鮫島くんのおっぱい

とびらの

鯨さんのお願い

 烏の潜む建物は、二階建てのコンクリート舎である。それほど大きなものではない。

 もともと、全寮制高校ではない。寮は三十人ほどで満室になる、小ぢんまりとしたもの。寝室以外は共同生活。一階が受付やロビー、共同休憩所でもある食堂。細い間口からの長方形で、入り口そばと最奥との二カ所に階段がある。

 元は、ひとが生活をする場だ。当然、あちこちに窓が勝手口などもあったが、それらは神経質なまでに厳重にふさがれ、内部から木材などをうちつけられていたという。
 二階にゴミ捨てダクトと換気窓。
 一階部分は換気扇など小窓のたぐいも封鎖され、外観はまるっきり、ひとつの密封した箱のようだった。

 騎士たちは外窓からの侵入を試みるも糸口がつかめず。待ちかまえている敵アジトに潜入するという条件が変わらないならば、ダクトなどを無理に通っていくよりも、動きがとれ見通しのよい正面突破のほうが分があると判断した。

 それに、ここまで敵からの迎え撃ちがいっさいないことも気にかかる。ダクトから排水や生ゴミの排出がされ、たしかに人間の潜んでいる気配はあるのに、烏やその配下である白鷺の姿も一度もみれていない。

 おそらくは、毒ガスを充満させているのは一階のみ。二階のほうはなんらかの手段でうまくガスを避け、快適な生活空間にしてあるのではないか。ガスを満たしたのは騎士団を迎える直前、猿川を確保された数日後あたりだろう。それ以降、外出するにもなんらかの手段があると考えられる。

 ここに到るまで、騎士団はいまだ敵の全容をつかめていない。
 それでも、突撃するしかなかった。

 鮫島はくじらくんを従え、入り口すぐ付近に犬居を待機させ、単身、毒ガスのフロアへ侵入した。
 問題なく一階を制覇し、最奥の階段から二階へと上がる。鍵のかかっていない鉄の扉をひらく。

 どこか、清浄な空気を感じた。とたん、彼は猛烈な頭痛におそわれた。こめかみに釘をうたれ、頭蓋を万力で絞められるような激しい痛みに、全身の神経がふるえる。凍死を予感する異様な変調に、鮫島はすぐにきびすを返した。あと五秒で失神する、と自覚した。

 階段をおり、一階のガスフロアへ戻ると頭痛は嘘のようにひいた。

 新手の毒ガス、という感覚ではなかった。遠くに耳鳴りが残り、三半規管がやられてふらつく。やはり目には見えないが、二階にはなにか、罠が仕掛けられている――。

 鯨へ報告をしようと、鮫島はくじらくんを稼働させた。
 ところが、ラトキア科学の結晶、くじらくんは小刻みな共鳴振動をするばかりで、作動をしない。

 完全に故障してしまっていたのである。


 珍しい、鮫島の長語りを聞きおえて、ふむ、と梨太は口元を押さえた。

「それって、携帯電話に作用する妨害高周波みたいなもん?」

「くじらくん、という機械は、本来通話機などではないのだよリタ君」

 鯨が言った。

「これこそが自動翻訳機。今しゃべっているわたしの言葉が鮫らより流暢なのは、このくじらくんが一般騎士の脳に入っているものよりもはるかに大きく、そのぶん高度なコンピュータを搭載しているからだ。
 わたし自身の脳にチップは入っていない。ラトキアから、マイクに向かって話し、このくじらくんを通しリアルタイムで日本語に通訳されている。逆もしかり、くじらくんが拾ったマイクの音声が自動的に変換されて、わたしの手元のスピーカーからラトキア語が聞こえてきている」

 梨太はそれをすんなりと理解した。翻訳精度と、距離間でのリアルタイム通信技術が飛び抜けてはいるが同じようなものは日本にもずいぶん昔から存在する。鯨は続けた。

「それを簡略、軽量化し翻訳機能に特化させたのが、騎士たちの脳に埋め込まれているチップだ。簡潔に言えば、この空飛ぶくじらくんと、鮫の頭に入っているものは同じものなのだよ。
 そして、およそ十年前、脳用の翻訳機を開発、外科手術をしたのは当時軍の化学医療班で天才と称されていた烏。その第一被験者となったのが鮫だ」

「えっ?」

 梨太は声を上げて、思わず鮫島の方を振り返った。

 彼はやはり目を閉じて微動だにしない。

「だって、十年前って、そのころまだ、鮫島くんは……」

 訓練校の学生、騎士にもなっていない。そもそもまだ子供だ。
 つぶやきながら、梨太は別のことを思い出す。

 幼い頃から毒を飲み慣れさせて――通常三種類が限界、二十種類の耐性――烏。
 天才科学者として、軍にとって大切な人材だった烏が解雇された理由、人体実験、被験体への虐待――

 梨太は拳を握り、ふるわせた。

「くそっ。この期に及んで……なんか……ものすごくエッチな映像が浮かんでしまった自分にむかつくっ!」

「たいがい難儀だなおまえも」

 犬居が頬杖をつき、半眼で言った。

 鮫島が低い声でつぶやく。

「あの頭痛の感覚は、覚えがある。脳神経の自動翻訳機を既存の信号と共鳴させ、誤作動を起こさせたときのものだ」

「起こした」ではなく「させた」と、鮫島は言った。

「あのころは、あまり記憶が定かじゃない。そのため断定はしかねるが、俺は確信している。
 あれは自動翻訳機に作用する特殊な周波数だ。解毒剤や気付け薬でなんとかなるものではない。ましてや体を鍛えてもどうにもならない」

