鮫島くんのおっぱい

とびらの

ラトキア騎士団長とラッコ小隊

 愛くるしいラッコの姿に、可愛い、可愛いと素直な歓声を上げる鮫島。ナスティアは、少なからずそれで機嫌をよくしたようだった。 その真意はよくわからない。 

 梨太は鮫島に背中に向かい、笑い声を抑えて解説した。

「ラッコは、もう見ての通り水族館の展示物としては一、二を争う人気のカワユい動物なんだけどね。
 今から二十年くらい前、絶滅危惧種ということで、最大生息域であるアメリカがその捕獲や輸入を禁止したんだ。以来、日本は輸入ができなくなっている。かつては全国に百頭以上いたラッコは次々と寿命を終えて、いまはもうヨボヨボの生き残りが、日本中の水族館にちらばって、十頭あまりしかいないんだ」

 鮫島の頭には届いていないだろうなあ、と思いつつも、一応、続ける梨太。

「どの水族園も、展示としてラッコを一頭でも抱えていたい。全国各地の水族園が一頭ずつ分配されて隔離して、それじゃあ交配もできるわけがない。発情期を待って派遣交換なんかしてみても、下手すりゃ喧嘩するだけで終わったりね。そうしている間に老化して繁殖力は低下する一方。じり貧だからなんとかしなくちゃってんで、この芝港研究所は、ロシアの方と取引をしたんだ。
 展示――つまりはラッコ達のストレスになってしまう見せ物行為を一切しないで、また繁殖研究のデータを提出するという条件で、ようやく若い生体をレンタルさせてもらった。そしてもしも子供が産まれたら、芝港は日本全国の水族園に販売することになる。要するにここは養殖所なんだよ。僕は大学を通してそのシステムに噛んでいて、施設にとっては部外者だけど、出入りさせてもらってるんだ」
「……じゃあこうして、群れて遊ぶのが見られるのはここだけなのか」
 ちゃんと聞いてはいたらしい。

 うなずく梨太に、なぜかナスティアが声を張り上げた。
「そう。それ全部、リタのおかげなのよ」
(……なんでナスティアが自慢げなんだよ……)
 と、半眼になったが口には出さない。
 言われた鮫島は、素直に、へー、と相槌を打った。おそらくは、よくわかっていない。視線がずっと、ラッコのほうにくぎ付けだ。
 階段を上がったその場から身動きもしないで、ラッコ達を遠目で眺めている。

「もっと近付いても大丈夫だよ」
 そう梨太が言ったとき、後ろの扉が開いた。水族館の作業着を着たスタッフである。
「餌の時間っすよ。せっかくだから、餌やり体験やってみますか?」
 持ち込まれたバケツには、魚介類がぎっしり詰まっていた。梨太が受け取り、鮫島に渡してやると、彼は逡巡しながら水辺へ近づく。すると、わらわらとラッコたちが集まってきた。

「わ、わ」

 ひとつ、大きなホタテを投げてやる。受け取ったラッコはさっそく定番スタイルで食事を始め、ほかの空腹のラッコ達が列をなして催促をしてくる。
 鮫島の手から直接うばおうという強欲者までいて、あっと言う間に人気者になった彼はしばらくアワアワと餌やりしていたが、やがて泣きのはいった声で梨太を振り返る。

「リタぁ」
「うん?」
「すごくかわいい」

 こらえきれず笑う梨太。閉じた扉にもたれかかり、腕を組む。鮫島から距離を置いて、その後ろ姿を楽しく観察することにした。

 そのすぐ隣にナスティアが寄ってきた。機嫌よさそうにほほ笑んで、同じく、鮫島の背中を眺めている。
 梨太は彼女の真意を測りかねていた。

(……自分より若くて美人の女の子相手に親切にするなんて、どういう風の吹き回しかね)
 半眼で、金髪の美女を眺めていた。

「……見た目の割に、素朴な子ね」
 不意に彼女は呟いた。
 鮫島の実年齢は二十三歳。ラトキア人の特性として、それよりも若く見える。東洋人が幼く見えるのをかんがみるに、ナスティアからは少女ほどに見えているかもしれない。
 あの子の年はいくつだと聞かれ、梨太はとりあえず正直に、四歳年上だと明かしておいた。

「なに、あたしと五つも変わらないの? ……それにしては、胸が貧相すぎじゃない? 男みたいな体だわ」
「そういうことは言わないで。本人はあんまし気にしてないみたいだけど、僕がむかつく」
「……美人ね」
 ナスティアは、率直に言った。梨太もまたそのままうなずいた。

 鮫島の容姿は、客観的に、美しい。
 整った顔立ち、磨き上げた真珠のような白い肌、アジアンビューティーの象徴たる漆黒の髪。切れ長の目は怜悧であり、ぞくりとするほど艶美でもある。なんら欠点がない。
 水辺にかがむ背中は、しなやかの一言で表せる。一片の贅肉もなく、頭頂からつま先まで、コンピューターグラフィックが作り上げたように完璧だ。
 逆に言えば、どうにも、人間のにおいがしない。
 それらはどれも、ナスティアにはないものだ。だがナスティアにあるものが鮫島にはない。

 女はそれを、極めて冷静に見て取っていた。

「……あんなマネキンみたいなのに勃起するの?」
「するよ」
 唐突なつぶやきに、梨太は即答した。

「鮫島くんがもし、きれいなだけのひとだったら好きになってないし。鮫島くんがもし今よりさらに可愛くなったとしたら、今よりさらに好きになる。たぶんだけどね」
「よくわからないわ。結局アレのどこがいいの」
「どこそこがイイんだって指さして評せるようなものは、恋なんかじゃないよきっと」

