鮫島くんのおっぱい
鉄格子の向こう側
「こちらです」
梨太がその建物をくぐったとき――
異様な既視感と、閉塞感に襲われた。もう十余年も前に、一度だけ訪ねたことのある施設。それは、宇宙空間を経ても同じ質を孕むらしい。
強張った喉を唾液でうるおす。梨太は頷き、先を歩く、案内役の騎士についていった。
鯨がその後ろに続く。
そこは刑務所ではない。留置所、いや、尋問室というべきだろうか。
騎士団で捕えた人物を、警察に渡すまえにとりあえず調書を取るところであるらしい。
細長い廊下にずらりと扉が並ぶ景色はビジネスホテルを彷彿とさせた。扉についた小窓を、覗き込んでみようと近づく。
「リタ君、どうした? 止まるなよ」
鯨に突かれ、慌てて歩みを再開した。
鮫島の収監されていた監房は、フロアの一番奥、どん詰まりにあった。一番大きな部屋らしい。それは彼の身分が高いからか、それとも罪が重いからか。
鯨は礼を言い、案内人を地上へ帰した。
鍵を受け取り、扉に差し込む。扉を開くと、その先に鉄格子があった。
鯨は声を張り上げた。
「鮫!」
梨太は身を乗り出した。鉄柵の向こう、部屋の最奥に、簡素なベッドがあった。
そこに――人が寝ころがっている。
(……ああ、あの細長い体に、黒い髪)
「鮫。起きているな?」
鯨の呼びかけに、後姿がピクリと動く。そしてゆっくりと振り向いた。
――大きい。
それが、第一印象だった。
黒いシャツに、黒いズボン。
薄手の服越しに、均整のとれた肢体が見える。髪が長い――艶やかな黒髪は腰ほどまであり、広い肩を滑って、ずるりとシーツに落ちた。
細い眉、整った鼻梁、薄い唇――それは、初めて出会った『鮫島くん』よりも一回り成長した、精悍な青年であった。
「……鯨か。何の用だ」
身を起こしながらも、ひどく不機嫌な声音。男の声だった。
「こっちは、いま薬が効いてきたところで、つらい。尋問ならあとにしてくれ……」
鮫島はしばらく、梨太の存在に気が付いていなかった。やがて姉に連れがあるのを見て取る。
鋭い双眸が、怪訝なようすでこちらを見やる。緩慢に、すこしずつ、異邦人の姿を視認して――
彼は無言のまま、ゆっくりと、こちらへ歩み寄ってきた。
鉄格子越しの、五年ぶりの再会。
梨太はほほ笑む。鮫島は目を見開いて、ただ、鉄柵を握った。指先が震えている。漆黒の睫毛に縁どられた、深海色の瞳。それだけは八年前から何も変わらない、美しい――鮫島の眼差しであった。
二人は長い時間、そのまま無言でいた。そしてお互いの名を、同時に呼んだ。
「鮫島くん」
「リタ」
梨太は目を細めた。
「うん。ひさしぶり。――来たよ」
「リタ……リタ? リ……まさか。リタ」
「うん。梨太だ、鮫島くん」
まさか、と彼は首を振る。鉄柵の向こうで、細い顎が左右に揺れた。
改めて、正面に並んで見た彼は、やはり背丈が伸びていた。
筋肉質な戦士の体躯。かつて爪を立てた肩は、もう傷一つつけられる気がしない。
「鮫島くん」
鮫島の指に触れてみる。梨太の皮膚が触れた瞬間、彼はヤケドしたように手を引いた。空中で捕まえる。
「何しにきた!」
すぐに乱暴に振り払われた。梨太はほほ笑む。
「約束した通り、会いに来たんだよ。五年も待たせてごめんね……」
「約束、なんか、知らない。待ってなんかない。帰れ!」
鮫島は怒鳴りつけた。かつて聞いたことのない怒号、見たことのない形相で絶叫する。
「帰れ!」
「鮫島くん?」
「なんでこんなところにいる。リタ、リタ……なんで? 来るな。殺すぞ。俺に触るな。殺してやる――」
梨太は言葉を失った。
――これは――どういうことだ?
それは性別よりもずっと、受け入れがたい変貌だった。母国語ゆえに口調が変わって聞こえるという問題ではない。人格が違う。
呆然とする梨太に、鯨が前に出る。
「鮫。薬は飲んだか。いつだ」
「くすり、薬。……飲んだ、四十分前」
「今いちばん効いているときだな? ……注射を打て」
(薬? ――注射?)
