禁断の愛情 怨念の神
神との対立
怨神。
その恐ろしい名前とは裏腹に、古来より村民からは善なる神として崇められている。絵巻にはこう記されていた。
――人は欲望なしでは生きられない。異性への執着、富への執着、食への過剰な欲求。人は生きるだけで負の感情を抱え込むものである。怨神様はその負の感情を、みずからのご神体に吸収してくださる。我々人間が平和に生きることができるのは、怨神様がいらっしゃるからこそである――
父からもこの言い伝えを何度も教わった。人間が人間たりえているのは怨神様のおかげだ、怨神様がいなければ人は争いに明け暮れてしまう。だからおまえも崇めなさい……
しかし、私はどうしても腑に落ちなかった。
怨神とは人ならざる存在。神である。怨神が普段どこにいて、どう過ごしているのかまでは言い伝えにも記されていない。父も知らないようだった。その神が人前に姿をあらわすなんて聞いたことがない。いったいなぜ、いまになってその姿を現したのか。
私のその気持ちを、長老が代弁した。
「怨神様。貴方様が御身を見せるのは大変珍しいことと存じます。何事かあったのでしょうか」
すると、怨神は横方向に片腕を突き出した。
その場にいた誰もが沈黙した。私も固唾を飲んで怨神を注視する。
瞬間。
突き出されたその手が、ぱっと輝いた。紅蓮に輝く可視放射が、近くにあった家屋に向けて発せられた。すさまじい轟音とともに、その家屋は一瞬にして炎に飲み込まれた。
ごうごうと燃え盛る無慈悲な炎。それは近隣の家にも乗り移り、片っ端から喰らい尽くしていく。
村民らが悲鳴をあげた。老人たちが桶を用意し、火消し作業に向かう。被害を受けた家屋の持ち主らしき老女が、金切り声をあげて泣きじゃくる。
私はもはや我慢の限界だった。
「ちょっと、あんた……!」
怨神のもとへ歩み寄ろうとすると、
「よさんか! チヨコ!」
長老がこれまで見せたことがないほどの形相で怒鳴ってきた。私は思わずびくんと跳ねた。こんなに怒る長老をかつて見たことがない。
長老は怨神に向き直り、言った。
「どうかお静まりください。この村にはもはや貴方様に刃向かう者などおりません」
「わらわは……絶望した」
腰の曲がった長老を、冷ややかに見下ろしながら怨神は言った。その表情からはいっさいの感情がうかがえない。
「絶望? なにに対してでありましょうか」
「貴様ら人間によ。己の利を超えた見方すら知らぬ、愚かな生物だ」
言いながら、怨神は別方向に手の平を向けた。私は思わず息を呑んだ。神が手を向けた先は――懸命に火消し作業をしている村民たちであった。水桶を次から次へと順繰りに送り、火炎を消さんと頑張っている者たち。そんな彼らに向けて――怨神は死の手を向けている。
こればかりは長老も放っておけなかったらしい。ふらつく足で怨神に歩み寄ろうとした――が。
その瞬間。
「おやめください! 怨神様!」
長老より先に、怨神を呼び止めた者がいた。
その声の主を見て、私はまたしても驚愕した。
ミノル。
彼もまた重傷を負っているはずだ。直垂が千切れ、あらわになった素肌からは赤い液体が流れている。顔も心なしか青白い。それなのに彼ときたら……傷を手で覆うこともせず、威厳すら漂わせる仁王立ちで神と対している。
ミノル! 呼びかけようとするも、腹部の激痛が再燃し、肝心なところでむせてしまう。情けない。彼は堂々たる目つきで立っているというのに。
「怨神様! 我々は他の者に迷惑をかけぬよう、日々謙虚に生きてきたつもりであります! 襲来を受けるいわれはまったくありません!」
怨神がちらりと、目線だけをミノルに向ける。ミノルは続けて言った。
「それでも我が村を殲滅するつもりであれば――私だけをお殺しなさい!」
それはあまりにも衝撃的な台詞だった。
村全体がしんと静まりかえる。火消しに徹していた村民たちまでもが、手を止め、ミノルと怨神を見守っている。
ミノル。ふらつく足で、私は駆け出そうとした。満足に走れない。それでもいい。とにかくあの二人を止めなきゃ。
刹那、ミノルがほんの数秒だけこちらに顔を向けた――気がした。その口元がわずかに動いていた。
君を、守る。
そんなのずるい。そんな言い訳をしないで。私を口実にしないで。
そう叫びたかった。彼の頬に一発、平手打ちでも入れたかった。
だがそろそろ身体が限界だった。どうやらだいぶ無理をしていたらしい。視界がわずかにぼやけ始める。私はその場でうずくまった。情けない。自分を呪い殺してやりたかった。
