鮫島くんのおっぱい
二十四歳、十六歳。②
イケメン。ハンサム。男前。どう評しても間違いではないだろうが、本気で言葉を選ぶならば、そのどれも当てはまらない。
ただ、きれいなひと、と言うのが一番的確であるような気がした。
高校三年生にしては、ひどく大人びた雰囲気が彼にはあった。
生放送カメラに物怖じしている様子はない。表情もない。よくできた人形かCGのようだった。画質の良くない小さな画面で、転校生が口を開く。
「……自己紹介。じこ、しょうかい。じぶんのしょうかい」
生きていたらしい。
黙り込んでいたインタビュアーがハッとして、追及する。
「そ、そうです。お願いします!」
「……名前は、鮫島くん。私立霞ヶ丘高校の三年四組。男子。生徒番号570279。部活動および生徒組織等には無所属。年齢は十七、八になるはずだ」
「……はい? ああ、はい」
「あとは何を言えばいい?」
聞き返されて、インタビュアーは一度息をのんだ。だがさすが放送部、すぐに声音をバラエティーの司会進行さながらに持ち上げて、テンション高く口上する。
「じゃあ、趣味と、特技と、苦手科目、それから好きなタイプなどお願いします!」
彼の気配が変わった。インタビュアーが小さな悲鳴をあげる。
鮫島は質問には答えずに、鋭い目でカメラマンを――テレビ画面を睨みつけた。梨太の教室で生徒が数人、身を震わせた。
転校生は低い声で唸る。
「……そんなことを聞いてどうする。そのカメラはなんだ。どこに放送している?」
インタビュアーが声を震わせて、
「そ、それは、あの、校内放送……学校の各教室に、鮫島くんの、あの……紹介をですね」
「放送? 何のために。人の顔を無断で垂れ流すな」
「は、はい。すみませんでした」
「……失敗した。初日から悪目立ちしてしまった。今日はもう帰る。学校長には話を付けておく。担任教師への伝達はそちらでやってくれ」
「ふえっ? な、なんですかそれちょっと待って鮫島くん、鮫島くん――!」
画面が揺れ、ぷつりと暗転。すぐにカメラが切り替わり、放送室ではないどこかの廊下で、先ほどのインタビュアーが明るく手を振っていた。
「それじゃあ、今回の放送はこれまでっ! またお会いしましょう! みなさんさよならごきげんよー!」
「……なんだそりゃ」
視聴者たちはそう呟き、皆だらけた様子で着席した。梨太も昼食を再開する。
多少好奇心はそそられたものの、それだけである。いくら美形だからって、男に興味はない。今後接点があるとも思えない。梨太は己に必要のない情報――彼という存在――を、速やかに記憶から削除した。
そして存在を忘れていた。
鮫島くん、おっぱいがあるってよ――
あの秋の日、教室で、その言葉を聞くときまでは。
あれから八年。
八年前、彼と並んで腰掛けた、自宅のソファに腰を下ろす。
真冬の室内は冷え切っていた。温暖な霞ヶ丘とはいえ、さすがに暖房なしでは凍えてしまう。
……あのときは、まだ暑いくらいだった。
秋が来るたび、梨太は彼を思い出す。
秋風のようなひとだった。
春のような甘い華やかさも、夏の燃え上がる刺激もない。かといって冬ほどに冷たく頑なではない。
じっとそばにいれば心地よくて、共に動けば灼けるほど熱い。そうして汗に濡れたまま身をはなせば、穏やかなはずの風に凍えさせられる。遙かかなた高くを見上げて、出会えたと思ったら遠くにあり、捕まえたと思ったらもういない。
二十四年という、男の人生で、恋をしたのは一度きりではなかった。あのひとよりもずっと強く惹かれたひともいた。
だけどあんなひとはいない。
彼に似たひとは、後にも先にも出会うことはなかった。
きっと、これから続く未来の果てにも。
「……どうしているかなあ」
つぶやきは、誰もいない部屋にぽつりと吐かれた。
無断で職場を抜け出してきたくせに、一応の責任感のつもりだろうか。携帯電話を胸元に抱いていた。鳴ったとしても出る気はないが。
携帯電話には、ストラップとアクセサリーがぶら下がっていた。銀色の、クジラ型をした金属板だ。ストラップといっしょに抱きしめる。
