鮫島くんのおっぱい
鮫島くんの惨殺
初めに感じたのは、むせ返るような血の匂い。
鉄くずに腐った川水を混ぜたような刺激臭は、扉の向こうの一室に充満していた。
視線を巡らせると、戸口のすぐそば、床に散らばる犬――バルゴの死骸。
さらに視線を動かす。どこにどう目をやっても、入ってくるのは赤い肉。
生首、四肢、臓物が、コンクリート床に散らばっている。
換気の悪い部屋だった。そのせいで悪臭が充満している。
梨太は目を見開いたまま、口元を抑えた。嘔吐感はすぐにやってきた。逃げ出そうとする視線を、部屋の奥で舞う人間が引き戻す。
鮫島である。
彼は、白い民族服の上から、長衣だけ軍服を羽織っていた。ズボンがどす黒く濡れている。黒い軍服部分は見て取れないが、もちろんこちらもたっぷり返り血を浴びているに違いない。
そんな格好で――漆黒の髪に純白の肌の、美しい女が舞っていた。
前後左右、ステップで飛び退りながら、片足つまさきを軸にぐるりぐるり、回っている。その手にはなにか鞭のようなものが握られていた。
左右の手に、どちらも三メートルはあるだろう、巨大な鞭を持ち、全身をしなやかに回転させ空中を薙いでいる。
鞭はたびたび壁や天井を叩いたが、なぜか一度も床に触れることはない。
鞭が壁を叩くたび、木端やコンクリートの塵が噴く。ノコギリのような細かい刃物の付いた鉄鞭であるようだった。
――ぎゃん! ――っぎゃうっ――
鮫島の体が回転するごとに、けだものの悲鳴が聞こえる。
鞭は時に円を描き、弧を描き、無限のシンボルを描き、水平に伸びたりもした。血風が散る。鞭は百匹の蛇のうごめきのように跳ねまわり、鮫島の前で身をかがめる、巨大な獣を打っていた。
「……な……にあれ、でかい……」
呆然とつぶやく梨太。
背中で、犬居が答えた。
「およそ全長三メートル。体重は五〇〇キロってところか。その咬む力は丸太を砕くだろう」
「そ、そんなのライオン……いや、それよりずっとでかい。バルゴってみんな、せいぜい大型犬くらい――」
「バルゴの寿命はおよそ三十年。その間、食べ物さえ豊富なら際限なく巨大化するのさ。あれは、お前より年上だろうな」
梨太は振り向き、犬居の襟首を掴んだ。指一本分ほどの身長差を引きおろし、軍服がよじれるまで締め上げる。
無言のまま睨む梨太を、犬居は冷たく見下ろしていた。
効いていないのはわかっていた。犬居だって軍人だ。喧嘩をして勝てる気はしない。それでも、梨太は暴力的な衝動が抑えきれなかった。騎士を見上げ、琥珀色の瞳を憎悪にゆがめる。
「――あんなの相手に、なんで鮫島くん一人を戦わせてるんだ。あんたらは何をやってるんだよ!」
犬居は無表情で、激怒する青年をじっと見下ろしていた。なんにも変わらない声音で囁く。
「なんでって? 戦っているところを見ただろう。今回は麻酔刀での捕り物とは違うんだ。刃物を振り回してる団長に近づけるかよ。足手まといどころか、こっちの手足が飛ばされちまう」
「どうしてっ――援護をしない? どうにかしてあの人の助けを――」
「どうしてって? できないからだ。重火器は日本に持ち込めないし、それがあっても、団長も敵も動き回っててどうにもならん。できるのは応援の掛け声くらいか。それこそきっぱりと邪魔だろう」
犬居の声には何の起伏もなかった。だが言葉の数が増えるたび、少しずつ、強い感情がこもっていく。
「もともとあの人は、一人で戦うのが好きなんだ。騎士にここから離れるように言ったのは本人だ。バルゴ戦に限らず、いままでも、いつだって、こうやってきた。
