新宿は今日も豪雨だった

ここあみるく

異変



時々空を見上げることがある。 特に理由はない。でも、なんだか不意に重たい首を拗らせて、上を向きたくなる時がある。 


ほおについた軽い脂肪がとてつもなく重たく感じ
郁代はほおに手を当て上に引き伸ばした。
そして上を向く。何も変わらない空。 

世界の不条理を全て飲み込むまん丸な球体。

郁代は時々思う。 
成功が本当の目的である理由も、失敗が失敗だと感じる理由も、どうでもいいのではないか。
世界を包むこの宇宙は、いつでも帰っておいでというように死を歓迎しているのだ。
そこに遠慮や躊躇いなくお邪魔することができたなら
なんと幸いなことだろうか。

郁代はいつものように空を見上げる。

郁代はついに空に吸い取られてしまいそうであった。
自分が世界の1人であることは確かなのだけれど
実感が湧かず、挙げ句の果てに自ら死をたつものがある。
郁代には全く自殺するものの気持ちがわからなかった。
自分の命を台無しにする奴は許せなかった。
死を歓迎する宇宙に立ち入ることは自分への裏切りだ。自分を信じてやれなかった代償だ。
後には戻れない。それは死後の世界も今の世界も同じことだ。

実は郁代は自分自身でそうおもっているかどうかに自信はなかったのだけれど。

郁代は比較的平坦に生きるのが好きだった。
楽しみを求めて挑戦をしたり、届かない目標に向かって頑張ることに対して消極的であった。

死の世界は誰も知らないから恐ろしい。そこに飛び込むものの気持ちはわかりたくもない。






疎遠だった父方の祖父が他界したのは高2の夏休みだった。毎年夏休みには岐阜県に帰省していたが、高1の時は予定が合わず父のみで帰省したため、2年ぶりの再会のときはすでに祖父は死体だった。 
その時は最後に死体を見たのは、まだ何も理解できていない小学3年くらいのことだったから、久しぶりの死体であったが特になにも感じなかった。

私たち家族は祖父の死を聞くと、すぐにお通夜があるから、というわけですぐに車を岐阜へ走らせた。岐阜に入った辺りで夏祭りに巻き込まれてしまい車が抜け出せなくなり、お通夜には遅刻していくことになった。
人間の死を抱えていた私たち家族と、夏祭りを楽しむカップルに、共通することといえば、私たちがこれから死ぬ運命にあるということだけだ。
私たちは彼女たちより一層死の気配を感じている点でまた幸でもあり不幸なのかもしれなかった。あのカップルは、自分が向かっている先が死であることに、いつ気付くだろうか。気付いたらどのような行動を取るのだろうか。彼女たちがいま手に持っている蝋燭についている火にいつか焼かれることになるという事実は、誰もが受け入れなければならない宿命だ。しかし夏祭りはやけにノーテンキにすすんでいるのであった。

屋台から焼きそばの煙をふかしている、人を殺したことのありそうな目をしたヤクザと目があったが、車の中の郁代はすぐに逸らし、またこれから対面する死について考えることはやめた。





夕方のニュースが各家庭で流れている時間だろう。
非日常な世界の出来事と郁代の平凡な日常が交差する平和な通学路を1人で淡々と歩く。
学校から駅までの道は普段から人通りはまばらで、午後の犬の散歩をした長い髭のおじいさんや、学校のボランティアの親たちがパトロールがてら談笑しているのを見かけることを除いては、ほとんど人はこない。
郁代の学校の文化祭の時に他校からの往来が激しくなり、近隣から苦情の電話が来たことすらある。
そんな平凡な通学路に、いつだったか警察官が大勢推し詰めて、お祭り騒ぎのようになったことがある。赤いパトカーの光が沈みかけた太陽と混ざり合って不気味な色になっていたのを郁代は覚えている。

ちょうど郁代の下校と重なり、郁代本人も警察から話を聞かされた。ちょうどこの最寄りの駅の沿線で事件があったようだった。中年小太りな警察は機械的な動きで、使い古した黄ばんだ手帳と、切り替え式のボールペンを手に握り、郁代の話をメモしようとしていた。そして、手帳のポケットから1枚の写真を出して郁代に聞いた。
「この男、みたことないかな?この沿線でバーを経営していたんだけど。この容姿なもんだから、目撃情報はあるんだけど、なかなか詳しくわからなくて」
写真はカラーで、鮮明だった。見たことあるものならば、かならず一度で覚えるような顔つきだった。髪の色は抜け、透明感があった。外国人風の顔だった。こんな綺麗な男がどうして警察に追われてるのか郁代には分からなかった。

しかし郁代はなんと答えたかは覚えていない。

郁代はいつも通り電車に乗り、家に帰った。
家に帰るといつも通りではないことがたったひとつあった。
郁代の姉が前の日の夜から一度も帰宅していなかったのだ。そして郁代はすぐに姉が殺されていたことを知るのだ。祖父が死んでから1週間ほどのことだった。





それから1年間郁代は生と死の狭間を生き続ける老人のような顔をして毎日を生きてきた。
姉の死は殺人によることはわかっていたが、犯人は未だ捕まらず指名手配になっていた。しかし郁代は、姉がその日どこにいたかを知ることのできる環境にいたにもかかわらず、姉の死による精神的な病に侵されにゅういんしていたことも配慮され、姉の死の詳細を一年経った今でさえ教えてもらうことはできない。

