桃カレ★Scramble!
2:若葉色したあたしたち、とっても健康な診断はじまる
「いってきまーす!」
ドアを開けて、外の陽射しを浴びるを待つ……はずが、また「ママぁぁぁ」と玄関に逆戻り。
「ねえ、曲がってない? 曲がってない? 前髪、跳ねてない? 顔、むくんでない?」
「まあまあ。何度目? 大丈夫よ」
姿鏡に何度も自分を映して、萌美は満足するまでくるりくるりと繰り返す。
――糸くず、発見。一つ見つけて安心して、ドアを開けた。
隙間から四月の風と、心地良い桜の香りが忍び込んでくる。新興住宅の目の前は、ちょうどビルが建て壊されて、道路が見える。
――じゃあ、公園で待っているから。
(一刻も早く駆けて行きたい! でも、転んだり、髪が乱れたりするから――)
早足で行こう。
シタシタシタシタ……タッタッ……まるで犬のお散歩だと思いながら、早足になったところで、「おーい」と自転車の音と声がした。
振り返ると、サイクリング用の自転車に乗った涼風がハンドルを掴み、両脚をばーっと広げて通り過ぎるところで。
「あ、おはよう。マコ。ねえ、乗せてよ」
「だーめ。この地域は自転車に煩いんでーす。おれ、先に公園に行ってるから」
……はあ。罪のない表情だな。相変わらず。
萌美はシャー、と走り抜けた自転車をやるせない気持ちで見詰める。先日、盛大に知った蓼丸の秘密とともに、蓼丸が提案し、涼風と交わした「自然享受権」とやらで、萌美は「蓼丸諒介」と「涼風真成」のどちらも大切にして貰い、大切にする、つまりは抜け駆けしない、という約束を結んでいる。
「あたしは蓼丸と一緒に高校生活を……」
言いかけて、「ま、いっか」と足を公園に向けようとして、靴先に砂埃が載っているに気づく。多分爆走自転車のせいだ。
「せっかく夜、磨いたのに! マコのばかぁ!」
きょろきょろと見回して、さっと大きな葉をもぎろうとしたところだった。
「ハンカチ、貸すよ。葉っぱ毟っちゃだめだよ」
蓼丸がいつものちょっと緩めの制服姿で、公園の壁に寄り掛かって萌美を見ているところだった。
「桃原って面白いのな。いつもきょろきょろしてる気がする」
とっくん。とくとくとく。
柔らかそうな黒髪は、朝日に重なってアーモンド色だ。かすかに眼帯の飾りのビーズがぶつかる音は、きっとスウェーデンからの御守りかも。
――朝日がこんなに似合う人、いるだろうか。あたしは二日続けて恋音聞いた。
***
「お、おはよっ……本当に迎えに来るんだね」
「あ、うん。円卓の騎士って映画、知ってる? Knights of the Round Tableとは、アーサー王物語においてアーサー王に仕えたとされる騎士。俺、その騎士の台詞が凄く好きで」
「あ、知ってる。あれでしょ? 朝の目覚めと共に、姫に逢いたい……」
(朝から絶好調だな……)と思いながら、蓼丸の横に並ぼうと、早足になった。気づいた蓼丸は歩幅を広める代わりに、速度を落とした。
「うん、ちょうどいい」笑顔を確認して、蓼丸の足を見やる。
大きな足。長い脚。おしりもしまってて、動きも綺麗。腕に挟んだ鞄も似合っているし。春服のジャケットも、ネクタイの緩さもみんな似合ってる。
「は~……欠点ないなぁ」
「あるだろ」と蓼丸はとんとん、と眼帯を叩いて見せた。「コレを外すと、単なる奇人だから」は言い過ぎなようでいて、言い当てている。
「あたしは嬉しいけど。口説きいっぱい貰えるから」
「……俺は平和に暮らしたいだけだ。あの時、どうして外れたんだろうな。まあ、縛り方が緩かったか」
眼帯すれば、フェミニストな騎士。外せば女には「王女様」、男には海賊そのままの態度で「決闘しろ」……杜野に聞いたが、フェンシングが強いらしい。
「ね、今まで何人と決闘したの?」
蓼丸はごほっと拳を口元に当てて、目元を染めた。
「……多分、20人くらいかと」
20人!
「全て勝った。負けは許せないヴァイキングの血がね。一番長かったのは、体育教師との剣道試合かな。体育に眼帯外しちゃって……」
「きゃは。大変」
「笑い事じゃないよ。それから、俺、目をつけられてて……ってこんな話はどうでもいいか。今週いっぱいのお迎えだし」
え? と顔を上げると、蓼丸は、生徒手帳を出して、視線を落としたところだった。
「4月21日は健康診断、25日は生徒総会。そこで、新生生徒会のお披露目と、新生徒会の選挙の告知、四月いっぱいで、生徒会立候補者を束ねて、五月に総選挙だ」
(ふわあ)、と驚きで背の高い顔を見上げると、蓼丸はニコと微笑んだ。
――どきゅぅん。
(い、いちいち……心臓が反応する……)
「い、忙しい、ね」
「まあな。中学から慣れてはいるが、何しろあの生徒会長と副会長だろ。俺がしっかりしないと、選挙もただのお祭りになる。事務が苦手だと知ってたら、書記なんか断った。ともかく、生徒会長を捕獲しないと。足が速いんだ。だれか足が速いヤツ、生徒会に入ってくれないかな」
真剣な口調に、「むは」と笑いそうになって、萌美は慌てて口元を同じく拳で押さえた。
――でも、いいと思うけどな。お祭り選挙。
『足が速い』ならマコだ。そういえば、姿が見えない。また萌美はきょろ、と周辺を見回した。
「涼風を探してる? 先に行かせたよ」
ザリ、と蓼丸は足を地面に擦らせて、くっと笑った。
「考えたらフェアじゃないんだよ。桃原と涼風は同じ教室だ。すると、授業中だとしても、6時間は会話が可能。しかし、俺は朝と昼と帰りしかない。明らかにこれでは不利。彼氏らしいことも出来やしない」
――彼氏、らしいこと。
(やだ、彼氏認定してもらっちゃった。……彼氏らしいこと……なんだろ)
心臓も治まって来たし,聞いてみようかな。
「蓼丸、あの」
「チ.騒動の幕開けか」
(え? 蓼丸、今舌打ちした?)
見ていると、蓼丸は足を止めて、顔を手で覆い始め、「ちょっと持ってて」と鞄を放り投げて寄越した。
公園の終わりのベンチにズカズカ近寄った。ベンチには朝だと言うのに、イチャイチャと抱き合っているカップルがいる。それも、男の手は女の子の服の中に入っていて、下着を押さえている状態。
――ちょ、ここ、公園で、朝なんですけど!
(あ、カップルの目の前で蓼丸が止まった)
「生徒会長! もうすぐ朝礼始まりますが! また副会長に厭味な一句詠まれますよ」
――あ、織田生徒会長。
「おっと、もうそんな時間? 惜しいなぁ、あと5分長かったら……危険だったな」
別れの隅々まで色気を押し込んで、そそくさと立った女子の制服は「黄燐女子学園」。お嬢様高校だ。
蓼丸はふるふると震えているようだった。多分、フェミニストだから、こういう「遊び」に納得が出来ないんだと思う。
「今度は黄燐女子ですか。……いい加減にしないと、近隣の女子校から苦情が来ますよ!俺、眼帯自ら外すの、ゴメンなんですが」
「恐いねぇ」と生徒会長は眼鏡を押し上げると、「今日の朝礼は中止」と言い切った。
「何としても、生徒会室に来て貰おう。書類が溜まっているから」
蓼丸は指でさっそく眼帯を外した――。
*8*
朝から一騒動。生徒会長がいると、騒動になる、の噂は本当だった……。
「じゃあ、桃原、またお昼に迎えに行くから」蓼丸は頬をすり切りながらも、「さあ、行きましょう!」と爽やかな王子笑顔で生徒会長を引き摺って行き。
「桃ちゃん、またねー!」と生徒会長は屁でもない明るさだ。
はぁ。と萌美は息を吐き出した。(あれじゃ、蓼丸がどっと老けちゃうな)校門の自転車小屋のところで、1年校舎の一号館と、生徒会のある本館で別れて、靴箱に手を掛けた。上履きを出したところで、「おす」と杜野が声を掛けてきた。
「あ、おはよう。杜野くん」
「蓼丸さん、元気? 朝、逢ったんだろ」
(そうだ、この人蓼丸を超リスペクト!)杜野は美形なハズの顔を半分前髪で隠していた。
「前髪長いね」
「ああ、切らなきゃな」呟くと、丁寧に上履きを履いた。(蓼丸は踵、踏み潰すなぁ)と思って見ていると、「根はヴァイキングなんだよ」と笑って正答された。
「驚いただろ。あの豹変ぶり。でも、あんたのその小さい手で元に戻ったのには驚いた。ああ、そうだ。報道部には注意しな。蓼丸さんを護ってやれよ。眼帯王子のモードは平和でぼーっとしてるから」
「うん、超、平和主義だった! なにあれ」
「ははは。本性だったりしてね」楽しそうに笑う杜野に(本当に蓼丸が好きなんだな)と力一杯好感を覚える。
(あたしも蓼丸が好きだから、嬉しい。でも、蓼丸はどうなんだろう……)
及ばずも、あのフェミニストな態度は萌美に影を落としてきた。すなわち、「蓼丸は女の子には誰にでも優しい」のではないのだろうか。
(優しいから、OKしたのかも……クリスマスまでに決めなきゃって)
……なんでクリスマスなんだろうね。
「おはよ~! 桃。しかし、男女の並びはつまらんね。なんか当たり前って感じ」がっつり系腐女子の雫がやって来て、杜野との会話と、萌美の思考は忽ち途中になった。
***
クラスは真新しい制服の匂いや、座られていない冷えた机の木々のフレッシュな空気に染まっていた。
