愛した人を殺しますか?――はい/いいえ
第59話 偽物の悲哀 *
ロミューとヴァニラは一旦宿に帰ると言い、ラムズとメアリだけで『13人と依授』に戻った。帰り道、ラムズはずっと無言で歩いていた。メアリは心配そうにそれを見ていたが、結局話しかけることはしなかった。
部屋に戻り、ラムズはベッドの上に腰掛ける。
ラムズの頭の中で目まぐるしく先程のことが回っている。何が起こったのか考えているのだ。初めは落ち込んでいたが、ラムズはもう平常心を取り戻していた。
以前ロミューが話していた通り、ラムズは時の神ミラームの決めた運命を信用している。自分がこの事態を防げなかったこと、今になって気付いたこと、これも全ては時の神ミラームの選んだ運命だ。これが運命であるならばと、ラムズは早々に受け入れていた。
ただ、受け入れるとは言っても、なぜこんなことが起こったのかを考える必要はある。また、もう船を使うことが出来ない。メアリとヴァニラ、ロミューだけでは流石に船を動かす人数が足りないのだ。フェアリーに会いにいく件についても、どうすべきかと考えていた。
ラムズは顔を上げて、椅子に座るメアリの方を見る。彼女は依然、ラムズが落ち込んでいると勘違いしているようだ。
ラムズは先程のアイロスの言葉を思い出した。
──人魚は悲しみにのみ同情する。
メアリが同情する時には、一体どこまで自分に対し心を開くのか。慰めるためにどこまでやるのか。悲しみの使族ならば、本物の悲しみを見抜く術に長けていそうではある。だが、それさえも欺ける自信がある。
ラムズは、下を向いて落ち込んでいるメアリを見る。心の中で唇が嗤った。
「なあ、メアリ……」
ラムズはいつもより一段と低い声を出した。前髪が影になり、目元が暗くなる。
メアリははっとして、ラムズの方を見た。
「どうしたの? 大丈夫?」
「分からない。どうしたらいい? そもそもなぜこんなことになったのか、俺は分からないんだ……」
「そうよね。誰かから聞いたって言ってるけど、そんなに噂になっているのかしら」
「メアリはどっちを信じてる?」
「え? うーん。でもラムズは本当に売る気はなかったんでしょう?」
「ない。誰ともそんな話はしてない」
「そうよね。普通に考えて変だもの。ルテミスを売った方が、ずっと損だわ」
「ああ……」
ラムズは肩を落として俯いた。上からメアリの声が落ちてくる。
「ラムズ、大丈夫?」
「まさかこんなことになるなんて……」
掠れるような声で、ラムズは小さく呟いた。視界にメアリの足元が写る。メアリが椅子から立ち上がって、足がこちらに向いたのを見た。
「落ち込んでいるの?」
メアリはラムズの隣に座った。ベッドがぼふんと音を立てる。
ラムズは悲哀を顔に貼り付けて、メアリの方を見た。眼が潤み、光に当たって煌めく。嘘の涙を流すくらい、ラムズにとっては造作もなかった。
彼の涙に、メアリはごくりと息を飲んだ。ラムズの悲しみを、メアリは微塵にも疑っていないようだ。
「メアリ……」
「大丈夫よ。その……いつか誤解は解けるわ……」
「俺さ、どうしたらいいと思う」
「分からないわ。とりあえず元気になるしかないと思うの……」
メアリはラムズの瞳をじっと見ながら、心配そうに顔を歪める。眉尻が下がって、メアリの方も涙が潤んできている。彼女の長い睫毛がパチパチと動く。赤い髪の毛がさらりと肩から流れ落ちた。
相手が泣いているだけで自分も泣くのかと、ラムズは密かに思う。ラムズはメアリの髪を一束手に取って、ゆっくりと梳いた。メアリはびくりと肩を震わせたが、抵抗する気はないようだ。
瞳に影を宿したまま、ラムズは薄く唇を開く。
「元気、出ない」
「どうしたらいい? わたしにできることって、ある?」
「メアリは、俺の宝石か?」
「へ? えっとー、どういうこと?」
