鮫島くんのおっぱい
梨太君の行動
閑静な住宅地に佇む、ちいさな一軒家。
『親展 栗林梨太 様』
そう書かれた封書を受け取ったのは、梨太が鮫島と別れひとり過ごした、七度目の夜のことだった。
夕食を食べてすぐのことである。書留にサインをして配達員を見送る。
送り主欄に、芝港海洋研究所との署名。A4サイズの封を丁寧に開き、中を一読。
「……よし」
小さくガッツポーズして、片手に持っていた紅茶を吸った。
ホットミルクティー。やけに肌寒い夜だった。八月の後半という時期にはあわない気温と、真夏相応のじっとりした湿度。腹の中に甘く温かい紅茶を入れて、梨太はウィンドブレイカーを羽織った。
首元まできっちりジッパーを閉めて、フードをかぶる。装備はシャベル、ビニール袋、懐中電灯。スニーカーの紐を結んで、玄関扉を開く。
そこで、犬居と出会った。
「……どこ行くんだ」
開口一番、犬居。梨太は肩をすくめた。
「――やあ、犬居さん、一週間ぶり。ちょっとそこまで。ていうかまずはコンバンハ、んで自分は何しに来たのかを明かすほうが先じゃないの。何? 遊びに来てくれたの?」
「馬鹿ぬかせ。誰がお前なんかと」
そう言う、犬居の格好はたしかに、遊びに来たとは思えない衣裳だった。黒づくめの長袖長ズボン、ラトキア騎士団の軍服だ。平時、団長の世話役や諜報などを引き受けている彼がこれを着ているのは珍しい。
軍服に、仏頂面。宵闇の住宅地を背景に仁王立ちで佇む赤い髪の青年に、梨太は再び肩をすくめる。
「そぉ? 僕的には犬居さんとはもう友達になったつもりでいたけど。犬居さんも、実は僕のことけっこう好きでしょ」
一瞬、犬居の相好が崩れた。思わず赤銅色の瞳を細めてから、すぐに、仏頂面を作り上げる。ツンデレめ、と梨太は胸中で苦笑した。鮫島の爪の垢でもせんじて飲ませ、あの素直さを感染させたいものだ。
梨太は玄関扉をくぐると、一度路地のほうへ出て犬居のほうを振り向いた。その全身を観察してみる。
――炎のような赤い髪。それよりは少し茶色がかった、赤銅色の瞳。顔立ちはおよそ美男子とは言い難い。きれいな弧を描く眉、厚みのある大きな唇に反してちんまりとした可愛い鼻。左右に離れ気味の目は白目が見えないほど黒目がちで、憐憫を乞う草食動物を彷彿とさせた。
ここに庇護欲をくすぐられるか滑稽さをあざ笑うか、人の好みが分かれそうなところだ。梨太はどちらでもなく単純に、ポメラニアンに似てるなあと思っている。
「……おい。なに人の顔をじろじろ見てやがる」
すごんでみせるが全く怖くない。ほかの騎士とくらべて、犬居はひどく小さな男だった。日本人の青年としては平均並みだが、戦士というには小柄すぎる。ボディラインに沿ったしなやかなラトキアの軍服越しに、あまり締まりのない細い身体が見て取れる。裾から生えた、ちいさな手。
おそらくだが――騎士団のなかで、一番、弱い。
しかし彼の重要度はそこにはない。
梨太は、諜報という仕事の大きさを理解していた。
情報こそが軍の作戦そのものを決めるのだ。彼こそがラトキア軍を、国を、鮫島騎士団長を動かしているといって過言ではない。
梨太は犬居を評価していた。
騎士団における仕事としても。鮫島の側近としても。
彼は、鮫島が気を許すことの出来る数少ない人間であった。
「僕さ……犬居さんのこと好きだよ」
犬居が目つきを険しくする。梨太の発言の真意をはかりかねて、気味悪そうに身を引いた。
「なに気色悪いこと言ってやがる」
