―I weave with you―【第四回・文章×絵企画作品集】

些稚絃羽

風の色は空色

 手にこびりついているのは、あの日々の染み。夢見て、追いかけて、抗い続けて蓄積した拭いようのない染みだ。
 この染みが何かを汚す度、あの部屋を思い出す。光が注ぐ大きな窓、秒針の煩い時計、漂う油絵の具のにおい。あいつの寝間着とベッドシーツが取り替えられることはなかった。俺が付けた若い染みは、炎の中にきっとすぐ溶けた。

 あれからひどく早く時が過ぎた。
 気付けば絵で名誉を受け、絵で金を貰い、いつからか金のために絵を描いた。描きたい絵は浮かばないのに、売れる絵は簡単に湧いて出た。それを何とも思わなくなったのはいつからだろう。
 自分の変化に気付いたのは、何でもない日だった。ただふと、本当に突然、あいつの顔が浮かんで。皺の増えた俺とは違う、化粧っ気はないのにいやに綺麗な肌をしたあの日のままのあいつで、笑ったから。

 この笑顔を見るために、俺は絵を描いていた。
 そんなことを思い知った。

 絵を描くことをやめ、自宅代わりでもあったこのアトリエからも離れることを決め、ようやくすべてが片付こうとしている。明日――もう今日と言ってもいい――には、引き渡す予定だ。
 行き場のない駄作は売れても気分が悪いだけと、今日何枚破ったか。次の住居に持っていく段ボールよりごみの方が格段に増えてしまった。そうこうしている内に日が暮れ、夜が深まって、いま最後の一枚の行き場をまだ決めあぐねている。

 約束を破った。厳密に言えば一方的な願いだったが、その願いを無視して、完成させてからもずっと手元に置いている、『木洩れ日』の絵。
 木洩れ日が注ぐ小道には、大小ふたつの影も混じっている。自由だった頃のあいつと、独りじゃなかった頃の俺だ。

 まだあいつと出会う前、俺も空ばかり見上げていた。
 だけどあいつとは違う。あいつは空に自由を求めて、俺はただそこに消え去りたかった。羽ばたくことを願えたら、こんな終わりを迎えなかっただろうか。……でも今はこれで、十分だ。

 あいつはきっと、いや絶対知らない。
 二人で並んで散歩をしていたあの頃、その顔のどの表情も見逃したくなくて見つめていたから、違う景色を知れたこと。あいつの豊かな表情の奥で、俺たちの行く先を照らす光がどんなに綺麗だったか。

 まるでずっと知っているようだった。ずっと愛していた気がした。本当は大した時間を過ごしたわけでもなかったのに。始まりから終わりまで、たった数年の出来事が、こんなにも強く、深く、色づいている。風に乱れる木洩れ日のように、煌めきがそこかしこで香り立つ。
 最後の最後に、あいつを困らせた。それだけが痼となって胸の奥で引っかかる。何を求めたのか、自分でも分からない。ただきっと信じたかったのだと思う、奇跡というやつを。この絵に、そんな重いものを託したのだ。

 窓の外はまだ暗く、湿っぽい空気がアトリエに入り込む。星の瞬きはいつもと変わらず美しい。何億光年先の光の変化など分かるはずもない。変わらず来る明日も、きっと。
 絵の行き場所が決まった、よく日の注ぐ場所へ。約束を果たしに行こう。


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