郁代は人生で流す分だけの涙を流したかもしれない。
しかし郁代は死ぬより悲しい事実と向き合った自分の感情を、辛さゆえに忘れていた。







郁代が帰る時間帯の山手線は空いていた。
いつもなら少し早めに帰るサラリーマンが席を取ることに必死になっているのだが、郁代は少しの努力もなしに電車の座席に座ることができた。
スクールバックを膝の上にのせ抱き寄せるように抱えた。そして頭を潜り込ませてため息をついた。
電車の窓から差し込む夕日が郁代を照らしているが、
カバンに頭を潜り込ませているため眩しくはなかった。
差し込む夕日に郁代はなんだか悪いイメージをもっている。

郁代は再びため息をついた。
先生は受験の話ばかりでプレッシャーを与えてくる。友達も休み時間は喋りかけてこないでという雰囲気を醸し出しているから、なんだか居づらい。
自分の居場所を問うまでもなく、郁代は3年L組に属しているのだが、例えば郁代がふと居なくなったりしても
クラスの数人がなんとなくおかしい雰囲気を悟るかもしれないけれど、これといって問題にはならなそうだ。
郁代は常に利害関係に無関係でいるような人だった。

郁代は電車に揺られながら
ゆっくりゆっくり夢の世界に落ちていった。
電車も郁代の夢にすいとられてしまいそうだった。
郁代を照らした真っ赤な夕日は光の強さを失い、靄がかかったような光に変わる。
黒い雨を含んだ雲ははいきなり電車を囲い、窓ガラスに雨が打ち付ける。
煙を含んだような空気が郁代の鼻に入り
郁代は少しむせた。

それでも郁代は夢の中だった。
そのまま姉のところへ行きたかった。

すでに郁代の最寄りの駅は過ぎている。
しかし郁代はなかなか目覚めなかった。
郁代は心のどこかで電車から降りなければ、と思い、また心の大部分はこのままでいなくては、と思った。
郁代は夢と現実の間でずっとこのままでいたいともおもった。
矛盾だらけのこの世界と矛盾を許さない突然の死。
校則に厳しすぎる学校の先生や、最近心許すこともない友達。そして、周りの環境に悪い感情を持ってしまっている自分への嫌悪感。全てから解放されてこのまま夢の世界で眠り続けてみるのも悪くはない。

雷鳴が郁代の心臓を貫いた。郁代が起きた時には新宿だった。


 新宿は 今日も 豪雨だった。





一度興味本位で新宿の歌舞伎町を1人で通って見たことがある。
太いラインを目に入れて、カラーコンタクトをつけた。髪の毛を少し控えめに巻き、親の使っていた真っ赤な口紅を唇にたくさんぬった。
黒のパンプスに、薄い黒のストッキングを履いて、ピンクの小さなバッグを片手に持った。

なんだか少し背伸びをしたような気分だった。
なんのためだったのかは覚えていないが、その時はなにか目的を持って新宿へ来たのだった。
しかしその時は豪雨だった。
ちょうど冬の始まりの時期で、慣れない寒さにつられてやってきた豪雨は、郁代の新宿へ来なければならなかった理由を忘れさせた。
黄色いような青いような空から落ちてくる大粒の石のような雨が、地面を打ち付けては、雷が雨を催促するように吠えた。




時々空を見上げることがある。
郁代は2度目の新宿にたどり着いてしまったが、やはり
なんということもなしに空を見上げた。しかしビルが立ち並び小さな空がビルの隙間から覗くだけだった。
雷が雨を誘惑しているような豪雨だった。
郁代は自然と新宿へやってきてしまう。何か目的を持っているのだが、新宿はいつもそれを忘れさせる。
そのうえいつも豪雨だ。

空を見たい。郁代はそう思った。ホームから見える確かな豪雨に何か惹かれるものがあった。この空はきっと普段と同じような顔をしてはいないだろう。いつものように澄まし顔で雨を降らしているのではない。
郁代はまばらな人ごみを重たいスクールバックを持って通り抜けた。皆郁代を目で追うが、郁代はそれに気づかない。

郁代は今日の新宿駅の時間の流れを空間に読み取ることができなかった。新宿駅をつつむ時間軸がずれてしまったような気がした。
空を飛ぶように走った。空が見えるところまで。
空が見えるところまで迷わず走る。
そして超高層ビルが立ち並ぶ新宿で唯一、空を見渡せるところにたどり着いたのだった。
立ち入り禁止のヘリポートだ。


ーーー。  空が 変な色をしている??


郁代は普段となにも変わらないはずの目を疑ってこすった。
明らかに何かが違う。自分の心の中の何かがうごいている。
そういえば新宿に来たのはいつぶりだろう。不自然に避けていた新宿。
椎名林檎を聞くときにいつも飛ばしてしまう曲の歌詞にも新宿というフレーズが多発する。
そして偶然降り立った新宿が、今日偶然変な色をした空に覆われている。郁代の心臓は雷が貫き続けて落ち着きを与えない。

新宿の豪雨はまたも郁代を濡らすだけでなく、乾いた脳みそに水分を与えて、郁代を思考停止状態に陥らせた。
雨はコンクリートを打ち付ける。コンクリートで跳ね返った雨が郁代のソックスを濡らした。

サラリーマンはいつもと変わらず何かに向かって急ぎ足だ。

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