「あ、変な意味じゃないよホント。僕、この人って決めたら浮気はしないし。もう鮫島くん一筋だもん」
「何の話だ!」
「人間的に好きだよーって伝えただけだよ、何怒ってんの?」
犬歯を剥くのを放置して、梨太は路地へ出ると、横断した先へ歩みを進めた。
栗林家は、大通りから一本裏手に入った、住宅密集地帯の一角にある。一軒家ばかりが、一枚の塀を隔ててアパートの部屋のようにずらりと並んでいた。玄関前の細い生活道路を渡ると、目の前は大きな空き地になっていた。栗林家の土地よりも一回り広いだろうか。
栗林家向かいにある空き地である。「売地」の看板の向こうには雑草が生い茂り、荒れ放題になっていた。奥にはこんもりとした土の山。そちらに向かって、梨太はずかずかと進んでいく。
「……おい。どこへ行く。他人の敷地じゃないのか。入っていいのか?」
犬居が後をついてくる。梨太は足元を指さして、
「いや、実はココも、栗林の土地。僕の、じゃないけどね。五年ほど前までは立派な家が建ってた。そこの一人娘――今は僕の義母である親戚が結婚するときに、実家の真向かいに小さな家を建てたんだ。そして実家のほうはつぶして更地に。住んでた年寄りは施設行き。売りに出してるから厳密には仲介の不動産屋さんのものだけども、侵入してお咎めくらう立場じゃないよ」
丁寧に説明され、鼻白む犬居。梨太は口元でかすかに笑った。入っていいのか、だなんて。やはり犬居は真面目な男だ。
霞ヶ丘の住宅地は、夜の八時を回ると一気に人通りがなくなる。ぼんやりした街灯だけでは心もとなくて、梨太は懐中電灯であたりを照らして回った。雑草の隙間に、目的のものを発見。スコップを使って、ビニール袋に映していく。
犬居が後ろから覗き込む。
「……なんだそれ」
「バルゴのうんこ」
きっぱりと、梨太。
「――と、思われるモノ。見た感じ猫じゃないから多分アタリ。霞ヶ丘にウロついてる野良犬はまずいないし、飼い犬の散歩で、空き地のこんなに奥まで入る飼い主もいないだろうから」
「……だからって、バルゴだとは」
「だから多分って言ってるじゃん。それを確定するために、こうして採取してるの。フンや餌場の探索は、野生動物の生息地追跡の基本中の基本だって言ったでしょ――あれ、話したのは虎ちゃんだっけか。まあいいや。
んー、この数日雨は降らず、気温と湿度からして、二、三日前ってとこだなあ。よしよし」
「……お前、それどうするつもりだ」
「学校つながりの水族館に、ちょっとコネがあってね。海洋生物の研究所っていっても、カワウソだとか海獣だって研究してるから、こういうのの分析が出来る施設になってるんだ。
僕は先週、バルゴの現れたところを回ってみた。学校の裏山と、霞本町駅前の児童公園、しらばねの森。それぞれバルゴの巣穴を探して、その土山から一部を採取してみた。――ほら、学校の裏山を追い出されて以来、霞ヶ丘市内からほとんど動いてないのがおかしいって言ってたろ? この町になにかバルゴにとっての魅力、つまりそれぞれの巣穴に、共通点があるんじゃないかと思って」
独り言のように言い放ち、数歩前進。さらに見つけたフンを採取する。犬居が聞いているかは確認しなかった。
「騎士団の誰かが言ってた。バルゴが好きな香水を、オーリオウルの業者が取り扱ってたって。まあ、猫にマタタビみたいなものかなと思ってたけども、僕はひとつ仮説を立てた。
その香りってのが、バルゴにとって嗜好品なんかじゃなく、生殖に必要不可欠なものだったら?