梨太は呟いた。
「……これから、なんのために生きようか」
それは、ほんの少しの休憩のつもりだった。
五年間――いや、八年間――あるいは二十四年間。走り続けてきた青年の、生まれて初めてのサボタージュ。
だが、体が動かない。
暖房をつけないままの室内は、外と変わらないほどに冷え込んで、梨太の体温をこそぎ落としていく。いい加減動かなくてはいけない。だが、腕一本動かすことができなかった。
四肢をすべて投げ出して、ぼんやりと天井を眺め続ける。
動きたい、という気持ちだけはちゃんとある。だけど瞬きをすることすらひどく億劫だ。このまま呼吸が止まるのではないかと思う、か細く閉ざされた喉から漏れたのは、弱音でも怒号でもなかった。
「鮫島くん」
梨太の儚い鼓動の上で、携帯電話が激しく震えた。
電話の着信、ではなかった。震えているのはストラップの方。石鹸のような表面、銀色の、クジラ型の金属板。
梨太は身を起こした。
クジラ型通信機――はるか銀河のかなたの星、惑星ラトキアと繋がる機械。カメラも、マイクも、スピーカーもどこについているのかわからないそれを抱えて、梨太は叫んだ。
「鮫島くん!」
返事は無かった。吐息すらも聞こえない金属の塊に、梨太はすがりついて。
「鮫島くん! 鮫島くんだろ? 鮫島くん――!」
叫び、呼び続ける。
「何か言ってよ。聞こえているでしょ? 僕の声、言葉が、わかるよね。鮫島くん。お願い、君の声を――」
梨太の懇願に、応えは無い。構わず何度も叫ぶ。
お願い、声を。言葉を聞きたい。一言でいい。それ以上はなにも望まない。
二度と会えないことはわかっていた。五年前に別れたあのときから理解していた。
あの約束は実らない。惑星ラトキアは遠すぎる。この恋は、あまりにも難しすぎるのだと。
だからもう何も望まない。ただ、少しだけ、己の人生を独り歩き出すための力が欲しい。彼に何を求めるつもりはないというのに――真実、梨太の本心であったはずなのに。
「会いたい……」
言葉だけが、勝手に嘘をついた。
しかしラトキア人からの返事は無かった。梨太も二度と話しかけはしなかった。
退職し、海外へいくと報告をしたとき、安堵の表情を浮かべたのは館長ただひとりだった。
同僚たちはみな大層に驚いた。学芸員が真っ赤にして怒鳴ってくる。
「そりゃ栗林さんは、こんな小さな水族館でこもってるようなひとじゃないと思ってましたけど。だからって急じゃないですか。企業からの引き抜きですか? そもそも海外ってどこ?」
白衣に縋ってくる後輩に苦笑して、
「うん。ちょっと、ラオスの端っこまで。いやあ、前からちょっと気になる水中生物がいてさあ。一応、雇ってくれる研究施設はメドが立ったけど、そこがどんなトコなのかは、行ってみないとわかんないね、ハハハ」
「ハハハじゃないですよ、なんですかそれ! なんでわざわざそんな危ないとこに!!」
笑っているだけの梨太に、金髪の女性が前に出た。少なからず不機嫌な様子である。
「ナスティア。あなたにも、お世話になったね」
「……この町の何が気に入らないの」
「……そういうことじゃないよ」
「嘘。研究なんて、今まで通り海外出張で出入りすれば済む話じゃないの。目的が逆だわ、あなた、この町から出ていきたくて、理由を探したんでしょう!」
ナスティアに怒鳴られて、梨太は眉を垂らした。
「……この町が嫌いになったわけじゃない。本当だよ」
ほほえみ、穏やかに告げる。
「……行ったことのないところへ行きたいんだ。まずは、言葉とか、風習とか宗教とか、勉強しなくちゃいけないことが山積みのどこかへ――」
そう話す、梨太の脳裏に一瞬、星屑をちりばめた夜空の景色が広がった。首を振って消し去る。
黙ったままの館長に向かって、梨太は頭を下げた。その周囲の同僚たちにも、まとめて告げる。
「お世話になりました。また、いつか、どこかで」
「ふあーなまらさっぶぅ……」
一人ごちながら、梨太は自宅へ歩き進んでいた。
霞ヶ丘市は温暖な町だ。真冬でも、これほど冷え込むのは例年からして珍しい。
冷気に赤く染まった指先で、「売り家」と書かれた看板をよける。