(朝の教室好き!)とばかりに席につくと、杜野の席に、涼風が座っていた。目の前には、ミルクコーヒーとブラック珈琲。
「……よ」
「……よ」と同じように挨拶をして、じろっと置いてある缶コーヒーを睨む。涼風はブラックを煽っていた。
「あたしの前までかっこつけてどーするんだか」直ぐさま取り替えると、涼風は美味しそうにミルクコーヒーを飲み干した。
「蓼丸の前で、何無理して飲んでんのよ。苦いの、嫌いなくせに」
――あー、渋めの珈琲が美味しいったら。
「珈琲くらい勝ちたかったんだよ。他、勝ち目ねぇもんな」
「もともと勝ち目なんかないってば」
さわさわと揺れる木々から桜の花びらが遊びに来た。四季折々。窓際の特権だ。
「でも、今、勝ったかも」と涼風。
「は?」と萌美は眉を潜めた。
「それ、俺……飲んでたやつだぜ」涼風はごほっと朱くなって、缶コーヒーを指した。はっと気づいて、萌美はじ、と缶コーヒーに視線を落とした。
(まさかまさかまさか。間接キ)心で言うも嫌だ。しかし、涼風はにやっと続けた。
「間接キ」
「わああああああん! やっぱり、あんたなんかだいっきらい!」
「いいよ、嫌いで」
涼風は涼しげに珈琲を飲んでいる。むっとして睨むと、「いっつも怒ってばっか」と眉を下げた。
「たまには、俺にも笑顔見せろよ。おりゃ」
頬をつままれて、手を振り祓った。それでも涼風は「おりゃ」と何度も手を出してくる。きゃっきゃとじゃれて、(ペースに飲まれてる!)と手を叩いた。
「そだ。マコ。カレシらしいことってどんなんだと思う?」
「Hすっこと?」
――完全に、人選誤った。しかし、頭にないわけじゃない。教室の半分の話題は恋と性なんだから。よくみると、指輪の上に絆創膏巻いてる女子だっているし。
漫画なんか、ほとんどそこがクライマックス。
「じゃあ、あー、こほん。これは審査デス。あ、あたしのカレになったら、何をしたい?」
「――なにも」
涼風はほおづえをついて、目を遠くに向けた。その目は何か遠くのものを探しているように優しく撓んでいる。涼風だって、こうして見ると、サルだけど男の子なんだ。
(何もって……)と困惑するまえで、猿のような三白眼がふっと輝いた気がする。
「一緒にいられるって貴重なんだぜ? こうやって時間は流れてく。でも、一緒にいられて、桃原が見られればいいんじゃね? まあ、蓼丸はH巧そうだから期待すんのも分かるけど。指が長いから」
……確かに長い。触り方も優しかったな。少女漫画のヒーローはみんな指先巧みに服を脱がしていく。「おおおお」と思って読み耽ったあの漫画のように蓼丸も……。
ぽわわん、と妄想して、すぐに両手で机を叩いて追い払った。また涼風のペースだ。
「してない! それに、そういうことはしません!」
涼風は椅子に伸びた。
「どうだか? 眼帯外した時の目、完全に男だったぜ? いやぁ、格好良かった……」
「ああ、格好良かったな。俺もあの目に惚れたんだよ」
いつしか杜野が加わっていた。『蓼丸リスペクターズ』のノリにはついていけない。ふと、雫が遠くから写メっているのに気づいた瞬間、「おらおら、席につけ~」と立野教師が出席簿で廊下近くの男子を軽く叩きながら入って来た。
生徒はざわざわと喧噪を経て、席に戻る。
『健康診断』と大きく書かれた黒板にクラス全員の視線が集中した。
「Aクラスからだ。順番に廻るんだけど……委員長、プリント配って」
ふむふむ。と見ると、健康診断の主な会場は「本館」と「講堂」だ。ぐるりと部屋を回って、最後にカウンセリング……。
「で、生徒会役員が誘導するから、カルテを提出すること。毎年持って帰ってくるバカがいるから、各時注意!」
更に先生は大きな字で「生徒会総選挙」と書き殴って、ぱん、と手を叩いた。
「はいコレね。25日までに立候補者は、選挙管理委員会に申し出ること。各クラスで人数が多い場合は、立候補前に選挙する。で、今、立候補するヤツいる?」
――ばっと杜野と雫、それに涼風が手を挙げた。
(あ、あの……お知り合いさんたち……?)
三人は立ち上がって互いに火花を散らしていた。
(というか、誰からも聞いてないし! あ、あたしも立候補……無理。文化祭の委員が精一杯。そうだ、各種委員会に入れば、生徒会と一緒に活動できる?)
と、雫が「譲るわ。あんたらお似合いだし」とすとんと座った。
「内申より、萌えを取るんだよ」との強烈な台詞と共に、1-Cの立候補者はモノの5分で決定。
涼風真成と杜野篤哉。ヨコシマな想いでなければいいけれど。
「はい、決定。いいね、なんか。問題なさそうなクラスで」先生の声に、皆は笑ったけれど、多分、面倒ごとがいやなだけだと思う。やたらに冷たい生徒が多い。もうみんな、生徒会なんかより、進路を見ているのだろう。
あたしにも、夢はある。洋画のお仕事すること。だから、英語だけは必死にやって来ている。でも、どうやれば夢に近づくのか分からない。
蓼丸の夢はなんだろう?
マコの夢は? トランプ芸人かな。
教室か……と萌美は教室をぐるりと見回した。色んな考えをみなが抱えていて、決してひとつにはならないのに、どこか夢を詰め込んだ孵化待ちのタマゴたち。
(ウズウズと殻を揺らしているんだ、きっと)全員の頭に鶏冠が見えて、くすっとなった。
*9*
「朝は済まなかった」とお昼に蓼丸がホットドッグを下げたまま、頭を下げた。
「あ、いえ。こちらこそ」と慌てて下げて、「お昼いこ」と手を掴んだ。振り回して歩いていると、蓼丸は不思議そうな何とも言えない声音になった。
「ふっつーに手を伸ばしてくるよな、桃原は」
(あ! お父さんによくやるから! うっかり!)
「ご、ごめんっ。あたし一人っ子で、よくパパの手」「いいよ」と蓼丸は握り直して、大きい手に小さな萌美の手を押し込んだ。「あのね、健康診断って生徒会役員いるの?」蓼丸は先輩だ。色々聞けるのは有り難い。
「ああ、俺は視覚検査の辺りにいる。迷いやすいから、誘導係がいるだろうって。出口には副会長。生徒会長は本部詰め。毎年逃げるヤツがいるから、捕獲隊とか、あとは会長を見張る人員とか」
(相変わらず大変そうだ)
「生徒会役員は先に回るんだけどな。ん、身長伸びたかも? 節々が痛いし」
萌美はこっそり、胸を触ってみたが、変化なし。
まだまだオコちゃま体型で。Hすっことじゃね? なんて涼風のバカな一言で、意識してしまう。
(んっとに、あの、サル! 余計なことしか言わないし、しない!)
「胸がどうかした?」
「あ、ううん? ……女の子って好きな人といると、胸が張るんだって。張らないなあって……おかしなこと言ってるって突っ込んでっ!」
しかし、真面目な蓼丸は真剣に考え始めた挙げ句、萌美の手を両手で掴み始めた。
(うにゃ)変な声を漏らすも構わず、屈んでまで、萌美の表情を窺おうとしてくる。
あまつさえ、手が頬に持って行かれた。
蓼丸の頬は、少しひんやりしていて、男の人の肌って感じが、した。
「そういうの、本気にするタイプなんだ。いつ、胸がきゅん、するかなんて、桃原次第。でも、俺といてきゅんとしないの?」
綺麗なアーモンド色の片眼に見詰められて、指先がぷっくり膨らんだ気がする。
――突然、ず、きゅん。
(と来た! きたきたきた!)
覗き込まれて、きゅん、どころか ぐぐぐ……と引っ張られるような感覚が体を駆け抜けた。心臓が一大オーケストラを奏でている。
「た、たでっ……蓼丸、だ、大丈夫デスか、らっ……」
「きゅんとしない内は安心できないな。カレシの意味がない」
――直球。
(そっか、蓼丸は、あたしをきゅんきゅんさせることが、カレシとして出来ることって言ってたんだ……)
うん、ありがとう。蓼丸ありがとう。こんなあたしの、カレになってくれて。マコがくっついてくるのが気に入らないなんて言わないよ。だって、選ぶ度胸がないの、見抜かれちゃったから。
マコを選ぶことはないにせよ(断言)マコがああ、宣言する以上、蓼丸は無碍にはしない。
でも、貴方に惚れた二人が、生徒会にぶっ込み相談中です。言わないほうがいいのかな。
「生徒会総選挙だけどさ、桃原のクラス、一番に提出してきたよ」
蓼丸親衛隊は行動が早いのだった!
「涼風は足が速いし、杜野は機転が利くから、両方欲しいところだ。涼風は会長を捕まえてくれそうだし、杜野は副会長の厭味もさっと受け止めて仕事させるのが巧そう」
「あ、そこですか」
くすくす、と蓼丸は声を漏らすと、萌美の手をやっと離した。
「うん、蓼丸が助かるなら、持ってって。二人とも、ボロ雑巾のように尽くすと思うよ」
「俺に負けた同士だな」
笑顔の応答に(イイカンジ)と嬉しくなった。蓼丸が自販機の前で足を止めた。
(あ!)
「まあ、助かるならいいよ、と」
プルタブを引いた。口、つけて飲んだ!
「あたしも、珈琲欲しいなっ」
「じゃあ、奢るよ」
「ううん、それ……それちょうだ……」
二人で会話が途切れて、萌美は慌てて自販機の前で財布を落とした。
チャリンチャリンと硬貨が転がって行く。「あーあー」と蓼丸が「これ持ってて?」と珈琲を渡す。
珈琲を持つ手が震えた。こく。(飲んだ! 飲んじゃった!)
