高校生である私が請け負うには重過ぎる

吾田文弱

第30話 聳える無邪気

 アパートのロビーの隅に置かれている置き時計は十一時半を指していた。何とか彼のアパートに着いたころには肩で息をしなければならない程息も絶え絶えで大量にかいている汗も運動で出た汗なのか冷や汗なのか分からなかった。

 今までにない恐怖と緊張感も相まって余計に疲れた。脚が生まれたての小鹿並みに震えて手摺りを持ちながらでないと階段を上がれない。陰山くんがあんな風に脅さなければ普通に帰ってこれたのに。

 などと考えていたら、階段を上っている途中で脚を踏み外してしまった。このまま倒れたら階段の縁に身体の色んなところを強打してしまう。でもそれを防ぐものはない、手にしている制服などたかが知れていた。嗚呼、これも私のいらぬ愚痴を思ったが故か……。

「危ないッス 」

 そうケガを負う覚悟を決めて目を強く瞑った時、誰かの叫び声が何処からともなく聞こえて私の身体が何かに支えられる感覚があった。目を開けて視線を下に移すと私の腰部は誰かの両腕にしっかりと支えられていた。そしてその両腕に私の身体はゆっくりと起こされた。振り向くとそこには、白臣塔よりは低く、陰山くんよりは高いであろう背丈でニット帽を被り、ボーダー柄のシャツの上に半袖ジャケット、チノパン姿の青年が立っていた。

「ふう、冷や冷やしたッス。アパートにいざ這入った途端あなたが階段で踏み外してこけそうになってんスからぁ。足は掬われても踏み外しちゃ駄目ッスよ? あれ? 何か可笑しいッスね? 確かぁ……掬われる方が駄目ッスよね? アッハハハハハハハ!」

 とよく男子学生が先輩などに対して使う失礼で間違った感じの敬語で話す彼は、自分の言葉のチョイスの間違いに手を叩いて大笑いし始めた。
 どうしよう、彼のテンションに付いていけない。こういう雰囲気の人はどう接していいか解らないけれど取り敢えず助けてくれたお礼は言っておかなければ、でないと彼に失礼だ。

「あの……助けて頂いてありがとうございます。助かりました。お怪我はありませんか?」

「それはこっちの台詞ッスよ。どうやらケガはないようッスね。良かったッス。……ん? 済まないッス、ちょっとあなたを拝見しても宜しいッスか?」

「え? あ、はいどうぞ」

 失礼しまッス、と言い彼は顔を近づけ私の顔をしかめっ面で観察し始めた。兎に角近い。私が言える立場じゃないけれど近眼なんじゃないかと疑いたくなるくらい近い。
 頭の天辺から足の爪先まで一通り私の身体を観察した後、納得したように何度も頷いた。

「うんうんうんうん! 丸い眼鏡に長くてサラサラな黒い髪、そして……そのスーツの下に隠れたわがままボディ……。間違いないッス  あなた、海野蒼衣さんッスね 」

 最後の特徴はどうかと思うが、間違いではない。そして驚くことに彼は私の外見を見て私の名前をフルネームで言い当てたのだ。漢字までバッチリである。

「え  何で私の名前知ってるんですか 」

「ああ、敬語使わなくて結構ッスよ。俺っちの方が全然年下なんで。何で知ってるかって言われると、そうッスねぇ……もしかして奇鬼さんから聞いてないッスか?」

 また陰山くん……。人との接触を避けたがるくせに随分と交友関係が広いものだ。こんな礼儀正しい好青年にまで手を出しているなんて。それにしてもこのような背格好で私よりも年下だなんて信じられない。最近の子は発育が著しいのだろうか。

「んまぁ、こんなところで立ち話もなんスから、取り敢えず奇鬼さんの部屋に行かないッスか? 俺っちのことはそこで詳しく話すッス。部屋の鍵持ってるッスか?」

 前言撤回。意外と図々しい。私が鍵を懐から鍵を取り出すやいなや奪い取るように取り上げ階段を軽快な足取りで上り鍵を開ける音がし、ドアが開けられ閉められた。

 私は彼の後を追うでもなく階段を上り陰山くんの部屋に這入った。そこには青年が部屋を見回しこんな事を呟いていた。

「うわぁ、ここが奇鬼さんの部屋ッスかぁ~。相変わらず生活感無いッスねぇ~」

 相変わらず? まるで陰山くんの前の住居の雰囲気を知っているような口振りだ。少なくとも一カ月以上前だ。彼が転校してくる約一カ月前。でもそんなに浅い関係で彼のことを下の名前で呼ぶほど親しくなるものなのだろうか。