書類上、空き家扱いとはいえ、今月いっぱいまでは電気ガス水道の契約は続いている。梨太はリビングに入り、ネクタイを取り去ると、なんとなくソファに寝そべった。足を投げ出して、脱力する。
あと三日で、ここを出ることになる。
家具や生活道具は、そのままである。主の丁寧な使用により状態がよく、見学希望者に対し、そのまま展示されているのだ。もし購入者が望めば家具付き物件として値が上がる。大した差はないかもしれないが、処分費用が掛かるよりはずっといい。
(……できれば、大切に使ってくれるひとに買われて欲しいな……)
小さな家も、家具も安物ばかりだが、それなりに、思い入れもあった。
だがこれからも背負って歩く気にはなれなかった。
しばらく目を閉じ続けて――ふと、なにか物音を感じた。
二階に他人の気配がする。
売り家看板を掲げたのは先週のこと。主不在だと思い込み、浮浪者でも侵入したか? 梨太は恐る恐る、二階への階段を上った。
突き当りには梨太の自室がある。コトリ――物音はやはりそこから聞こえた。ほんの少し躊躇してから、ドアノブを押す。
薄暗い六畳間。梨太はそうっと部屋に入り見回して、後ろ頭を掻いた。
「……はて? 誰もいない」
ネズミでも住んだのかと、首をかしげて背を向ける。途端にまた物音。梨太は反射的に振り向いた。
カーテンが開かれていた。冬の日差しが部屋を照らす。
冷たい陽光を背に――いつからいたのだろう――長身の美女が立っていた。
闇に紛れる漆黒の、かつて見覚えのある軍服。腰ほどまである黒髪をうなじで縛り、白い肌に、切れ長の青い双眸。紅のない唇を軽く持ち上げて。
「やあ。リタ。……ひさしぶりだな」
彼女はそんなことを言った。
梨太は、呆然と彼女を見つめた。
細い腰に手をあてて、梨太の反応を待つ女。
梨太はしばらく絶句し――気の抜けた声で、返事をした。
「いや、なにやってんですか鯨さん」
あれっ、と肩をこけさせる美女。意外と愛嬌のある所作で身を立て直すと、照れ笑いを浮かべつつパタパタ手を振った。
ただ、きれいなひと、と言うのが一番的確であるような気がした。
高校三年生にしては、ひどく大人びた雰囲気が彼にはあった。
生放送カメラに物怖じしている様子はない。表情もない。よくできた人形かCGのようだった。画質の良くない小さな画面で、転校生が口を開く。
「……自己紹介。じこ、しょうかい。じぶんのしょうかい」
生きていたらしい。
黙り込んでいたインタビュアーがハッとして、追及する。
「そ、そうです。お願いします!」
「……名前は、鮫島くん。私立霞ヶ丘高校の三年四組。男子。生徒番号570279。部活動および生徒組織等には無所属。年齢は十七、八になるはずだ」
「……はい? ああ、はい」
「あとは何を言えばいい?」
聞き返されて、インタビュアーは一度息をのんだ。だがさすが放送部、すぐに声音をバラエティーの司会進行さながらに持ち上げて、テンション高く口上する。
「じゃあ、趣味と、特技と、苦手科目、それから好きなタイプなどお願いします!」
彼の気配が変わった。インタビュアーが小さな悲鳴をあげる。
鮫島は質問には答えずに、鋭い目でカメラマンを――テレビ画面を睨みつけた。梨太の教室で生徒が数人、身を震わせた。
転校生は低い声で唸る。
「……そんなことを聞いてどうする。そのカメラはなんだ。どこに放送している?」
インタビュアーが声を震わせて、
「そ、それは、あの、校内放送……学校の各教室に、鮫島くんの、あの……紹介をですね」
「放送? 何のために。人の顔を無断で垂れ流すな」
「は、はい。すみませんでした」
「……失敗した。初日から悪目立ちしてしまった。今日はもう帰る。学校長には話を付けておく。担任教師への伝達はそちらでやってくれ」
「ふえっ? な、なんですかそれちょっと待って鮫島くん、鮫島くん――!」
画面が揺れ、ぷつりと暗転。すぐにカメラが切り替わり、放送室ではないどこかの廊下で、先ほどのインタビュアーが明るく手を振っていた。
