鮫島くんのおっぱい

とびらの

鮫島くんは遊びたかった

 二時間後。
 突っ伏してゲップと格闘する梨太の耳に、ブブブッ――と奇妙な振動音が届いた。
 テーブルの下をのぞき込むと、大小いくつかの鞄。全て鮫島の荷物である。振動はウエストポーチから聞こえるようだった。

 他人の、一応は女性に分類されるだろう友人の手荷物を開くことに迷う。意を決してジップを開くと、銀色の金属板が飛び出してきた。クジラ型のモニターではない、かつて梨太が連絡用にと渡された簡易版のくじらくん、ポータブルバッジタイプである。

「鮫? いや、リタ君か。ここは……君の家か?」

 声は鯨のものだった。なんとなく久しい気のする星帝皇后に、梨太は軽くアタマを下げる。こちらからは声しか聞こえないが、あちらに映像は届けられるはずである。

「僕の家ですよ。鮫島くんは……いないんだけど」

「なに、いない? ばかな。トイレや風呂でもなく、これを置いて出かけたのか? ではいつ戻る」

「え。ちょっと、わかんない……」

 歯切れ悪く答えながら、ふと梨太は、頬をほころばせた。

「あ、そうだ! 荷物があるってことは、鮫島くん、また来てくれるってこと、だよね」

 梨太の口調に、鯨は敏感にナニカを感じ取ったらしい。己の声に不穏なものを混ぜて、

「なんだおまえら、喧嘩でもしたのか」

「け、喧嘩っていうか。僕が――仕事に集中したくて……出て行ってもらったんだ……」

「ほっとけばよかったじゃないか。邪魔になるほど物音をたてる奴じゃないだろうに」

 返事に窮する男に、鯨の声音に明らかな怒気が含まれていく。ほとんどしかりつけるようにして、鯨は強い口調で吐き捨てた。

「昨夜から何度も呼び出している。追い出したのは夕方か?」

「……昼過ぎ、です」

「わたしは一昨日、弟から連絡を受けた。リタの家にいく、荷物も全部そっちへ持って行くのだと――ずいぶん、機嫌のいい声でそう言っていた。それはわたしの記憶違いか? それともあいつの勘違いか」

「あ、あの……そういうことじゃなくて……」

「じゃあいったいどういうことだ。わたしが責めたてるようなことじゃないけど、ちょっと冷たいんじゃないか? 用が済んだ女を放り出すなんて。いや、姿はどうあれ鮫は男に違いないのだが、少なくとも君はあれを女性扱いしていると思っていた」

 梨太は目を見開いた。彼女の言葉を胸に入れ、反芻する。なにか違和感があった。自分が想定していた事態と、違う。

「ち、ちょっと。ちょっと待ってください」

 梨太は深呼吸し、自分のなかにあった情報――いや、思いこみを整理する。ややあって、掠れた声を絞り出した。

「……鮫島くんは、騎士団といっしょに本拠地で寝泊まりしているんじゃないの? 連絡ならこっちのバッジタイプじゃなく、正規のくじらくんに通信かけてみてよ」

「奴は本拠地には入れない。くじらくんも使えない。これだけだ」

 鯨は即答した。

「あいつは休暇で、まったく個人的にこの地球にやってきたからな」

 梨太は絶句した。その様子で、鯨は初めて弟の言葉足らずを理解したらしい。嘆息し、幾分穏やかになった口調で梨太に説明をしてくれた。

「いまの鮫は、あくまで個人。つまり騎士ではないので、軍の備品は何も使えない。寝床は町のホテルを取っていた。休暇なんだから自由に動いてかまわない、だがこのくじらくんは通信手段として常に身に着ける約束だった。それを置いていくとは、ずいぶんどんくさいことをしたものだな。
 まあ近くにはいるだろう。居場所を探せないかな? リタ君、ポーチをひっくり返してみなさい」

 わき起こる疑問をとりあえず腹に納めて、梨太は言われるまま、鮫島の腰にいつも巻かれていた小さな鞄を開いた。テーブルの上で逆さにする。真っ先に落下してきたのは、巾着袋。それはジャリンという金属音を立てた。

「うっ……」

 そこにひどく悪い予感を覚え、おそるおそる、中身をのぞき込んだ。日本円で、かなりの大金がそこにあった。財布である。
 さらになにかの薬品数種類、工具などの入った道具箱。そして薄いケースにコロリと二つ、涙の形をしたピアス――自動翻訳機の端末。

「ううっ……!」

 梨太はうめき声を上げた。緊張に胸が締め付けられ、嘔吐感すら覚える。鼓動が早まり、強く打ちすぎて、梨太の全身をしびれさせた。

「ううっ――……!」

 急速に事態を把握していく。

 人間が生活するのに必要なもの。衣、食、住。現金。コミュニケーション能力。その全てがこの部屋に置き去りだった。

 もっと早く気がつくべきだった。もっと早く理解するべきだったのだ。梨太は口元を押さえた。そうしないと悲鳴を上げてしまいそうだった。言葉だけ押さえ込んでも、脳の回転は止まらない。胸中で叫ぶのも止められなかった。震える梨太に、鯨が言う。