……例えば、バルゴがもともと、自分の星で、ある花が咲き乱れる季節に生殖する本能があるとする。そのつぼみのほころぶ香りに合わせて発情するとか。赤ん坊のちょうどいい離乳食になるものが豊富な時期から逆算して発情したり、卵のいい寝床になる植物が繁茂しないと産卵できない生物って、よくあるタイプだよ。
それを知っていたオーリオウルのバイヤーは、それを使ってバルゴを効率的に捕縛して、そしてこの地球に連れてきて――裏山に放棄するときに、あたりの土に、たっぷりそれを撒いて去っていった」
「――派手な推理だな。証拠は?」
「それを固めてる最中だってば。でもまあ、当たってるっぽいよ。まずなんかヒントがないかなーって、学校の裏山が開拓されて、出てくる土砂はどうしてるのかって業者に問い合わせてみたんだよ。そしたら今言った施設の園庭に寄贈されたんだって。ほかにも、ツイッターで目撃情報さらされてた現場にあちこち聞いてみたら、土とか砂利とか石とか、全部先と同じ展開で。
それでためしに、採取した土を成分分析にかけてみた。結果、それぞれから、現在の地球上で存在確認されていない奇妙な成分が発見された、と。
ま、裏付けが取れたかなって言うくらいで、絶対確定まで至ってないけどもね。これでハズレだったらすごい偶然だよねえ」
その、すごい偶然、を、「ありえない」と明言できるまで、科学者は結論を出さない。科学者のタマゴである少年は、まだ一人の少年であった。ゆえに、確信する。
「そこで僕は、その成分――バルゴが求める香料をたっぷり含んだ土を、この空き地にたっぷり盛ってみたのさ。友情出演は酒屋のおじさん。……最初は軽トラ借りるだけのつもりだったけど、座った姿勢がペーパードライバー丸出しだって、結局運転も積み込みも甘えちゃった。こういうとこ、霞ヶ丘ってほんといい街だよね――」
「そんな、細かい話はどうでもいい!」
犬居は叫んだ。梨太は肩をすくめ、
「なんだよ、そんなに無駄な話はさんでないじゃん。そしてそーやって土を運んであそこに積んで、さらに肉とか置いてみて、うまいことバルゴがここを巣穴にひっかかってくれないかなーって罠張ってみました。おわり。それで話は終わりだよ。せっかちだなあ」
そう言って、指先を空き地の奥へと向ける。
「エサさえ充実してたら、人を襲わないんでしょ。わなを仕掛けるなら自分の手もとに近い方がいい。ほらあそこ、よーく観ると下のほうだけ土の質感が違う。居るよ、きっと。フンのかんじからしてかなりの大物――」
犬居が吼えた。静寂の住宅地に、青年の声がこだまする。
「どういうつもりだ! 何をしている? 騎士団の仕事を助けるつもりか、それとも地元を守るためか? どちらも、お前の性分じゃないだろうに。
誰に頼まれたわけでもない。何の報酬もない。……それで危険に身を投じて、お前は一体、何をしようとしているんだ」
喚く、犬居。
その赤い髪が、世闇に逆立って見えた。
梨太はどうということもない所作で、彼を眺める。そして言った。
「僕さ、もう十日もしないうちに、日本を出なくちゃいけないんだよね」
犬居が眉を跳ね上げる。
「その、もう数えるほどしかないタイムリミットのなかで……僕は、鮫島くんと遊びたい。……三十時間きりじゃ全然足りない。もっともっと、一緒にいたい。
じっと待とうかとも思ったけどさ、この一週間、ホントに全然会えないんだもの。騎士団は僕の知らないところで敵を倒して、全部解決したらきっとこのまま、黙って帰ってしまうんでしょ?