「俺の宝石だと思っていい?」
小首を傾げ、無垢な瞳を見せた。メアリは視線を泳がせながら、躊躇いがちに頷く。
「ま、まぁ、別に……。それで気分が良くなるなら……」
「分かった」
ラムズはそう言うと、彼女の腕を掴みぐいっと自分の方に引き寄せた。傾いた彼女の身体を、ラムズは両腕で抱きしめた。
「……えっ?」
「俺の宝石、だろ? しばらくこうさせて」
ラムズはメアリの耳元で、憂いを載せてそう囁いた。
冷たい息と悲哀を感じるその声に、メアリはこくりと頷く。彼女はラムズの腕や身体に全身が凍えそうだったが、そのままラムズに身を預けた。
果たして抱きしめることに意味があるのかと、ラムズはふと疑問に思った。だがふつう恋人同士でやるはずのことだし、ボディタッチに効果があるなら、これも同じはずである。 
ラムズはメアリの背中をゆっくりと撫でながら、同時にジウたちのことを思い出した。
まるで何かに洗脳されているかのように、彼らは頑としてラムズの言うことを聞かなかった。
そもそも、ルテミスを船員にしてシャーク海賊団を作ったのはラムズである。もっと言うならば、ルテミスを作ったのはラムズだ。人間を凌ぐ力を持つ化系殊人を神が作るよう、ラムズが仕向けたのだ。
奴隷にされたり、迫害されたりしているジウやロミューを見付けて、ラムズは段々とシャーク海賊団の規模を大きくしていった。それについて、ジウやロミューはよく知っているはずだ。それなのになぜ、赤の他人の言うことをこうも頑なに信じているのか。
ラムズの脳内で、ちらりとその影が掠った。
「ジョーカーか」
ラムズの呟いた声に、メアリが頭を動かした。ラムズは彼女の頭を撫でて、「何でもない」と呟く。
メアリはラムズから離れようとしたが、ぐいっとまた引き寄せられる。決して強い力ではないが、彼女の腰に回す手は緩まない。メアリは、彼の胸元で話した。
「えっと……。いつまでこうしているの?」
「俺が元気になるまで」
「まだ悲しいの?」
「ああ。ずっと一緒に旅をしていた奴らだから……」
沈む声を聞いて、メアリはラムズの背中をぎゅっと掴んだ。「きっと仲直りできるわ」と返す。
ラムズの手が、メアリの髪の毛につうっと触れた。メアリは全身が熱くなったように感じる。それを誤魔化すように、言葉を紡いだ。
「ラムズ、その。血が飲みたくなったり、しないの?」
「うん? なんで?」
「だってヴァンピールは首元から血を吸うんでしょ」
「ああ、たしかに」
ラムズはふっと唇を歪めた。メアリは胸に顔を埋めているせいで、ラムズのその顔を見ることは出来ない。
悲哀を滲ませた声で、ラムズはメアリに言う。
「今は、そういう気分じゃないから」
「そっか、そうよね。でもその、どうして抱きしめているの? えっと、これは軽いことなの?」
「メアリにとっては?」
「え? ん……恋人、しか、しないかな……」
「悪い。もうやめた方がいいよな……」
聞き取れないほど小さな声で、言葉尻は消えていく。メアリは慌てて口を開く。
「違うの、大丈夫。いいの。これで元気になるなら……」
「メアリは俺の宝石だから、抱いていたら元気になる。俺が宝石を撫でるのと同じだ」
「そっか。たしかにそう考えると、同じよね」
メアリは気が動転しているのか、意味の分からない理論でも素直に受け入れた。そしてなされるがまま、ずっとラムズの冷たい腕の中で凍えていた。
そのあいだ、ラムズは化系殊人のジョーカーについても考えていた。
「メアリ、船内で変なことがなかったか?」
「変なこと?」
「なんていうか……。誰かがありえない事実を信じている、というか」
「ありえない事実? うーん」
「何でもいい。何か違和感を感じたことはないか?」
──ジョーカー。
