鮫島くんのおっぱい
梨太君の追跡
梨太は、自転車を出してきた。またがろうとしたところでふと思い直し、塀の内へ戻して、徒歩で出る。
あたりを見渡す――夕方と言うには暮れすぎた時刻、かなり薄暗くなってきていた。
住宅はリビングに明かりをともし、商店はシャッターをおろし始めている。
路地から出ると、大通りで中学生くらいの女子が二人、なにやら騒ぎながら携帯タブレットをのぞき込んでいた。梨太は迷うことなく飛び込んでいく。
「こんばんは。ちょっと失礼。さっきこっちを、変わった服きた背の高いお兄さんが通らなかった?」
少女らはギョっと顔を上げる。自分らと背丈の変わらない、にこやかな少年ひとりと見て取ると、雰囲気をやわらげた。
「うん、来たよ。すっごいかっこよくて、歩くの早くって。横顔撮ろうとしたけど、後ろ姿になっちゃった」
そういって、画面を見せてくれる。たしかに黒いシルエットが写っていた。梨太は礼を言うと、彼女らが指した方向へ進んだ。
さらに行くと、コンビニの前、座り込んでたばこをふかしている若い男の三人組。梨太は彼らの煙が届くぎりぎりくらいの距離に、腰を落とし、
「ごめんください。助けてもらえないでしょうか。人を捜しているんです」
尋ねると、彼らはお互いを肘でこづきあった。シルバーリングをやまほどつけた指を、真上、夜空に向けてあげてみせる。
「コスプレした兄ちゃんなら、さっきここから、屋根の上にあがっていったぜ。とんとんとんって、家の階段でもあがるみたいにフェンスを越えていった。なにあれ、雑技団?」
梨太は金条網を見上げ、諦めて建物外周を歩いた。ジャンプしても屋根上までは見えない。
ジャンプ――そう、その隣の建物まで、ジャンプで移れそうな幅だと気がついて、そちらの壁沿いに歩いてみる。
なんとなく、五分ほど回ってみただろうか。五、六人の人だかりが出来ていた。老若男女で、グループには見えない。ひとつ知った顔を見かけ背中を叩く。
「こんばんはあ、村尾のおばちゃん。涼しい夜になりましたねえ。みんな何してるの?」
「ああ、梨太君。こんばんは。いやあね、なんでもないんだけど。さっきそこの塀のとこから、いきなり上から降ってきて。誰かに当たることもなかったけども、どこから落ちてきたのかって、もしかしたら飛び降りか? って。見たことのない、ずいぶんきれいな子だったから、みんなしてワッと寄っていったのよ。そしたらなんか、あわててまた登って行っちゃって。大丈夫かしらねえ、もしかして降りられなくなってんじゃないかって――ああ、猫の話じゃないわよ、細長い女の人――いや、若い男の子だったのかしら。一瞬だったから」
「彼はいまどこに?」
「見えないのよ。でもたぶん、あの店の屋根のほうに」
そういって彼女は先ほど梨太が歩いてきたほう、数軒先のシャッターの降りた総菜屋を指さした。
梨太は背伸びしたりその場で垂直飛びもしてみたが、やはり高度が足りなかった。結局歩いて、言われた店のそばまで寄ってみる。
試しに、声をあげた。
「さめじまくーん」
返事はない。だが、なんとなく、生き物が動く気配がする。
「さめじまくーん。おーい。いるよね?」
さらに呼びかけるが、やはり返事はない。梨太はどうしたものかと考え、いったん踵を返そうとした――と、カタンと小さな音。背中を呼ばれて、梨太は目を細めた。
天井の低い、平屋建ての店舗である。屋上までは三メートルといったところか。梨太は隣の一軒家を訪ね、主に脚立を借り、門扉から続くブロック塀へよじのぼった。
ちょうど梨太の身長ほどの塀の上に、なんとか直立。危なっかしく手をのばして、隣の店舗屋上、縁へとぶら下がる。
「よっ、とっと」
苔むしてズルリとすべる壁を踏みしめて、どうにか上腕を屋上へ乗せた。そこからいよいよ苦労して、全身を乗り上げる。
ちいさな店だというのに、あがるのにこんなに苦労をして、あがってしまえばこんなにも高い。
秋の夜風が栗色の髪をなぶり、上気した頬を虐めてくる。
果たして、そこに、鮫島がいた。
がらんとした、コンクリートの屋上。
その床に膝をくみ、尻を浮かせて、体をまるめてじっとしている。長い足を畳んだ姿に、梨太は渡り鳥の休息風景が重なって見えた。遠くの街灯が、鮫島の姿をぼんやりと照らす。
闇を飲むような黒い服、黒髪の隙間から、純白のかんばせだけが浮かび上がっていた。
梨太は、息の乱れを深呼吸で押さえ込むと、彼に歩み寄っていった。
