Milk Puzzle
01: Brain Machine Interface
記憶。それは――儚いもの。
記憶。それは――いつ消えるか分からないもの。
世界は、科学技術が進歩しても――人間がかかる病気を完全に止めることは出来ない。
たとえいかなる病気の解明が進んだとしても、ウイルスは人間の思考以上に進化し続ける。それはまるで地球に存在する自浄作用であるかのように。
病因は不明。病状は記憶が消えていくこと。
それは、どんな記憶だって例外ではない。はじめは重要度の低い記憶。続いて恋人の記憶、家族の記憶と重要度の高い記憶を徐々に失っていく。最終的には――自らのことですら忘却してしまう。呼吸することも忘れたその先に残されたのは、死あるのみだ。
すべてを白に埋め尽くすその病は、白一面に塗り潰されたパズルの名前から、こう呼ばれている。
ミルクパズル症候群、と。
「脳は電気信号でデータを送受信している。つまり、その電気信号を抜き取ることが出来れば、少なくとも記憶のバックアップをとることは理論上不可能な話では無い」
黒板に幾何学的な文様と数式を書き連ねながら、わたしはカットシャツの裾を捲る。白墨を持ち替えて左の裾を捲ったところでわたしは黒板から目線を移した。
教壇から講堂を見ると、十五名ほどの学生がノートに文字を書いていた。この講堂は六十人の収容が可能であることを考慮してもらえれば、わたしの授業がいかに不人気であるか分かるだろう。
しかしながらわたしはそれについて悲観的に考えることはしない。わたしがこの講義を受け持つようになってから四年目になるが、その人気はほぼ固定されている。
わたしが受け持つ講義――『記憶科学』は比較的マイナーな学問だ。記憶という曖昧な概念を科学的に解析する学問。この学問は専門家が非常に少ない。わたしを除けば専門で研究している学者は二桁も居ないのではないだろうか。
ではなぜそのような学問を研究しているかといえば、恩師、アルベール・デグレイテットの存在は欠かせない。彼が居なければ今わたしはここで教鞭を執ることはなかっただろう。
しかしながら、世間は自分たちの知らないことに関しては非常に冷たい。
わたしが教えているこの講義についても、熱心に学んでいる学生などたかが知れている。
学生にとってみれば、暗記で試験を乗り切ることの出来るこの講義は、単位が取りやすいもの。
そう認識されても、致し方ないものだろう。
確かに、わたしは試験を難しく作ろうとは考えていない。それは決して学生に単位を取らせようという思いで作っているわけではなく、学生にこの学問を知ってほしいという思いからだった。
それが裏目となってしまったのは、紛れもない現実ではあるが。
「……さて、ではこのバックアップを取る方法について質問しようか」
質問をする相手はいつも決まっている。
最前列でわたしの講義を熱心に聞いている女学生が、その相手だった。赤い髪を三つ編みにして黒縁の眼鏡をかけた彼女はノートに夢中になって何かを書き込んでいた。層かと思ったらわたしに目線を移して話に時折相槌を打っている。質問を投げかけてもほかの学生と同じくしどろもどろの回答になるわけではなく、はっきりと淀みなく、それでいて正しい答えを出してくれる。まさに彼女は理想的な学生だった。
「信楽マキくん。答えてくれるかね」
わたしは彼女の名前を呼んだ。
「はい」
凜とした、透き通った声だった。
彼女は立ち上がると、わたしに目線を合わせたままゆっくりと口を開けた。
「脳に専用のコードを差し、専用のハードディスクと接続することです。そのためには、専用のコードを差すための手術を受ける必要がありますが、それは非常に簡単な手術です」
「はい、その通りです。補足説明までしてくれて、どうもありがとう」
彼女がわたしの想像した通りの回答を示してくれたので、大きく頷いて笑みを浮かべた。
「今、信楽くんが言ってくれた通り、脳に専用のコード……BMIコードを専用のハードディスクと接続することで、記憶のバックアップをとることが出来る。しかしそれは完全ではないし、制約もある。だからあまりしたがらない人ばかりだ。それに、非常に高価な手術代を支払う必要もあるからな。技術の進歩で手術時間の短縮と危険度の低下に繋がってはいるが、それが安価な手術には繋がっていない、ということだ」
授業終了のチャイムが鳴ったのは、ちょうどわたしがその解説をしたタイミングだった。
それを聞くとわたしが言う前に、学生たちは続々と講義ノートや教科書を片付け始める。
「はい、それでは今日の講義はここまで。来週にレポートを提出してもらうから、しっかりと実施しておくように。それでは、また」
レポートと言っても講義内容のまとめではあるが、学生に救済策を出すのが教師というものらしい。わたしは面倒な手順が増えるだけだからやりたくないのだけれど、学校の方針だから致し方ない。
学生たちが続々と講堂を出て行く。急いで出て行かないと次の講義が始まってしまう。
講義は入れ替わりで実施するため、それまでに講堂を出て行かねばならない。何か道具が多い場合は後片付けが大変で暇な学生に手伝ってもらうこともままあるらしいが、わたしはそんなことは必要ない。持ち物は教科書となっている恩師の著書とレポート用紙に記載した補助資料のみ。強いてやることと言えば黒板の清掃くらいだ。
ノートをとっている学生が居ないことを確認して清掃を開始する。時間はそうかからない。急いで清掃を終わらせて、教科書とレポート用紙を持って講堂を後にした。
「教授」
声をかけられたのは、ちょうどそのときだった。
そちらを振り向くと、そこに居たのは先程わたしの質問にはっきりと答えていた信楽くんだった。
「どうしたかね、何か質問があるのなら答えるが」
柔和な笑みを浮かべつつ、わたしは訊ねる。
対して信楽くんはそれを伝えるかどうか悩んでいるようだった。
なぜそう分かるかといえば、言葉を紡ごうとして噤んでしまい、また、紡ごうとして――それの繰り返しだったからだ。
「……ええと、何かあったのかね。もしここで話すことが出来ないならわたしの研究室で話せばいいと思うが」
「それで……お願いできますか」
「分かった。ついてきたまえ」
そうしてわたしは彼女を研究室へと招くことに決めた。
そのときは、あまり深くそのことについて考えたことは無かったが、今考えれば――それは大きな違いだということにわたしは気付かされるのだった。
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