君がいたから

橘右近

「菜々子」

 不意に名前を呼ばれて、私はびくりとして顔を上げた。

「何だ。お父さんか」

もう、私を「菜々子」と呼ぶ男性は父しかいないというのに、何を期待しているんだろう。

「どうしたの?」
「お茶淹れたから、一緒に飲もう」
「うん。わかった」

私は弱々しく笑い、プレゼントを持ったままリビングへと向かう。
 テーブルには淹れたてであることがわかるように湯気が揺れていた。一緒に帰ってきたはずの母の姿はない。

「お母さんは?」
「今日は織江おりえさんの手伝いをすると言って、さっき出て行ったよ」

 織江さんというのは真己のお母さんのことだ。
 私は深く追求せずに、定位置となっている椅子に腰掛けた。

 軽く息を吹きかけお茶を口に含む──が、泥を飲んだのかと思うような喉ごしに思わず吐き出しそうになった。心配そうな様子を見せる父に「むせただけ」と言ったが、もう一口飲む気にはなれなかった。

 そういえばと、火葬場で出たお寿司も似たような感じだったのを思い出す。
 普段なら喜んで食べるトロも、まるで石を飲み込んでいるかのように味も素っ気もなく、一カン食べるのがやっとだった。

「しばらくはおいしい食事が出来ないかもしれないね」

ふと父がそんなことを漏らす。

「真己くんと一緒にする食事はおいしかったなぁ」
「……うん」

 不意に胸がつまった。
 そうだ。もう二度と真己と一緒にご飯を食べることは出来ないんだ。

 再会してからも度々家に招いていたが、この交流は小学五年生の頃からあった。その時期は真己の両親が離婚をした時でもある。
 離婚の原因は、噂ばかりが先立って本当のところはわからないが、そもそも他人の家庭の事情なんて詮索するものではない。事実は、離婚によっておばさんが夜働くことになり、真己は夕飯を一人ぼっちで食べなくてはならなくなったということだ。

 真己はだんだんと元気のない日が多くなった。口数が少なくなったと感じるのも気のせいではない。
 何とか真己に喜んでもらおうと両親に相談したのが、一緒に食事をするということだった。試しに一度でもいいからとの提案が、我ながら実にいい結果となった。
 最初からそこにいた感じとでも言おうか、ずっと家族でいるような感覚にさせられた。違和感を全然抱かなかったのである。それからは親同士が話し合いをし、夕飯を共に食べることとなった。


 真己と父は何故かとても気が合い、スポーツや雑学、父の子供の時の遊びやらで話題は尽きなかった。真己の尊敬する人がうちの父というのだから、その信頼は厚い。
 私にとってちんぷんかんぷんな話題だとしても、真己と父が楽しそうに話しているのを見て、私も楽しかった。単純に、真己と一緒にご飯を食べるのが嬉しくてたまらなかったのだ。


 しかし、周りはそう見なかったようだ。近所では「しぶしぶ面倒をみている」とか、「迷惑なことだ」などと中傷がされ、学校でもある問題が起こった。

 人の口に戸は立てられぬというように、私たちは気にしないことにしていたが、ある日いいきっかけがあった。
 登校する時に、ちょうど噂好きのおばさまたちが、私たちの存在に気付くことなく話をしていたのだ。
 私はそのおばさんたちに向かって、いきなり元気良く──というよりは大声で挨拶をした。すると飛び上がったおばさんたちは、一応口々に挨拶を返すものの、蜘蛛の子を散らすようにして家の中へと入っていった。してやったりの笑顔を向けると、真己も吹き出してたっけ。

 それからはあまり噂を耳にしなくなり、ワイドショーの芸能人ニュースが賑わうと、ついにはぱたりと途絶えていた。


 次は学校である。

 真己の性格上、大勢で群がるよりも一匹狼でいる方が多かったので、真己を良く思っていない連中が、ここぞとばかりにねちねちと攻撃をしかけてきた。攻撃といっても、真己に力勝負で勝てないことを知っているため言葉の方で、だったが。とにかく真己のお母さんのことや一緒にご飯を食べることに関して、とやかく言ってくるのだ。
「おい本橋。お前、榎本んちで飯食ってるんだって?よく恥ずかしくないよなー」といった具合である。

 休み時間は遊ぶことに夢中になるので、こういったことは掃除の時間に起こる。ちゃんと掃除をするようにと、何度も注意したところで聞く耳を持たない。いい加減うんざりする。

「お前の母ちゃん、水商売ってやつやってんだろ?うちの母ちゃんが言ってたぜ、そういう商売するのは、ろくでもない奴が多いって」
「何だと?」
「ちょっと!真己のお母さんのこと悪く言わないでよ!」

 これにはさすがの真己も怒りの表情を見せ、私もついに口を出した。真己をからかっていた数人の男子は、一斉に注目を浴びたということもあり少したじろいだ様子を見せたが、すぐに向き直り吠え立てる。

「だから子供も非行に走るんだってさ」

ぎゅっと、ほうきを持つ手に力が入った。

「バッカじゃないの!真己が非行なんて走るわけないでしょ?それに、おばさんは素敵な人よ。優しくて綺麗だし、何より気が利く人じゃないと商売なんて出来ないんだから」

口では負けない自信があった私は、ぷいとそっぽを向く。言い返せなくてさぞや悔しいだろうと思いきや、そういった連中は負け犬の遠吠えをするものだというのを忘れていた。

「うるせー、女は黙ってろ!」

 ぶち。どこかで堪忍袋の緒が切れる音がした。

 私は持っていたほうきを大きく振り上げ、今の今まで喚いていた男子のお尻に向かって思い切り振り下ろした。
 バンッという鈍い音と共に埃が周囲に巻き上がる。
 ごほごほとあちこちで聞こえる咳をバックに、私は毅然とした態度で話しかけた。

「そういうの、偏見っていうのよ。偏見を持っている人こそ、ろくな大人になれないわ。でも真己は違う。偏見なんてもってないし、色んなこと知ってて頼もしいんだから。それに、真己と一緒に食べるご飯はとってもおいしくて楽しいのよ。おいしくご飯を食べてるだけなのに、何で文句を言われなくちゃならないの?あんたたちと一緒に食べるご飯はさぞかしまずいんでしょうね!」

 私がこんな啖呵たんかを切れたのも、それだけ真己との食事が楽しかったということだ。だから真己の転校まで続いたのだし、真己がいなくなった後は何か物足りない気がした。

 そういえば、転校の時に励みになったという例の言葉は、この啖呵を切った後に言ったと記憶している。まあ話を戻して。


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