鮫島くんのおっぱい
梨太君のうそつき
ひい、ひい、と岩浪継嗣の泣き声がする。
吉澤警部補は記者を押しのけながら、ベッドルームへ向かっていた。
隣の部下に聞かせるつもりもなく、独り言のように、低い声で呟いた。
「少年犯罪ってのは、なかなかきっぱり、加害者とも被害者ともいえないこともあるんだ。クズガキももちろんいるがな。そういうのほど、生まれ育った環境も糞溜めみてぇに劣悪で、ああそりゃあグレもするわなって思っちまう」
「……北――彼は、あの事件以前は、普通の中流家庭育ちですよね」
若い刑事は反論した。まあデータですがねと言葉を追加したが、吉澤はまるごと首を振る。
「俺が初めて会ったのは、あの事件から三か月ばかりあとのころだ。……養子入りと同時に引っ越してきて、保護観察官に紹介された。それから高校卒業まで、何度か会った。何度会っても――あいつは成長していなかった」
「はあ?」
「十四歳から、高二までの三年間、一ミリも背が伸びていなかった。成長期の男子だぞ。そんなことあると思うか? しかしそういう傾向があるんだよ。クソガキどもを山ほど見てるとな。ちびが多いんだ。子供の成長期、過度のストレス環境にあると成長が止まる――」
話しながら、吉澤は布団に手を突っ込んだ。四十男がヒイヒイと泣きながら転がり落ちる。すかさず記者たちのフラッシュ。それらを蹴散らしながら、若い刑事は首をかしげた。
「……でも、今の彼は平均並みでしょ。十七歳から急成長したって、ただ単に第二次性徴が遅かっただけでは? 大体その話、科学的根拠あるんですか。吉澤さんの私見だと思いますけど」
「かもな」
「俺にはもう小悪魔にしか見えないですよ、もう。だって初めから岩浪を嵌めるつもりで、しおらしいふりしてたんでしょ。扉越しの悲鳴とか泣き顔とか、全部演技だなんて。人間不信になりそうだ」
吉澤は苦笑した。
「あいつに役者の才能はねえよ。脳みその血液まるごと下半身にいっちまった状態でなけりゃ、演技だなんてすぐわかる。ひでぇ茶番だ。大根もイイトコだぜ」
「そうですか? でも」
吉澤は、岩浪を見下ろした。今は襟首を掴まれ泣いているが、大柄な男であった。格闘技を履修している刑事二人もそれに負けない体躯がある。全員が、成人している。
吉澤はしずかに呟いた。
「……俺たちにはきっと、一生わかんねえんだ。自分より圧倒的に強いものとの戦いにむかう、子供の気持ちなんてのはよ」
会場に入ってすぐ、梨太は眼鏡がないことに気が付いた。
整頓されていた鞄を掻き回し、機材の隙間まで覗き込み、一度は部屋にまで戻ったが見当たらない。
そこでようやく、昨日、岩浪に奪われたままだったと思い出す。
どうせ、安物の伊達眼鏡ではあった。だがほんの少しだけ遮光加工のされたアクリルは、琥珀色の輝きを抑えてくれた。顔の輪郭をあいまいにして、その面差しを、少なからず誤魔化してくれていた。
――急いで買いに出かけようか。
迷っている間に、会場に客が入ってくる。
イベント二日目、一般公開の日。前日のビジネスデーとは比べ物にならない賑わいだった。コアな趣味人、スーツのビジネスマンはもちろん、物見遊山の学生や近所に住む主婦までが、塊になってなだれ込んでくる。
「おーい、なにしてんだよ栗坊! 俺じゃわっかんねーよ!」
友人に呼ばれ、梨太は慌てて表に出た。前日に引き続き手伝いに来てくれたものの、専門知識のない彼はパンフレットを渡すことしかできない。留守番させるわけにはいかず、梨太は女子高生の集団相手に、開発者として説明をしていく。
昼を回り、主催の案内人が梨太のブースを訪ねてきた。