それはまた、厄介な化系殊人だった。黒い瞳と、他者に嘘を信じ込ませるという神力を持つ。相手の目をじっと見ることで、ジョーカーの信じ込ませたい事柄を、相手に真実として刷り込むことが出来るのだ。
黒い瞳しか特徴がないため、ジョーカーが誰かを見抜くのは至難の業だ。黒い瞳を持っていても、ジョーカーではない人間などは当たり前にいるのだ。また、例えジョーカーが誰か分かっても、一度信じ込まされた嘘を自分で見破ることは出来ない。
それを見破ることが出来るのは、高い光属性の魔法の威力を持つ、アークエンジェルとフェアリー、そして嘘を見抜く神力を持つ能系殊人のみだった。
商人のメルケル・タゲールのような、嘘を見抜く神力を持つ能系殊人は、まるでジョーカーと対を成すかのように生まれた存在だった。
まだ悩んでいるメアリに、ラムズは優しく声をかける。
「分からないなら、大丈夫だ」
「そうね……。あ、そういえば、あれは変だったんじゃない?」
「何だ?」
「宝石が盗まれて獣人を拷問した時、最初ルドのことも犯人だって言っていたでしょ。それなのに彼を外したじゃない。ルドは拷問している時、余裕そうな表情だったのよ。だからわたしもルドは怪しいと思ったんだけど、ラムズが『彼は違ったんだ』って言うから……」
「ああ、ルドは違ったんだ。でもメアリがそう言うなら、もしかすると俺は嘘を信じ込まされているのかもしれない。ジョーカーはルドだ」
ラムズは、ようやくメアリを身体から離した。メアリの頭をぽんぽんと撫でる。
メアリはきょとんとした顔でラムズを見た。そして今まで抱きしめられていたことを再度思い出したのか、ラムズの目を見て俯いた。
「メアリ、ありがとう。元気になった」
「……本当? よかった。そろそろ寒かったのよ」
「ああ、そうだったな。悪いな」
ラムズは自分の身体を見ながら、やはり冷たいことは不便だろうかと少し考えた。メアリに泣いている様子はもうない。ラムズの顔から悲哀の仮面が剥がれたからだろう。
宝石を盗んだ犯人はルドではないと考えるラムズであったが、ルドがジョーカーらしいと見当を付ける。おそらくルドが、一人でルテミス全員に嘘を触れ回ったのだろう。
ルドの本名はルド・アネル。先ほどのルデルス、アルディ、アリルン──咄嗟に考えた偽名だから、どれも名前が似ているのだろう。
「俺は商人で、ルドではない」などと言えば、皆がその通りに信じる。いくら見た目がルドであり、貴族や商人、冒険者に見えないとしても、彼らはその嘘を信じ込んでしまうのだ。
ラムズはぽつりと呟いた。
「面倒なことになった。これはスワトが関係してるのか? それともルドが独りで行ったことか……?」
「ルドがどうかしたの?」
「あいつは化系殊人だったんだ。ジョーカーという」
「ジョーカー? 何それ?」
説明が必要かと一瞬迷ったが、最近は一応優しくしようと心がけている。面倒だと思いながらも、それを感じさせない口調で、ラムズは淡々と返す。
「ジョーカーは瞳の色が黒くなり、他者にどんな嘘でも信じ込ませることができるという神力を持つ。また性格も、周りを混乱させたいと思うようになる。光の神フシューリアに依授されるからな」
「混乱させたい……。あぁ、光神教と同じね。"無秩序"だっけ」
「そうだ。だからルドは、もしかしたらただ単独で混乱させようとしていただけかもしれない。だがスワトと通じているような気も、するんだ……」
メアリは眉をひそめて、むっと唇を歪ませた。何やら考え込んでいるようだ。
ラムズはベッドから腰を上げた。
ルテミスが全員離れたのは痛手だったが、メルケルやフェアリーを使えば信じ込まされた嘘に気付くことが出来る。そうすれば彼らは全員戻ってくるだろう。時間はかかるかもしれないが、大したことはない。
船が使えない件についても、どうせ海は渦のせいで自由が効かない。すると、今は船員は必要ないだろう。ロミューだけでも戦力としては十分だ。