なぜかって? 見ればわかるだろ。見てよくわかっただろう」
言葉の中に潜むのは、鮫島への尊敬ではない。同情でも憐憫でも、恐怖でもなかった。罪悪感もない。
「自分よりでかい獣相手にも必ず勝つ。そいつがかばってた赤ん坊も、牙が生えていれば全部殺す。そういう生き物なんだ。あの人は――特別。だからあの人は強い。だから、騎士団長なんだ。俺たちにはあの人が必要だし、お前はあの人の役に立てない!」
犬居の叫びに、梨太はそこでようやく彼の言葉にひそむ感情の招待に気が付いた。
それは怒りだ。
ただ梨太に対して、激怒しているだけだった。
そして彼の真意を悟って愕然とした。考えなしにこの扉を覗いてしまった自分の愚かさに気が付く。
犬居は残酷な笑みで、少年の面影を強く残した男を――まだ少年と呼ばれてしまう梨太を、睥睨した。
「……わきまえろと……俺はもう、何度もお前に言ったぜ、くそがき」
梨太はゆっくりと、腕の力をほどいていく。俯き、そして犬居にもたれかかるようにして――無言のまま、彼の泥で汚れた靴を見つめていた。
耳元に注がれた犬居の声は、不思議と、やさしい。
「心配はしなくていい。もっと大きな野獣を相手にしたこともある。あの人が負けることはない」
「……鮫島くんは、強いよ」
梨太は吐き出した。
「……きっと、ほんとに、強い。騎士たちの誰よりも。戦闘力も、心も、強い人だ」
梨太の手が、震える。
「だけど……それでも、女の子だ……あんなところに一人にしちゃいけないよ……」
犬居の手が、梨太の手首を捕まえる。
「違う。あれは、雌体化している男だ。勝手に思い込むのもいい加減にしろよ」
彼の言葉よりも、梨太は犬居の手に驚きを覚えた。
小さな手だった。
梨太よりも小さくて、無理矢理に鍛えたせいで傷にまみれ節くれだち、変形した、女のような手。
彼は華奢な指で、梨太の手首を精一杯つよく握りしめていた。その握力では骨が軋むような痛みはない。だが堅くなった爪が、梨太の皮膚に食い込み血をにじませていく。
「それとも、お前にそれだけの力があるっていうのか?あの人を、女にするだけの力が」
鮫島の鞭は獣の肉を削り、その体毛ごと空中に散らしていた。
獣は鞭の痛みと恐怖に完全に腰が引けていた。ジリ貧なのは理解しているらしい、反撃を狙ってなんとか足を踏み出そうとするが、眼前をひっぱたく鞭のうねりに退いてしまう。
獣の生存本能が、前足を凍結させている。飛び出そうとしてはビクリと慄いて後退するのを、延々と繰り返した。
そうしているうちに体力もつきたのだろう、獣はすっかりおとなしくなっていた。すでにそこは戦場などではない。牙を抜かれた猛獣とその調教師がいるだけだった。
バルゴは壁に尻が付くほど後退し、憐れみを乞うような声を上げていた。くうん、くうん、と甲高い声は、子犬のそれと変わらない。それでも鮫島の鞭はやむことがなく、空気を、壁を、バルゴを削り取っていく。
バルゴはとうとう、鮫島に向かって腹を見せて寝そべった。完全降伏である。己の武器になる爪や牙をすべてさらけ出し、戦意がないことを伝えてくる。
もう逆らいません、どうか、命だけは助けてくださいと、獣がいう。
鮫島は鞭を捨てた。
そして腰に差していた手投槍を引き抜くと、寝そべったバルゴの、剥き出しになった柔らかそうな胸に向かって真っすぐに打ち込んだ。
どすっ――重い、腹に響くような音。
バルゴは悲鳴を上げなかった。
空中に向かって開いた口蓋から、グウと空気の鳴る音だけを漏らし、そして絶命した。
