[縦書きPDF推奨]殷呪~神になりたかった者 神になり損ねた者~

簗瀬 美梨架

最終部 神になりたかった者 神になり損ねた者

第七章 永遠の白虹
           *
 季節は花朝節。四十路を大きく回る頃。
「腐り落ちる僕に何用だ」
 衣冠を被り、王としての正装で昭襄王が范雎を従え、現れた。五十歳を回ったとは思えない、若々しい声と躯付き。白起は視線をまた下げた。
 すっと昭襄王は腕を伸ばした。しっかりとした口調で告げた。
「約束の龍剣だ。白起、俺は冥界でも国を作る。先に逝って、敵を追い払ってくれないか」
 昭襄王は小さく息を吸うと、ちろと蛇に似た吊り目を動かし、唇を噛みしめた。
「兵卒、元武安君に厳命である。――秦がため、己の斬首を課す!」
 ――自害命令だ――理解した瞬間、すべての情熱は石の如く冷えた。覚悟はしていた。昭襄王は皺に涙を染みこませた眼元で、白起を見やる。
「いつぞや、言ったな。俺からの言葉でないと、動かないと」
「ああ、言ったよ」と咳き込みながら答えて、白起は笑った。
 来るべき時は来た。白起は空を見上げる。もはや青空すら霞む程の呪詛の空気が充満している秦の空。青空はもう、見えない。
 趙で埋めた霊魂がこぞって秦を呪っているのかも知れない。
 昭襄王の突き放す言い方は、王たる立場ゆえだったはず。だが、今は人として、話しかけられている。
(僕はただ、貴方と、人として、男として、付き合いたかった……だから、どれだけ今が嬉しいか、貴方には分からないだろうな)
「ありがとう」
 まだ白起の脅威は残っている。それに、范雎が「国交正常化」を訴えている現状は聞こえていた。罹患した悪鬼を生かしておくはずがない。昭襄王は、いつだって白起の味方だ。
 龍剣を掴んだ。無茶を繰り返した少年とは違う。王の偉大さはもう知っている。前線に立ち、己の国を護ろうとした。最期に、一緒に戦えた――。
「待て、誰か見届けを」
 焦った范雎の声に振り返らずに髪を揺らす。
「死を迎えた動物は、どんなに寝込んでいても、最後、立ち上がって姿を消す。ならば、僕が人知れず冬の山に埋もれても、道理なはずだ」
「待て、白起」との声はどちらだろうか。「白起……」小さく呟いた声を背に、白起は進み続ける。
 追放・自害を受けた罪人は速やかに皇宮を立ち去るが掟。むろん、引き留めれば処罰の対象となる。独りで正門に差し掛かると、透けた子供二人の姿が目前を駆け抜けた。
(もう、何年前か――、范雎を脱走に付き合わせたりしたな。小石投げ、勝てなかった)
 何故か范雎との過去はほとんど色濃く残っている。本気で、戦った相手は誰? と聞かれれば、恐らく「宰相・范雎」と答えるのだろう。
 一度だけ、秦の皇宮を振り返った。
 今なら戻れるだろう。だが、足はもう前に進んでいる。手にした龍剣と、手放さなかった母の短剣だけが、今の白起のすべてだった。
「行くよ、趙へ――天馬、斗鬼よ」
 昭襄王の馬を撫で、白起は渾身の力で這い上がった。いつか、強請った昭襄王の名馬はもはやいない。だが、この斗鬼は同じ種馬の馬だ。ようやく、手に入れた。
 白起の心はいつしか少年に戻っていた。
             2
「待て! 白起!」
 遠くから、無難な走りの馬が追いかけてくる。白起は驚いて馬を止めた。范雎だ。
「宰相が秦の規則を破るのか? 趙は遠い。足でまといは来ないで欲しいな」
「君には自害の命が出ただろう! ボクは見届けだ! どこで死ぬつもりだ、死にそうにないがな!」
 白起は空を睨んだ。
「死す身であらば、趙に行ける。范雎、王稽と鄭安平はどうした」