ジウの泣き顔が頭によぎるが、ラムズは文字通り何も思わなかった。
いずれまたジウも見つかるだろう。ジウはラムズのことを相当慕っていた。むしろ何もせずとも、こちらを頼ってくるかもしれない。今は必要ないのだから、離れていても全く問題ない。
そう考えると、時の神ミラームが選んだ運命はやはり満足のいくものだった。
抱きしめているあいだ、メアリは肩が強ばっていたような気がしたのだ。彼女を見た時もどうやらかなり緊張しているみたいだったし、少なくとも何らかの意識はしているようだった。
また人魚が悲しみに同情するという事実は、かなり有意義な情報だった。人魚はあまり海から出ないのもあって、ラムズはそれほど深く人魚の性格を熟知してはいなかったのである。
──泣き落としでも何とかなるかもしれない。
ラムズは秘かに嗤う。彼らの歪な歯車が、カチカチと回り始めていた。
部屋に戻り、ラムズはベッドの上に腰掛ける。
ラムズの頭の中で目まぐるしく先程のことが回っている。何が起こったのか考えているのだ。初めは落ち込んでいたが、ラムズはもう平常心を取り戻していた。
以前ロミューが話していた通り、ラムズは時の神ミラームの決めた運命を信用している。自分がこの事態を防げなかったこと、今になって気付いたこと、これも全ては時の神ミラームの選んだ運命だ。これが運命であるならばと、ラムズは早々に受け入れていた。
ただ、受け入れるとは言っても、なぜこんなことが起こったのかを考える必要はある。また、もう船を使うことが出来ない。メアリとヴァニラ、ロミューだけでは流石に船を動かす人数が足りないのだ。フェアリーに会いにいく件についても、どうすべきかと考えていた。
ラムズは顔を上げて、椅子に座るメアリの方を見る。彼女は依然、ラムズが落ち込んでいると勘違いしているようだ。
ラムズは先程のアイロスの言葉を思い出した。
──人魚は悲しみにのみ同情する。
メアリが同情する時には、一体どこまで自分に対し心を開くのか。慰めるためにどこまでやるのか。悲しみの使族ならば、本物の悲しみを見抜く術に長けていそうではある。だが、それさえも欺ける自信がある。
ラムズは、下を向いて落ち込んでいるメアリを見る。心の中で唇が嗤った。
「なあ、メアリ……」
ラムズはいつもより一段と低い声を出した。前髪が影になり、目元が暗くなる。
メアリははっとして、ラムズの方を見た。
「どうしたの? 大丈夫?」
「分からない。どうしたらいい? そもそもなぜこんなことになったのか、俺は分からないんだ……」
「そうよね。誰かから聞いたって言ってるけど、そんなに噂になっているのかしら」
「メアリはどっちを信じてる?」
「え? うーん。でもラムズは本当に売る気はなかったんでしょう?」
「ない。誰ともそんな話はしてない」
「そうよね。普通に考えて変だもの。ルテミスを売った方が、ずっと損だわ」
「ああ……」
ラムズは肩を落として俯いた。上からメアリの声が落ちてくる。
「ラムズ、大丈夫?」
「まさかこんなことになるなんて……」
掠れるような声で、ラムズは小さく呟いた。視界にメアリの足元が写る。メアリが椅子から立ち上がって、足がこちらに向いたのを見た。
「落ち込んでいるの?」
メアリはラムズの隣に座った。ベッドがぼふんと音を立てる。
ラムズは悲哀を顔に貼り付けて、メアリの方を見た。眼が潤み、光に当たって煌めく。嘘の涙を流すくらい、ラムズにとっては造作もなかった。
彼の涙に、メアリはごくりと息を飲んだ。ラムズの悲しみを、メアリは微塵にも疑っていないようだ。
「メアリ……」
「大丈夫よ。その……いつか誤解は解けるわ……」
「俺さ、どうしたらいいと思う」
「分からないわ。とりあえず元気になるしかないと思うの……」