鉄くずに腐った川水を混ぜたような刺激臭は、扉の向こうの一室に充満していた。
視線を巡らせると、戸口のすぐそば、床に散らばる犬――バルゴの死骸。
さらに視線を動かす。どこにどう目をやっても、入ってくるのは赤い肉。
生首、四肢、臓物が、コンクリート床に散らばっている。
換気の悪い部屋だった。そのせいで悪臭が充満している。
梨太は目を見開いたまま、口元を抑えた。嘔吐感はすぐにやってきた。逃げ出そうとする視線を、部屋の奥で舞う人間が引き戻す。
鮫島である。
彼は、白い民族服の上から、長衣だけ軍服を羽織っていた。ズボンがどす黒く濡れている。黒い軍服部分は見て取れないが、もちろんこちらもたっぷり返り血を浴びているに違いない。
そんな格好で――漆黒の髪に純白の肌の、美しい女が舞っていた。
前後左右、ステップで飛び退りながら、片足つまさきを軸にぐるりぐるり、回っている。その手にはなにか鞭のようなものが握られていた。
左右の手に、どちらも三メートルはあるだろう、巨大な鞭を持ち、全身をしなやかに回転させ空中を薙いでいる。
鞭はたびたび壁や天井を叩いたが、なぜか一度も床に触れることはない。
鞭が壁を叩くたび、木端やコンクリートの塵が噴く。ノコギリのような細かい刃物の付いた鉄鞭であるようだった。
――ぎゃん! ――っぎゃうっ――
鮫島の体が回転するごとに、けだものの悲鳴が聞こえる。
鞭は時に円を描き、弧を描き、無限のシンボルを描き、水平に伸びたりもした。血風が散る。鞭は百匹の蛇のうごめきのように跳ねまわり、鮫島の前で身をかがめる、巨大な獣を打っていた。
「……な……にあれ、でかい……」
呆然とつぶやく梨太。
背中で、犬居が答えた。
「およそ全長三メートル。体重は五〇〇キロってところか。その咬む力は丸太を砕くだろう」
「そ、そんなのライオン……いや、それよりずっとでかい。バルゴってみんな、せいぜい大型犬くらい――」
「バルゴの寿命はおよそ三十年。その間、食べ物さえ豊富なら際限なく巨大化するのさ。あれは、お前より年上だろうな」
梨太は振り向き、犬居の襟首を掴んだ。指一本分ほどの身長差を引きおろし、軍服がよじれるまで締め上げる。
無言のまま睨む梨太を、犬居は冷たく見下ろしていた。
効いていないのはわかっていた。犬居だって軍人だ。喧嘩をして勝てる気はしない。それでも、梨太は暴力的な衝動が抑えきれなかった。騎士を見上げ、琥珀色の瞳を憎悪にゆがめる。
「――あんなの相手に、なんで鮫島くん一人を戦わせてるんだ。あんたらは何をやってるんだよ!」
犬居は無表情で、激怒する青年をじっと見下ろしていた。なんにも変わらない声音で囁く。
「なんでって? 戦っているところを見ただろう。今回は麻酔刀での捕り物とは違うんだ。刃物を振り回してる団長に近づけるかよ。足手まといどころか、こっちの手足が飛ばされちまう」
「どうしてっ――援護をしない? どうにかしてあの人の助けを――」
「どうしてって? できないからだ。重火器は日本に持ち込めないし、それがあっても、団長も敵も動き回っててどうにもならん。できるのは応援の掛け声くらいか。それこそきっぱりと邪魔だろう」
犬居の声には何の起伏もなかった。だが言葉の数が増えるたび、少しずつ、強い感情がこもっていく。
「もともとあの人は、一人で戦うのが好きなんだ。騎士にここから離れるように言ったのは本人だ。バルゴ戦に限らず、いままでも、いつだって、こうやってきた。
なぜかって? 見ればわかるだろ。見てよくわかっただろう」