「――ドロップス、代表の栗林梨太さんですね? 二十分後に、発表の順番になってます。中央ステージのほうへ準備をお願いします」
梨太は面をあげ、神妙にうなずいた。
それは、このイベントの正念場だった。無名の学生開発、その小さなブースへと客を呼び込み一躍知名度を上げる、最大の見せ場である。
そのための準備を、ずっとやってきた。
この国に来ることが出来なかった仲間たち。その期待を一身に受けて、任されて、梨太はこの国に帰ってきたのだ。
――そうでなければ帰るものか。
自分の上辺だけしか知る者のない、こんな狭い国になど。
霞ヶ丘は、いい町だと思う。友人も住民も、みな優しくて親切で、穏やかで。
梨太はあの町が好きだった。失いたくなかった。受け入れられたかった。
だから彼らをじっと見つめた。それぞれの個性、本人も気づかぬ深意、どうすれば喜び、なんといえば好きになってくれるのか、一心にそれを考え、努めてきた。
彼らのことが好きだったから。
五年来の友人は、昨日のことなど何も知らず、せっせと機材搬入を手伝ってくれる。昨夜遅くまで、梨太が警察署にいたことなど思いもよらないで。
彼らは何も気が付かない。
「自信持って行けよ、栗坊。このアプリはホントすごいし、面白いよ。ヒトの心が読めるだなんて、まるで魔法だもんよ」
梨太は顔面をゆがませた。
「栗坊? ……緊張してんのか?」
友人は何も気づかない。
梨太は歯噛みした。
友人に向かって告げる。
「……大したものじゃないよ、なにも。……ホントは、誰でも出来るはずなんだ。
思い込みを捨てて、小さな表情の変化も見逃さないつもりで、ちゃんと見ていれば……
コワモテの騎士団長だろうと、悪魔の息子だろうと、その本当の姿が、見えてくるはずなんだ」
低い呻き声はざわめきにまぎれ、友人は聞き取れずに首をかしげる。梨太は背を向けた。
「見逃すわけがない。その人が大切なら。家族や親友なら――
みんなあの時そう言ったくせに。誰一人できていないじゃないか」
呼び込みの声がかかる。あらかじめ指定していたサウンド、ナレーション。梨太はステージに上がった。
メディアからも注目されているイベントだった。無機質なカメラのレンズに攻撃的なフラッシュ。一般客がぐるりとステージを囲み、たった一人でそこに立つ、年若い発表者を見上げている。
クセの強いふわふわとした栗色の髪。琥珀色のつぶらな瞳。平均よりわずかに小柄な体躯と、少女じみた愛嬌のある顔立ち。
この姿は、祖母からの隔世遺伝だと言われていた。
ずっと、両親にはあまり似ていなかった。
それでも成人に近づくにつれ、少年は父の面影をなぞっていく。瑞々しい肌の下から、じわりじわりと沁みだしてくる。
お名前をどうぞ、と、ナレーション。
梨太は顔面を触った。
(眼鏡がない)
震える指先に、汗に湿った睫毛がふれる。
(眼鏡がない)
お名前をどうぞ。
「……ど……うも……ドロップスの……」
(眼鏡がない)
「僕の名前は……」
ぐるりと取り囲む人間の目玉。みな日本人である。当然、その目はみな真っ黒だ。黒い目玉が、琥珀色の瞳を取り囲む。
「僕の名前は――栗林、梨太と言います」
どこからか、鋭く叫ぶ声がした。
うそつき!
梨太の視界がぐらりと揺れた。突然膝をついた発表者に、会場がざわつく。
その声ははるかとおくにあった。それよりもっと、甲高い声が、鼓膜に向かって差し込んでくる。
誰かの絶叫。誰の声かはわからない。死んだ母に似ている気もする。病室で突然立ち上がり、壁に向かって全力疾走したという母は、どんな声だっただろうか。思い出すこともできない。だがこれは母の声である気がする。
うそつき!!