「これで全部かな。二百八十円な」
「あ、ううん、ありがとっ、し、ぜん、きょうじゅけんだもんねっ」
顔が熱くて、慌てて頬を手で隠す。マコとのハプニングも、これで消えたはず。これで、ハプニングはないはずだった。廊下で、満足そうにカメラ抱えたカメラ小僧こと、報道部に会うまでは――。
*10*
(あれ、報道部の子かな)と思う前で、蓼丸がつい、と顔を上げた。間接キスには気付いていない様子で、萌美はほ、と胸を撫で下ろした。
(気付かれたら恥ずかしさで爆発する)それもこれも、マコのせいだ。
――マコ……無理してブラック珈琲なんか飲まないでよ。
萌美は唇を曲げた。何一つ嬉しい行為ではないのに、涼風の行動がいちいち心に刺さる。涼風の行為こそ、ラブラブだからこそ活きるはずで。
「桃原、ちょっといいかな」と爽やかテイストの声音で蓼丸は誰かに手を挙げた。
「やべっ」と逃げるカメラと三脚。カメラが大きいので、どうもカメラと三脚が動いているように見えたが、影からちらっと少年の姿が見えた。
ツンツンに外ハネさせている「チェシャ猫」のような小柄な少年だ。勝ち気そうな目はどこかで見た覚えがある。
どこかで。どこだっただろうか。
(うー、記憶の断片に引っかかる。なんか、杜野くんのそばで見たような……)
萌美は瞬間記憶には自信がある。つまり、一度見たモノは忘れない。
(うーん……視界にチラチラ映るんだけどな……チラチラ? ――あ)
杜野の斜め後ろ、涼風の列の次の席でよく伏せってる男の子! なまえは、なまえは。
考えて想い出せなくて、考えるのをやめた瞬間、ぽんっとAが見えた。
二条だ。二条陸。
萌美は咄嗟にカメラに声をかけた。
「あれ? 二条くんじゃない? 1-Cの! 杜野くんの斜め後ろにいるよね。チェシャ猫っぽいから覚えてた! あたし、桃原!」
「え……?」と二条が止まった瞬間。蓼丸の腕が伸びた。蓼丸はチェシャ猫こと二条の首根っこを掴んでいた。
「で、何を撮ってたんだ? ん? 報道部のチェシャネコ」
にーっこり笑っているが、目が笑っていない。二条はつんけんとしながら、言い返した。
「言えるわきゃないだろ」
「よし、じゃあ、きみを三年生の女子に放り込むとしようか。きみみたいなちっちゃい男の子は可愛がってくれるぞ」
微笑ましいようあ、微笑ましくないような脅しである。二条は口を尖らせた。
(いじけてる。可愛い)ツンツン髪を揺らしてぼそっと呟いた。
「部長に、まずは生徒会役員の写真を持って来いって言われて、入部テスト」
蓼丸は「そうか」と首根っこを離す。二条はむすっと襟首を直し、そっぽを向いた。
「俺に見つかっちゃだめだろうけど。フィルム見せてくれたらいいよ。報道部?」
二条はドヤ顔になった。猫目をきらきらさせて、ぱきっと告げた。
「ああ! 神部先輩を追いかけて来たんだ!」
(あ、あたしと同じ)萌美はきゅ、と蓼丸の腕を強く握った。
「神部先輩。3年の。中学校の報道コンクールで優勝したんだ。それも、職員室SCOOPで。教えて貰える時間はもう1年もないから焦ってんだよ」
「わかるっ」
「桃原?」と蓼丸が驚く前で、萌美はぎゅっと二条の手を掴んだ。
「その気持ち、すごぉーっく! わかる! あたしも蓼丸追いかけて来たの。その神部先輩に会いたいな」
「え? あ?」
「きっとお似合いカップルになるよ! 追いかけて来た二条の想いが通じるといいね!」
「桃原、神部は男だ。二条が固まっちゃったから手、離してあげて」
蓼丸の声に、はっと手を離した。
「え? 男の子なのに、男の子追いかけて来たの?」
「桃原が考えてる内容とは違うって」
萌美はきょとんと蓼丸を見上げた。蓼丸は笑いを噛み殺して「続きはお昼とりながらだ。ホットドッグ、好き?」と袋を目の前で揺らした。
「あ、好きッスけど」「じゃあ、一緒にどうかな。桃原と仲良しみたいだし」
(蓼丸、クラスメイトと喋るとみんな仲良しに見えてる?)
結局二条も誘って、3人で廊下を歩き出した。
――また、貴重な時間に、野良のチェシャネコに優しい言葉なんかかけちゃって。たくさん二人っきりになりたいのに。
*11*
「すげーんだ! 神部先輩」
屋上でホットドッグ片手に二条は口元をケチャップ塗れにして、いかに神部が素晴らしいかを力説した。
「神部先輩?」と聞き返すと、二条はホットドッグにかぶりつき「おお」と親指を出して見せた。
「神部雅人。篠笹報道部名誉部長!」
「名誉も何も。昨年報道部は活動停止喰らってるけどな」蓼丸がメロンパンを千切りはじめた。さっきはホットドッグ食べていたのに、二個目。
「いや、ちょー。リスペクト! 廃部の上から「営業中!」と張り紙して、カメラを構えて……やっぱジャーナリストは生徒会に負けちゃだめなんだよ。蓼丸さん」
「勝手にやればいい。職員室のスクープされた教師たちには同情する」
「おおおお! リスペクト――っ!」何度も「リスペクト」の言葉を繰り返す。
(そういえば、マコと杜野も言ってる。蓼丸さんリスペクトって。男の子ってリスペクトが好きなのかな)と思いながら、サンドイッチを口に運んだ。
二条の神部の称賛談義は終わらない。
「どうやって撮ったのか分からない写真ばかりでさ! 一枚、ああ、一枚俺、学祭で買ったんだけど……あー、教室のブレザーだ! 桃原、後で見せてやる。彼氏さんにも後で」
彼氏さん。言葉に嬉しくなって、サンドイッチをふにゃふにゃに押しつぶした。
「生徒会としては困る存在なんだけどな。神部さんは」
蓼丸は立て膝にした長い脚に腕を乗せて、「ああ」と困惑声になった。ネクタイが緩くて、その上でこういうワイルドな格好をしていると、一瞬眼帯が外れたのではと思ってしまう。さらに三個目のコロッケパンを開けて、口に運びはじめた。健康的によく食べる。
「神部雅人。3年首席争いで、生徒会長の織田とは犬猿の仲。生徒会と報道部はしょっちゅう喧嘩しているけどね。ほら、生徒会長がああいう朝みたいなネタの宝庫だから」
萌美は朝のいちゃつき男女の姿を思い出して、頬を火照らせた。洋画では平気なのに、実際に見ると、どうしてああ、生々しいのだろう。
「うん……芸能人のスキャンダル追いかける報道の人みたい」
「生徒会の醜聞は売れるから。俺らは、報道部だろ? 広報力が試されるわけ。特大のネタを拾って、学校の広報に載せて、たくさん捲ければ、その分入部も増える。二人っきりってキッツイすよ」
――二人きり?
「二人しかいないの? それって部活って言わないんじゃ……」
「だから、神部がぜーんぶ追い出した。しつっこい張り込みや、無謀な撮影。学校なのにそこまでするか! の撮影体勢。先生には睨まれるし、神部は庇わないし。でも、首席だから先生も甘いんだ」
ん、とコロッケパンを食べ終えて、蓼丸は袋の中からブラック珈琲を手にした。
「あ、珈琲」
「飲む? 桃原の分も用意してあるよ」と出てきたのはやはりお子様カフェオレ珈琲。
「……ありがと」ありがたく受け取ったが、甘味は苦手だ。(う、甘……。後で口直し、しよ)と思いながら、サンドイッチを流し終えた。
ふと見ると、二条は三脚の陰になっていた。カメラは三脚にくっついていて、抱えて持ち上げるタイプ。かなり重そうだ。
「二条くん。カメラ、大きすぎない? 三脚抱えてると、三脚にだっこされてるように見えるよ?」
「ウッ」「ははは」二条の詰まり声と、蓼丸の声が被った。二条は「しょーがねーだろ。俺、ちっちゃいんだから」とチェシャ猫そのものの態度で、背中を向けた。ふさふさのシッポが見えそうだ。
朗らかに笑っているけど、内心は不満です。「うー」と唸ったところで、蓼丸が先手を打った。
「二人っきりになれなかったな」
「あ、う、うんっ……でも、楽しいお話聞けたし!」
「楽しい……な。桃原が言うならいいけれど……俺にも困ったもんだ」
(蓼丸?)蓼丸の目は二条を見透かすように研ぎ澄まされていて、萌美は(甘)なカフェオレをちびちびと飲んだ。様子を蓼丸がさっそく見抜いた。
「もしかして、カフェオレ嫌い?」
潮時だろう。理想じゃないかも知れないけれど、しかめっ面よりはいい。
「あー……甘い物が苦手……かな……苦いほうが好きなの」
「あ、じゃあ、俺と逆か。俺ね、すいません。スイーツ男子です」
目元を朱くして、蓼丸は「あー」と首を押さえた。「眼帯なんかしてるから、厳めしく見えるのかもだけど、甘い物には目がなくて。このまま交換しよう」
――意外。ぱちくり、ぱちくりと目を閉じたり開いたりを繰り返す。
「さっき貰ったの、ブラック珈琲だったよ」
「あげたかな」
――あ。萌美は上唇をむにむに動かして、視線を逸らせる。
(そうだ、こっそり飲んだんだった。……それで二条に気がついて……あれ?)
二条がいない。
「あっという間だな。あいつ、マジでチェシャ猫なんじゃないのか」
「あたしも思った! アレでしょ! 『不思議の国のアリスの冒険!』あれに出てたチェシャ猫に似てるの!」
「はははっ」蓼丸は腕を伸ばして、上半身を仰け反らせる。春の木漏れ日が頭上から降り注いで、蓼丸がいる世界が眩しくて。
――あたし、頑張って良かったな。今日も明日も、ずっと幸せ。
大きな手に触れてみた。やっぱり、隠せない。萌美の心は蓼丸以外にないんだから。
気づいた蓼丸が視線を萌美に向けた。
「クリスマスって言ったけど……あたし、やっぱり蓼丸がいい。蓼丸に逢いたくて、逢いたくて、それだけで受験も頑張ったんだから」
「それ、涼風も同じなんだよ。見てれば分かる」
――なんで、ここで、マコの話が出て来るんだよ。なんで、そう、優しさをみんなに向けちゃうの……。
萌美は言葉に詰まった。
(何だろう、蓼丸が優しい性格だなんて、今更知ったわけじゃない。ずっと知っていた。この人は誰にでも優しいって。他校の学校祭に潜り込んだ時も、「もう来ちゃだめだよ」って手を振ってくれた。集団だったから、覚えてないだろうけど)
七人の女子で、「蓼丸見に行こうツアーイン学校祭」先生に見つかって、塀をよじ登るところで蓼丸に鉢合わせした。覚えてないほうが有り難い。
(他の女子はみんな彼氏を見つけて、蓼丸に騒がなくなった。でも、あたしは。馬鹿みたいにこの人を想ってる)
――しょっぱな、失態しましたけど!