梨太の疑問を置いて、鮫島は姉の指示に従った。キャビネットに置かれたケースを開く。そして彼は梨太に背を向けた。それでも、何をしているのかわからないほど梨太は愚鈍ではない。
鉄柵を握りしめる。握力に指の骨が耐えかねて、ギシリと鈍い音を立てた。
改めて、牢の作りを視察する。地球人である梨太が知る牢と、さほど変わりはなかった。鉄柵の一部が扉であり、そこに、ナンバーロックのパネルが張り付いている。
梨太は言った。
「入る。鯨さん、牢の鍵を開けて」
「えっ」
鯨が素っ頓狂な声を上げる。
「開けて。もともと、僕との通信内容を吐けば釈放される状況だったんでしょ。じゃあもういつでも出せるはずだよね。開けて」
「――だ、だめだ。その……罪がどうとかじゃなくて。今、鎮痛剤を打ったばかりで、まだ安定していない。危険だ」
「いいから開けて」
「来るな!」
鮫島が叫ぶ。先ほどよりも少し、呂律が回っていない。
鯨はしばらく逡巡したが、やがてパネルへと指を伸ばした。梨太からは入力画面を隠しながらも、数字を打ち込んでいく。
「来るな!」
鯨が身を離す。梨太は扉を開いた。
牢へ入ると、そこがやはり牢獄なのだと理解できた。入ったほうを振り向けば、壁一面の鉄格子。窓がなく、全体的に薄暗い。
後ずさりする鮫島を通り過ぎ、梨太は真っ先にキャビネットに向かった。そこに、注射器があった。
梨太は舌打ちした。
「これは、鎮静剤って言ったよね。オカシくなってたのは、先に飲んでた薬の影響か。そっちは何。鮫島くん病気なの」
鯨は首を振った。
「心配はいらない。体に、害はないんだ」
「何の薬?」
「自然のものだけを原材料に、あくまで自然に作用する。原理はラトキア人本来の生態と同じ、無理のない変異だ」
「性別の、雄体化の促進……?」
目の色だけで、鯨は肯定した。
「毒なんかじゃないんだ。ただ急激に心身が変化して、不安定になるだけで。……今時期だけだ。もっと、安定したら薬だって飲まなくてよくなる」
梨太は嘆息で、鯨の言葉を遮った。
「何が自然だよ、ココロとカラダを無理やり作り替えるようなことをして。おかしいと思ったよ。僕のくじらくんポータブルが鳴ったのが二か月前、それまで五年も雌体優位だったひとが、こんなにいきなり男性的になってるのは」
「お前には関係ないことだ」
言い切ったのは、鮫島。
「どういう経緯にせよ、俺は承諾して今、この状態にある。これが不愉快だというなら、さっさと地球へ還れ」
梨太は目を細めた。
足を踏み出す。鮫島が大きくなった以上に、梨太の背は伸びている。当時、二十八センチあった身長差は、十五センチにまで縮まった。それは梨太が爪先を立てて、うんと背伸びすれば届く距離――
戸惑い、俯く鮫島。その唇に、梨太は己の唇を押し当てる。不意に行われた口づけに、青年の体がびくりと動く。
梨太は迷わなかった。角度を変え、さらに唇を深く合わせる。五年前とは姿を変えた恋人に、あのときと変わらない温度のキスをして、再会を祝す。
「ちょっ――」
声を上げたのは、鯨が最初だった。
「な……何をやっている! ばか、離れろ!」
彼女は慌てて梨太の肩を引き、弟から引っぺがした。
「リ、リタ君、地球では挨拶のようなものなのかもしれないけど、ラトキアでは――!」
「知ってるよ。婚約の儀式。結婚相手としかしないくらい大切なものだって」
鯨は絶句した。
――ヒック。奇妙な音に振り向くと、鮫島がちょうど肩を震わせたところだった。ヒック、ヒックと、小さなシャックリを繰り返す。
硬直し、呆然とその場に佇む鮫島。梨太はそのまま、膝をついた。
両手の平を、床に張り付ける。
そして言った。
「結婚してください」
「ヒッ、んぅ?」
鮫島のシャックリは、そこで止まった
姉弟は同じ角度でのけぞって、同じ速度で尻もちをついた。
梨太がその建物をくぐったとき――