その恐ろしい名前とは裏腹に、古来より村民からは善なる神として崇められている。絵巻にはこう記されていた。
――人は欲望なしでは生きられない。異性への執着、富への執着、食への過剰な欲求。人は生きるだけで負の感情を抱え込むものである。怨神様はその負の感情を、みずからのご神体に吸収してくださる。我々人間が平和に生きることができるのは、怨神様がいらっしゃるからこそである――
父からもこの言い伝えを何度も教わった。人間が人間たりえているのは怨神様のおかげだ、怨神様がいなければ人は争いに明け暮れてしまう。だからおまえも崇めなさい……
しかし、私はどうしても腑に落ちなかった。
怨神とは人ならざる存在。神である。怨神が普段どこにいて、どう過ごしているのかまでは言い伝えにも記されていない。父も知らないようだった。その神が人前に姿をあらわすなんて聞いたことがない。いったいなぜ、いまになってその姿を現したのか。
私のその気持ちを、長老が代弁した。
「怨神様。貴方様が御身を見せるのは大変珍しいことと存じます。何事かあったのでしょうか」
すると、怨神は横方向に片腕を突き出した。
その場にいた誰もが沈黙した。私も固唾を飲んで怨神を注視する。
瞬間。
突き出されたその手が、ぱっと輝いた。紅蓮に輝く可視放射が、近くにあった家屋に向けて発せられた。すさまじい轟音とともに、その家屋は一瞬にして炎に飲み込まれた。
ごうごうと燃え盛る無慈悲な炎。それは近隣の家にも乗り移り、片っ端から喰らい尽くしていく。
村民らが悲鳴をあげた。老人たちが桶を用意し、火消し作業に向かう。被害を受けた家屋の持ち主らしき老女が、金切り声をあげて泣きじゃくる。
私はもはや我慢の限界だった。
「ちょっと、あんた……!」
怨神のもとへ歩み寄ろうとすると、
「よさんか! チヨコ!」
長老がこれまで見せたことがないほどの形相で怒鳴ってきた。私は思わずびくんと跳ねた。こんなに怒る長老をかつて見たことがない。
長老は怨神に向き直り、言った。
「どうかお静まりください。この村にはもはや貴方様に刃向かう者などおりません」
「わらわは……絶望した」
腰の曲がった長老を、冷ややかに見下ろしながら怨神は言った。その表情からはいっさいの感情がうかがえない。
「絶望? なにに対してでありましょうか」
「貴様ら人間によ。己の利を超えた見方すら知らぬ、愚かな生物だ」
言いながら、怨神は別方向に手の平を向けた。私は思わず息を呑んだ。神が手を向けた先は――懸命に火消し作業をしている村民たちであった。水桶を次から次へと順繰りに送り、火炎を消さんと頑張っている者たち。そんな彼らに向けて――怨神は死の手を向けている。
こればかりは長老も放っておけなかったらしい。ふらつく足で怨神に歩み寄ろうとした――が。
その瞬間。
「おやめください! 怨神様!」
長老より先に、怨神を呼び止めた者がいた。
その声の主を見て、私はまたしても驚愕した。
ミノル。
彼もまた重傷を負っているはずだ。直垂が千切れ、あらわになった素肌からは赤い液体が流れている。顔も心なしか青白い。それなのに彼ときたら……傷を手で覆うこともせず、威厳すら漂わせる仁王立ちで神と対している。
ミノル! 呼びかけようとするも、腹部の激痛が再燃し、肝心なところでむせてしまう。情けない。彼は堂々たる目つきで立っているというのに。
「怨神様! 我々は他の者に迷惑をかけぬよう、日々謙虚に生きてきたつもりであります! 襲来を受けるいわれはまったくありません!」
怨神がちらりと、目線だけをミノルに向ける。ミノルは続けて言った。
「それでも我が村を殲滅するつもりであれば――私だけをお殺しなさい!」
それはあまりにも衝撃的な台詞だった。
村全体がしんと静まりかえる。火消しに徹していた村民たちまでもが、手を止め、ミノルと怨神を見守っている。
ミノル。ふらつく足で、私は駆け出そうとした。満足に走れない。それでもいい。とにかくあの二人を止めなきゃ。
刹那、ミノルがほんの数秒だけこちらに顔を向けた――気がした。その口元がわずかに動いていた。
君を、守る。
そんなのずるい。そんな言い訳をしないで。私を口実にしないで。
そう叫びたかった。彼の頬に一発、平手打ちでも入れたかった。
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