鮫島の側に、座る。
彼はちらりと梨太へ視線をやった。
赤面はおさまったらしい、膝の上で組んだ腕の中に顎を沈めて、やはりそのまま、無言でいた。
彼の隣から、自分の住む町を見渡してみる。全貌がみえるほどの高さではない。元来た方角をみやると意外なほどすぐ近くに栗林家の屋根が見えた。自分がさっき放置した玄関さきの自転車も。
梨太は、なんとなくそのあたりを眺めながら、静寂のなかでくつろぐ。
赤みを帯びていた地平線が、紫の色を強くしていく。
紫から濃紺になったと思ったら、その上空はいつしか完全に黒色に変わっていた。さらに見上げると白い星、黄色みがかった鋭い月。その明かりの周りだけが、夜空を青く照らしている。
「鮫島くんの、目の色だ」
梨太はつぶやいた。鮫島が顔を上げた。黒目部分のほとんどをしめる、大きな漆黒の瞳孔に青みがかった虹彩。梨太はその瞳と夜空とを見比べ、目を細める。
「そっか、知らなかったな。海と宇宙は同じ色なんだね」
「……海……」
鮫島がつぶやく。しばらく思案して、独り言のように言った。
「俺は、海というものを見たことがない」
「えっ、そうなの? 意外。だって、いろんな土地に行ってるんでしょ?」
つぶやきを拾って聞き返すと、鮫島はびっくりしたように目を丸くした。戸惑いに視線を揺らし、また腕の中に口元を埋める。それでも回答はしてくれた。
「王都は内陸、大きな盆地の中心部にある。テロとか、凶悪犯罪だとかはたいていが王都で起こるし、トラブルもやはりヒトのいるところ、都心近くだ。そうでなければ、騎士団ではなく軍警や兵団がいく。俺がラトキアで戦うことは少ない」
「他の星へ行くときは?」
「航海は行程のほとんどを時空間海流に乗ってワープさせている。重力調整装置が追いつかずどうしても船内に圧がかかり船乗者は健康でいられない。出発してすぐカプセルに入り冷凍睡眠をして、到着まで眠って過ごす。俺は、王都で船に乗り、目が覚めたら、おまえの学校の近くの山だった」
「えー。もったいない。他の星でもそんなかんじ? ここから海まで電車で三十分なのに」
梨太が言うと、鮫島は視線を遠くへ投げた。海の方角を探しているのだろうか。もちろん見えるわけがなく、彼はあきらめて目を閉じた。
「……海とは、水の色だと聞いた。こんなに暗い色だとは初めて聞く。どちらなんだ――それとも地球とラトキアとでは、海が違うのかな……」
ぼそぼそ呟くのを、梨太は頬杖をついて聞いた。のぞき込むようにして提案してみる。
「今度、行ってみる?」
「どこへ」
「海。ほらあそこ、オレンジに光ってるのが霞ヶ丘駅。そこから鈍行にのって……」
梨太が海辺への道順を簡単に説明すると、鮫島はずっとまじめな顔ですべてを聞いた。
「全部終わったら、一緒にいこうよ。この季節だからなにがあるでもないけど、空いてるし、水が澄んでて綺麗だよ」
「行って、何かするのか」
「んー、砂浜を散歩したり、カニとか捕まえたり。クラゲに砂かけて蕨餅つくったり。あとシーグラス集めて工作に使うの。タイルチップみたいに接着剤つかってプランターの飾りに、適当だけど、やると案外ハマったりする」
「……わらび、もち。グラス? 意味が分からない」
「行けばわかるよ」
「……鮫はそこにある?」
聞かれて、今度は梨太の方が一瞬疑問符を浮かべた。すぐに理解する。
「ああ、鮫、魚のサメね。うーん、このへんにはいないなあ。もしいても見ることは出来ないね。危ないや」
「サメは、地球の海にはいると聞いた。見れないのか……」
「そういえば、ラトキアのサメって、どんなの? 地球のとまったく同じ進化してるのかなあ」
鮫島は首を振った。
「いない。サメは、伝説上の生物だ。いや、過去にはいたんだろう。だけどラトキアではずっと昔に絶滅して、いまはその姿もさだかじゃない。クジラも」
「もしかして、犬も? 猪、虎、鹿、ちょうちょ」
一つ一つ、鮫島はうなずいて見せた。
「王都に、野生生物はほとんどいない。クローン培養の野菜、食肉用の家畜が八種類、三十種類ほどの魚介類の生け簀養殖所が点在するだけだ。
それらは切り身になり『食材』あるいは『料理』となって軍から支給される。俺は、ヒト以外の生き物が動いているところをほとんど見たことがない」
「へえ。……まあ、日本でも都会の生活は似たようなもんかもね」
梨太は、遠い星の生活に思いを馳せた。