「あ、済まないッス! 俺、物事に集中してしまうと世界に入ったまま出られないんス。では、改めて自己紹介を――」

 と彼が名前を言おうとしたところでまた部屋のドアが会話に水を差すように開かれた。そこには陰山くんがやや息を切らし気味でドアに手を付きもたれるように立っていた。またあそこからここまで走って帰ってきたのだろうか? 持久力がもうマラソン選手並みだ。

「おう……、あんたら、帰ってたのか……。ハア……ハア……」

「ああ  奇鬼さ~~ん! おっっっ久し振りッス~!」

「おお、久し振りだな、臆助おくすけ……。でも……今は少し……、休ませてくれ……。ハア……ハア……」

 陰山くんが言った彼の名前――臆助。きっとこの青年(いや少年?)の名前だろう。
 陰山くんはジュラルミンケースを雑にベッドの上に投げ捨て、脱力感満載でベッドに腰掛けた。
 すると臆助と呼ばれた少年は条件反射のように食器棚からコップを取り出し水道の蛇口を捻り、水をなみなみ注ぎ、それを陰山くんに渡した。受け取るなり彼はコップの水を一気に飲み干した。

「プハァァッ  さて、早速作戦会議でもするか……」

「ちょっと待って! 私まだ彼の名前すら解らないのだけれど、紹介してくれる?」

「何だと? 時間たっぷりあった筈だ、何チンタラしている。時間がないと言っているだろう」

 自己紹介されようとしたところにあなたが帰ってきたんじゃない。あとセリフの意味がテレコになってる。

 狙ったんじゃないかくらいの絶妙なタイミングだったのだから。何てことは色々後から何倍にもなって返ってくるのが目に見えているのでここは黙って彼に素直に怒られておこう。

「仕方ない。鈍臭い助手の為に貴重な時間を割いて態とわざわざわざとがましい丁寧な感じでお互いのことを紹介してやろう。臆助、このお嬢さんの名前は既にご存知かと思うが名を海野蒼衣という。私の今通っている高校のクラスにて委員長をしている偽善者だ。まだ優秀とは言い難いが先ほどいい仕事をしてくれたところだ。あとたまに生意気に私に意見してくるところが気に食わん。こいつの紹介はこれくらいか」

「良いところから悪いところまでご丁寧な紹介ありがとうございます」

「そして委員長、こいつの名は捨間臆助すてまおくすけ。今回の作戦の為だけにわざわざ遠いところから足を運んでくれたのだ。済まないな臆助、いつも急に呼び出したりして」

「そんな奇鬼さん! 謝らないでほしいッス! 俺っちは浦景さんの為なら例え世界の裏側にいようと、お呼びとあらば超特急で何もかもその場に置いてぶっ飛んで来るッスよ!」

「フッ……、従順なことだ。目の前にいるこの女とは大違いだ。アンタも見習うのだな」

「確かに見習わなければいけないとは思うよ。素直でいい子だし。でも何でそんな彼が今回の件に関わる必要があるの? 可哀想だよ」

「何が可哀想なものか。むしろ連絡を入れたらこいつの方から参加すると聞かなかったくらいだ。こいつの腕は凄い。この俺が舌を巻く程だ」

 彼の腕? それは身体能力的にという意味だろうか。それとも技術的な意味だろうか。あと彼は一体何歳なのだろうか。私が彼について解らないことはそれくらいだ。

「こいつの職業、というか特技は——ハッキングだ。ここ数年の内でした大仕事は当時弱冠八歳にしてとある大企業のプログラムにハックして株を大暴落させたことだ。確か新聞でも一面を飾ってたな。『突然の大暴落、倒産の可能性も 』だったっけな」

「え! 八歳  って事は今臆助くん何歳なの 」

「ええーっと、今は小六なんで――って驚くとこそこッスかぁ?」

 その記事は私も見た事があった。確かその会社は結局株価は戻らず、新聞の文面通り倒産してしまったという。

 その犯人が今私の目の前にいる……この無邪気な笑顔を浮かべている少年だという事実に私は半信半疑ではあったけれど、動揺を隠す事が出来なかった。
 そしてそれを行った年齢が当時八歳、学年で言えば小学四年生くらい……そして現在が小学六年生だから誕生日を迎えていれば十二歳――天才ってこの世にいたんだ。

「ていうか、あの時はほんの悪戯のつもりだったんスけど、まさか本当に倒産してしまうなんて……自分がやったこととは言え、凄い心が痛むッス……」

「フッ……、あれがただの悪戯か。そんな事で幾つもの企業を潰されたらいくら会社があっても足りぬな。ま、今回の作戦ではそのようなことはまずない。安心して作戦に臨んでくれ、臆助」