 咳き込みながら、白起は続けた。
「何も知らず、死にたくはない。だから、すべてを知り、生きた意味を見出してから、自身の手で生を止める。約束する。――もう、靄姫も生きてはいないだろう」
 白起は遠くを見て、冷静に話に耳を傾けつつも、驚いている宰相に向かって、眼を綻ばせた。
「本当は、殺せなかったんだ。いや、抱かなければ殺せただろうが。あと一息で、できず、生きる力を与え合った。ふ、思えば靄姫とはいつだって、生きる力を分けあってきた気がする」
 范雎は黙って聞いていたが、思い切った表情で馬の手綱を引いた。
「死に行くきみへの餞だ、白起」
 袖に手を突っ込み、小さな碧玉を取り出した。「おまえに返して欲しいと……秦に連れて帰ろうと思ったが適わなかった」
 眼が吸い付いた。コロコロした丸い碧玉はかつて幼少に母にあげようと拾ったが、靄姫が「もらうわ」と奪った珠だ。
「なぜ」と言葉の詰まった前で、范雎は髪を揺らした。「靄姫か!」取り乱した白起に、范雎は彫りの深くなった表情で、ゆっくりと、笑った。
「趙の人々を殺したきみには逢えないと――楚の村におった。殷の生き残りと共に、しっかりと生きている」
 〝生きている〟言葉と共に、あの日の砡が手に還ってきた。
 靜かに馬の手綱を引く。
「生きているなら、それでいい。ありがとう」
 范雎は無言だった。二頭の馬を走らせて、趙へ急いだ。
            *
 道中に、白起と范雎は、すべての地を通過した。最初に魏の五万を斬り殺した地には、小さな草が生えている。その次に、渭水の畔。更に黒谷の渓谷。趙活と戦った三軍指揮部。
「人を殺せば、呪いが生まれる。趙の邯鄲に、王稽と鄭安平は控えている。どうする?」
 時折咳き込む白起を気遣いながら、春でも極寒の趙の領域に辿り着いた。空は既に二度目の夕暮れ。ゆっくりと星が瞬き始める。
「僕の目的は、王稽ではないよ。……范雎、きみこそが、王稽、いいや、鄭安平に逢いたいのではないのか」
 范雎はまた無言を貫いたが、知っている。范雎の眼はいつだって、あの豪快で強い武将を追いかけていた。
「鄭安平には恨みがあるな」と白起は龍剣を抜いた。水門の影が伸びている。何もかもが、あの日と同じだ。この水門を超えれば、太后山脈が見えて来る。
 ――ずいぶん、遅くなった、母さん。
『いやだ、僕はあっちに確かめに行くんだ!』
『ではそうしなさい。行きなさい、白起――』
 悠か遠くの追憶が白起の背中を押し始める。馬を下りて、吐血を堪えながら、白起は黒い山に足を向けた。
 龍の石碑は元通りに建っている。何もかもが元通りで、時間を感じさせない。そろそろと近づいた。
「溶けた虎に気をつけよう。気が済んだら、約束を果たせ。この、罪人」
 白起は頷いて、足を止めた。やはり、骨があった。盛り上がった頂点に、白骨が浮き出ている。
「ずっと頭から離れなかった。人を殺す度にグルグルグルグル……」
 踏み入った瞬間、殺意を感じた。林の向こうから、二つの獣の目が狙っている。
「范雎! 気をつけたほうがいい。ここはやはり得体が知れない!」
「殷呪はここから始まったのか」と范雎は呟き、獣に向いた。
「主は選べと。――貴方はボクに言いましたね」
 獣が揺れた。
「そういえば、貴方の本業は暗殺稼業でしたね。――鄭安平」
 がさり、と草むらが揺れて、大きな剣が突き出される。飢えと、使命に燃えた、もはや言葉を忘れた獣の姿があった。人とは思えない。魏冉の表情を思わせる黒ずんだ皮膚に、シューシューと吐かれる息の激しさ。ぎらついて剥き出された瞳。
