鮫島くんのおっぱい
追い詰められる騎士団
近づいてみて、初めて梨太は、猪の窮地に気が付いた。
ずたずたに裂かれた軍服、荒れた呼吸。
騎士団随一の巨漢である猪は、誰よりもこの戦場で苦戦している。
体躯は目算、一九五センチといったところか。もはや丸太よりも岩石を思わせる分厚い肩、その剛腕によって振り下ろされる手斧の威力は計り知れない。
しかし、この武器とバルゴとの相性が最悪だった。虎の短剣と変わらぬリーチで、敵を懐ちかくまで招かねばならない。斧という刃物の形状がら、切り込んでいくには斬道のパターンが少なすぎる。この斧をよくぞここまでというほど素早い剣戟ではあったが、獣の動体視力には及ばないのだ。
一対一ならば、直線的に向かってくるのをタイミングを合わせればそれでいい。だが、ぐるりと四方を囲まれたとき、連続攻撃をさばききれない。さらに、大男の膝までしかない獣の体躯がなお斬りにくい。
せめて長柄で、切っ先するどいハルベルトであったなら――それを、この日本で持ち歩くことが出来たなら。
そんな弱音を吐くこともなく、黙々と戦い続けている。虎が彼のそばへ駆け寄るとすぐに己の窮状を明かした。
「自分はこの獣どもに勝てぬ。自分の戦闘は、背後から掛かられるとどうにもならん。蝶に背中を預けたい」
「了解。俺がこいつらひきつけとくから、ササッとそっちへ行ってくれ」
「あいにく走れそうにない。ふくらはぎを両足咬まれた。なにか毒性があるらしく、歩くのがやっとだ」
「じゃあ一回、一緒に戻るぞ。背中合わせに、リタを間に挟んで進もう」
「了解」
男たちの会話に、ふと梨太は既視感を覚えた。職業軍人による、端的かつ的確な言葉の応酬。主婦の井戸端会議と方向性が真逆のコミュニケーションは、鮫島の平常の話し方そのものであった。これぞ職業軍人の会話。
鮫島が、仕事中はその口下手に不便がない理由がよくわかる。そしてこと雑談となれば、急に唇を噤むのも。
リタともう少し話したくなった――苦手なんだ、雑談。
端正な顔で、すこし寂しげにそう言った青年を思い出し、クスリと笑い声が出る。笑ってられる様な状況ではないけども。
騎士たちの決定に梨太も素直に従って、一度、四人が輪になる。そして速やかに再び虎と現場を抜けた。
さきほど猪がいたあたりまで退いて、梨太は戦場を振り向き一瞥した。
「……バルゴが、減っていない?」
いや、むしろ増えている。しばらく前から違和感はあった。梨太が目を覚ましたとき、視界にいたのは二十頭ほど。そこから半分近くは倒しているはずなのに。
じりじり進みながら、虎がうなずく。
「お前が落っこちた穴、なかなかの大家族の塒だったようでな。あれから五匹くらい、追加で出て来てるぜ」
「そんな、合計どんだけいたんだよ!」
「穴にいたやつだけじゃない、どうもこいつら、遠吠えで仲間を呼んでるらしくてな。三分おきに次から次へとあっちゃこっちゃから集まってるぜ」
「うっそ。なにそれ、なんで?」
「しらね。なんか元々、この近くにいっぱい核家族が埋もれてたみたいだな。前調べたときはそんなのなかったはずなんだが。この空き地に、よっぽど魅力的なエサの匂いでもついてんのかな」
「あ。ごめん。成分分解して濃縮したの僕です。まさか、ご近所一帯ホットスポットにしちゃうほど効くとは思っておりませんで」
梨太は速やかに自白したが、虎にはなんのことだかわからない。
彼はとくに気にすることもなく――というより、雑談をする余裕がなく、短剣をかざしながら、さらに歩みを道路のほうへ進めていく。
「空き地の、フチだ。次に、飛び掛かってきたやつ払ったら、リタは家まで走り抜けろ」
「……虎ちゃん、僕も走るのは」
「ああ、お前も噛まれてるんだったか? くそっ。わかった、じゃあ玄関口まで一緒に」