そんなの嫌だ。それまでに僕はもう一度、彼に会って、彼と過ごす。そして僕のことを好きになってもらわないと。
僕の期限があと十日。彼の休暇が切れるまであと何日? それまでに、バルゴ討伐の仕事を終わらせれば、騎士団が引き上げるまでの数時間、もしかしたら数日、また自由に動けるかもしれないだろ。
時間がないんだ。待ってるだけじゃ時間切れになる。だから――僕が自分で動く」
こともなげにそう言って、梨太は琥珀色の視線を細めた。精悍な眉をした、十九の男。そこにはかつての少女じみた愛嬌はほとんどない。
真摯な眼差しで、ラトキア騎士団長の世話役である男をじっと見据えた。
「……犬居さんのことは、好きだよ。そしてあなたにとって、騎士団長がどれほど大切かはわかってるつもり。だから、先に言っとく。
ごめんね。鮫島くんは僕が奪う。……ごめんね」
『親展 栗林梨太 様』
そう書かれた封書を受け取ったのは、梨太が鮫島と別れひとり過ごした、七度目の夜のことだった。
夕食を食べてすぐのことである。書留にサインをして配達員を見送る。
送り主欄に、芝港海洋研究所との署名。A4サイズの封を丁寧に開き、中を一読。
「……よし」
小さくガッツポーズして、片手に持っていた紅茶を吸った。
ホットミルクティー。やけに肌寒い夜だった。八月の後半という時期にはあわない気温と、真夏相応のじっとりした湿度。腹の中に甘く温かい紅茶を入れて、梨太はウィンドブレイカーを羽織った。
首元まできっちりジッパーを閉めて、フードをかぶる。装備はシャベル、ビニール袋、懐中電灯。スニーカーの紐を結んで、玄関扉を開く。
そこで、犬居と出会った。
「……どこ行くんだ」
開口一番、犬居。梨太は肩をすくめた。
「――やあ、犬居さん、一週間ぶり。ちょっとそこまで。ていうかまずはコンバンハ、んで自分は何しに来たのかを明かすほうが先じゃないの。何? 遊びに来てくれたの?」
「馬鹿ぬかせ。誰がお前なんかと」
そう言う、犬居の格好はたしかに、遊びに来たとは思えない衣裳だった。黒づくめの長袖長ズボン、ラトキア騎士団の軍服だ。平時、団長の世話役や諜報などを引き受けている彼がこれを着ているのは珍しい。
軍服に、仏頂面。宵闇の住宅地を背景に仁王立ちで佇む赤い髪の青年に、梨太は再び肩をすくめる。
「そぉ? 僕的には犬居さんとはもう友達になったつもりでいたけど。犬居さんも、実は僕のことけっこう好きでしょ」
一瞬、犬居の相好が崩れた。思わず赤銅色の瞳を細めてから、すぐに、仏頂面を作り上げる。ツンデレめ、と梨太は胸中で苦笑した。鮫島の爪の垢でもせんじて飲ませ、あの素直さを感染させたいものだ。
梨太は玄関扉をくぐると、一度路地のほうへ出て犬居のほうを振り向いた。その全身を観察してみる。
――炎のような赤い髪。それよりは少し茶色がかった、赤銅色の瞳。顔立ちはおよそ美男子とは言い難い。きれいな弧を描く眉、厚みのある大きな唇に反してちんまりとした可愛い鼻。左右に離れ気味の目は白目が見えないほど黒目がちで、憐憫を乞う草食動物を彷彿とさせた。
ここに庇護欲をくすぐられるか滑稽さをあざ笑うか、人の好みが分かれそうなところだ。梨太はどちらでもなく単純に、ポメラニアンに似てるなあと思っている。
「……おい。なに人の顔をじろじろ見てやがる」
すごんでみせるが全く怖くない。ほかの騎士とくらべて、犬居はひどく小さな男だった。日本人の青年としては平均並みだが、戦士というには小柄すぎる。ボディラインに沿ったしなやかなラトキアの軍服越しに、あまり締まりのない細い身体が見て取れる。裾から生えた、ちいさな手。
おそらくだが――騎士団のなかで、一番、弱い。
しかし彼の重要度はそこにはない。
梨太は、諜報という仕事の大きさを理解していた。
情報こそが軍の作戦そのものを決めるのだ。彼こそがラトキア軍を、国を、鮫島騎士団長を動かしているといって過言ではない。