 手にはしっかりと人間の剣を握っている。僅かに残った髪は狼の色で疎らに生えていた。
(まさか!)と剣を震い、渓谷に人を蹴り落とした武将を思い出す。
「鄭安平か……だが、どうして……その形相は、人、なのか……」
「殷呪にかかったからに決まっておろうが。なぜ、こんな場所におる? 秦に帰りたまえ」
 聞き慣れた声に、二人は周辺を見回した。
「随分と仲良しで」と厭味を飛ばした声は、真上だ。
「王稽!」同時の叫びに、王稽は優雅に腕を振る。
「それ以上踏み込むと、食いちぎられるぞ。王の墓を荒らした武将、更に秦を潰した宰相のお出ましとは。邯鄲の我が軍で秦自体を蹴散らすも良いが、ここは交渉と行こう。宰相、場につきたまえ」
 腕に相変わらず何かの子供を抱き、王稽はゆっくりと近寄ってきて、白起めがけて、足を振り上げた。
「貴様、殷の石神を返せ。素直に出さぬと、鄭安平が食い殺す」
 腐植に埋もれた双眸が白起に向いた。殷の呪いのせいか、白起の思考は、二十数年を飛び越えて少年に戻っていた。
「――あんた、強かったのに。そんな状態にされて。それでも、王稽に従うのか」
 きょろ、と瞳が動いた。口元がこそげおちている。恐らく発声機能が低下しているのだろう。
「石神とは……白起が持っていると」
 王稽は見て取れるほど、怒りを漲らせていた。硝子の瞳を水平に動かし、告げた。
「入り口の龍神だ。あそこに祀ったはずの、帝辛の部位が足りぬ。これでは神は完成しない」
 王稽の言葉はいつもながら判りづらい。范雎が口を挟んだ。
「ボクの願いは一つ。殷の呪いなど、馬鹿げた騒動を止めよ。邯鄲の軍を秦に向かわせれば、大量の死者が出る!」
「死に行くものは、死ね」
 王稽は続いて靜かに告げた。
「それでも、生きるべきものは、生き延びる。自然の摂理だろう。では、なぜに帝辛は殺された? 狐女に脅かされ、なぜに、殷は滅んだ!」
 話の最中に、背筋が冷えた。気付けば龍の石碑に睨まれている。
 ぽっかりとない眼窩が、白起に向き始める。
(まさか)と幼少の恐怖を思い出した。入り口の龍神だ。小さな指で泥を掻き出したとき、指が奥に滑った――。
「視線を感じる」
 爪先を動かした白起に王稽が気がついた。「鄭安平! 殺せ!」と声が飛ぶ中、白起の瞳はただ、龍神へと向けられる。
 龍剣を抜く音が、やけに鋭く聞こえる。
「やめろぉぉぉぉぉ!」
 叫び慣れない王稽の絶叫は掠れ、哀しみに満ちていた。龍の石像の上に剣を叩きつけた。龍剣の刃が毀れ、石像は僅か、崩れた。
 眼のない、首。
 龍の頭部にはめ込まれていたのだろう。ゴロリと地面に転がった。
「なんという愚行……! 何という、厚かましい人間、いいや、虫けらよ……」
 はあ、と白起は剣を引いた。大きさからして、少年だ。朽ち果てて顔は見えない泥の塊。
 肩に影が過ぎった。がぶりと噛まれた。
「白起! 王稽! これはどういうことだ! もういいだろう! 目的を明かしても」
「骨まで食い尽くせ」と冷酷な命令を口にした王稽の頬には涙が流れている。
 ぼんやりと視界が揺らぎ始める。鄭安平の牙がざくりと白起の肩に食い込んで離れた。
(人肉すら食える化け物に成り下がってしまった。人を殺したから。鄭安平、なんと、憐れな……)
 獣が唸りを上げた。口元がもごもごと動いている。溶けた虎の最終形態だ。唇はなくなり、背骨すら曲がっても、鄭安平の眼は変わらない。
 ――瞳。脳裏に火花が弾ける。白起はゼイゼイと呼吸を繰り返し、震える手を胸元に突っ込んだ。
「石神って、これか……」
 靄姫が奪った碧玉だ。青く、美しい光に魅せられて、母にやろうと拾った。