異様な既視感と、閉塞感に襲われた。もう十余年も前に、一度だけ訪ねたことのある施設。それは、宇宙空間を経ても同じ質を孕むらしい。
強張った喉を唾液でうるおす。梨太は頷き、先を歩く、案内役の騎士についていった。
鯨がその後ろに続く。
そこは刑務所ではない。留置所、いや、尋問室というべきだろうか。
騎士団で捕えた人物を、警察に渡すまえにとりあえず調書を取るところであるらしい。
細長い廊下にずらりと扉が並ぶ景色はビジネスホテルを彷彿とさせた。扉についた小窓を、覗き込んでみようと近づく。
「リタ君、どうした? 止まるなよ」
鯨に突かれ、慌てて歩みを再開した。
鮫島の収監されていた監房は、フロアの一番奥、どん詰まりにあった。一番大きな部屋らしい。それは彼の身分が高いからか、それとも罪が重いからか。
鯨は礼を言い、案内人を地上へ帰した。
鍵を受け取り、扉に差し込む。扉を開くと、その先に鉄格子があった。
鯨は声を張り上げた。
「鮫!」
梨太は身を乗り出した。鉄柵の向こう、部屋の最奥に、簡素なベッドがあった。
そこに――人が寝ころがっている。
(……ああ、あの細長い体に、黒い髪)
「鮫。起きているな?」
鯨の呼びかけに、後姿がピクリと動く。そしてゆっくりと振り向いた。
――大きい。
それが、第一印象だった。
黒いシャツに、黒いズボン。
薄手の服越しに、均整のとれた肢体が見える。髪が長い――艶やかな黒髪は腰ほどまであり、広い肩を滑って、ずるりとシーツに落ちた。
細い眉、整った鼻梁、薄い唇――それは、初めて出会った『鮫島くん』よりも一回り成長した、精悍な青年であった。
「……鯨か。何の用だ」
身を起こしながらも、ひどく不機嫌な声音。男の声だった。
「こっちは、いま薬が効いてきたところで、つらい。尋問ならあとにしてくれ……」
鮫島はしばらく、梨太の存在に気が付いていなかった。やがて姉に連れがあるのを見て取る。
鋭い双眸が、怪訝なようすでこちらを見やる。緩慢に、すこしずつ、異邦人の姿を視認して――
彼は無言のまま、ゆっくりと、こちらへ歩み寄ってきた。
鉄格子越しの、五年ぶりの再会。
梨太はほほ笑む。鮫島は目を見開いて、ただ、鉄柵を握った。指先が震えている。漆黒の睫毛に縁どられた、深海色の瞳。それだけは八年前から何も変わらない、美しい――鮫島の眼差しであった。
二人は長い時間、そのまま無言でいた。そしてお互いの名を、同時に呼んだ。
「鮫島くん」
「リタ」
梨太は目を細めた。
「うん。ひさしぶり。――来たよ」
「リタ……リタ? リ……まさか。リタ」
「うん。梨太だ、鮫島くん」
まさか、と彼は首を振る。鉄柵の向こうで、細い顎が左右に揺れた。
改めて、正面に並んで見た彼は、やはり背丈が伸びていた。
筋肉質な戦士の体躯。かつて爪を立てた肩は、もう傷一つつけられる気がしない。
「鮫島くん」
鮫島の指に触れてみる。梨太の皮膚が触れた瞬間、彼はヤケドしたように手を引いた。空中で捕まえる。
「何しにきた!」
すぐに乱暴に振り払われた。梨太はほほ笑む。
「約束した通り、会いに来たんだよ。五年も待たせてごめんね……」
「約束、なんか、知らない。待ってなんかない。帰れ!」
鮫島は怒鳴りつけた。かつて聞いたことのない怒号、見たことのない形相で絶叫する。
「帰れ!」
「鮫島くん?」
「なんでこんなところにいる。リタ、リタ……なんで? 来るな。殺すぞ。俺に触るな。殺してやる――」
梨太は言葉を失った。
――これは――どういうことだ?
それは性別よりもずっと、受け入れがたい変貌だった。母国語ゆえに口調が変わって聞こえるという問題ではない。人格が違う。
呆然とする梨太に、鯨が前に出る。
「鮫。薬は飲んだか。いつだ」
「くすり、薬。……飲んだ、四十分前」
「今いちばん効いているときだな? ……注射を打て」
(薬? ――注射?)
