時計

たすろう

時計


「チッ」

 男は舌打ちをした。
 男は足早に目的地である新宿西口の高層ビル街にあるホテルに向かっている。
 イライラの理由は約束の時間に遅れそうなのだ。
 男は時間に厳格な男だった。
 男は手入れを怠ったことのない腕時計を見る。これは妻が男の務める高校で初めて担任クラスを持った時にプレゼントしてもらったものだ。
 まだ若い頃に少ない給料から妻が捻出し、贈ってくれた自分が身につける物の中で最も高価なものになる。

(なにも今日という日に、調子が悪くならなくてもいいだろうに……あとでオーバーホールしないと)

 今日は二人の結婚25周年、銀婚式のお祝いで二人きりで食事をする予定だった。
 男は10分ほど遅れて予約したレストランのあるホテルの豪奢なロビーに入り、そのままエレベーター乗り場に向かうとやや強めにボタンを押す。
 男にとっては長い時間を待つとエレベーターの扉が開いた。
 男は焦ってはいたが、まず降りる人たちのために立ち位置を横にずらす。
 中からは二人のビジネスマンが降り、その後にまだ小さい子供を抱えた若い夫婦と初老の男性が出てきた。
 その親子と祖父であろう4人は子供を中心に微笑を浮かべている。
 そこで男はハッとした。
 その小さな子供を抱える夫の横で幸せそうに笑顔を見せている女性と初老の男性に惹きつけられたのだ。

(野崎麻衣……か?)

 野崎麻衣……男がまだ新任の教師であるときに始めて担任した時の生徒だった。その当時、麻衣は母親を亡くし父と二人暮らしだったが、父親との関係が悪く目に見えて生活態度が荒れていき、不登校の時期もあった生徒だった。
 今では生徒のプライベートまで入り込む教師は減ったが、まだ若く理想に燃えた教師だった男は度々、麻衣の自宅に訪問し父親や本人とも深く話し合った。
 その時、涙を流し、大きな声で発した麻衣の言葉は今でも忘れてはいない。

「笑顔がないのが悪いんですか  友人を作らないことが罪なの? 先生もお父さんも幸せの形を私に押し付けて来ないで! お母さんだったらそんなことは言わなかった!」

 はるかに年下の少女のその言葉に何も言い返せなかったことを男は思い出す。
 だが今、その少女だった麻衣は大人の女性となり、父親と夫、そして、幼い子供を中心にあの時、見ることはなかった微笑を浮かべていたのだ。
 そう……微笑を浮かべていた。



 男は妻の待つレストランのテーブルに案内されると妻は男を見て言った。

「あなたが遅れるなんて珍しいことも……どうしたの? 何か良いことがあったの?」

 そう言われ、男は自分が微笑を浮かべていることに気づく。

「ああ、今日はね。君からもらった時計の調子が悪くて……本当に良かった」

「? まあ、言っている意味が分からないわ」

「いや……最高の時計を贈ってくれてありがとう。心からそう思ったんだ、今日」

「ふふふ、変な人」

 二人は目を合わせ笑う。

「実は今日ね……」

 こうして久しぶりに二人きりの外食が始まったのだった。


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