに、鮫島を見上げる。彼は梨太の雨具が濡れないようにとマントで庇いながら、
「一介の旅人ではなく、王都からの監査や貴族の訪問もあるはずだ。そういった者たちも追い返しているのか?」
そう、門番に尋ねる。男は否定した。
「いや、そういう方々はたいてい、領主さまの屋敷に招かれています。鮫騎士団長さまとあれば、いえば泊めてもらえるとは思いますが……」
門番は一度、梨太を見て、さらに視線を遠くへやった。背の低い簡素な建物が並ぶ街道、そのずっと遠く、雨霞にぼやけてなにも見えないが、領主の屋敷があるらしい。通常でもげんなりする距離、さらにこの豪雨。
梨太は自分の恰好を見下ろした。
地球から持ってきたネルシャツにコーデュロイパンツといういで立ちに、王都で買った雨合羽と防水ブーツ。水浸しの泥だらけ。上から下まで、薄汚れた庶民である。
「……領主さまを訪ねるのは、宿目当てじゃなく、改めてご挨拶としていきたいよね。ちゃんと小綺麗なカッコして」
鮫島は頷いた。
梨太は濡れた肩を抱いて、小さく震えた。気候のいいラトキアの秋でも、目も開けていられないほどのこの雨である。気温は真冬を思わせるほど低く、視界も悪くて気が滅入る。宿が取れると期待していたのもあり、その落胆は大きかった。三日間でため込んだ、旅の疲れが心身ともに表に出てきたところだった。
梨太の様子に、鮫島は眉を寄せた。冷えた頬をつたう水滴を指先で拭い、自身も濡れていることなど忘れて、梨太を暖めようと苦心する。
「そんな悲しそうな顔しないでよ。大丈夫、車で寝よう」
「……いや、あの車で三人は手足が十分に伸ばせない。体の回復も必要だ。宿は閉めても、町には人間が暮らしている。民家を借りられるかもしれない」
「そうだね、ダメ元で探してみようか。なんにせよ、何か食べ物屋に入らない? とりあえずおなかに温かいものをいれたいな」
鮫島はうなずくと、すぐ手前の建物を指さした。大きな建物である。もとは旅館だったのだろう、二階建ての木造建築は趣がある。二階の窓はすべて封鎖されていたが、一階のパブには煌々と明かりがついていた。
「かつて宿だったなら、空き部屋を借りられるかもしれない」
「それはいいな。一石二鳥だね」
そう期待して、重い木の扉を引いた。
ぶち抜きワンフロアの店内は広く明るく、そして騒々しかった。むき出しの木柱を、縫うようにして置かれた丸テーブルに大量の椅子、そして大量の人間と酒瓶。どの席も相席らしい、不思議な組み合わせのメンツが乾杯していたりする。ぎゃははと品のない笑い声。客層もお世辞にもよいとはいえないが、朗らかではあった。粗末なテーブルに並ぶ料理は意外なくらい美味そうで、冷えたからだの真ん中で、からっぽの胃が活性化する。
夕食には早く、飲み明かすにはあまりにも早すぎる時刻である。しかしそんなことは誰も気にしないらしい。ごった返すテーブル席で、二人並んで座れるのは、最奥のバーカウンターテーブルしか無かった。雨具を脱ぎながらとりあえず腰掛ける。
「いらっしゃい。食事かい、酒かい」
カウンターの向こうで、こざっぱりした格好の男。
すかさず鮫島が問う。
「王都から来た旅人だ。泊まれる部屋はないか? この雨をやりすごしたい」
「……ほこりっぽいとこでよかったらハコはあるよ。使えるベッドはひとつしかないがね。寝袋はお持ちか? 風呂はうちのシャワーで文句はないね?」
「十分だ。代金は」
「このパブで腹一杯食ってくれ。単価の高い酒を頼むなら、新しい毛布を出してやるよ」
二人は顔を見合わせて、ほっと胸をなで下ろした。
とりあえず飲み物を注文し、改めてメニューブックを開いてみた。ずらりと並ぶ、料理名と簡単な紹介文。
「ラッキー。けっこうちゃんとしたゴハンが食べられるみたいだよ」
梨太がうれしそうに言う。右隣で、店内を見渡していた鮫島が振り向いた、そのとき。
「この店にきたなら、牛肉サンドとペッパーシチューを食いな。それ以上に美味いものはないぜ」
左隣の男が突然、声をかけてきた。
「えっ――あ、ありがとうございます。じゃあ……」
不意打ちにすこし驚きはしたが、素直に、彼の言ったものを注文してみる。じきに届けられた料理は、金額から想像していたよりはるかに豪勢であった。肉汁のしたたる巨大なハンバーガーを、とりあえず手づかみで持ち上げてかぶりつく。思わず笑みがこぼれた。
「美味しい!」