梨太は意識を失った。
吉澤警部補は記者を押しのけながら、ベッドルームへ向かっていた。
隣の部下に聞かせるつもりもなく、独り言のように、低い声で呟いた。
「少年犯罪ってのは、なかなかきっぱり、加害者とも被害者ともいえないこともあるんだ。クズガキももちろんいるがな。そういうのほど、生まれ育った環境も糞溜めみてぇに劣悪で、ああそりゃあグレもするわなって思っちまう」
「……北――彼は、あの事件以前は、普通の中流家庭育ちですよね」
若い刑事は反論した。まあデータですがねと言葉を追加したが、吉澤はまるごと首を振る。
「俺が初めて会ったのは、あの事件から三か月ばかりあとのころだ。……養子入りと同時に引っ越してきて、保護観察官に紹介された。それから高校卒業まで、何度か会った。何度会っても――あいつは成長していなかった」
「はあ?」
「十四歳から、高二までの三年間、一ミリも背が伸びていなかった。成長期の男子だぞ。そんなことあると思うか? しかしそういう傾向があるんだよ。クソガキどもを山ほど見てるとな。ちびが多いんだ。子供の成長期、過度のストレス環境にあると成長が止まる――」
話しながら、吉澤は布団に手を突っ込んだ。四十男がヒイヒイと泣きながら転がり落ちる。すかさず記者たちのフラッシュ。それらを蹴散らしながら、若い刑事は首をかしげた。
「……でも、今の彼は平均並みでしょ。十七歳から急成長したって、ただ単に第二次性徴が遅かっただけでは? 大体その話、科学的根拠あるんですか。吉澤さんの私見だと思いますけど」
「かもな」
「俺にはもう小悪魔にしか見えないですよ、もう。だって初めから岩浪を嵌めるつもりで、しおらしいふりしてたんでしょ。扉越しの悲鳴とか泣き顔とか、全部演技だなんて。人間不信になりそうだ」
吉澤は苦笑した。
「あいつに役者の才能はねえよ。脳みその血液まるごと下半身にいっちまった状態でなけりゃ、演技だなんてすぐわかる。ひでぇ茶番だ。大根もイイトコだぜ」
「そうですか? でも」
吉澤は、岩浪を見下ろした。今は襟首を掴まれ泣いているが、大柄な男であった。格闘技を履修している刑事二人もそれに負けない体躯がある。全員が、成人している。
吉澤はしずかに呟いた。
「……俺たちにはきっと、一生わかんねえんだ。自分より圧倒的に強いものとの戦いにむかう、子供の気持ちなんてのはよ」
会場に入ってすぐ、梨太は眼鏡がないことに気が付いた。
整頓されていた鞄を掻き回し、機材の隙間まで覗き込み、一度は部屋にまで戻ったが見当たらない。
そこでようやく、昨日、岩浪に奪われたままだったと思い出す。
どうせ、安物の伊達眼鏡ではあった。だがほんの少しだけ遮光加工のされたアクリルは、琥珀色の輝きを抑えてくれた。顔の輪郭をあいまいにして、その面差しを、少なからず誤魔化してくれていた。
――急いで買いに出かけようか。
迷っている間に、会場に客が入ってくる。
イベント二日目、一般公開の日。前日のビジネスデーとは比べ物にならない賑わいだった。コアな趣味人、スーツのビジネスマンはもちろん、物見遊山の学生や近所に住む主婦までが、塊になってなだれ込んでくる。
「おーい、なにしてんだよ栗坊! 俺じゃわっかんねーよ!」
友人に呼ばれ、梨太は慌てて表に出た。前日に引き続き手伝いに来てくれたものの、専門知識のない彼はパンフレットを渡すことしかできない。留守番させるわけにはいかず、梨太は女子高生の集団相手に、開発者として説明をしていく。
昼を回り、主催の案内人が梨太のブースを訪ねてきた。
「――ドロップス、代表の栗林梨太さんですね? 二十分後に、発表の順番になってます。中央ステージのほうへ準備をお願いします」