梨太の疑問を置いて、鮫島は姉の指示に従った。キャビネットに置かれたケースを開く。そして彼は梨太に背を向けた。それでも、何をしているのかわからないほど梨太は愚鈍ではない。
鉄柵を握りしめる。握力に指の骨が耐えかねて、ギシリと鈍い音を立てた。
改めて、牢の作りを視察する。地球人である梨太が知る牢と、さほど変わりはなかった。鉄柵の一部が扉であり、そこに、ナンバーロックのパネルが張り付いている。
梨太は言った。
「入る。鯨さん、牢の鍵を開けて」
「えっ」
鯨が素っ頓狂な声を上げる。
「開けて。もともと、僕との通信内容を吐けば釈放される状況だったんでしょ。じゃあもういつでも出せるはずだよね。開けて」
「――だ、だめだ。その……罪がどうとかじゃなくて。今、鎮痛剤を打ったばかりで、まだ安定していない。危険だ」
「いいから開けて」
「来るな!」
鮫島が叫ぶ。先ほどよりも少し、呂律が回っていない。
鯨はしばらく逡巡したが、やがてパネルへと指を伸ばした。梨太からは入力画面を隠しながらも、数字を打ち込んでいく。
「来るな!」
鯨が身を離す。梨太は扉を開いた。
牢へ入ると、そこがやはり牢獄なのだと理解できた。入ったほうを振り向けば、壁一面の鉄格子。窓がなく、全体的に薄暗い。
後ずさりする鮫島を通り過ぎ、梨太は真っ先にキャビネットに向かった。そこに、注射器があった。
梨太は舌打ちした。
「これは、鎮静剤って言ったよね。オカシくなってたのは、先に飲んでた薬の影響か。そっちは何。鮫島くん病気なの」
鯨は首を振った。
「心配はいらない。体に、害はないんだ」
「何の薬?」
「自然のものだけを原材料に、あくまで自然に作用する。原理はラトキア人本来の生態と同じ、無理のない変異だ」
「性別の、雄体化の促進……?」
目の色だけで、鯨は肯定した。
「毒なんかじゃないんだ。ただ急激に心身が変化して、不安定になるだけで。……今時期だけだ。もっと、安定したら薬だって飲まなくてよくなる」
梨太は嘆息で、鯨の言葉を遮った。
「何が自然だよ、ココロとカラダを無理やり作り替えるようなことをして。おかしいと思ったよ。僕のくじらくんポータブルが鳴ったのが二か月前、それまで五年も雌体優位だったひとが、こんなにいきなり男性的になってるのは」
「お前には関係ないことだ」
言い切ったのは、鮫島。
「どういう経緯にせよ、俺は承諾して今、この状態にある。これが不愉快だというなら、さっさと地球へ還れ」
梨太は目を細めた。
足を踏み出す。鮫島が大きくなった以上に、梨太の背は伸びている。当時、二十八センチあった身長差は、十五センチにまで縮まった。それは梨太が爪先を立てて、うんと背伸びすれば届く距離――
戸惑い、俯く鮫島。その唇に、梨太は己の唇を押し当てる。不意に行われた口づけに、青年の体がびくりと動く。
梨太は迷わなかった。角度を変え、さらに唇を深く合わせる。五年前とは姿を変えた恋人に、あのときと変わらない温度のキスをして、再会を祝す。
「ちょっ――」
声を上げたのは、鯨が最初だった。
「な……何をやっている! ばか、離れろ!」
彼女は慌てて梨太の肩を引き、弟から引っぺがした。
「リ、リタ君、地球では挨拶のようなものなのかもしれないけど、ラトキアでは――!」
「知ってるよ。婚約の儀式。結婚相手としかしないくらい大切なものだって」
鯨は絶句した。
――ヒック。奇妙な音に振り向くと、鮫島がちょうど肩を震わせたところだった。ヒック、ヒックと、小さなシャックリを繰り返す。
硬直し、呆然とその場に佇む鮫島。梨太はそのまま、膝をついた。
両手の平を、床に張り付ける。
そして言った。
「結婚してください」
「ヒッ、んぅ?」
鮫島のシャックリは、そこで止まった
姉弟は同じ角度でのけぞって、同じ速度で尻もちをついた。
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