季節外れに咲いた黄色の百合は優しく微笑む

寝子

三.

三.
 鉛色の空が僕を押し潰すかのように重たい雰囲気を漂わせる。昨日の快晴が嘘のようだった。昨夜は彼女を自宅まで送り届けようと思ったが、彼女が頑なに拒否するので仕方なく僕が住むマンションの前で別れた。
「また明日」
 そう言う彼女は月明かりに照らされて眩かった。
 大学に着き、香月に会うと文句を放つ。
「僕に合うバイトが学習塾の講師ってどういうことだ」
「いや、ほら! お前賢いじゃん!」
「賢いやつが教えるのも上手いとか思うなよ」
 そう言って僕は香月の腕をつねった。
「痛い! 痛い痛い! 悪かったよ!」
 香月は僕の手を必死に振り払った。

「香月、塾長とどういう関係なんだ?」
「あー、高校のときにさ、このままじゃ大学行けねーって焦りながら電車で参考書開いてたらいきなりあの爺さんに話しかけられたんだ」
「それは怪しい爺さんだな……って、爺さん?」
「ん? あぁ、あの人もう還暦超えてるぞ」
 事実を飲み込むのに時間がかかった。僕が中年だと思っていた塾長は還暦を超えた爺さんだった。
「若いよな! あの人」
「あぁ、とても還暦迎えているようには見えない」
「なんか、昔は高校教師で何かの部活動の顧問やってたらしいぜ」
 あの掌のマメや握力はそういうことか。
「それで、電車のときだけ勉強教えてもらってたんだけど、あの人の教え方めちゃくちゃ分かりやすくてさ! 俺が今大学生でいられるのはあの人のお陰だな! んで、最近学習塾を開校して、講師探してるって言うからお前を紹介したまでよ!」
 香月が塾長をよく慕っていることが分かった。
「だから、塾長のためにも頼むよ! 講師!」
 香月は両手を擦り合わせている。
「……考えておくよ」
 僕は短く返事をした。
「さんきゅ! さすが湊だぜ!」
「……それでもう一つお願いがあるんだけど……」
 香月が申し訳なさそうにこちらを見ている。
「嫌だ」
 僕は香月の話を聞くまでもなく拒否をする。ろくな頼みでないことは分かっている。
「そんなこと言わずに話だけでも!」
 香月が僕に抱きつく。周りの目がこちらに向き始める。
「わかった! 話だけなら聞いてやるから離れろ!」
 僕は耐えかねてそう言った。

「実は、今度タコパをすることになりまして……」
「嫌だ」
「まだ話終わってないよ!?」
「家を貸せとかだろ。絶対嫌だね。そもそもお前なら他にもたくさんいるだろ。貸してくれるやつなんか」
「全員断られたから、嫌がるって分かってる湊に頼んでんだよ!」
 まあそれもそうか。
「とにかく嫌だからな。別にどっかの店行って飲み食いすればいいだろ」
「嫌だよそんなん! 大学生と言えばタコパだろ? なぁタコパだろ?」
 そんな話聞いたこともない。
「しかし、お前がそんなにタコパをやりたがるなんて珍しいな。好きな子でもできたのか」
「いや全く?」
 秒で返事がくる。
「じゃあなんでそんな……」
「……楓がやりたいって言ってるんだ」
 そういうことか。星宮も今のままじゃ香月には気づいてもらえないと思ったわけだ。
「楓のためにも頼む! 貸してくれないか?」
 星宮のことは気の毒だと思っていた。仕方なく僕は了承する。香月は飛び跳ねるように喜んだ。
「じゃあ僕はその日はネカフェでも行ってるから……」
 そう言うと香月は不思議そうな顔をする。
「なんでだ? 二人よりも皆でやった方が楽しいだろ?」
 こいつダメだ。星宮、他の男を探した方がいいぞ。
「それに、その日はもう一人誘ってるんだ! お前のために!」
 ……余計なことをしてくれる。
「だから、お前もこの日は空けとけよ!」
 そういって指定された日付は三日後だった。足早に去る香月を見送りながら、僕は大きな溜息をついた。時刻は十七時。そろそろ塾へ行かなくてはならない。僕は鉛色の空の下、鉛のように重い足をゆっくりと前を進めた。

 昨日と同じ真新しい建物の前で立ち止まる。やはり気が進まない。しかし、昨日ああいうことになってしまった以上行かざるを得ない。小さく一歩を踏み出そうとしたとき、背中を押され、危うく転倒しかけた。
「今日こそ死ぬ気になった?」
 そう言った彼女は自らの手を唇に当てた。

「昨日も言ったが、君を殺すことは出来ない」
 そう言いながら僕は建物の中に入る。塾長が僕に気づき、こちらに来る。
「おお! 今日もありがとう! よろしく頼むよ!」
 そう言って僕の肩に手を乗せた。
「よろしくね。湊先生」
 馬鹿にしたような口調で後ろの彼女も続いた。

 小さな空間に入るなり、僕は言う。
「君の目的はなんだ?」
「目的って?」
「なぜ僕にそこまで絡む」
 彼女は少し口を閉ざした。
「……君がこの世界に絶望しているから」
 悲しげに彼女は言う。
「お前もこの世界に絶望しているのか?」
 彼女は少しだけ口角を上げて微笑む。
「昨日も言ったけどね、私は生きていていい人間じゃないの」
「人殺しだからか?」
「うん。人殺しだから」
「本当に君とキスした人間は死ぬのか」
「うん。死ぬよ」
「今まで何人とキスしたんだ」
「……一人」
「そのたった一人が亡くなってしまったのか」
 彼女は小さく頷いた。
「でも、その一人が君とのキスが原因で亡くなったかなんて分からないじゃないか!」
 僕は珍しく語気を強める。
「わかるの。彼は私のせいで死んだの」
 悲しげに話す彼女に僕は何も言えなかった。
「それはいつ頃の話なんだ」
「……中学三年生」
 ……中学三年生。心が苦しくなった。

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