虎の言葉が途中で止まった。
金色の、猫のような鋭い視線が空き地の外を睨みつける。ちょうど土からアスファルトへと変わる境目に、四頭のバルゴ。そして、腕を組んで佇む犬居がいた。
「……犬居。お前、なんで襲われない?」
バルゴらは犬居の足元すぐそばにいる。だが四つの敵意はすべて彼に背を向けて、梨太たちのほうへと向けられていた。
犬居は顎をしゃくった。
「オーリオウルのバイヤーに、コンタクトを取るのは俺の仕事だった。バルゴを誘引する香水と一緒に、開発中の珍しいもんも見せてもらってな。
――バルゴに、同族として迎え入れてもらえる獣の香水。さすがに言うことを聞かせられるわけじゃねえが、とりあえず、他に獲物があるのに俺のほうへ来ることはない」
「……ならそれを渡せ。一般人を離脱させる」
「サンプルを服に振ってもらっただけだ。もう無い。でなくても、そのクソガキに渡すかよ」
犬居が軽く、足を開く。四頭の獣が頭を低くし、うなり声を漏らしていた。
「……俺はさっきそいつを殺そうとした。まだ心変わりはしてないんだぜ」
彼は右足を垂直に持ち上げ、思い切り地面を踏み鳴らした。だん、と大きな音が鳴る。反射的に、獣たちは後ろ足を跳ねさせた。
二頭がまったくの同時。続く二頭の追撃。
「ちくしょっ――!」
真横から薙ぐ、虎の短剣がかろうじて一頭を切り伏せる。その勢いのままぐるりと回転し、コンマの時間差で遅れた二頭目を拳で跳ね飛ばした。三頭目を蹴倒しながら絶叫する。
「リタ、戦え!」
梨太は反射的に、刃を振るった。
頭から突進してきたバルゴ。その対処の正解は、タイミングを合わせて真横から薙ぐこと。
だが梨太は思わずそのまま、真正面から刃を振り落としてしまった。短剣は犬そっくりの鼻先をかすり、見とれるほど筋肉質なバルゴの胸に突き刺さる。
重い。堅い。手の中につたわる、生物の肉を裂く感触、脈動。
急所ではある。だが即死ではない。そして飛び込んできた勢いをそのまま受け止めて、梨太は仰向けにのけぞった。痺れのある足首が傾ぐ。
「うわっ――!」
倒れそうになる――とたん、十メートル向こうで観察していただけのバルゴが一気に距離を詰めてきた。梨太の足元を狙って突進してくる。
虎はそれを、真正面から蹴り上げた。
ぎゃん! ――犬の悲鳴。
子供ほどの大きさの、生物が宙を舞う。そして地面に落下した。
「ありがとう、虎ちゃん」
梨太の言葉に、きさくな少年は一瞥もくれなかった。
蹴とばしたバルゴにも見向きもせず、つっこむ勢いそのまま、犬居のほうへと飛び掛かる。
「! 虎ちゃん!!」
彼の刃の軌道を察して、梨太は悲鳴を上げた。
バルゴの血にぬれた短剣が、同じ色の髪を持つ、騎士の頭上に振り下ろされる。
目視できないほどの疾走、風きり音よりも早い剣戟。だが犬居もまた戦士であった。眼前で、黒刀を水平にかざす。一瞬、電撃音が空を焼き、赤い髪をした騎士たち二人は膂力でつばぜり合いを行った。
「――麻酔刀……!」
虎が吐き捨てる。
腕力としては、虎の圧勝。だがそこには気勢が乗り切っていない。もとより、その短剣は寸止めを狙っていたのだろう。
気の抜けた剣は、騎士を打てるようなものではなかった。鋼より堅く重い麻酔刀で、腕力の不足を補って、犬居は虎の攻撃をはじく。そしてすぐに横凪に疾しらせた。体にあたれば人間を一瞬で昏倒させる兵器を、虎は身をよじってかわす。
反撃の機会は、あったように見えた。だが虎は追撃せず後退し、距離を取った。
ちっ、と、舌打ちの音。発したのは犬居だった。
「――バカが、虎。また肝心な所で甘さを出しやがる」
愛嬌のある顔面造形に、苦いものを含ませる。虎は不機嫌そうに年上の騎士に視線をくべると、口の中で「しかたねえだろ」と毒づいた。
「お前は同じ騎士の、仲間なんだからよ」