梨太は犬居を評価していた。
騎士団における仕事としても。鮫島の側近としても。
彼は、鮫島が気を許すことの出来る数少ない人間であった。
「僕さ……犬居さんのこと好きだよ」
犬居が目つきを険しくする。梨太の発言の真意をはかりかねて、気味悪そうに身を引いた。
「なに気色悪いこと言ってやがる」
「あ、変な意味じゃないよホント。僕、この人って決めたら浮気はしないし。もう鮫島くん一筋だもん」
「何の話だ!」
「人間的に好きだよーって伝えただけだよ、何怒ってんの?」
犬歯を剥くのを放置して、梨太は路地へ出ると、横断した先へ歩みを進めた。
栗林家は、大通りから一本裏手に入った、住宅密集地帯の一角にある。一軒家ばかりが、一枚の塀を隔ててアパートの部屋のようにずらりと並んでいた。玄関前の細い生活道路を渡ると、目の前は大きな空き地になっていた。栗林家の土地よりも一回り広いだろうか。
栗林家向かいにある空き地である。「売地」の看板の向こうには雑草が生い茂り、荒れ放題になっていた。奥にはこんもりとした土の山。そちらに向かって、梨太はずかずかと進んでいく。
「……おい。どこへ行く。他人の敷地じゃないのか。入っていいのか?」
犬居が後をついてくる。梨太は足元を指さして、
「いや、実はココも、栗林の土地。僕の、じゃないけどね。五年ほど前までは立派な家が建ってた。そこの一人娘――今は僕の義母である親戚が結婚するときに、実家の真向かいに小さな家を建てたんだ。そして実家のほうはつぶして更地に。住んでた年寄りは施設行き。売りに出してるから厳密には仲介の不動産屋さんのものだけども、侵入してお咎めくらう立場じゃないよ」
丁寧に説明され、鼻白む犬居。梨太は口元でかすかに笑った。入っていいのか、だなんて。やはり犬居は真面目な男だ。
霞ヶ丘の住宅地は、夜の八時を回ると一気に人通りがなくなる。ぼんやりした街灯だけでは心もとなくて、梨太は懐中電灯であたりを照らして回った。雑草の隙間に、目的のものを発見。スコップを使って、ビニール袋に映していく。
犬居が後ろから覗き込む。
「……なんだそれ」
「バルゴのうんこ」
きっぱりと、梨太。
「――と、思われるモノ。見た感じ猫じゃないから多分アタリ。霞ヶ丘にウロついてる野良犬はまずいないし、飼い犬の散歩で、空き地のこんなに奥まで入る飼い主もいないだろうから」
「……だからって、バルゴだとは」
「だから多分って言ってるじゃん。それを確定するために、こうして採取してるの。フンや餌場の探索は、野生動物の生息地追跡の基本中の基本だって言ったでしょ――あれ、話したのは虎ちゃんだっけか。まあいいや。
んー、この数日雨は降らず、気温と湿度からして、二、三日前ってとこだなあ。よしよし」
「……お前、それどうするつもりだ」
「学校つながりの水族館に、ちょっとコネがあってね。海洋生物の研究所っていっても、カワウソだとか海獣だって研究してるから、こういうのの分析が出来る施設になってるんだ。
僕は先週、バルゴの現れたところを回ってみた。学校の裏山と、霞本町駅前の児童公園、しらばねの森。それぞれバルゴの巣穴を探して、その土山から一部を採取してみた。――ほら、学校の裏山を追い出されて以来、霞ヶ丘市内からほとんど動いてないのがおかしいって言ってたろ? この町になにかバルゴにとっての魅力、つまりそれぞれの巣穴に、共通点があるんじゃないかと思って」
独り言のように言い放ち、数歩前進。さらに見つけたフンを採取する。犬居が聞いているかは確認しなかった。
「騎士団の誰かが言ってた。バルゴが好きな香水を、オーリオウルの業者が取り扱ってたって。まあ、猫にマタタビみたいなものかなと思ってたけども、僕はひとつ仮説を立てた。
その香りってのが、バルゴにとって嗜好品なんかじゃなく、生殖に必要不可欠なものだったら?