「それじゃあ、今回の放送はこれまでっ! またお会いしましょう! みなさんさよならごきげんよー!」
「……なんだそりゃ」
視聴者たちはそう呟き、皆だらけた様子で着席した。梨太も昼食を再開する。
多少好奇心はそそられたものの、それだけである。いくら美形だからって、男に興味はない。今後接点があるとも思えない。梨太は己に必要のない情報――彼という存在――を、速やかに記憶から削除した。
そして存在を忘れていた。
鮫島くん、おっぱいがあるってよ――
あの秋の日、教室で、その言葉を聞くときまでは。
あれから八年。
八年前、彼と並んで腰掛けた、自宅のソファに腰を下ろす。
真冬の室内は冷え切っていた。温暖な霞ヶ丘とはいえ、さすがに暖房なしでは凍えてしまう。
……あのときは、まだ暑いくらいだった。
秋が来るたび、梨太は彼を思い出す。
秋風のようなひとだった。
春のような甘い華やかさも、夏の燃え上がる刺激もない。かといって冬ほどに冷たく頑なではない。
じっとそばにいれば心地よくて、共に動けば灼けるほど熱い。そうして汗に濡れたまま身をはなせば、穏やかなはずの風に凍えさせられる。遙かかなた高くを見上げて、出会えたと思ったら遠くにあり、捕まえたと思ったらもういない。
二十四年という、男の人生で、恋をしたのは一度きりではなかった。あのひとよりもずっと強く惹かれたひともいた。
だけどあんなひとはいない。
彼に似たひとは、後にも先にも出会うことはなかった。
きっと、これから続く未来の果てにも。
「……どうしているかなあ」
つぶやきは、誰もいない部屋にぽつりと吐かれた。
無断で職場を抜け出してきたくせに、一応の責任感のつもりだろうか。携帯電話を胸元に抱いていた。鳴ったとしても出る気はないが。
携帯電話には、ストラップとアクセサリーがぶら下がっていた。銀色の、クジラ型をした金属板だ。ストラップといっしょに抱きしめる。
梨太は呟いた。
「……これから、なんのために生きようか」
それは、ほんの少しの休憩のつもりだった。
五年間――いや、八年間――あるいは二十四年間。走り続けてきた青年の、生まれて初めてのサボタージュ。
だが、体が動かない。
暖房をつけないままの室内は、外と変わらないほどに冷え込んで、梨太の体温をこそぎ落としていく。いい加減動かなくてはいけない。だが、腕一本動かすことができなかった。
四肢をすべて投げ出して、ぼんやりと天井を眺め続ける。
動きたい、という気持ちだけはちゃんとある。だけど瞬きをすることすらひどく億劫だ。このまま呼吸が止まるのではないかと思う、か細く閉ざされた喉から漏れたのは、弱音でも怒号でもなかった。
「鮫島くん」
梨太の儚い鼓動の上で、携帯電話が激しく震えた。
電話の着信、ではなかった。震えているのはストラップの方。石鹸のような表面、銀色の、クジラ型の金属板。
梨太は身を起こした。
クジラ型通信機――はるか銀河のかなたの星、惑星ラトキアと繋がる機械。カメラも、マイクも、スピーカーもどこについているのかわからないそれを抱えて、梨太は叫んだ。
「鮫島くん!」
返事は無かった。吐息すらも聞こえない金属の塊に、梨太はすがりついて。
「鮫島くん! 鮫島くんだろ? 鮫島くん――!」
叫び、呼び続ける。
「何か言ってよ。聞こえているでしょ? 僕の声、言葉が、わかるよね。鮫島くん。お願い、君の声を――」
梨太の懇願に、応えは無い。構わず何度も叫ぶ。
お願い、声を。言葉を聞きたい。一言でいい。それ以上はなにも望まない。
二度と会えないことはわかっていた。五年前に別れたあのときから理解していた。
あの約束は実らない。惑星ラトキアは遠すぎる。この恋は、あまりにも難しすぎるのだと。
だからもう何も望まない。ただ、少しだけ、己の人生を独り歩き出すための力が欲しい。彼に何を求めるつもりはないというのに――真実、梨太の本心であったはずなのに。
「会いたい……」
言葉だけが、勝手に嘘をついた。
しかしラトキア人からの返事は無かった。梨太も二度と話しかけはしなかった。
退職し、海外へいくと報告をしたとき、安堵の表情を浮かべたのは館長ただひとりだった。