「はい、奇鬼さんの為なら俺っちは会社でも何でも潰す覚悟。精一杯頑張るッス!」

「だから今回はそんな事はないと言っている。話を聞け馬鹿者」

「ウッ……! 済まないッス……、奇鬼さん……」

 そんな陰山くんとの遣り取りを交わす彼は、やはり年相応の十二歳の少年と言った感じだった。会社を潰してしまったことを後悔しているし、怒られれば素直に謝ることが出来る。彼を見習わなければならないのは陰山くんの方ではないのだろうか……。

「さて、互いの自己紹介が終わったところで早速作戦会議に…」

――グルルゥ~~……。

 と陰山くんが話を始めようとしたら、部屋中に響き渡るくらいの大きくて不気味な音が鳴った。すると急に臆助くんは風船が空気を失くして萎む様に突然床に崩れ落ちた。

「ああぁ~~、腹減ったッスぅ~……。そう言えば、九時くらいに連絡が入って急いで走ってここまで来たもんスから、朝から何にも食べてなかったッスよぉ~……」

 如何やら先ほどの音は臆助くんのお腹の音だったようだ。一瞬でも戦慄を覚えた自分が情けなく感じた。というか、何処から来たのかは定かではないけれど、ここまで走ってきただなんてまるで陰山くんみたいだ。余程彼のことを尊敬していると見える。

 一方そんな彼の姿を見た陰山くんはと言うと、今にも堪忍袋の緒が切れんばかりに身体をわなわなと震わせていた。そして手に持っていたコップが彼の握力で粉々に砕け散った。

「ヒイイィッ 」

「…………」

 しかし彼は何を言うでもなくただジッとベッドに腰掛けているだけだった。破片が刺さったのか彼の手からは血が出て床にポタポタと滴り落ちていた。凄く痛々しい。

「陰山くん、血……出てるよ? 早く手当てしないと……救急箱とかないかな?」

「…………委員長」

「……! な、何?」

「ケガの手当てはいいから、コンビニでもファーストフードでもいい。財布を渡すからなんか買って来るのだ。私の分も買ってこい、飯にするぞ。会議はそれからでもいいだろう……」

 そう言い彼はケガをした片手に付けていた手袋を外しその手を押さえながら浴室へと這入っていった。白色の手袋が全体の二分の一程度が赤く染まり、彼の歩いた後には血の落ちた後が続いていた。相当深く突き刺さっていたのだろう。見ているこっちが痛くなる。

「海野さん、済まないッス。俺っちのせいで……」

「ううん、臆助くんが謝ることないよ。もうすぐお昼だもの、お腹だって空くよ。何がいいかな? 食べたくない物買ってきても駄目でしょ?」

「う~ん、そこは海野さんのセンスに任せるッス。俺っちは腹を満たすことが出来ればそれでいいッスから。それに海野さんが買ってきてくれたものを俺が拒むわけないッス」

「あら、それはどうして?」

「え? もしかして気付いてないんスか? 海野さん、きっと眼鏡外したら凄い美人ッスよ! 俺っちには分かるッス  そんな美人さんの買ってきてくれたものなら、残飯でも何でも食べるッスよぉ~!」

「……! そ……そそそそそそそ、そんな……! からかわないでよ臆助くん! 怒るよ 」

「えぇ~? いやぁ、別にからかったつもりは……無かったんスけど。気に障ったんなら謝るッス。ごめんッス……海野さん」

「気持ちは嬉しいけれど、二度とそんな事言わないで。じゃあ、私買ってくるから待ってて」

 と私はふとそこにいるのが居たたまれない気がして逃げるように私は部屋を出た。臆助君に言われた言葉が、私はどうしても素直に受け入れることが出来なかった。

 私が美人? そんな事生まれてこの方一度も思ったことが無いし言われたことも無かった。妄言を吐かれていると思い私はつい声を荒げて臆助くんを諭してしまった。

 私はいつだってそうだ。後から気が付くのだ。後悔するのだ。反省するのだ。ふとしたことで感情的になってしまい自分を見失ってしまうのだ。そして酷い時には自分を棚に上げて批判だってしてしまう。昨日の夜陰山くんに人の褒め言葉は素直に受け入れた方がいいと言っておいて何だこの体たらくは。支離滅裂だ。言行齟齬も甚だしい。

 そんな死んだ子の年を数えるかの如く私は足取り重く、昼食の買い出しに向かっていた。

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