……例えば、バルゴがもともと、自分の星で、ある花が咲き乱れる季節に生殖する本能があるとする。そのつぼみのほころぶ香りに合わせて発情するとか。赤ん坊のちょうどいい離乳食になるものが豊富な時期から逆算して発情したり、卵のいい寝床になる植物が繁茂しないと産卵できない生物って、よくあるタイプだよ。
それを知っていたオーリオウルのバイヤーは、それを使ってバルゴを効率的に捕縛して、そしてこの地球に連れてきて――裏山に放棄するときに、あたりの土に、たっぷりそれを撒いて去っていった」
「――派手な推理だな。証拠は?」
「それを固めてる最中だってば。でもまあ、当たってるっぽいよ。まずなんかヒントがないかなーって、学校の裏山が開拓されて、出てくる土砂はどうしてるのかって業者に問い合わせてみたんだよ。そしたら今言った施設の園庭に寄贈されたんだって。ほかにも、ツイッターで目撃情報さらされてた現場にあちこち聞いてみたら、土とか砂利とか石とか、全部先と同じ展開で。
それでためしに、採取した土を成分分析にかけてみた。結果、それぞれから、現在の地球上で存在確認されていない奇妙な成分が発見された、と。
ま、裏付けが取れたかなって言うくらいで、絶対確定まで至ってないけどもね。これでハズレだったらすごい偶然だよねえ」
その、すごい偶然、を、「ありえない」と明言できるまで、科学者は結論を出さない。科学者のタマゴである少年は、まだ一人の少年であった。ゆえに、確信する。
「そこで僕は、その成分――バルゴが求める香料をたっぷり含んだ土を、この空き地にたっぷり盛ってみたのさ。友情出演は酒屋のおじさん。……最初は軽トラ借りるだけのつもりだったけど、座った姿勢がペーパードライバー丸出しだって、結局運転も積み込みも甘えちゃった。こういうとこ、霞ヶ丘ってほんといい街だよね――」
「そんな、細かい話はどうでもいい!」
犬居は叫んだ。梨太は肩をすくめ、
「なんだよ、そんなに無駄な話はさんでないじゃん。そしてそーやって土を運んであそこに積んで、さらに肉とか置いてみて、うまいことバルゴがここを巣穴にひっかかってくれないかなーって罠張ってみました。おわり。それで話は終わりだよ。せっかちだなあ」
そう言って、指先を空き地の奥へと向ける。
「エサさえ充実してたら、人を襲わないんでしょ。わなを仕掛けるなら自分の手もとに近い方がいい。ほらあそこ、よーく観ると下のほうだけ土の質感が違う。居るよ、きっと。フンのかんじからしてかなりの大物――」
犬居が吼えた。静寂の住宅地に、青年の声がこだまする。
「どういうつもりだ! 何をしている? 騎士団の仕事を助けるつもりか、それとも地元を守るためか? どちらも、お前の性分じゃないだろうに。
誰に頼まれたわけでもない。何の報酬もない。……それで危険に身を投じて、お前は一体、何をしようとしているんだ」
喚く、犬居。
その赤い髪が、世闇に逆立って見えた。
梨太はどうということもない所作で、彼を眺める。そして言った。
「僕さ、もう十日もしないうちに、日本を出なくちゃいけないんだよね」
犬居が眉を跳ね上げる。
「その、もう数えるほどしかないタイムリミットのなかで……僕は、鮫島くんと遊びたい。……三十時間きりじゃ全然足りない。もっともっと、一緒にいたい。
じっと待とうかとも思ったけどさ、この一週間、ホントに全然会えないんだもの。騎士団は僕の知らないところで敵を倒して、全部解決したらきっとこのまま、黙って帰ってしまうんでしょ?
そんなの嫌だ。それまでに僕はもう一度、彼に会って、彼と過ごす。そして僕のことを好きになってもらわないと。
僕の期限があと十日。彼の休暇が切れるまであと何日? それまでに、バルゴ討伐の仕事を終わらせれば、騎士団が引き上げるまでの数時間、もしかしたら数日、また自由に動けるかもしれないだろ。
時間がないんだ。待ってるだけじゃ時間切れになる。だから――僕が自分で動く」
こともなげにそう言って、梨太は琥珀色の視線を細めた。精悍な眉をした、十九の男。そこにはかつての少女じみた愛嬌はほとんどない。
真摯な眼差しで、ラトキア騎士団長の世話役である男をじっと見据えた。
「……犬居さんのことは、好きだよ。そしてあなたにとって、騎士団長がどれほど大切かはわかってるつもり。だから、先に言っとく。
ごめんね。鮫島くんは僕が奪う。……ごめんね」
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