「まったくあいつは、どうしようもない奴だ。あの口下手は何かの病気なんじゃないか。リタ君、それに関しては君は悪びれることはないぞ。伝えなかったあいつが悪い」

「……いや……僕は、聞いた……鮫島くんは……言ってた。僕は聞いていた」

 強張った指の隙間から、声を漏らす。ぎゅっと瞑った瞼の奥で、数週間前の記憶が呼び覚まされていく。

 白い肌をかすかに染めて、はにかむように目を細め、ほほえむ彼は、小さな声で言ったのだ。

 ――あのね、俺も、休み。

 弟と比べ、はるかに饒舌な姉は堅い口調のまま述べていく。

「騎士団でなければこの地球へ来ることはできない。しかし騎士であればいつでも勝手にこれるわけでもない」

 鯨の言葉には嘆息が混じっていた。

「……宇宙船は軍の所有物だ。仕事でなければ、たとえ騎士団長であっても使用不可。かといって実際に仕事として地球に来たら、自由な時間など全くない。前回はたまたま舞台がこの町で、君を頼る機会があったから、ああしてともに過ごせただけだ。実際に、一年半ほど前にも日本へ来たが、終始仕事で抜け出すなどできなかったんだ」

「鮫島くんは……そのために、休みを取ったの?」

「……申請書としては、たまたまタイミングが合った、ということになっている。騎士の仕事で出向にでている間、代休は蓄積してたまり続ける。あいつは騎士になって十年以上、治療や冠婚葬祭以外で一日もそれを消化したことがなかった。いい加減に休みを取れと言ったのはわたしだ。いままで生返事ばかりしていたのを、バルゴ討伐依頼が日本から来たと聞いてすぐに申請してきたんだ。その出発の日までは勤務、その翌日から休暇をとると――」

「でも! ……鮫島くん、何度も呼び出されてたじゃないか。ここに泊まったのなんて2、3日だよ。なんにも遊んでなんかない。あの日だって、血塗れになって戦ってた!」

 梨太はとうとう叫んだ。鯨の返事は簡潔だった。

「それが条件だ。何度も言うが、これは本来違法行為なのだよ。奴は貯金まるごとを支払って、宇宙船の席をレンタルした。十年分の休暇を吐きだし、しかし呼び出されたら即、現場向かい、最前線で戦う。それが条件だった」

「――条件……」

「わたしを冷酷と言うなよ、リタ君。将軍として、これが最大の譲歩であり、鮫はわたしに礼を言ったのだからな」

 そういう彼女も、どこか居心地悪そうに声をくぐもらせている。

 ――あそぼ。

 その言葉は、言語変換装置を通さずに告げられた。これを言うために、彼は日本語を勉強してきていた。
 梨太と話すための台本を用意していた。
 あちらから何かを提案などしてこなかった。
 仕事以外の、空いた時間すべてを梨太とともにすごそうとしてくれた。
 彼お気に入りのあの席で、ただ、じっと座っていた。

 彼は、遊びに来たのだ。

 鮫島がこの町に来て、およそ三週間。梨太とともに過ごしたのは数日、数えるまでもないほど。
 ここぞと言うときには呼び出しに邪魔されて、昼夜を問わず血と泥にまみれて戦っていた。この家にいたときとて何をしたわけでもない。寝て、起きて、食事をし、ほんの少しだけ雑談をして……不器用な友達ごっこをして――それだけ――それでも――
 彼はそれが楽しかったのだ。

 梨太はテーブルに拳を打ち付けた。くじらくんが飛び上がるのを横目に、何度も殴りつけていく。痛む拳を押し込んで、その上に額を乗せる。すぐ前に鮫島の書籍があった。『にほんじんとともだちになろう』――土下座の形で、梨太はしばらくじっとしていた。 

 鯨が心配そうな声をかけてくる。それを無視して、梨太は叫んだ。

「未熟者っ!」

 家具が震えるほどの絶叫の、余韻が消えるより早く、梨太はリビングを飛び出した。サンダルをひっかけ走り出す。夏の日差しが栗色の髪を直撃した。それでもかまわなかった。何も考えず、アスファルトを全力疾走で駆け抜ける。

 遅れて、銀色のくじらくんが飛来した。梨太の走りよりも早く、追い抜いたところで周回する。

「リタ君リタ君、あの、おうちの電気とか鍵とかそのまんまなんだけど大丈夫?」
「電気消して鍵かけてきて!」
「え。わ、わたしが? この体でどうやって?」
「じゃあ留守番してて!」
「ええええ、わたし結構忙しいんだけどおおお」

 星帝皇后のクレームを放置して、梨太はひたすら膝を前へ出す。空気を蹴り飛ばし、アスファルトを踏みつけて、拳で空気をぶん殴り、そうして彼は町中を駆け回った。

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