おなかの中が、急速に幸福になっていく。コショウの効いたホワイトシチューが、体の芯に染み込むようだった。
サービスで出された塩煎り豆も嬉しい。
「生き返るぅ……」
上機嫌になって食べ進める梨太に、右隣の鮫島と、左隣の男が同時に眼を細める。両方から同じ熱量の視線を感じて、梨太はとりあえず、見知らぬ男の方を向いた。
いかつい顔に、繊細なエメラルドの瞳を持つ男だった。
粗末な衣服に、禿と見間違うほどに短く刈り込んだ髪。年の頃は三十がらみ――といっても地球人にそう見えるだけなので、実年齢は四十そこそこといったあたりか。よく焼けた肌は浅傷だらけで、なにか力仕事をやっているのだろうか、むき出しの腕はたくましい。
「これ、美味しいですね。教えてくれてありがとうございました」
礼を言われて、男はさらに眉を垂らす。緑の瞳がやけに優しく、梨太の姿を見つめた。
「俺の名は鈴虫。あんたは?」
「……リタ」
「そうか。聞き慣れない音だが可愛い名前だ。あんたによく似合っている」
「は? はあ、どうも」
とりあえず相づちをうって、梨太は隣の鮫島を見やった。無言のまま静かにシチューを啜っている。その端正な横顔が、どことなく機嫌を損ねて見えた。
もう一度視線を、男の方へと戻す。鈴虫と名乗った偉丈夫は、いかつい顔立ちに甘ったるいものを含ませて、梨太をじっと見つめていた。
「料理、気に入ってもらえて何よりだ。もうひとつ、あんたにごちそうしたい酒がある。おごらせてもらえないか」
「ええと……」
梨太は眉を寄せた。
少女並に小柄であったのは高校生まで。成人してからは、「女のような顔」とは言われても、間違われたことは一度もない。
だが雌雄同体、文字通り中性的な人間がゴロゴロいるこの国で、自分がどう見えているのか確証はなかった。想定の範囲内である。梨太は苦笑いで鈴虫を牽制した。
「あの、僕、男です。見ての通り雄体ですから」
「リタ」
必殺の断り文句は、鮫島によって遮られた。彼は顔を下へ向けたまま、視線だけリタと、男の方へくべる。
「……御仁。彼女は俺の妻だ。連れ去らないでいただきたい」
そんなことを言う。ぎょっとしたのはリタだけだった。鈴虫にとってはこれこそ定型の断り文句であったのか、すぐに了解して肩をすくめる。
「そうかい、悪いことをしたな。マスター、この羨ましすぎる美男子に、彼が望むものをひとつ」
「かしこまりました」
「それから彼が許すなら、その妻にもケーキを。俺には失恋のしょっぱい塩煎り豆を頼むぜ」
再びうなずく店主。鮫島もどうということはない様子で、遠慮なく酒と菓子を、鈴虫の席から注文した。
彼が店主と談笑で盛り上がるころ、彼らの方に聞こえぬよう、小さな声で、
「リタ、ラトキア人は性別が変わる。自分は男だというのは何の防御にもならない。むしろ、雌体化周期となれば今よりもさらに可愛く魅力的になるとの宣言で、男を煽りそそらせるだけだ」
「――ええっ?」
「彼の口説き方はきわめてスタンダードだし、礼節を踏んでいる。それを断るならそれ相応の断り方というものがある。あの流れで、ではいつ雌体化すると聞かれたら絶対に回答するなよ。それは誘いに対しての肯定で、『今はダメだけど、今度この日になら』と約束をしたことになる。古くは婚約の様式だったんだ」
「うっわ怖いなにそれ怖い、ラトキア怖い」
震え上がるリタを笑うこともなく、鮫島は仏頂面で酒を吸った。その横顔は、梨太よりよほど美しく女性的なように、梨太には見える。妻より自分がナンパされたことに複雑な心境で、梨太はハンバーガーをかじった。
「リタ、今度どこかで口説かれたら、自分は人妻であると言え。それでこじれることはない」
「そ、そこ、鮫島くんが横にいるんだから、僕はあのひとの夫ですじゃダメなの? それに、雌雄同体じゃなくて雄体として完成してます! でもいいよね?」
「誰も信じないと思う」
「なんでだよ!」
と、怒鳴ってはみたものの、客観的に理解して、梨太はおとなしく食事を続けた。
ボリュームたっぷりのハンバーガーにスパイスの効いたあつあつのシチュー。とどめに蜂蜜のケーキをおなかに入れて、梨太はすっかりシアワセに。桃色に染まった丸い頬を、右から鮫島が、左から偉丈夫の甘い視線が見つめている。その両方の視線を、梨太は気がつかないふりをして、今夜の安寧に一息をつくのだった。
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