(一人っ子だから、甘やかされちゃった)
いつでも、自分だけの愛情を受けてきた。一人っ子で、大切に育てられすぎた。父と母は惜しみなく欲しいモノを与えてくれた。朗らかなお笑い好き、少々ハードボイルドに育ってしまった……。
「涼風に、もう返答する気なんだな」
「ん。だって、嘘はつけないよ。あたしは、蓼丸にぜ、全部……全部捧げるつもりで来たの!」
「さ、捧げる?……っ」
(ええい。ここまで言うつもりはありませんでしたが!)
「あたしは、全部を蓼丸にあげたいのっ! ちゃんと勉強してます!」
「勉強?」
「……少女漫画と洋画で……」
段々恥ずかしくなって来た。
でも、蓼丸には、あたしだけを見て欲しい。マコなんかより、あたしだけに優しくして欲しい!
……ちょー、嫌な子だ……。
心で叫ぶだけ叫んで、萌美はどす黒くなった気分で俯いた。顔が熱い。蓼丸に何を求めているんだろう?
「も、やだぁ……」
ひくっと喉が震えた。両手の指を曲げて、涙を拭う。
「わたし、馬鹿みたいじゃん。1人で喚いて、1人で泣いて、困らせてばっか」
「そうだな」冷ややかな声に顔を上げると、蓼丸は肩を竦めて困惑笑顔を向けているところだった。
「可愛くて、困る。困る姿まで可愛いって詐欺だろ、桃原。珈琲交換。間接キスだけど」
(すでに掠めちゃってます!)とは言えず、罪悪感で珈琲を交換した。
……待ってれば良かったんだ。神さまのいじわる。
しかも、今は萌美が飲んでいたものを蓼丸が飲むというエロティックなおまけつき。
(わわわ……唇がむずむずする)
かーっと顔が熱くなった。体温はきっと急上昇。工事のヘルメット被った萌美がきっと心臓で、「ただいま渋滞です!」とか棒振ってそうだ。
心拍数、測るんだっけ。――明後日の健康診断が頭を過ぎって行った。
*12*
5時限目は体育。真新しい体操着はまだ固くて馴染んでいない。全員で集まると、洋服屋の清潔な匂いがする。中学は、運動場がなくて、校舎の中に庭が在る構成だったが、私立篠笹高校はさすが文武両道を謳うだけあって、講堂の裏には立派な体育館があった。数年前に建て増しされたクラブハウスを通しての渡り廊下は、一号館の桜を突っ切る配置で、時折桜吹雪に見舞われる。
長い髪が邪魔なので、分けて三つ編みを垂らして、萌美はお気に入りの星の簪で留めた。窓からは男子たちが見える。先生は、「体を柔らかくするように」と言い残して、すぐ隣のグラウンドへ。 男子はグラウンドでサッカー、女子は体育館でストレッチと、今後の体育授業の注意点を受けていた。
(いいなあ、男子は外でボール蹴っ飛ばしてりゃいーんだもんね)
――もう試合してる。……あ、マコ。
野球フェンスの近くのサッカーゴールの周辺で、ボールの蹴り合いが始まった。そういえば、マコは運動神経がいい。サルとは言っているが、そこそこの整った顔をしているし。
(諦めてくれないかなぁ……はぁ……)
よりにもよって、蓼丸に彼女にして貰った一時間後に涼風にも告白されるなんて。神さまはイジワルだ。
失態して、運が巡ってきたと思えば、どん、と障害を置いて雲に乗って消えちゃった。
お昼休みは、お昼休みで二条のお陰で消化不良。「マコにちゃんと言う」と話し合う間もなく、昼休みは呆気なく終了。
〝可愛くて、困る。困る姿まで可愛いって詐欺だろ、桃原〟
とんでもない台詞をダイナマイトのようにどすんと置かれて、発火寸前だ。
「……おまえ、顔が赤いぞ、桃」
雫が男言葉で「見ろよ。涼風独走状態だ」と窓を見てニヤニヤした。見ればマコはボールを奪って、見事なドリブルで敵陣に切り込んで行った場面。ほんとう、チョコマカとまるで猿だ。髪を切って、先祖により近づいた気がする。
「よしっ! 行けっ!」
雫に吊られた女子が数人窓辺に貼り付いた。「あー!」マコはゴール直前でボールを奪われてしまい、一か八かのシュートは大外れ。忽ちプッシングの笛。
「惜しかったね」の声を遮るように、先生はピュー、と笛を力強く鳴らした。
(先生、女子忘れてない?)と思いつつも、コーナーからのスローイン。センターサークルに集まって、みなボールを睨んでいる。女子もお喋りをやめた。
――あ、マコが奪った!
「涼風、こっちだ!」涼風は耳も良いのか、ちゃんとボールを仲間に返し、敵陣に切り込んだ。
シュートチャンス! 興奮して窓の柵を掴んで身を乗り出す。キーパーは杜野。幾重のガードをかいくぐって、涼風はボールを差し戻し……フェイントだ。フェイントに杜野が突っかかった。砂埃が舞った。
「よしっ! 行け、マコ! そこ、そこそこそこ――やったぁ!」
マコは見事にシュートを決めて、体操着で顔を拭った。敵陣キーパーの杜野に何やら言われて、窓に群がっていた女子に視線を向けた。
「桃――っ! 俺どうだった?!」
――げ、笑顔向けられた。と苦虫を噛み潰そうとしたところで、雫がばん! と窓を開けた。
「すっげーじゃん! ナイスだぜ! ほら、桃も!」
(ええ~っ? いや、力一杯応援したけど)
涼風がじっと萌美を見ているに気づき、萌美は崩れて来た三つ編みを押さえながら、視線を逸らせて親指を見せた。
「よいシュートでした」
「よっしゃあああああああああああ!」
涼風は授業中の生徒が窓の外を覗き込みそうな大声をグラウンドで張り上げて、先生に叱られていた。
「良かった、少しはかっこ良かったってことだな!」
(馬鹿なんだから)
肘をついて頬を片方膨らませる。(いいけどさ……言いにくくなっちゃったな)マコがどんなに素敵でも、萌美は蓼丸がいいと決めている。それに言うなら早いほうがいい。振り回すような悪女はまだ高校生には無理な役割だ。
「おー、女子― 跳び箱やるぞ~ 男子は各時リフティング」
先生の声に、黄色い声を引っ込めて、女子は大慌てになった。「跳び箱跳び箱」とみなで跳び箱を運びはじめながら、ちらっと見ると、涼風はリフティングが下手らしい杜野になにやら教えている様子だ。
やたらに杜野とつるんでいるのは、生徒会に立候補して、妙な連帯感が生まれたせいだ。
――また、なんで生徒会。オサルのくせに。
(でも、蓼丸の傍にいられるんだ。生徒会長捕獲係かも知れないけれど。いいなぁ……)
入れない世界に、むすっと面白く無さを噛み締める。蓼丸も蓼丸だ。独占欲を持つのが普通ではないの? みんなで仲良く帰りましょう。幼稚園でも言わないと思う。
「よーし、つぎー」
跳び箱の前に並びながら、萌美は蓼丸のことばかりを考えた。
(優しすぎるのよ! でも……知ってるんだよね。蓼丸は誰にでもああいう性格)
「おー、桃原、おまえ新体操向きだなあ」
ぽーんと跳んで、先生無視して、また列に並んだ。
(そういう優しい蓼丸を見てきたから。優しさに惹かれた。でも、それはマコのためにも、あたしのためにもならないよ。やっぱり、言おう。んーと……この授業が終わったら! 早いほうがいいだろうし)
「桃原―、もう一回跳べー」
「えー? やです」
「やですじゃない。フォームの見本だ、み・ほ・ん」
萌美は忽ち良い気分になって、憂鬱を忘れた。
*13*
(マコ、どこかな。言うならさっさと言ってしまおう)
体育授業が終わると体操着を汚した生徒たちは、ぞろぞろと一号館に引き上げて行った。
「先行ってて!」と数人の友達に断って、萌美はグラウンドに降りた。砂埃と桜の花びらが混じる春の校庭をぞろぞろと男子たちが歩いて来る。数名はクラブハウスのほうに向かったから、運動部だ。
「おう、桃っち。俺の活躍みてた?」
(誰だっけ)と思いつつ「観てた観てた」とやり過ごす。(ええと、マコは……あ、いた!)やっぱり杜野と並んでリフティングしつつ歩いている涼風を見つけた。杜野はひょろっとしているので、今度は杜野を目印にすればすぐに見つかる。
「桃。俺のシュートに釘付け?」とお調子者口調のマコの前にずいっと仁王立ちした。
「ちょっと話があるんだけど。顔、貸してくんない?」
ボールを受け止めた涼風の顔が強ばった。涼風は馬鹿だけど、馬鹿じゃないので、「お話」の内容を察したのだろうと思う。
「あ、うん。ねえ、リフティング巧いね」
「はは、褒めてんの? そうだ。昼休みは蓼丸と過ごして楽しかったか」
――う。そうきたか。
コレは答えないわけには行かないだろう。萌美はちょっとだけふんぞり返った。
「そうね、蓼丸はあんたと違って優しいからぁ、あたしはいつでもお姫様ですしぃ」
(うわ、めっちゃやな女)と思いつつ、萌美は「ホホホ」と笑って見せた。実際にやな女なんだから、隠しようがない。蓼丸に対しては可愛いチビ桃も、これから言う言葉はマコにとってはきっと最上級のやな女だ。
涼風はサッカーボールをひょいっと抱えた。
「そうか、楽しかったなら良かったな。桃原を享受する相手が蓼丸で良かった。優しい男のほうがいいだろうし。眼帯外すとアレだけど」
「あのね、マコ」
「おまえ覚えてない? 俺がさ、小学校でジャングルジムから落ちて、死にかけた話」
(なんでそんな話……)
「俺さあ、あの時まじで死ぬと思ったんだよな。首が挟まっちゃってさ。で、手に蜻蛉が止まってさ、ぎゃ! って瞬間に滑り落ちた。お陰で俺未だに蜻蛉が嫌い」
「あのね、マコ」
「遠足でもおまえが手を翳したせいで蜻蛉が来ただろ。いっぱい、時間はあったよ、な」
「マコ! 話があるって言ってんじゃん!」
とうとう声を荒げざるを得なくなった。涼風の勢いが止んだところで、萌美はしゅんとしながら、トーンを落として告げた。
「あのさ、やっぱりこういうのは良くないよ」
「こういうの?」「取り合いになっちゃってるところ。もう、分かってんでしょ? 負けがみえてる勝負して楽しいの?」
――なるべくきつく。なるべく禍根を残さないように。蓼丸に逆恨みとか、マコが進めなくなるとか、絶対阻止するくらい、きつく、嫌な女になるんだ。
「はっきり言って迷惑」