言葉の中に潜むのは、鮫島への尊敬ではない。同情でも憐憫でも、恐怖でもなかった。罪悪感もない。
「自分よりでかい獣相手にも必ず勝つ。そいつがかばってた赤ん坊も、牙が生えていれば全部殺す。そういう生き物なんだ。あの人は――特別。だからあの人は強い。だから、騎士団長なんだ。俺たちにはあの人が必要だし、お前はあの人の役に立てない!」
犬居の叫びに、梨太はそこでようやく彼の言葉にひそむ感情の招待に気が付いた。
それは怒りだ。
ただ梨太に対して、激怒しているだけだった。
そして彼の真意を悟って愕然とした。考えなしにこの扉を覗いてしまった自分の愚かさに気が付く。
犬居は残酷な笑みで、少年の面影を強く残した男を――まだ少年と呼ばれてしまう梨太を、睥睨した。
「……わきまえろと……俺はもう、何度もお前に言ったぜ、くそがき」
梨太はゆっくりと、腕の力をほどいていく。俯き、そして犬居にもたれかかるようにして――無言のまま、彼の泥で汚れた靴を見つめていた。
耳元に注がれた犬居の声は、不思議と、やさしい。
「心配はしなくていい。もっと大きな野獣を相手にしたこともある。あの人が負けることはない」
「……鮫島くんは、強いよ」
梨太は吐き出した。
「……きっと、ほんとに、強い。騎士たちの誰よりも。戦闘力も、心も、強い人だ」
梨太の手が、震える。
「だけど……それでも、女の子だ……あんなところに一人にしちゃいけないよ……」
犬居の手が、梨太の手首を捕まえる。
「違う。あれは、雌体化している男だ。勝手に思い込むのもいい加減にしろよ」
彼の言葉よりも、梨太は犬居の手に驚きを覚えた。
小さな手だった。
梨太よりも小さくて、無理矢理に鍛えたせいで傷にまみれ節くれだち、変形した、女のような手。
彼は華奢な指で、梨太の手首を精一杯つよく握りしめていた。その握力では骨が軋むような痛みはない。だが堅くなった爪が、梨太の皮膚に食い込み血をにじませていく。
「それとも、お前にそれだけの力があるっていうのか?あの人を、女にするだけの力が」
鮫島の鞭は獣の肉を削り、その体毛ごと空中に散らしていた。
獣は鞭の痛みと恐怖に完全に腰が引けていた。ジリ貧なのは理解しているらしい、反撃を狙ってなんとか足を踏み出そうとするが、眼前をひっぱたく鞭のうねりに退いてしまう。
獣の生存本能が、前足を凍結させている。飛び出そうとしてはビクリと慄いて後退するのを、延々と繰り返した。
そうしているうちに体力もつきたのだろう、獣はすっかりおとなしくなっていた。すでにそこは戦場などではない。牙を抜かれた猛獣とその調教師がいるだけだった。
バルゴは壁に尻が付くほど後退し、憐れみを乞うような声を上げていた。くうん、くうん、と甲高い声は、子犬のそれと変わらない。それでも鮫島の鞭はやむことがなく、空気を、壁を、バルゴを削り取っていく。
バルゴはとうとう、鮫島に向かって腹を見せて寝そべった。完全降伏である。己の武器になる爪や牙をすべてさらけ出し、戦意がないことを伝えてくる。
もう逆らいません、どうか、命だけは助けてくださいと、獣がいう。
鮫島は鞭を捨てた。
そして腰に差していた手投槍を引き抜くと、寝そべったバルゴの、剥き出しになった柔らかそうな胸に向かって真っすぐに打ち込んだ。
どすっ――重い、腹に響くような音。
バルゴは悲鳴を上げなかった。
空中に向かって開いた口蓋から、グウと空気の鳴る音だけを漏らし、そして絶命した。
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