「これを、靄姫が、僕が持っていたから、龍の幻を見た」
 気付けば、鄭安平は大人しくなっていた。
 動く度に肩が痛む。白起はしばし、靄姫が大切に持っていた碧玉を見詰め、ゆっくりと王稽に歩み寄った。
「あまりに綺麗だったから、幼少の僕がやった所業だが。泥棒するつもりはなかった。僕には、綺麗な宝石に見えたんだ」
「王稽、部位と言ったな、これは」
 王稽は観念したかの如く、「帝辛の瞳だ」とだけ告げた。
「代々殷の王には、千里眼や仙人眼を持つ王が生まれる。私が、慈しみ育てた帝辛は、一際美しい呪の瞳を持つ少年だ。龍の砡は呪を通す。殷の王の役割は、自然神との交流だ。瞳に呪を通し、平穏を護る」
 再び違和感を感じた。白起は肩を押さえ、王稽に近づいた。
「動くと血が! じっとしているんだ、きみは」
 范雎が死刑宣告を忘れ、焦っている。
「僕は常々不思議に思っていた事項がある。秦の穣候の時から、貴方は確かに恐怖だったが、心底怯えた記憶はない。僕にはたった一人、嘆いているように見えるのだが」
「死に損ないが。神になり損ねた者が、戯れ言を」
 王稽が何を言いたいかは判る。この手で人を大量に殺した。確かにここまで殺せば、もはや神の裁きと言えよう。
「神は人を愛するか」
 范雎が驚いている。白起は髪を揺らした。「数年前、人を殺した夜に、人を抱いた。暖かかった、人は暖かい。あんたは、それを忘れた神になれなかった者でしかない」
「鄭安平だった化け物。食ってしまえ。邪魔だ」
 ざしゃ、と范雎の後で獣が動いた。范雎の眼が大きく見開かれる。片腕を振った王稽の姿。
 血飛沫が降った。趙活に蹴られた血溜まりを一瞬重ねて、白起の記憶は最初の趙での記憶に戻る。
 母が血飛沫に塗れて、消えた。鮮明に覚えている。翻った黒い髪と、遮られた昭襄王の外蓑。
「し……りとく……おお……え……血を浴び……な……」
 途切れ途切れの台詞に、范雎が更に潰れた声で呟いた。
 ぼとり、と何かが落ちた。目の前に、青銅の環を嵌めた龍の腕が落ちている。「ふ……」と微かな笑い声。
「あんた……あの時を覚えていたのか。異形の姿になってまでも!」
 きら、と双眸が輝いている。ふと見ると、落ちた首がない。
 白起は、一度だけ空を見上げた。
 ――間違ってはなりませんよ、白起――……。母の声を最期に受け止めて、向き直った。
 死者は甦らない。
 どんなに願っても、祈りを捧げても。生きて、死す運命からは逃れられない。
 呪えば呪うだけ、殺せば殺すだけ、神になり損ねた者になるだけだ。神にはなれない。
〝武器を捨てて。戦わないで〟
 白起は龍剣を握りしめた。
 腐り落ちた首を膝に抱き、抱える姿はもはや尋常ではない。
「白起!」
「その、首だよ。それが殷呪の正体だ。その首、病気持ってる。いいや、各地に埋められたすべての部位には、病気が残っている。根拠? そんなものはないが、僕がすべての発端ならば……」
 帝辛の首が、抱き締めた王稽の片腕の合間から見えている.口をだらりと開け、呪の大気を吐き出して、蠢いている。
「これ以上、何をするつもりだ!」
 王稽は首を抱え、慟哭した。
「ただ、平穏を導いた王が、なぜ紂王などと嘲られ、罵られた挙げ句、周の武王などという愚鈍な男に殺されねばならぬのだ。殷呪は哀しみだ。思い知るが良い。――帝辛は、生前から呪をたった一人で受け続けた! 神になりし者として」
 白起は首を振った。
「それでも、死者は甦らない。それは、僕が知っている。確かに病に勝てる骸は神かも知れぬ。王稽、あんたが一番殷呪に罹っていたんだ」