 答えたとたん、ナスティアのつま先が、梨太のふくらはぎを蹴っ飛ばした。声もなく悶絶をする少年を放置して、女は傲然と、鮫島のほうへ歩み寄っていく。
「御嬢さん、ちょっとよろしくて?」
 振り返った鮫島は、空になったバケツを片手に、もう片方の手に、イカをひとつ摘まんでプラプラさせていた。

 それをぶら下げたまま、ラッコに向かって、なにやら複雑な首の動きをしてみせる。
「なにしてんの?」
「リタ。見ていて」
 と、左手を真下におろす。ラッコ達が一斉に水に沈んだ。三秒後、こんどは一斉に顔を出す。鮫島が、今度は右手をぐるりと回すと、全員が仰向けになり、隊列を組んで渦になる。

 にっこり笑う鮫島。
「できたっ」
「仕込むな!」
 梨太はわりと本気でしかりつけた。

 鑑賞用にしないと言う条件で輸入してるのに、もしもロシアの監査員が見たら問題にされてしまう。まさか軍団長が遊びに来た際、戯れに十分で仕込んだとは、言って信じてもらえまい。
 というか、ラッコって芸をするんだ……と、思いも寄らなかった展開に嘆息する。ナスティアも唖然としていた。

「……まあ、鮫島くんがいなければ数日あとには忘れるだろうし、そもそも監査が来る予定はないけどね」
 二人の反応に、鮫島はさすがに不安になったらしい。しゅんと肩を落として頭を下げる。
「なにか、いけないことをしただろうか。……申し訳ない」
 ようやっと、硬直の解けたナスティアが悲鳴じみた声を上げる。
「リ、リタ、この子なんなの。サーカスの調教師!?」
「いやいや、ただの通りすがりの素人さんです。けどちょっといろいろすごくって、それに素直なんだけどもちょっと空気が読めないというか、先に言っといてやらないと、びっくりすることをやらかす人で。どんなスキルがあるのやら僕もまだ把握していなくって、すみません」

 ナスティアは口をパクパクさせていた。
 それは、大事な預かりものに芸を仕込まれたから、ではない。理解しないまま小さくなっている鮫島に、指を突き付けた。

「あなた……ド素人には、この状況がどれほど奇跡的なのか、わかってないでしょうけど。野生動物に芸を仕込むってのは、しっかりとした主従関係と信頼関係が必要なのよ。それをこんな、短時間で」
「……野生、だったのか?」
「ウニ養殖所の網にかかった野生種よ。ラッコは頭がいいから、一度目星をつけたイイ餌場を食い尽くしてしまって大変なの。展示みせものにしない、っていうだけで、ホイホイとラッコを六頭も貸してくれるほど、あたしの故郷は甘い国じゃないのよ」
「……駆逐すればいいと思うけど」
「あんだけカワイイカワイイ言っといてサラっと踏み込むのねあなた!?」
 喚く獣医。

「ラッコは保護動物、絶滅危惧種よ。駆逐どころか、繁殖させるのに必死なんだから。
 リタの作った、動物の感情と体調をひとめで測り取るアプリ『ドロップス』、この子たちはその有効性が認められ、二つの国が共同で賭けた臨床実験サンプルなのよ」
「僕一人の開発じゃないって」
 当人の抗議に、ナスティアは綺麗に無視をした。

「けだものだからって、異性と共同生活させておけばすぐにツガうってほど単純じゃない。人間と同じ、好みってものがある。発情期だって必ずしもその兆候が簡単に見て取れる生き物ばかりじゃないわ。
 発情兆候を探りながら、タイミングを見て展示をやめて、やれ個体の相性だ周囲環境だで時期を逃し、今回は妊娠に至りませんでした――ラッコやイルカ、それにパンダ、トキ。世界中で、希少動物を繁殖させるプロジェクトがこれまでに何度大金をかけて挑戦され、苦戦して、頓挫したか知っていて?
 『ドロップス』はその成功率を格段に上げることができるのよ。これは動物園や水族館の経営どうこうって話じゃない。絶滅危惧種の救済、あるいは新種の生態解明にだってつながっていく。その動物が、どんなエサを好んで食べるのか、環境を快く思ってるのか――高級食材の養殖開発も、まずそれを明かすことに何年も費やすのよ。すごいことなの、これはっ」

 ナスティアが白熱してきている。梨太はそうっと、鮫島のほうへ視線をやった。
 まっすぐに佇むその足元に、ラッコが懐いて群がっている。
 顔面はきちんとこちらを向けている鮫島。一応、ちゃんと聞いてはいる。
 聞いてはいるが――

「臨床実験で結果が出れば、リタの名前はすぐにでも世界に広まるでしょう。それだけの期待がかかる発明よ。御嬢さん、あなたそういうことわかっててリタと付き合っているんでしょうね」
 ナスティアが付きつける。鮫島は答えた。

「いや。わかってなかったしわからないし付き合ってない」
 梨太は頭を抱えた。

 口をぱっくり開けたまま固まってしまったナスティアに、鮫島はやはり首をかしげ、それでも改めて。
「悪いことをしたことは今わかった。――ごめんなさい。二度としない」
 ナスティアはもう、笑うしかなかった。

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