あたりを見渡す――夕方と言うには暮れすぎた時刻、かなり薄暗くなってきていた。
住宅はリビングに明かりをともし、商店はシャッターをおろし始めている。
路地から出ると、大通りで中学生くらいの女子が二人、なにやら騒ぎながら携帯タブレットをのぞき込んでいた。梨太は迷うことなく飛び込んでいく。
「こんばんは。ちょっと失礼。さっきこっちを、変わった服きた背の高いお兄さんが通らなかった?」
少女らはギョっと顔を上げる。自分らと背丈の変わらない、にこやかな少年ひとりと見て取ると、雰囲気をやわらげた。
「うん、来たよ。すっごいかっこよくて、歩くの早くって。横顔撮ろうとしたけど、後ろ姿になっちゃった」
そういって、画面を見せてくれる。たしかに黒いシルエットが写っていた。梨太は礼を言うと、彼女らが指した方向へ進んだ。
さらに行くと、コンビニの前、座り込んでたばこをふかしている若い男の三人組。梨太は彼らの煙が届くぎりぎりくらいの距離に、腰を落とし、
「ごめんください。助けてもらえないでしょうか。人を捜しているんです」
尋ねると、彼らはお互いを肘でこづきあった。シルバーリングをやまほどつけた指を、真上、夜空に向けてあげてみせる。
「コスプレした兄ちゃんなら、さっきここから、屋根の上にあがっていったぜ。とんとんとんって、家の階段でもあがるみたいにフェンスを越えていった。なにあれ、雑技団?」
梨太は金条網を見上げ、諦めて建物外周を歩いた。ジャンプしても屋根上までは見えない。
ジャンプ――そう、その隣の建物まで、ジャンプで移れそうな幅だと気がついて、そちらの壁沿いに歩いてみる。
なんとなく、五分ほど回ってみただろうか。五、六人の人だかりが出来ていた。老若男女で、グループには見えない。ひとつ知った顔を見かけ背中を叩く。
「こんばんはあ、村尾のおばちゃん。涼しい夜になりましたねえ。みんな何してるの?」
「ああ、梨太君。こんばんは。いやあね、なんでもないんだけど。さっきそこの塀のとこから、いきなり上から降ってきて。誰かに当たることもなかったけども、どこから落ちてきたのかって、もしかしたら飛び降りか? って。見たことのない、ずいぶんきれいな子だったから、みんなしてワッと寄っていったのよ。そしたらなんか、あわててまた登って行っちゃって。大丈夫かしらねえ、もしかして降りられなくなってんじゃないかって――ああ、猫の話じゃないわよ、細長い女の人――いや、若い男の子だったのかしら。一瞬だったから」
「彼はいまどこに?」
「見えないのよ。でもたぶん、あの店の屋根のほうに」
そういって彼女は先ほど梨太が歩いてきたほう、数軒先のシャッターの降りた総菜屋を指さした。
梨太は背伸びしたりその場で垂直飛びもしてみたが、やはり高度が足りなかった。結局歩いて、言われた店のそばまで寄ってみる。
試しに、声をあげた。
「さめじまくーん」
返事はない。だが、なんとなく、生き物が動く気配がする。
「さめじまくーん。おーい。いるよね?」
さらに呼びかけるが、やはり返事はない。梨太はどうしたものかと考え、いったん踵を返そうとした――と、カタンと小さな音。背中を呼ばれて、梨太は目を細めた。
天井の低い、平屋建ての店舗である。屋上までは三メートルといったところか。梨太は隣の一軒家を訪ね、主に脚立を借り、門扉から続くブロック塀へよじのぼった。
ちょうど梨太の身長ほどの塀の上に、なんとか直立。危なっかしく手をのばして、隣の店舗屋上、縁へとぶら下がる。
「よっ、とっと」
苔むしてズルリとすべる壁を踏みしめて、どうにか上腕を屋上へ乗せた。そこからいよいよ苦労して、全身を乗り上げる。
ちいさな店だというのに、あがるのにこんなに苦労をして、あがってしまえばこんなにも高い。
秋の夜風が栗色の髪をなぶり、上気した頬を虐めてくる。
果たして、そこに、鮫島がいた。
がらんとした、コンクリートの屋上。
その床に膝をくみ、尻を浮かせて、体をまるめてじっとしている。長い足を畳んだ姿に、梨太は渡り鳥の休息風景が重なって見えた。遠くの街灯が、鮫島の姿をぼんやりと照らす。
闇を飲むような黒い服、黒髪の隙間から、純白のかんばせだけが浮かび上がっていた。
梨太は、息の乱れを深呼吸で押さえ込むと、彼に歩み寄っていった。
鮫島の側に、座る。
彼はちらりと梨太へ視線をやった。
赤面はおさまったらしい、膝の上で組んだ腕の中に顎を沈めて、やはりそのまま、無言でいた。