梨太は面をあげ、神妙にうなずいた。
それは、このイベントの正念場だった。無名の学生開発、その小さなブースへと客を呼び込み一躍知名度を上げる、最大の見せ場である。
そのための準備を、ずっとやってきた。
この国に来ることが出来なかった仲間たち。その期待を一身に受けて、任されて、梨太はこの国に帰ってきたのだ。
――そうでなければ帰るものか。
自分の上辺だけしか知る者のない、こんな狭い国になど。
霞ヶ丘は、いい町だと思う。友人も住民も、みな優しくて親切で、穏やかで。
梨太はあの町が好きだった。失いたくなかった。受け入れられたかった。
だから彼らをじっと見つめた。それぞれの個性、本人も気づかぬ深意、どうすれば喜び、なんといえば好きになってくれるのか、一心にそれを考え、努めてきた。
彼らのことが好きだったから。
五年来の友人は、昨日のことなど何も知らず、せっせと機材搬入を手伝ってくれる。昨夜遅くまで、梨太が警察署にいたことなど思いもよらないで。
彼らは何も気が付かない。
「自信持って行けよ、栗坊。このアプリはホントすごいし、面白いよ。ヒトの心が読めるだなんて、まるで魔法だもんよ」
梨太は顔面をゆがませた。
「栗坊? ……緊張してんのか?」
友人は何も気づかない。
梨太は歯噛みした。
友人に向かって告げる。
「……大したものじゃないよ、なにも。……ホントは、誰でも出来るはずなんだ。
思い込みを捨てて、小さな表情の変化も見逃さないつもりで、ちゃんと見ていれば……
コワモテの騎士団長だろうと、悪魔の息子だろうと、その本当の姿が、見えてくるはずなんだ」
低い呻き声はざわめきにまぎれ、友人は聞き取れずに首をかしげる。梨太は背を向けた。
「見逃すわけがない。その人が大切なら。家族や親友なら――
みんなあの時そう言ったくせに。誰一人できていないじゃないか」
呼び込みの声がかかる。あらかじめ指定していたサウンド、ナレーション。梨太はステージに上がった。
メディアからも注目されているイベントだった。無機質なカメラのレンズに攻撃的なフラッシュ。一般客がぐるりとステージを囲み、たった一人でそこに立つ、年若い発表者を見上げている。
クセの強いふわふわとした栗色の髪。琥珀色のつぶらな瞳。平均よりわずかに小柄な体躯と、少女じみた愛嬌のある顔立ち。
この姿は、祖母からの隔世遺伝だと言われていた。
ずっと、両親にはあまり似ていなかった。
それでも成人に近づくにつれ、少年は父の面影をなぞっていく。瑞々しい肌の下から、じわりじわりと沁みだしてくる。
お名前をどうぞ、と、ナレーション。
梨太は顔面を触った。
(眼鏡がない)
震える指先に、汗に湿った睫毛がふれる。
(眼鏡がない)
お名前をどうぞ。
「……ど……うも……ドロップスの……」
(眼鏡がない)
「僕の名前は……」
ぐるりと取り囲む人間の目玉。みな日本人である。当然、その目はみな真っ黒だ。黒い目玉が、琥珀色の瞳を取り囲む。
「僕の名前は――栗林、梨太と言います」
どこからか、鋭く叫ぶ声がした。
うそつき!
梨太の視界がぐらりと揺れた。突然膝をついた発表者に、会場がざわつく。
その声ははるかとおくにあった。それよりもっと、甲高い声が、鼓膜に向かって差し込んでくる。
誰かの絶叫。誰の声かはわからない。死んだ母に似ている気もする。病室で突然立ち上がり、壁に向かって全力疾走したという母は、どんな声だっただろうか。思い出すこともできない。だがこれは母の声である気がする。
うそつき!!
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