ずたずたに裂かれた軍服、荒れた呼吸。
騎士団随一の巨漢である猪は、誰よりもこの戦場で苦戦している。
体躯は目算、一九五センチといったところか。もはや丸太よりも岩石を思わせる分厚い肩、その剛腕によって振り下ろされる手斧の威力は計り知れない。
しかし、この武器とバルゴとの相性が最悪だった。虎の短剣と変わらぬリーチで、敵を懐ちかくまで招かねばならない。斧という刃物の形状がら、切り込んでいくには斬道のパターンが少なすぎる。この斧をよくぞここまでというほど素早い剣戟ではあったが、獣の動体視力には及ばないのだ。
一対一ならば、直線的に向かってくるのをタイミングを合わせればそれでいい。だが、ぐるりと四方を囲まれたとき、連続攻撃をさばききれない。さらに、大男の膝までしかない獣の体躯がなお斬りにくい。
せめて長柄で、切っ先するどいハルベルトであったなら――それを、この日本で持ち歩くことが出来たなら。
そんな弱音を吐くこともなく、黙々と戦い続けている。虎が彼のそばへ駆け寄るとすぐに己の窮状を明かした。
「自分はこの獣どもに勝てぬ。自分の戦闘は、背後から掛かられるとどうにもならん。蝶に背中を預けたい」
「了解。俺がこいつらひきつけとくから、ササッとそっちへ行ってくれ」
「あいにく走れそうにない。ふくらはぎを両足咬まれた。なにか毒性があるらしく、歩くのがやっとだ」
「じゃあ一回、一緒に戻るぞ。背中合わせに、リタを間に挟んで進もう」
「了解」
男たちの会話に、ふと梨太は既視感を覚えた。職業軍人による、端的かつ的確な言葉の応酬。主婦の井戸端会議と方向性が真逆のコミュニケーションは、鮫島の平常の話し方そのものであった。これぞ職業軍人の会話。
鮫島が、仕事中はその口下手に不便がない理由がよくわかる。そしてこと雑談となれば、急に唇を噤むのも。
リタともう少し話したくなった――苦手なんだ、雑談。
端正な顔で、すこし寂しげにそう言った青年を思い出し、クスリと笑い声が出る。笑ってられる様な状況ではないけども。
騎士たちの決定に梨太も素直に従って、一度、四人が輪になる。そして速やかに再び虎と現場を抜けた。
さきほど猪がいたあたりまで退いて、梨太は戦場を振り向き一瞥した。
「……バルゴが、減っていない?」
いや、むしろ増えている。しばらく前から違和感はあった。梨太が目を覚ましたとき、視界にいたのは二十頭ほど。そこから半分近くは倒しているはずなのに。
じりじり進みながら、虎がうなずく。
「お前が落っこちた穴、なかなかの大家族の塒だったようでな。あれから五匹くらい、追加で出て来てるぜ」
「そんな、合計どんだけいたんだよ!」
「穴にいたやつだけじゃない、どうもこいつら、遠吠えで仲間を呼んでるらしくてな。三分おきに次から次へとあっちゃこっちゃから集まってるぜ」
「うっそ。なにそれ、なんで?」
「しらね。なんか元々、この近くにいっぱい核家族が埋もれてたみたいだな。前調べたときはそんなのなかったはずなんだが。この空き地に、よっぽど魅力的なエサの匂いでもついてんのかな」
「あ。ごめん。成分分解して濃縮したの僕です。まさか、ご近所一帯ホットスポットにしちゃうほど効くとは思っておりませんで」
梨太は速やかに自白したが、虎にはなんのことだかわからない。
彼はとくに気にすることもなく――というより、雑談をする余裕がなく、短剣をかざしながら、さらに歩みを道路のほうへ進めていく。
「空き地の、フチだ。次に、飛び掛かってきたやつ払ったら、リタは家まで走り抜けろ」
「……虎ちゃん、僕も走るのは」
「ああ、お前も噛まれてるんだったか? くそっ。わかった、じゃあ玄関口まで一緒に」
虎の言葉が途中で止まった。