彼の隣から、自分の住む町を見渡してみる。全貌がみえるほどの高さではない。元来た方角をみやると意外なほどすぐ近くに栗林家の屋根が見えた。自分がさっき放置した玄関さきの自転車も。
梨太は、なんとなくそのあたりを眺めながら、静寂のなかでくつろぐ。
赤みを帯びていた地平線が、紫の色を強くしていく。
紫から濃紺になったと思ったら、その上空はいつしか完全に黒色に変わっていた。さらに見上げると白い星、黄色みがかった鋭い月。その明かりの周りだけが、夜空を青く照らしている。
「鮫島くんの、目の色だ」
梨太はつぶやいた。鮫島が顔を上げた。黒目部分のほとんどをしめる、大きな漆黒の瞳孔に青みがかった虹彩。梨太はその瞳と夜空とを見比べ、目を細める。
「そっか、知らなかったな。海と宇宙は同じ色なんだね」
「……海……」
鮫島がつぶやく。しばらく思案して、独り言のように言った。
「俺は、海というものを見たことがない」
「えっ、そうなの? 意外。だって、いろんな土地に行ってるんでしょ?」
つぶやきを拾って聞き返すと、鮫島はびっくりしたように目を丸くした。戸惑いに視線を揺らし、また腕の中に口元を埋める。それでも回答はしてくれた。
「王都は内陸、大きな盆地の中心部にある。テロとか、凶悪犯罪だとかはたいていが王都で起こるし、トラブルもやはりヒトのいるところ、都心近くだ。そうでなければ、騎士団ではなく軍警や兵団がいく。俺がラトキアで戦うことは少ない」
「他の星へ行くときは?」
「航海は行程のほとんどを時空間海流に乗ってワープさせている。重力調整装置が追いつかずどうしても船内に圧がかかり船乗者は健康でいられない。出発してすぐカプセルに入り冷凍睡眠をして、到着まで眠って過ごす。俺は、王都で船に乗り、目が覚めたら、おまえの学校の近くの山だった」
「えー。もったいない。他の星でもそんなかんじ? ここから海まで電車で三十分なのに」
梨太が言うと、鮫島は視線を遠くへ投げた。海の方角を探しているのだろうか。もちろん見えるわけがなく、彼はあきらめて目を閉じた。
「……海とは、水の色だと聞いた。こんなに暗い色だとは初めて聞く。どちらなんだ――それとも地球とラトキアとでは、海が違うのかな……」
ぼそぼそ呟くのを、梨太は頬杖をついて聞いた。のぞき込むようにして提案してみる。
「今度、行ってみる?」
「どこへ」
「海。ほらあそこ、オレンジに光ってるのが霞ヶ丘駅。そこから鈍行にのって……」
梨太が海辺への道順を簡単に説明すると、鮫島はずっとまじめな顔ですべてを聞いた。
「全部終わったら、一緒にいこうよ。この季節だからなにがあるでもないけど、空いてるし、水が澄んでて綺麗だよ」
「行って、何かするのか」
「んー、砂浜を散歩したり、カニとか捕まえたり。クラゲに砂かけて蕨餅つくったり。あとシーグラス集めて工作に使うの。タイルチップみたいに接着剤つかってプランターの飾りに、適当だけど、やると案外ハマったりする」
「……わらび、もち。グラス? 意味が分からない」
「行けばわかるよ」
「……鮫はそこにある?」
聞かれて、今度は梨太の方が一瞬疑問符を浮かべた。すぐに理解する。
「ああ、鮫、魚のサメね。うーん、このへんにはいないなあ。もしいても見ることは出来ないね。危ないや」
「サメは、地球の海にはいると聞いた。見れないのか……」
「そういえば、ラトキアのサメって、どんなの? 地球のとまったく同じ進化してるのかなあ」
鮫島は首を振った。
「いない。サメは、伝説上の生物だ。いや、過去にはいたんだろう。だけどラトキアではずっと昔に絶滅して、いまはその姿もさだかじゃない。クジラも」
「もしかして、犬も? 猪、虎、鹿、ちょうちょ」
一つ一つ、鮫島はうなずいて見せた。
「王都に、野生生物はほとんどいない。クローン培養の野菜、食肉用の家畜が八種類、三十種類ほどの魚介類の生け簀養殖所が点在するだけだ。
それらは切り身になり『食材』あるいは『料理』となって軍から支給される。俺は、ヒト以外の生き物が動いているところをほとんど見たことがない」
「へえ。……まあ、日本でも都会の生活は似たようなもんかもね」
梨太は、遠い星の生活に思いを馳せた。
「恋愛」の人気作品
書籍化作品
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