 王稽の瞳から、狂気が消えた。足がずるずると下がってゆく。
「殷は甦る! 何度でも! 帝辛さえいれば……っ。この首は渡せぬ。殷呪を持って、殷はすべてを支配する」
 白起は靜かに言い返した。殷の呪。今こそ本質が見えた気がする。
「そうか。そうして、貴方はたった一人、その首と共に生きてゆく。誰もいなくなる。死ねない骸が貴方の生の死だ。王稽さま」
 頬に涙が流れた。
「やっと判った。あんたは、世界を支配したいなんて思ってない。僕はかつて、韓の大将にも同じ事を告げた。哀しめばいいんだ。ただ。大切な人を亡くした。哀しんで、前を向くしかない」
 いつもきっちりと上げている髪が零れ落ちてゆく。簪が三本落ちた。よく見ると、龍の紋章が刻まれている。
「死者は甦らない、か。名だたる軍師の貴方がそんな事情も理解できていないとは。かくして愛は偉大だな。人の命をも狂わせる。そうでしょう、王稽さま」
 王稽はもはや言葉を出さなかった。代わりに、足を滑らせて、あの骨の上に立った。
 長い片腕を伸ばし、千切れた片腕から血を垂らして、笑い声を上げた。
「そなたたちの神はここにおる! さあ、殷の王の前に平伏せ!」
 あっという間だった。
 ボコンボコンと音がして、土呉から無数の腕が飛び出し、あっという間に王稽の服ごと、地面に引き摺り込んだ。腕から躍り出た帝の首だけが、地面に鎮座している。
 空気が震撼している。王稽という最期の犠牲を含んだ呪場が蠢いている。
「白起! おまえの握っている碧玉だ! そいつを捨てろ!」
 手は開かなかった。これは、白起のたった一つの愛の証だ。ずっと靄姫が身につけていた、証拠だ。
「そんな珠なぞ要らぬ! おまえの子供が生きているというのに! 一番の愛の証だろうが! 女が、好きな男の子を産んだ。それ以上にどんな証があるというのか!」
(靄姫が、僕の子を?)
「ボクは確かに見たよ。靄姫は、その子を育て、生きていけるようにするのが役目だと。だから、おまえには逢えないと!」
 ――では、あの夜……。
 あまりの范雎の言葉に、四肢を震わせた。弾みに、碧玉が落ちた。
 すかさず土から一本の干涸らびた腕が飛び出して、伸びた。
 砡を掴んで、みるみる黒ずんで動かなくなった。
 いくら死ねないと言えど、土に固められ、動きを封じられれば死への旅に出られるだろう。
 しっかりと握られた碧玉は美しく輝いている。涙のにじむ眼を向け、范雎がぽつりと呟く。
「……瞳は記憶を宿す。王稽と共に生きた、殷の帝の抱える記憶はどんな世界を彩ったのだろうな」
 ――王稽、私は神となる。神の役割として、すべての呪をこの龍眼に通し、世界を導こう――。
 どんなに願っても、死者は甦らない。涙が溢れて止まらなかった。
「これで殷呪が終わったとは思えない。丁重に、葬ろう。ついでに、こいつも埋めてやろう」
 鄭安平は動かず、王稽の側に佇んでいる。異形になっても、主の側にいたいと、これも一つの愛情だろう。
 戦慄の中に愛情がある。空は少しずつ明るくなりつつあった。呪いと戦いが終われば、元の澄んだ空気を取り戻す日も近いだろう。
「楚に行きたい」
 ぽつりと范雎に呟いた。もう一つの心残りがある。范雎は何も言わず、馬を進めた。
 身体はもうぼろぼろで、それでも、靄姫を一目、見たかった。しかし、それは適わぬ夢となる。
 道中、肉体の限界が来た。そもそも、人をあれだけ殺しておいて、最期に愛で終わろうなどと、天は赦さぬとの話だろう。
「上着を預かろう。馬は逃がしておく。勅諚だ」
