―I weave with you―【第四回・文章×絵企画作品集】

些稚絃羽

命は梅の花のように

 琴の音色の中、歌を詠む声が微かに聞こえてくる。曲水きょくすいえんはもうとうに始まっていたが、廊下を急ぐ女君おんなぎみにはそのことを気にする余裕はなかった。参加することを求められる立場でもなく、参加したからといって良い顔を向けられるような立場でもない。
 今はそんなことよりも大事な、行くべき場所が女君にはあった。

 花の香りが次第に押し寄せる。梅花の香りだ。近付く度に強くなり、噎せ返りそうな甘さが身体に纏わりつく。女君は春の海に身を浸すように、香りの中へと進んで行く。
 庭に敷いた砂利が、踏み締める毎に大きな音を立てる。落ちた花弁を避けることはできなかった、あまりにそこら中に舞ったお蔭で庭は紅く染め上げられてしまったのだから。

 大きく枝を反らせる梅の樹の傍らには、男の姿があった。力なく幹に身体を預け、女君が近付いていることに気付かぬまま、ぼんやりとした眼差しで咲き誇る梅花を見つめている。女君の立てる足音も唐衣裳からぎぬもが砂利を引きずる音も、男には届かないらしかった。

 女君はほんの近くで立ち止まり、男の様子を眺めていた。此処に――いつもの、梅花の咲く小さなこの庭に居ると分かってはいても、その場所で実際に姿を見るまでは、女君の胸中は不安から解放されることはない。何時からだったか、夜が明ける度にそんな朝を繰り返している。
 今日は曲水の宴。気にする瞳も今はない。今日くらいは存分に、梅花の香りを楽しませてあげたいと、女君は思った。

 仄かな静寂を破ったのは、男の声だった。

「哀れに思おう?」

 以前より痩けた頬。古いも新しいも傷を申し訳程度に覆う包帯。心なしか肺の震えた声。
 どれを取っても「哀れ」に思うだけの材料は有りすぎて、しかし素直に頷けるはずもなく、揺れそうになる瞼に力を込めてこちらを見もしない男の頬を見つめた。
 ところが男が続けた言葉は、女君の思いとは全く異なっていた。

「毎朝選んで着込んだ着物の美しさを、一切褒めてももらえないとは」

 男が「哀れ」に思っていたのは、女君のことだった。

「そのようなことは、決して」
「あるから、唐衣からぎぬを着ておらぬのだろう。悲しまなくていいように、白を重ねるのだろう」

 分かっていながら思わず自身の衣に視線を落とす。本来ならば鮮やかな色と模様で彩られているはずの唐衣裳は、その唐衣も表着うえのきぬも、打衣うちぎぬさえ失われていた。
 それらを着ないことを決めたのは、女君本人である。思えば男の言う通り、「哀れ」に思ったからなのかもしれない。白で重ねた五衣いつつぎぬに中萌黄を混ぜて、その下には淡青の単衣ひとえを着込んでいる。女君の立場を象徴するのは、他の者には鼻で嗤われるようなたったそれだけの色だった。
 ――桃色に染まるたおやかな長い髪は、何を表すものであろうか。

「ついに身分を捨てでもしたのか」
「身分……そのようなもの、これまで私にあったでしょうか」
「この寝殿造りに住み、そのように衣を重ねるのに、農民の娘と同じだとは言わぬな?」

 瞼を閉じた男から、女君は目を逸らす。

 何と哀れなことか。
 忌み嫌われるでもなくただ見えぬ者として扱われる日々。父の居る寝殿から離れた北の対きたのついに母親と共に押し込められ、渡殿わたどのを歩けば不満げな顔を向けられた。粗末な食事でも毎日食べられることは有難かったが、身体の弱い母親が耐えられるものではなかった。女君は独りになり、今もなお同じくひっそりと呼吸を隠す暮らしを続けている。
 生まれ授かった身分とは、何と大層なことか。

 男は、すべてを知っている。知った上で女を傷付けるための言葉を吐いた。

「この身分を喜ばしく思うのは、その樹が花を溢れさせる春だけです」
「我も唯一、此処が気に入っておる。加護を与えてくれたそなたに、感謝しておる」
「加護など。独りで過ごすのに、此処は広すぎただけ……」