「わかってる!」涼風は萌美の台詞に被るように、地面に這いつくばった。
「良くなくても、傍にいたんだ。そして、これからもいたいんだ!」
「だからね……」
押しつぶされるような声音になった。
「頼む……っ! 俺、桃原のそばにいたいんだよ!」
「あたしには迷惑なの!」
(言った!)瞼の裏に、無表情の蓼丸が浮かぶ。分かっている。蓼丸は、誰もを哀しませたくない平和主義者。でも、恋は違う。決定権はあたしにあるんだよ。
(やれやれ)と動かない涼風にしゃがみ込んだ。制服じゃ無くて良かった。
「ね、あたしはどうあっても、あんたじゃなくて……」
「……間接キス、したよな。蓼丸より先に。事故だったけどさ」
(なぬ?)と眉を潜める前で、涼風は顔を上げた。涙を滲ませてこそいるが、意志が強い光だ。想いに嘘はつかない。断固諦めない。そんな瞳。
涼風はくっと笑った。
「俺、わざと仕掛けたと言ったら? 蓼丸より、俺のほうと先に間接でもキスしてんだろ!」
「あの後、蓼丸とも間接チューしたもんっ!」
言い切ると、萌美は「わかってよ……」と目頭を擦りはじめた。
「頑固なマコなんか嫌い。嫌いきらいきらい! だぁーい嫌いっ!」
とは言ったものの。(マコ……)嫌い嫌いもきっと好きのうちなんて言葉を思い浮かべる。(マコとの時間がつまらなかったわけじゃない。ほんのちょっと、蓼丸が好きなだけ)ああ、若葉と桜がうるさい。
(望んだ結果なのに、つらいな)
涼風はピクリとも動こうとしない。
「ねえ、クラス戻ろ? 顔、上げてよ。そうだ、戻ったらトランプ、トランプの……」
立ち尽くす姿勢の涼風は本当に魂が抜けたように思えて、萌美は胸が痛くなった。でも、マコのためにもこのままでいいはずがない。いずれ蓼丸だって。
ひゅ、と春風が強く吹いてきて、グラウンドの砂を舞い上がらせた。
「いてっ 砂が目に入った」
「やだ、ちょっと、大丈夫?」
「あまり……」ぐいっと腕を引かれた。目を見開いたままのキスなんてどんな漫画にもありゃしない。
――キス? キス――っ?!
「ん、甘」と涼風がミルク貰った子犬のような仕草をした。
あ、あ、あ、あたしの、ファーストキス――っ!
「ってぇ」と涼風は叩かれた頬を晒して、くっと肩を揺らした。
「何すんの! ば、馬鹿だと思ってたけど、馬鹿! バカ過ぎ! ばかサルっ!」
思い切りまた平手振り上げて突き飛ばす。と、涼風が頬を手で押さえた。
「唇切ったかも。でもまあ」
涼風はボールを拾うと、背中を向けた。
「全部蓼丸が悪いんだよ。あっちが天使なら、こっちは悪魔になるしかねーだろ。幼なじみゴッコなんかしてたら海賊王子には勝てない。しかも蓼丸は海賊王子にもなる。手段なんか考えてたら奪えないだろ」
――誰、こいつ。
涼風はちらっと振り返ると、「覚悟しろよな。俺を選ばせるよ」と猿頭を揺らして平然と歩き始めた。
――はっ。ぽっかり時間を空けてしまった。萌美派慌てて泣きっ面で涼風を追いかける。
「ちょ、ちょっと……この、ファーストキス、どろぼー!」
「あ、いいな。それ。トランプ怪盗って? 奪われるのはキスだけじゃなかったりして」
完全に諦め口調なんかどこ吹く風だ。
「あ、諦めるって」
「んなわけねーだろばーか。そうそう簡単に諦めるわけねー。こっちだって桃原を、追いかけたんだ。先生には「無理無理」と言われたこの篠笹に受かったのは紛れもなく愛の力!」
「そこは同感! ……じゃなくって! お願い、蓼丸には内緒にして~~~~~」
「どうすっかなぁ~」と涼風は思わせぶりに笑っていた。
***
『涼風が桃原萌美のキスを強奪しました。すみません。防げませんでした……』
蓼丸は静かにメールに視線を落としていた。
「使えない」とチカラを込める。 ――パキ。スマートフォンに罅が入る。替えたばかりなのだが。
「涼風を見誤っていた様子だな」
グラウンドは実は生徒会のある本館からは非常に良く見える。1年の雛たちが知らないも無理はない。生徒会室は本館の五階で、眺めもいい。
「なら、俺にも享受して貰えるのかな。お姫様のキス」
――どうせお姫様はあたふたと隠すに決まっている。間接キスくらいいつでもさせてやるのに。望めばその先だって。
「どうかしている」と蓼丸が自ら窓に頭をぶつけるを観て、生徒会長織田と糯月はほくそ笑んだ。
「ほうら面白くなって来ただろ、副会長」
「ええ、やはり学園はこうでなくちゃ。蓼丸も自己嫌悪で楽しそう」
「我々は非常に良いことをしているよ。さあ、今の内に逃げよう。有能な書記に任せよう」
背後で気配が2つ消えた。蓼丸はぶつけた額を撫でて、はっと振り返る。空っぽの生徒会をみて、ため息と一緒に自席に戻った。
「厄介な話になりそうだ。桃原がどうでるか」
健康診断2日前。見事に蓼の陰で、涼風は桃の葉を散らしたのだった――。
*14*
女神様。……あたしの、初めてのキス、どこに行ったか知りませんか?
聞くと女神様はにっこり微笑んで、萌美を見やる。何故か、女神様は眼帯をしていて、不思議に思っていると、何処からか傘を取りだして、憎悪に染まった目を向けた。女神様はいつしか、蓼丸に変わっていた。
蓼丸は萌美に傘を向けたまま、言い放った。
「決闘しろ! それとも、この、俺が許すとでも?」
「でも、あたし……」
「許したんだろう? おまえの桃カレは俺だというのに? 剣を抜けよ」
「剣なんかないし! 蓼丸、ねえ、ごめんってば」
聞いた途端、蓼丸の淡い垂れ眼が微かに潤みを帯びた。
「じゃあ嫌うよ。桃原の裏切り者。大切にしたかったのに」
「――うわあっ! 蓼丸! ごめんなさいっ!」
自分のパジャマの擦れた音と、勢いよく飛び起きた弾みの羽毛布団のガサガサ音だけが部屋に響き渡った。
(夢か……リアルな夢……。マコのせいだっ! 許さんっ)とまた涙目で布団に潜る。お気に入りの部屋なのに、ちっとも落ち着かない。明日は健康診断だから、寝なきゃなのに。
〝じゃあ嫌うよ。桃原の裏切り者。大切にしたかったのに〟
(夢の蓼丸、本気で怒って哀しんでいた。本気で)
考えると涙が出て来る。
そう、昨日萌美はあっさりと涼風に初めてのキスを奪われたばかり――。
***
「はーい、1Cのオタマジャクシたち! 放送で呼ばれたら、男子、女子の順に健康診断受けて、最後に調書生徒会連中に預けて、お昼までに戻って来ること!」
翌日、元気のよい立野が黒板にカツカツと時間を書いた。健康診断の時間がやってきた。
「毎年サボりが出るからな! 必ず受けないと、中間考査、受けさせないからね! 男子は委員長、杜野! 女子は副委員長の雫! お腹空いたから、購買寄るとか、迷子になった振りして二人でしけ込んだりとか! 絶対すんじゃないよ!」
まだ蛙になれないオタマジャクシたちは、それなりの返事をした。ところで、校内放送。
『保健委員会です。今より健康診断を始めます。1Aの生徒は速やかに、講堂に集まって下さい。男子はその後身長測定、女子はレントゲンになります。尚、分からなくなったら、コーナーに生徒会役員がおりますので、聞くように。順番を詰まらせず、きっちりと回って戴けますよう、お願いいたします』
この声……糯月副会長だ。副会長の糯月は口調が綺麗なお姉さまだったから覚えている。
(でも、健康診断のせいで、蓼丸に朝会えなかったから、健康診断きらい)
生徒会役員は早朝登校。今日は涼風と冷戦状態で歩いただけ。萌美は涼風をちらっと窺う。
〝んなわけねーだろ。ばーか。そうそう簡単に諦めるわけねー。こっちだってすっと桃原を見てて、追いかけたんだ〟
……マコの言葉は、惑わしてばかりだ。
しゅん、と俯いたところで、「行くぞ、桃」と勇ましい親友の雫が肩を叩いてきた。
「女子! そろそろ準備して! 金属モノは厳禁! あと、ブラの金具もだめ」
男の子のような誘導に、女子は疑わず支度を始めた。
「男子、さっさと教室でて。1Bの召集がかかればあっという間……涼風、何してんだよ」
見れば涼風は、机に伏せって、トランプを悪戯していた。
「……好きで悪魔やってんじゃねぇよ」
「ばか、悪魔!あんたのせいで蓼丸に嫌われちゃったでしょーが!」
「えっ?」
「夢ですけど! 現実になったらぜえええええええったい許さないからね! おでこのコレも! ばかっ!」
鞄で度突いて終わり。
(まだ朝の言い合い、気にしてる。もう一発くらい、張り倒して良かったかな)
「マコ! さっさと教室出て! あたしたち、着替えられないでしょ!」萌美の一言で、涼風は怒られたワンコのようにしょんぼりと、教室を出て行った。
「んじゃ、雫。女子頼む」
「ハイハイ。そっちは男子見てろよな。毎年聞くぞ。レントゲンのほうに覗きに来る奴がいるって」
杜野は「了解」と軽くいなすと、しょんぼりした涼風を引っ張って、講堂に向かっていった。
(なんか、あんなに悄気ることないよね……あたしが悄気て来たよ……)
俯く前で、雫も声を張り上げた。
「んじゃ、こっちも出るよ! 講堂から男子は体育館で、視力、聴力、測定各種、合間に女子はレントゲンを受けて。レントゲンの近くの生徒会役員は蓼丸諒介だから」
「えっ?」
もう涼風の悄気事件なんぞは忘れた。萌美はぴこんと顔を上げて、またプリントをグニャグニャにした。
(逢えるんだ。近くにいるんだ)
思うと足は速くなって、駆け足になって、全速力。
「こら! 桃! 委員長のあたしを追い抜いてんじゃねえ!」雫の声が遠くなった。
*15*
校内の構造にも随分と慣れて来た。蓼丸が教えてくれた本館から一号館への回り道も、突き抜ける道も、全部覚えた。
見上げると桜はそろそろ葉桜になりかけている。
(入学式から早くも二週間かぁ……えへへ)
萌美にとっての出来事と言えば、蓼丸に告白して……涼風に告白されて……蓼丸にほっぺにちゅー、で涼風と間接ちゅーで、蓼丸と間接ちゅーで……スタァァァプ!