「……その、それを手術で取り除くことはできないの?」

 梨太の問いに、鯨が答える。なにか、あまりに不味すぎて笑いがでるほどのものを口に入れたまま話すような、複雑な笑みである。

「不可能ではないが、地球では無理だし、そうすると結局しばらくは戦場にでられる状態ではないだろうね」

「騎士は全員埋め込んでいて、騎士以外は地球へくることができない?」

「その通り」

「……たとえば……オーリオウル、だったっけ。そこから傭兵を雇う……あ、一階の毒が……」

 梨太は腕を組んでウンウン唸った。やがて、ぽんと手を打つ。

「よし、燃やそう」

「それが出来るならやっとるわ!」

 犬居に叩かれた。

「何で俺らがたった六人、麻酔刀一本で立ち回ってると思ってんだ。丸腰の連中に、武力行使ができないから苦労してんだよっ」

「だってもうぜんぜん丸腰じゃないじゃんよう、経皮性の毒ガスに脳味噌ゆさぶる毒電波って、なにその凶悪すぎわろた物件。トルネコだってそんなフロアは御免被るっつーの。入り口から薪放り込んで燃やそうよぅ」

「あのなあ、詳しく判明してないが、なんにせよガスだぞ。まんいち引火、爆発したら大惨事だ」

「じゃあ壁をぶちぬこうよ。コンクリ部分はともかく窓のとこはハンマーとチェーンソーでなんとかなるでしょ」

「おまえ、自分の地元をゴーストタウンにする気か。くどいようだが毒ガスの種類がはっきりしてないんだ、あの元学生寮が、霞ヶ丘高校のすぐ近くだってのを忘れたか?」

「あーそうか、それはよくない。……決行する日には、僕はロシア留学するからちゃんと教えてね」

「外道か、おまえはっ」

 犬居に首を絞められぶんぶん回されても、梨太は意見を覆さなかった。

 というより、ほかに案がない。それしかないでしょと胸を張って、それでも一応、案を出してみる。


「たとえば宇宙服みたいなので全身を覆って毒対策をした、騎士以外の人間が、麻酔銃とかをもっていくぶんには構わないわけでしょ? ていうかもうそれしかないよね。そういうの頼めそうなひといないわけ?」


「うむ、つまりはそういうことだな」

 鯨は深くうなずくと、犬居に向かって顎をしゃくった。犬居が一瞬表情をなくし、しぶしぶといった感で、荷物を出してくる。

 おおぶりの鞄から、テーブルにズルリと引きずり出されたものは、ダイビングスーツのような衣裳だった。
 黒地に赤でボディラインを縁取るデザイン。耳や、頭までをすっぽり覆う全身スーツと、目を守る大型のゴーグル、口元に張り付けるような立体マスク。さわってみると、想像よりはるかに軽い。ゴムよりも薄くしなやかな手触りで、ナイロン製のストレッチ下着に似ていた。それでいていっさい空気を通さない。そのうえ、圧をかけるとな奇妙な変形をする。

「なにこれ。気色悪い」

 梨太は手を放した。

 鯨が言う。

「鹿と蝶らも、顔面を覆うマスクと、長袖長ズボンの軍服、グローブまで身につけていた。騎士の軍服というのは、耐衝撃、耐刃耐弾、撥水機能もあるもので、ちょっとした毒霧くらいなら防げるはずだ。だが経皮毒は浸透していた。
 我々は作戦失敗以降、オーリオウル傭兵ギルドの問屋でさんざん頭をつきあわせ、毒ガス対策を相談し続けた。これなら確実に毒を防ぎ、戦闘に耐える稼働性を持っている――そう言えるものは、まだ開発途中のプロトタイプ一点のみ」

「それがこれ? サンプル品的な?」

 梨太はスーツを持ち上げ、だらりと全貌を垂らしてみた。肩のあたりを持ち、梨太が立ち上がると、ちょうど自分の脚先くらいまでしかない。

「……小さくない?」

 梨太の背丈は学年の平均を大きく下回る。体格も女子中学生並みだ。スーツは多少伸縮性があり横伸びはしそうだが、それでも、成人男性に汎用するとは思えなかった。

 鯨がうなずく。

「開発途中なのだよ。内容として完成はしたものの、これ以上大きく作るには機能が維持出来ない。ここまで出来たのだから、サイズ展開の実現も遠くはないだろうが、あと数日や数ヶ月で出来るものではなかろう」

「はあ、そりゃ大変ですね。だってコレ、僕くらいじゃないと着れないですよね? 仮にも傭兵って、戦いでご飯たべてるようなひとで僕みたいなチビがいるかどうか――」

 と、言いながら、梨太は少しずつ声量を落としていく。

 スーツを、自分の体に当ててみる。肩の高さをあわせると、足首の先まできれいに収まった。犬居が無表情でグローブを渡してくる。試しに手を入れてみると、これも綺麗にフィットする。いつも男性用手袋の指先が余るので心地よいくらいだ。

 犬居がとてもいやそうな顔をした。

「……えっと。そういうこと?」

 モニターの向こうで、鯨女史がにっこりと笑った。そして、ぱんっ、と、顔の前で両手を合わせる。肩をすくめ、腰を曲げて、軽く屈めてみせる。

「お願いリタ君っ」

「いやですよ!!」

 梨太は即答した。

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