 男は女君の同居人であった。許されるはずもないことであったが、生涯未婚でこれを唯一の願いとすることを条件に、父親からの許しを取り付けた。母親が庭に梅の樹を願った時と同じように。
 男が、初めて女君に目を向けた。昨日より衰弱していることが、血の気の差さない頬で分かる。

「誠に哀れよのう。こうして見えておるのに、すべて白か、黒か、灰にしか見えぬ」

 男はまた、自身に降り注ぐ枝を仰ぎ見る。

「この梅花の香りは分かるのに、あの血のような紅色をもう見ることはできぬ。我の生き方はそんなにも」
「なりません、そのようなことを考えては。貴方様は苦しむ者の苦しみを昇華させるために、尽力してこられたのではありませんか」
「我がしてきたのは、苦しむ者の苦しみを、別の背に掛けることだ。呪いの力によって」

 女君は距離を詰め、男を掻き抱く。脱力し無防備な男の身体はあまりに簡単に女君の細腕に収まった。拍子に桃色の髪が、男の頬を撫でる。

「その力は、貴方様が欲して手にしたものではないではありませんか」
「……否、我は確かに欲したのだ。生きる為に、何者かになる為に我は、呪いの力を授かり、そして使い続けた。
 それを人は、生き神と呼んだ。我自身は私利私欲の為に手を汚さず人を殺める、陰陽師の成れの果てであるというのに」

 その呪いの力が今、男を蝕んでいる。身体も心も、呪いという魔物に巣喰われて、弱り切ってしまった。
 女君は男がまだ“生き神”として讃えられている頃に、この庭で男と出会った。凛とした佇まいをしていたあの頃と比べるまでもないが、男は別人のようになってしまった。積み上げてきたすべてを捨てて――或いは捨てられて――、路に突っ伏しているのを女君は見つけ、それから寝食を共にするようになった。
 男が振るっていた力がどんなものかを女君は知らない。しかし男の変わり様を見れば、その強さがどれ程のものかを知るのは造作もない。呪詛返しでもくらったように、男は無かったはずの傷を増やし、持つべきものを失っていく。

「そなたの声が、薄らいでいく。たったこれだけが、我に残された音だというのに、奪われていくのだ」
「聞こえる間、何度も何度でも話しましょう。貴方様が聞きたい言葉を何もかも」
「言葉などどうでもよい。ただその声を聞かせてくれぬか」
「はい……はい」

 男が覚悟しているものの大きさが、女君の心に迫る。
 それはすぐにでもやって来るだろう。男から、そして女君からもすべてを取り去っていく。それが梅花の香りを含んだ嵐ならば、少しは心穏やかでいられるだろうか。

「何かを与えるという生き方を、我もしてみたかったのう」
「十分です。十二分に、貴方様は私にこれらの時間を与えてくださったではありませんか」

 男は震えるようにかぶりを振って答える。

「それで何の償いになろう。そなたの母親は」
「もう良いのです、そんな昔のこと」

 男の言葉を遮ると、女君は力ない視線を首元に感じながら目を上げて梅花の色を焼き付けた。

「それに、貴方様が何をしたと言うのです。拳を振るう、剣を抜く、毒を盛る……そのどれかでもしたと仰るのですか。いいえ、貴方様は母に触れていないのです。貴方様はただ祈っただけ、祈るだけで人を殺められると信じるなど、傲慢です。私の母への冒涜です」

 女君はそう言って、男の過去を否定した。それは、罪の赦しと同等である。
 女君の髪が桃色なのは、男の罪を自身が忘れないためであった。男が祈り、誰かが死した日々を男の代わりに負うためであった。
 故に梅の枝で髪を染め上げる。失くした母親が遺し、男も好んだ梅で。血のように紅く染まることを女君は願っていたが、そう上手くはいかなかった。しかしこれはどうあろうと、自身でかけた呪いであった。
 もし男の目にこの髪色が映るとしたら、どんな顔をするのか。そんなことを考えて一人微笑む夜もある。