 ひら、と白起は手を挙げた。死期の近い動物に成り下がって、深山に足を踏み入れると、どこからか、桃の花びらが押し寄せてくる。
 この世界は、綺麗だ。
 ――最期まで、武将で在るために。最期の秦への敵を斬る。
 ゆっくりと、世界は遠ざかった。少年に戻り、ゆらゆらと揺れて、精神は空気に溶けて楚に還る。
 馬を引き、涙を堪えて帰路につく、宰相の姿。玉座に座り、ただ一点を見詰める秦の王の姿。武将たちに、遠き趙の水門。
 ほんの一瞬、子供の手を引いて歩く母の姿を見た。過去が交じり合って、幼少の母巴と白起に変わる。
 声は出ない。ふっと見上げた勝ち気な瞳と、気怠げな白起の瞳が交叉して、遠ざかった。そこからは、もはや闇だ。
 ――君たちは、生きてくれ、と言うべきだったな。
(逢いたい、今、とても、きみに逢いたい)
 人を殺した僕にも、「愛する」資格はあったのか。それでも、いま、言葉を押し出すならば〝愛している〟――。
 死はひたひたとやって来た。白起は最期まで空を見上げ続けた。
 その後、秦の宰相の采配により、各地に龍の石碑に押し込められた部位はすべて回収され、荼毘に付された。
 殷の呪は、少しずつ減ってゆく中、秦は次の秦の王を待つまでの、長い復興の時代に突入した。
             *
 ――殷の呪いとは何だったのか。
 りぃんりぃんと鈴虫が鳴く季節。宰相范雎は一人考える。
『戦うからよ! だから怒って、神さまが天鼠を遣わすのよ』
 趙の靄姫の言葉は正しいのかも知れない。
 幸せな世界を目指した殷の哀しき宰相も、同じであったはずだ。
 誰も望んで戦いはしようとしない。護る対象があるからだ。
 きっと道はあるだろう。
 范雎は晩年まで、「国交正常化」を訴え、武力の廃止に全力を注いだ。
 いつしか歴史の彼方へと遠く、消え去った殷の呪いの犠牲者の正確な数値は残されておらず、犠牲者の筆頭には白起の名が連ねられている。
 白起の死は殷の呪いによる呼吸困難の頓死だと、竹簡には宰相の手により残されていたが、後世になり、自害である事実が明るみになり、秦の人々は大層哀しんだ。 
 発端は、昭襄王の臨終の際の告白を記した竹簡だと思われる。
 以下は昭襄王の辞世の言葉である。
「私は、かの白武将に命じ、強く願った。最期まで、秦の武将でいて欲しい」――と。
古代でありながら、忠実に、的確な語彙力で、竹簡に彫った人物とは果たして誰なのか。
 范雎は老いた瞳に涙を滲ませた。「きみは生きて」それが本来の白起の遺言だ。
 ただ、一足早く友は次ある世界に生きているだけだ。誰もが訪れる、次なる世界。もうすぐ、范雎も向かうだろう。
 昭襄王の命じるまま、命を絶つ前、白起は小さく呟いた。
『僕は、趙の罪なき人々を斬ったから、だから天命を奪われただけのことだ』
 今も、短剣を抱え、密かにこの世を去った武将の名前は忘れない。
 人を殺し過ぎ、尚且つ命を賭した友の名は、武安君白起。
 更に、趙の殷の龍の遺跡には名もなき王と、宰相を祀った廟がある。しかし、いつしか祀ったはずの首と、簪は消えていた。
 殷の本当の呪いは、神になれぬ苦悩かも知れない。誰もが憧れ、後世には始皇帝が手を伸ばしては、指を掠った永遠への憧れ。
 天を見上げ、今日も人々は、地で生きる。永遠に恋い焦がれ、死を恐れながらも。それが、平穏な日々であるという話だろう。
 ――消えた蜻蛉が再び飛び回る時、殷の混沌は再び始まる――。

殷呪~神になりたかった者 神になり損ねた者~

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