(やめよう。なんだかわたし、破廉恥に思えてくる)
高校生になっても、チューチュー……ここは「キス」と言おう。
入学気分も、もう落ち着く頃合いだ。桜の季節が終われば、今度は竹が青葉を広げる夏の気配が訪れる。春と夏が美しい篠笹。女子は桜の如くあれ。男子は竹のように伸びよ。でもどちらも青空に向かって、輝いてゆけ――。確か校歌はそんな歌詞。
葉桜を通り越しての講堂は、作りたての図書館と向かい合っていて、まだ本を積んだトラックが二台止まっていた。その横に、救急車風味の大きな車と、腕章を嵌めた蓼丸が係り医者と会話していた。邪魔はいけないと思いつつ、大手を振る。
「たでまるーっ」
萌美に気がつくと、蓼丸は「ハッ」とした表情をして、「次は1Cか」とにっこりと笑う。
一瞬夢の蓼丸を思い出して、萌美は足を止めたが、当の蓼丸は今日も優しい微笑みを向けて来た。
(うん、あれはわたしの罪悪感だ。そうだよ、マコなんかめり込んでればいいんだ。おでことキス返せ! 蓼丸にはしらを切ろう)
でないと、「そうか」とにっこり笑って眼帯を毟り取り、夢のように言われそうだ。
(嫌だな……なんか)
蓼丸はぽん、と落ち込んだ萌美の頭を叩くと、小型マイクで「――1C女子、入りますがOKですか」。どうやら報告をしているらしい。つくづく生徒会役員は大変だ。
「――え? ……副会長、それはどういう……」
蓼丸は顔色を変えながら、萌美の頭を撫でたりする。蓼丸は小柄な萌美の頭をよく撫でる。勝ち気なくせに、蓼丸に撫でられると嬉しい。猫の気分はこれなのかな。喉を「うるる」とか鳴らしたくなる気持ち、分かるよ。
猫の気持ちを味わう前で、蓼丸は一層険しい声音になった。
「わかりました。はい、見つけ次第報告します。……続行で良いですね。でないと全員受けさせられないでしょうし」
話を聞いている間に、雫たちが追いついて来た。「こらぁ、桃!」怒られてみんなの環に戻った。
「まとめての移動だからね! クラブハウスに行くよ!」
蓼丸は再度確認を取り、女子たちを案内してくれた。しっかり萌美の耳元で、「また時間作るから」と囁いて来る。ほわぁ~と萌美の顔をしたハートが飛んで行った。
(はい、是非お時間をお願いしますっ)
今度こそ、二人きり。そうすれば涼風との――……思い出してはまた落ち込んだ。
*16*
クラブハウスはテニス部女子のものらしく、ところどころにラケットが下がっている。
簡単に着替えて、隣接させたレントゲン車で診察を受ける手筈だ。
数人ずつ入って行く。萌美はももはらの〝も〟なので、大抵が最後のグループ。
また誘導係の蓼丸に合流した。
「どこも悪いところないと思うんだけど。あたし、健康だよ?」
「ま、念の為の健康診断だからな。行っておいで。健康でないと、美味しいものも、苦い珈琲も飲めないぞ」
「あ、それヤダ! 蓼丸も、甘い物食べられないよ? ちゃんと受けてね」
「勿論。カフェバックスの新作フラベチーノ食べたいし。濃厚エスプレッソが美味しいって」
「行きたい」目を輝かせる萌美に頷いて、蓼丸はまた次のクラスに備え、会話を始める。
体操着に着替えて「ぴこっ」と顔を出すと、蓼丸は険しい表情をして、やっぱり手元の小型マイクで会話をしていた。
(何かあったのかな)と体操着を引っ張ったところで、視線を感じた。
――なんか、誰かが見てる気がする。
萌美はペチコート姿で、スポーツブラの雫に声を掛けた。
「雫、竹のほう、視線感じるんだけど、パンダかな。赤ちゃんが産まれたのかも」
「いるわけないだろ。ここは中国の雑木林か。そんなに心配するなら、確かめようか?」
「え? 確かめる?」「次期アタッカーを舐めんなって」
雫はひょい、と靴を脱ぐと、えい、とアタックした。靴がぽーんと飛んで行った。
ガサガサ動く竹林。唸るような声が届く。
「――……痛いなぁ……っ」
「ほら、痛い、としか言わな……痛い?」
「変質者だ!」
「ちょ、蓼丸いたよな! まさか、不審者……」
萌美は咄嗟に叫んだ。声が元々響くので、萌美の叫びと号泣は地球が揺れる(涼風談)
「蓼丸――っ! 竹林になんかいるーっ!」
叫ぶより早く、大きい影と、小さい影が目の前を横切った。よく見ると、左側が蓼丸、右側が涼風だ。(なんでマコがいるの!)と思うも早く、二人は竹林に突っ込んだ。
「涼風、竹林から追い立てるから、追いかけろ!」
「よっしゃ!」
蓼丸はじ、と竹林を睨むと、竹をガツン、と蹴った! 「見つけた」と長脚で竹を蹴飛ばして上半身を突っ込ませた。
「乱暴はやめてくれたまえ! 私の高級カメラが壊れる!」
カメラ? 終わった数人の女子はそのまま体育館へ向かったようで、委員長の雫と、最終グループの数名しか残っていない。
「先進機器を撮りたかっただけだ! 女子の裸なんか興味もないよ!」
「捕獲」と蓼丸と涼風が引き摺り出した少年は、しっかとカメラを抱きかかえ、眼鏡をふふんと押し上げた理系の顔立ちをしていた。
反りすぎるくらい反り返って、鼻を膨らませている。
「女子たち。お騒がせしたが、これ以上騒ぐと先生に見つかるので。この報道部部長神部雅人! どんな究竟も乗り越え今日こそ究極の一枚を」
「神部、カメラ出して」
蓼丸の声に、神部は「い、いやだ」とカメラを抱き締め逃げ出した。呆れた蓼丸の「涼風」の声に涼風がチョコマカ逃げ回る神部を追いかけていき、カメラを「へへーん」と奪って戻って来て、今度は神部が「返したまえ!」と付いてきた。
(あ、神部って! ……二条くんのリスペクトしてる人!)
蓼丸はカメラをいじり始めた。
「――ったく。本当に女子、映してないんだろうな。なんだ? コードばかりじゃないか」
「タイトルは『絡』」
そのままである。ぽい、と蓼丸がカメラを返すと同時に、織田生徒会長がやって来た。
「何の騒ぎだ。おおお、眼福」生徒会長は蓼丸を無視、神部を無視、騒動を無視して萌美に視線を注いだ。そこでやっと、ピンクのペチコート姿に気づいた!
「きゃああああああ! た、蓼丸、マコ! あっち行け――っ!」
「って!」投げた靴は蓼丸がひょいと避けて、涼風に命中。「これはこれは」と織田がにやりと笑う。さっと手が蓼丸の後ろ頭を掠った。さっと蓼丸が頭を押さえるが、織田のほうが早い。
(あ、眼帯狙って!)
――蓼丸の眼帯が、落ちた。涼風が一番に察して固まった。
「もう俺、蓼丸との喧嘩、負けでいい。恐かった……」と萌美のほうを涙目で見る。
蓼丸はしばし動きを止めた。生徒会長が笑いを堪えている。
「さて、カノジョのエッチ姿を目に、海賊蓼丸はどうなるかねぇ。ククク……」
蓼丸はまず、萌美の靴に気づき、屈んでそっと拾った。さっと汚れを「フッ」と吹くと、「どうぞ、俺の王女」と跪いて、小さな足を持ち上げて来た。
「あ、ありがと……あの……」
「下がっていろ。死ぬ気で護るから、続きは後だ王女」
(ほら、やっぱり! 海賊化してる! ってあ、あたしが心臓、バックバクで死ぬ……っ!)
しかし、蓼丸のターゲットは涼風じゃなかった。萌美はペチコートをじっと見ている涼風の顎を下から殴った。
「――ってっ」
蓼丸が気がついた。スタスタと歩いてきて萌美の耳元に囁いた。
「ペチコート姿か。下着も可愛いな」
「あ、ありがと……あの、ほら、眼帯さっさとつけてさ……順番詰まっちゃうし!」
「いや、せっかく桃原が俺に見せてくれたのに? ああ、お楽しみはああ。こいつを海の藻屑にしてからな」
――海? どこに海があるの?!