「狂うておる」
「花も女も、たまには狂うて咲いて、誰かを驚かせたいものなのです」

 口にしてから女君自身が驚いた。何かをする毎にあれやこれやと理由を付けたが、本当はただ一つであるのかもしれない。腕に抱いたこの男を驚かせたくて、伝わらないと知りながらも梅の枝を手折るのかもしれない。
 男の痛々しい左腕がゆっくりと上がる。その手がふと空を掴んで、追って、やがて諦めて力を無くす。

「何故、我に構う? 寂しいからか?」

 受けたことのない問いに、笑いが口を突いて出た。まるで自分たちの間に男女のそれらしいさががあるとでも言いたげで、あまりに滑稽であったから。女君は笑みを崩さずに言う。

「寂しさが紛れると信じてお傍にいるとすれば、私はとんだ阿呆です」
「では、何故?」
「強いて言うなら、「哀れ」だからでしょうか」

 今度は男が笑った。それはいい、そう言って笑う顔はとても珍しかった。このような姿になってからは、声に張りを感じることもなかったのだから。
 男の手は、今度は正しくその枝に触れた。身を少しばかり立てるのを女君が手伝う。

「この梅花を初めて見た時、命のようだと思うた」
「命」
「秩序やしがらみの上にぱっと始まり、短い間うんと身体を伸ばして、そうしてすぐ散っていく。儚く、短く。
 しかし力強い色と香りで魅了する梅花の方が、人の命の上にあるのかもしれぬ」

 男は誰よりも、そうした人の命を支えるものの脆さを目にしてきただろう。男自身もその不確かな地盤の一部として用いられてきたのだから。
 周囲を白い霧がぼんやりと漂い始める。霧に濡らされる男の頬は、女君の細指にも冷たい。男は額を擦りつけるように見上げて言う。

「知っておるか。呪いは、霧と共に来るのだ」


 男の今にも崩れそうな身体を女は抱いて、細い息を聞いている。色は見えずとも、命の温度が伝わるように。音が遠のいても、命の脈動が伝わるように。

 霧の濃さは、呪いの強さ。数多の魂がただ一人、か弱い男の命を捕えようと汚らわしい祈りを捧げている。
 しかし、色を失い、音を失った男にとって、その呪いは或いは救いかもしれない。散々苦しみ、心まで蝕まれてただ鼓動に生かされているだけの身体は、もう屍と同じ。それならいっそ醒めない眠りを貪る方が幸福なのかもしれない。
 そんな思いで、女君は男の身体を包んだ。

 霧が近付いてくる。そう感じるほど霧は密度を増し、薄霧は濃霧へと変わっていく。
 死の足音を女君は聞いた。男にも聞かせたいような、足取りの軽い音だった。

 呑み込まれそうな霧の中で男が梅花を一輪、手折る。手に残った梅花は摘み取られても色濃く開いたまま、成り行きに身を任せている。
 男はその梅花を女君の耳元に挿した。薄紅色のたおやかな髪に、まるでその梅花が命を吹き込むようであった。

「よく似合っている。花も、髪も。唐衣は白いままでいい、その方がそなたの美しさがよく分かる」
「見えるの、ですか」

 男は答えず、言葉を繋ぐ。

「しかし髪を染めるのはもうよしたらいい。その度に枝を奪っては、そのうち梅に呪われる」

 堪えきれないというように男はくつくつと笑う。そして笑い声が止むと、静かな口調で言った。

「いつ死んでもよいと思うて生きてきたが、そなたの傍でならもう少し生きたかった」

 女君は一筋の涙を流す。初めて男の心に触れた気がした。触れることを許された気がした。

「そなたの涙は美しい。だが、涙は生きるに重すぎる。……棄てて、生きろ」

 ゆっくりと男が瞼を下ろす。軽快な足音が耳元で鳴っていた。霧は目の前まで近付いて、落ちた花びらは流れ出た命の色に見えた。
 途切れ途切れになる息を、女君は唇で引き取る。最後の息を吹き込むように男の唇が動いて、やがて力を失った。


 生きる為、女君は最後の涙を流す。ひたすらに、男を愛するただの女になって。
 その号哭を梅花の樹だけが知っていて、呼応するようにはらはらと花弁を散らすのだった。

  

コメント

コメントを書く

「その他」の人気作品

書籍化作品