金色の、猫のような鋭い視線が空き地の外を睨みつける。ちょうど土からアスファルトへと変わる境目に、四頭のバルゴ。そして、腕を組んで佇む犬居がいた。
「……犬居。お前、なんで襲われない?」
バルゴらは犬居の足元すぐそばにいる。だが四つの敵意はすべて彼に背を向けて、梨太たちのほうへと向けられていた。
犬居は顎をしゃくった。
「オーリオウルのバイヤーに、コンタクトを取るのは俺の仕事だった。バルゴを誘引する香水と一緒に、開発中の珍しいもんも見せてもらってな。
――バルゴに、同族として迎え入れてもらえる獣の香水。さすがに言うことを聞かせられるわけじゃねえが、とりあえず、他に獲物があるのに俺のほうへ来ることはない」
「……ならそれを渡せ。一般人を離脱させる」
「サンプルを服に振ってもらっただけだ。もう無い。でなくても、そのクソガキに渡すかよ」
犬居が軽く、足を開く。四頭の獣が頭を低くし、うなり声を漏らしていた。
「……俺はさっきそいつを殺そうとした。まだ心変わりはしてないんだぜ」
彼は右足を垂直に持ち上げ、思い切り地面を踏み鳴らした。だん、と大きな音が鳴る。反射的に、獣たちは後ろ足を跳ねさせた。
二頭がまったくの同時。続く二頭の追撃。
「ちくしょっ――!」
真横から薙ぐ、虎の短剣がかろうじて一頭を切り伏せる。その勢いのままぐるりと回転し、コンマの時間差で遅れた二頭目を拳で跳ね飛ばした。三頭目を蹴倒しながら絶叫する。
「リタ、戦え!」
梨太は反射的に、刃を振るった。
頭から突進してきたバルゴ。その対処の正解は、タイミングを合わせて真横から薙ぐこと。
だが梨太は思わずそのまま、真正面から刃を振り落としてしまった。短剣は犬そっくりの鼻先をかすり、見とれるほど筋肉質なバルゴの胸に突き刺さる。
重い。堅い。手の中につたわる、生物の肉を裂く感触、脈動。
急所ではある。だが即死ではない。そして飛び込んできた勢いをそのまま受け止めて、梨太は仰向けにのけぞった。痺れのある足首が傾ぐ。
「うわっ――!」
倒れそうになる――とたん、十メートル向こうで観察していただけのバルゴが一気に距離を詰めてきた。梨太の足元を狙って突進してくる。
虎はそれを、真正面から蹴り上げた。
ぎゃん! ――犬の悲鳴。
子供ほどの大きさの、生物が宙を舞う。そして地面に落下した。
「ありがとう、虎ちゃん」
梨太の言葉に、きさくな少年は一瞥もくれなかった。
蹴とばしたバルゴにも見向きもせず、つっこむ勢いそのまま、犬居のほうへと飛び掛かる。
「! 虎ちゃん!!」
彼の刃の軌道を察して、梨太は悲鳴を上げた。
バルゴの血にぬれた短剣が、同じ色の髪を持つ、騎士の頭上に振り下ろされる。
目視できないほどの疾走、風きり音よりも早い剣戟。だが犬居もまた戦士であった。眼前で、黒刀を水平にかざす。一瞬、電撃音が空を焼き、赤い髪をした騎士たち二人は膂力でつばぜり合いを行った。
「――麻酔刀……!」
虎が吐き捨てる。
腕力としては、虎の圧勝。だがそこには気勢が乗り切っていない。もとより、その短剣は寸止めを狙っていたのだろう。
気の抜けた剣は、騎士を打てるようなものではなかった。鋼より堅く重い麻酔刀で、腕力の不足を補って、犬居は虎の攻撃をはじく。そしてすぐに横凪に疾しらせた。体にあたれば人間を一瞬で昏倒させる兵器を、虎は身をよじってかわす。
反撃の機会は、あったように見えた。だが虎は追撃せず後退し、距離を取った。
ちっ、と、舌打ちの音。発したのは犬居だった。
「――バカが、虎。また肝心な所で甘さを出しやがる」
愛嬌のある顔面造形に、苦いものを含ませる。虎は不機嫌そうに年上の騎士に視線をくべると、口の中で「しかたねえだろ」と毒づいた。
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