神部はカメラを抱えて逃げようとし、「おっと」と蓼丸が難なく神部の腕を捕まえた。「船の甲板から蹴り落とされたくなければ言うことを聞」
ちら。と呆気に取られて体操着を握りしめている萌美を見て、もそっと神部から手を離す。
(んっ?)見ていると、顔を手で覆って呟いた。
「……ちょー、可愛い……何言うか忘れちまった」
雫が涼風に話しかけた。
「あんたは、女子の下着、動じないみたいだな」
「こいつ、幼稚園の時に「かいぞくだー」って素っ裸で走り廻ってたからな」
(わー!)慌てて涼風の腕をひっつかむ。
(幼なじみなんてだいっきらいだ!)と思いつつ、蓼丸を窺うと、ようやく正気に還ったらしく、「神部連れて離れるから」と何とも言えない表情で、クラブハウスを離れようとして。その寂しそうな顔と、夢の本気で怒っていた蓼丸が何故か重なって。
――ぎゅ。
蓼丸の少し飛び出たシャツの裾を掴んだ。顔は真っ赤になっているとおもうほど、熱くて。発熱したんじゃないかと思うくらい、自分の息もまた熱かった。
(マコがいけない。キスなんかするから。意識しちゃって、たまらなくなる)
「雫さん、お騒がせした。あとは生徒会が引き受ける。予定通り回ってくれる?」
蓼丸はもそっと眼帯をつけ直した。合間に神部は逃げてしまった。
「バッタみたいなヤツだ。女子を撮っているわけじゃなかったみたいだが。しっかり目を光らせておくよ。涼風、きみもなんでいたんだ」
涼風は知らんぷりで、あくまで素っ気ない、でも悪魔になりきった口調になった。
「不意打ちのキス、謝ろうと思って」
(あ)
「マコ! ……あ、あれは事故」聞くなり涼風はにぃと唇を歪めた。
(まさか、わざわざばらしに来た? サルのくせに!)
「蓼丸、違う」
「事故かよ。あれが? 違わないじゃん。まあいいよ。自然享受権の約束だし。ここは俺、クラスにかーえろっ」
お調子者口調で、勝ち誇った台詞を置いて去って行った。
「不意打ち?」
(もう隠せないや)と萌美はぎゅっと目を瞑った。
「……蓼丸がいけないんだよ」
知らず、怒りと、焦りと、哀しみがわき上がった。
(ねえ、なんか言ってよ。マコに先を越されたって怒ってよ! なんで黙ってたんだってあたしを責めてよ!)
しかし蓼丸はすいっと告げたのだった。
「健康診断受けないと中間考査受けられないのがウチの決まり。行っておいで」
いつもの優しい口調がどこか、哀しく、冷たくて、心の底から悔しかった。
*17*
健康診断が終わる頃になると、萌美のどんよりとした心の雨雲はより雲をぶ厚くして心からはみ出てきた。手も、周りの空気も、みんなどんよりと重い。「……蓼丸がいけないんだよ」の一言は、涼風にキスを奪われた以上の重圧感で萌美を苛む。
……蓼丸、どこも悪いところないじゃん。
「あー、終わったぁ!」の元気なバレー部ホープ(自称)らしい雫の言葉にびくっと顔を上げた。上げると涙が滲んでくる。前を向こうとすると、「蓼丸がいけないんだよ」の言葉の壁。
つらい、つらい。逃げ出したいよ。
(蓼丸に嫌われたかも知れない。いや、嫌われた。八つ当たりして。ほんっと嫌な子!)
涙を堪える萌美には関係なさそうな、雫の良く通る声。
「お昼! 何にすっかな~? あ、桃カレくんとか」
萌美は「今日は、ひとりで食べる」と飼い主に怒られたペットってこんなかな……と思いながら、しょんぼりと俯いた。
雫にも雨雲が忍び寄っている感じ。
「雫、あたし、嫌な子だよね。ちっちゃくて、勝ち気で、なんか、色々うるさくて。可愛いけど、それだけみたいな。アホじゃん? みたいな。ヤバイよね」
「よく分かってんじゃん。うん、あれはないよね」
――ウッ。
「うん、バカ、チビ、考えナシの、頭パー。一生懸命空回りの……ピリピリお馬鹿」
(ねえ、自分で自分を一生懸命罵るから、蓼丸、許してくれないかな)そんな心境に胸を締め付けられて、どうにかなりそうになる。
自分自身の雨雲、もっとどんよりだ。
――大人のみんなは、こういうとき、どうやって乗り切るのだろう。
(パパとママはよく喧嘩をする。でも、次の日はケロリと会話して、仲良く戻っている。なのに、あたしは動けないし、蓼丸にどうやって声を掛けたらいいかも分からないの)
「ばかばかばかばか」とゲンコツでぽかぽかやっていた手を押さえられた。
「こーら、やりすぎ」
「いいのっ! 桃原萌美のばかばかばかばか」
「はいはい。なあ、さっきの、見てたけどさぁ」
雫は自販機の前で足を止めて、ブラック珈琲を2つ買うと、「ほい」と一本投げてくれて、廊下のベンチに座ると、萌美を手招きした。
「ふえ」嗚咽が込み上げる。
「死にそうな顔すんなって。喧嘩じゃん。ただの。ほら、可愛い顔! ほっぺたこんなに柔らかくしちゃって! うりうりうり」
むぎゅー、と引っ張られて、萌美はあわあわと雫の手を掴んだ。気が緩んで、とうとう涙が零れ始めた。これからの怖さと、後悔で、雫に寄り掛かって唇を震わせる。
「蓼丸に、嫌われちゃったよぉ……」
雫は涼しげな目を遠くに向けて、珈琲を呷る。
「うんうん、あれは、あたしでもドン引くね」
「ひどいっ! うん、引く。ドン引きするよ。だって、蓼丸は……大切にしてくれてるもん。ずっと見てきたの。あの人は、本当に人を大切にするから、好きになったの。いつだったか」
話し始めた萌美の肩をぐいっと抱いて、雫は「購買行こうぜ」と時間が止まらないように誘導してくれた。
(おなかに何か詰めたら元気になるかな)「うんっ」と頷いて、購買に足を向けたが、そこはまさしく戦場だった。蓼丸が普通にパンを揃えるから、戦場だとは思っていなくて。
*18*
「コロッケパン! 二個お待ち!」
「クリームパンは売り切れたよ!」
「ホットドッグあと2つ! カツサンド? もうないよ!」
おばちゃんが二人、生徒をてきぱきと追い払っている。
「雫、無理じゃない?」
雫はふん、とばかりに仁王立ちになって、短いスカートからはみ出たニーソの足をだん、と開いた。
「噂には聞いていたけど。しゃーない。泣いてるあんたのためだ。バレー部のしごき、舐めんな。桃、何が欲しい? 桃」
「……ホットドッグ。蓼丸と食べたい。あと蓼丸が大好きなメロンパン」
「却下! おばちゃん、適当にそこの残り3つ詰めて! おかずパンもうないの?!」
雫はバレー部の時の声を張り上げて、詰めかけた生徒の渦に飛び込んだ。何とも勇ましい友達だと思って眺めていたら、ショーケースの横で蓼丸を見かけた。
「あっ……」
しかし蓼丸は萌美を見たはずが、ふいっと背中を向けてしまう。「待って!」泣きそうになって追いかけようとしたけれど、運動部の先輩たちの壁に阻まれて、あっというまに見えなくなった。
まるで生徒たちが石の壁のように冷たい。がやがやと壁が消えた後に、蓼丸の長身は見当たらなくて。(いなく、なっちゃった……)としょんぼりしたところで、腕を引かれた。蓼丸だった。
「蓼丸! あれ? さっき、そこにいたのに」
「後ろを廻ったんだよ。購買の渦に飛び込んだら、桃原は小さすぎて助けられないから。放課後は来週の「生徒総会」準備で帰れないからね。探してたんだ」
「探してた?」
(こんなお馬鹿さんを? 八つ当たり、したよ?)