同僚たちはみな大層に驚いた。学芸員が真っ赤にして怒鳴ってくる。
「そりゃ栗林さんは、こんな小さな水族館でこもってるようなひとじゃないと思ってましたけど。だからって急じゃないですか。企業からの引き抜きですか? そもそも海外ってどこ?」
白衣に縋ってくる後輩に苦笑して、
「うん。ちょっと、ラオスの端っこまで。いやあ、前からちょっと気になる水中生物がいてさあ。一応、雇ってくれる研究施設はメドが立ったけど、そこがどんなトコなのかは、行ってみないとわかんないね、ハハハ」
「ハハハじゃないですよ、なんですかそれ! なんでわざわざそんな危ないとこに!!」
笑っているだけの梨太に、金髪の女性が前に出た。少なからず不機嫌な様子である。
「ナスティア。あなたにも、お世話になったね」
「……この町の何が気に入らないの」
「……そういうことじゃないよ」
「嘘。研究なんて、今まで通り海外出張で出入りすれば済む話じゃないの。目的が逆だわ、あなた、この町から出ていきたくて、理由を探したんでしょう!」
ナスティアに怒鳴られて、梨太は眉を垂らした。
「……この町が嫌いになったわけじゃない。本当だよ」
ほほえみ、穏やかに告げる。
「……行ったことのないところへ行きたいんだ。まずは、言葉とか、風習とか宗教とか、勉強しなくちゃいけないことが山積みのどこかへ――」
そう話す、梨太の脳裏に一瞬、星屑をちりばめた夜空の景色が広がった。首を振って消し去る。
黙ったままの館長に向かって、梨太は頭を下げた。その周囲の同僚たちにも、まとめて告げる。
「お世話になりました。また、いつか、どこかで」
「ふあーなまらさっぶぅ……」
一人ごちながら、梨太は自宅へ歩き進んでいた。
霞ヶ丘市は温暖な町だ。真冬でも、これほど冷え込むのは例年からして珍しい。
冷気に赤く染まった指先で、「売り家」と書かれた看板をよける。
書類上、空き家扱いとはいえ、今月いっぱいまでは電気ガス水道の契約は続いている。梨太はリビングに入り、ネクタイを取り去ると、なんとなくソファに寝そべった。足を投げ出して、脱力する。
あと三日で、ここを出ることになる。
家具や生活道具は、そのままである。主の丁寧な使用により状態がよく、見学希望者に対し、そのまま展示されているのだ。もし購入者が望めば家具付き物件として値が上がる。大した差はないかもしれないが、処分費用が掛かるよりはずっといい。
(……できれば、大切に使ってくれるひとに買われて欲しいな……)
小さな家も、家具も安物ばかりだが、それなりに、思い入れもあった。
だがこれからも背負って歩く気にはなれなかった。
しばらく目を閉じ続けて――ふと、なにか物音を感じた。
二階に他人の気配がする。
売り家看板を掲げたのは先週のこと。主不在だと思い込み、浮浪者でも侵入したか? 梨太は恐る恐る、二階への階段を上った。
突き当りには梨太の自室がある。コトリ――物音はやはりそこから聞こえた。ほんの少し躊躇してから、ドアノブを押す。
薄暗い六畳間。梨太はそうっと部屋に入り見回して、後ろ頭を掻いた。
「……はて? 誰もいない」
ネズミでも住んだのかと、首をかしげて背を向ける。途端にまた物音。梨太は反射的に振り向いた。
カーテンが開かれていた。冬の日差しが部屋を照らす。
冷たい陽光を背に――いつからいたのだろう――長身の美女が立っていた。
闇に紛れる漆黒の、かつて見覚えのある軍服。腰ほどまである黒髪をうなじで縛り、白い肌に、切れ長の青い双眸。紅のない唇を軽く持ち上げて。
「やあ。リタ。……ひさしぶりだな」
彼女はそんなことを言った。
梨太は、呆然と彼女を見つめた。
細い腰に手をあてて、梨太の反応を待つ女。
梨太はしばらく絶句し――気の抜けた声で、返事をした。
「いや、なにやってんですか鯨さん」
あれっ、と肩をこけさせる美女。意外と愛嬌のある所作で身を立て直すと、照れ笑いを浮かべつつパタパタ手を振った。
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