「俺、待ってたんだけど、急患が出て付き添ってた。生徒会役員はこき使われるからね」
(待ってた? こんなお馬鹿……そうだ、この人はこういう人だった。絶対に人を怨んだりしないの。マコのことだって、大切にしてるの)
オトナ、だな……。幼稚園児がワーワーしてごめんね蓼丸。一丁前に恋なんかもしちゃって。ぼーっと見ていると、蓼丸は「なに?」と首を傾げて「おいで」と萌美を廊下の窓に誘った。
腕を窓に掛けて、桜並木を直視する。可愛い桃色も段々凛々しい緑に変わる、4月の午後。
「桜ももう終わり。桃原が「カレになって!」からもうすぐ一ヶ月。何事かと思ったよ。フフ、想い出すと胸が温かくなるな」
気にしているのか、誤魔化そうとしているのか。蓼丸の眼帯側からは顔色は読み取れない。ただ、萌美はなかったことにはしないでほしい、と思った。喧嘩をなかったことにするなら、はっきり怒って欲しい。好きだから。ちゃんと、向かい合って欲しい。
(まず、お馬鹿さんは謝ろうよ)思いっきり頭を下げた。
「蓼丸、あの……ごめんなさいっ。や、八つ当たっちゃった」
きょと、とした視線。謝らせて貰うんだからっと顔を上げた時、眼の端にふっと微笑んで親指を出し、踵を返した雫の後姿が見えた。ブ、ブーと鳴ったスマホには「放課後、おやつあるよ。お菓子パンいっぱいだぞ」優しいお友達だ。
「だれ? 涼風?」
「違うよ。雫美香ちゃん。さっきの委員長だった子で、あたしの親友なんだ」
「ああ、やけに落ち着いてた。バレー部だったか。新入生にしては筋がいいって」
「えへ。そうなんだよっ。中学でも格好良くてね! あ、蓼丸は一番だよ? オトナで格好良くて、あたしには勿体ない」
「それは買いかぶりすぎ」と蓼丸は耳を赤くして、「俺も大人の振り、出来てないな」と独りごちた。
「カッとなったからな。桃原が謝る必要はない。だってそうだろう? キス、横取りされるなんて思わなかった。涼風が本気なら、俺も本気で行かなきゃならない」
また腹の中で虫がむくりと起き上がった。イライラピリピリ虫。
「享受なんて言い出したの、蓼丸じゃん。恋は戦いなんだよ!」
ほら、また怒る。桃原萌美のおこりんぼ。いばっちゃってなにさ。自己ツッコミしたけれど、このほうがいい。
「恋は戦い……な」
「蓼丸には嘘はつかない! あたしは、蓼丸に……」
「こっちきて」
ぐいっと手を引かれて、階段の踊り場に連れて行かれた。蓼丸は踊り場の下から、辺りを見回すと、念の為、とまた階段を下がった。
「二年、三年の教室に近くなると、ややこしいから。神部やら、織田やらね」
「蓼丸、お兄さんたちに好かれてるから」
「どこが」蓼丸はは、と肩を落とすと、パンを下げた袋を置いた。
「取りあえず、さっきの八つ当たりのお返しする」と萌美の両肩を大きな手でぎゅっと掴むと吐息がかかる距離で静止した。
「桃原。目を閉じてくれないと」
顔を傾けるような素振りをして、動きを止めた。と思うと、一気に唇を押しつけられた。
望んでいたとおりになっているけれど、蓼丸との初めてなのに。こんなの、いやだ。
八つ当たりのお返しになっちゃったのは、萌美が八つ当たったからだ。幸せなキスをくれようとした蓼丸の気持ちを受け止めてあげられなかった。
「うっく」
階段の壁に押しつけられたまま、萌美は唇を震わせて、ぎゅっと双眸を強く閉じた。
「ホラ見ろ。だから、嫌だったんだ。でも、「キス出来ない蓼丸が悪い」と言われたら、こう為らざるを得ない。あの時、桃原が言いたかった言葉は分かった。「涼風にちゅーされたんだから、蓼丸もして。蓼丸がしてくれないから」……違うだろ?」
大きい手で頬を撫でられて、うっくうっく、と嗚咽を増やした。
心のどんよりは無くなったけれど、今度は世界が霞んで歪む。幸せなキスにはほど遠い。
「ごめんなさい」
ぽふ、と蓼丸は小さい萌美の頭を抱き寄せた。
「涼風だって、必死なんだ。桃原が好きだから」
「知ってるもん……」
「冷たくして、ごめんな。俺、やはりそういうキャラじゃない。それに、桃原、平然と俺に初めて逢ったような素振りしてるけど、覚えてるから」
――え? 泣いたカラスが目を見開くと、蓼丸は照れたように、あどけない笑い顔を見せた。
「中学の時、ウチの学校に忍び込んだ女子グループがいてね。その都度先生に追い立てられて逃げながらも、何度も何度も振り返って、前髪を抑えてずっこけた女の子とか」
(うぎゃ!)
萌美はあたふた言い訳をした。
「あ、あれ、あれは! みんなでイケメン見に行こうって。蓼丸有名だったから。眼帯なんかしてるんだもん。でも、手、振ってくれたよね」
片眼を細めて、蓼丸はにーこり、と首を傾けた。
「うん。で、告白間違えた時に、(ああ、あの子だ)って思って可笑しかった。桃原」
「ん」
「追いかけて来てくれたんだな」
座って目線を同じくして、丸い頭を撫でられた。「ん」と微かな吐息と同時に顔を傾けられて目を閉じる。冷たい唇が触れた瞬間、(あたし、馬鹿だ)と涙が零れた。
蓼丸は、優しい。キスは、決して乱暴にお願いするものじゃない。
誰かが先とか。涼風に負けたとか。そんなものは要らなくて。
「うん、いまのキス、好き!」「そう?」と蓼丸は笑いを噛み殺している風で。
ほらね。
お互いの気持ちを交換して、体の部分で、心を確かめ合う第1歩なんだって――。
*19*
「でも、これでまだ2回目。クリスマスまでに勝てるかな……」
「まだ」繰り返してぽかんとなったが、多分蓼丸は真面目に考えている。
(またクリスマスまでにって言ってるけど、何なんだろう)
窺っても蓼丸は優しい笑みでガードしていて、読み取るはやはり難しそうだった。
「桃原へのファーストキス。大切にしたかったのに桃原のせいだぞ」
夢と台詞が被る。手を握られて、「うん」と涙を拭った。蓼丸が思いついたように、目線を上げた。
「どうした?」
「夢、見たの。蓼丸が女王様になっていてね」
片眼が丸くなった。くすっと笑って先を続けた。「マコとキスしたこと怒ってて、あたしに決闘しろーって。あはは。あたし昔からカラフルな夢を見るんだ。洋画見てたせいかな」
蓼丸は「楽しそうだ」と微笑んでくれて、その笑顔で、ようやく胸の暗雲も薄れて行った気がした。
――どんより空、どんより雨雲、もうないかな。
「う、うふふ」と肩を竦めて笑う。蓼丸は大きな手で萌美を撫でた。
「夢って深層心理なんだって。そんなに悩ませているとはね。今日は楽しい夢、見られそう?」
ほら、この人、こういう性格。
「うんっ」と元気よく頷いて涙を拭おうとすると、蓼丸が伸ばした指で拭ってくれた。
「キスの先もあるからさ。先手打っておいていい?」
――先手? キスの先?!
今度は萌美が目を丸くする前で、蓼丸はいつになく強い口調で告げた。
「俺と涼風はガチでScramble中なんだ。何があったかは、克明に杜野に教えておく。涼風にしっかり伝わるだろう」
揺るがない口調は、Scrambleに勝つと宣言しているみたいだ。
「本気で、取り合ってるんだね……あたし、どっちを向けばいいの?」
「青空見てろ」
頷いて窓に視線を向けて、ふっと余所事をした。
(杜野くんも蓼丸をリスペクトしているとか)
「そういえば! マコも蓼丸をリスペクトって言ってたよ? ライバルなのに、リスペクトって出来るものなの?」
「そこは、男の持つ奇妙な部分。好きな女を共有したいという欲望もなきにしもあらず。フェミニストとサディズムを往き来する不可思議生物、遺伝子のらせんだ」
……女の子のあたしにはわかりませぇん。
「杜野くんに、あたしを見てろって言った? 蓼丸」
「言ったよ? なんでもするって言うので、「桃原萌美を見ていてやれ」って。何でもするって言うなら、何かさせてあげたほうが良くない? 織田会長の肩もみよりいいかと」
――命令の動機まで清純だった。
何だかんだで、人への思いやりが溢れている蓼丸の手の位置に気づき、ぎくりとした。
(う、腕、腰、腰、腰! 指、指、動いて、ますがっ!)
蓼丸は萌美の腰に回した腕をすす、と上に動かして、指先でつー、と脇腹を撫で、そのまま胸元に手を落ち着かせた。
「ちょ、あの」
「触るだけ。キスから一つ一つの階段を登ろう」
(ああ、あたしの可愛いパイを……心臓飛び出たらどうしよう。スプラッタだ)
蓼丸は「ごほ」と咳祓いをして、桃原の胸をなんなく片手で包み込んで、ぐい、と引き寄せた。
(ど、どうしよ。指先も、肩も動かない)硬直した萌美に蓼丸のニヒルな声が響く。
「負けるつもりはない。涼風がどこまで食いかかってくるか、楽しみになった。後で杜野に報告しておくけどね。桃原?」
「ハイ。キイテイマス。ゴチュウモンナンデスカ」
「桃原萌美」フルネームで呼ばれて、ふっと体のチカラが抜けた。知らなかった。腰に手を回されて引き寄せられると、自然に上半身が傾いて、寄り掛かりやすくなる。ちゃんと、女の子は男の子の腕に収まるように出来ているんだ。
「神さまって、凄いね。ちゃんと、あたしが蓼丸に収まるように作ってくれてる。すっぽりだもん。ちっちゃくて、勝ち気で、お馬鹿だけどね。ぽん、と入っちゃうね」
「はは」
――結局お昼は食べられなかったけれど、もうお腹いっぱい。
それに、健康診断で、ちょっぴり身長が伸びていた事実も嬉しかった。
「成長、してるのかな」
「してるよ。しかし、俺はしていない。織田生徒会長に遊ばれている。神部も付け狙っているし。全員まとめて、海に叩き落としてやろうかとか考えるよマジで」
海賊言動に(ん? 眼帯、つけてるよね?)と顔を見やった。蓼丸は「さっきの話だけど」と顔をまた赤くした。クオーターだからか、男の子にしては色白なので、少し赤らんだくらいでもよく分かる。
「海賊の言動の時、周辺が荒波に見えるんだ。で、体中を怒りと興奮が駆け巡るんだけど、桃原の下着姿見て、全部気がそっちに行った。多分、桃原に欲情すると……」
はた、と目が合って、蓼丸は「知らなかった」と口元を押さえた。
「欲情すると、海賊の言動になるのか。今がそうだった。……触れただろ、胸」
はい。しっかり。……ちっちゃくてすみません。明日から毎朝牛乳飲みます。
瞬きを返答代わりに増やすと、蓼丸は少しばかり目線を泳がせた。
「思った以上に俺――」
また、はたと視線が合った。ところで、チャイムが鳴った。
「あ、やばい! 次、移動教室なの! 遠いから戻るっ」
「明日の朝逢おうな。頑張れよ」
「はいっ。蓼丸、ほんっとお馬鹿でごめんね! ごめんね! ごめんね!」
早足になると、今度は嬉し涙が零れてきて、萌美は指先で雫を掬いながら、笑った。
嬉しい。蓼丸は怒っていなかったし、キスしてくれた。
(入学式は失敗失態で散々だったけど、今から、あたしのらぶらぶ高校生活が始まったのかも知れない! 覚えていてくれたもん!)
***
『こらっ! おまえたちどこの中学だ!』
先生に追い立てられて、蜘蛛の子のように逃げ回って、振り返った女の子がいたでしょ。
――そう。あれが、あたしだったの――……
(迷惑かけて、ごめんね蓼丸。でも、大好きだよ。そして、健康診断、好きになったよ。ちゃんと成長してるんだ、あたし)
――階段を登って窓から見ると、青竹が空を突き抜けるように伸び始めていた。
あの竹を使って、七夕をやるんだって。
いろいろ楽しみになって来たけど、全部蓼丸と一緒に楽しみたい。
――しょーがないから、マコも呼んであげよう。
るんるんと階段を登る萌美の後ろを、ササッとチェシャ猫が通った――。
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