メアリはラムズの瞳をじっと見ながら、心配そうに顔を歪める。眉尻が下がって、メアリの方も涙が潤んできている。彼女の長い睫毛がパチパチと動く。赤い髪の毛がさらりと肩から流れ落ちた。
相手が泣いているだけで自分も泣くのかと、ラムズは密かに思う。ラムズはメアリの髪を一束手に取って、ゆっくりと梳いた。メアリはびくりと肩を震わせたが、抵抗する気はないようだ。
瞳に影を宿したまま、ラムズは薄く唇を開く。
「元気、出ない」
「どうしたらいい? わたしにできることって、ある?」
「メアリは、俺の宝石か?」
「へ? えっとー、どういうこと?」
「俺の宝石だと思っていい?」
小首を傾げ、無垢な瞳を見せた。メアリは視線を泳がせながら、躊躇いがちに頷く。
「ま、まぁ、別に……。それで気分が良くなるなら……」
「分かった」
ラムズはそう言うと、彼女の腕を掴みぐいっと自分の方に引き寄せた。傾いた彼女の身体を、ラムズは両腕で抱きしめた。
「……えっ?」
「俺の宝石、だろ? しばらくこうさせて」
ラムズはメアリの耳元で、憂いを載せてそう囁いた。
冷たい息と悲哀を感じるその声に、メアリはこくりと頷く。彼女はラムズの腕や身体に全身が凍えそうだったが、そのままラムズに身を預けた。
果たして抱きしめることに意味があるのかと、ラムズはふと疑問に思った。だがふつう恋人同士でやるはずのことだし、ボディタッチに効果があるなら、これも同じはずである。 
ラムズはメアリの背中をゆっくりと撫でながら、同時にジウたちのことを思い出した。
まるで何かに洗脳されているかのように、彼らは頑としてラムズの言うことを聞かなかった。
そもそも、ルテミスを船員にしてシャーク海賊団を作ったのはラムズである。もっと言うならば、ルテミスを作ったのはラムズだ。人間を凌ぐ力を持つ化系殊人を神が作るよう、ラムズが仕向けたのだ。
奴隷にされたり、迫害されたりしているジウやロミューを見付けて、ラムズは段々とシャーク海賊団の規模を大きくしていった。それについて、ジウやロミューはよく知っているはずだ。それなのになぜ、赤の他人の言うことをこうも頑なに信じているのか。
ラムズの脳内で、ちらりとその影が掠った。
「ジョーカーか」
ラムズの呟いた声に、メアリが頭を動かした。ラムズは彼女の頭を撫でて、「何でもない」と呟く。
メアリはラムズから離れようとしたが、ぐいっとまた引き寄せられる。決して強い力ではないが、彼女の腰に回す手は緩まない。メアリは、彼の胸元で話した。
「えっと……。いつまでこうしているの?」
「俺が元気になるまで」
「まだ悲しいの?」
「ああ。ずっと一緒に旅をしていた奴らだから……」
沈む声を聞いて、メアリはラムズの背中をぎゅっと掴んだ。「きっと仲直りできるわ」と返す。
ラムズの手が、メアリの髪の毛につうっと触れた。メアリは全身が熱くなったように感じる。それを誤魔化すように、言葉を紡いだ。
「ラムズ、その。血が飲みたくなったり、しないの?」
「うん? なんで?」
「だってヴァンピールは首元から血を吸うんでしょ」
「ああ、たしかに」
ラムズはふっと唇を歪めた。メアリは胸に顔を埋めているせいで、ラムズのその顔を見ることは出来ない。
悲哀を滲ませた声で、ラムズはメアリに言う。
「今は、そういう気分じゃないから」
「そっか、そうよね。でもその、どうして抱きしめているの? えっと、これは軽いことなの?」
「メアリにとっては?」
「え? ん……恋人、しか、しないかな……」
「悪い。もうやめた方がいいよな……」
聞き取れないほど小さな声で、言葉尻は消えていく。メアリは慌てて口を開く。
「違うの、大丈夫。いいの。これで元気になるなら……」
「メアリは俺の宝石だから、抱いていたら元気になる。俺が宝石を撫でるのと同じだ」
「そっか。たしかにそう考えると、同じよね」
メアリは気が動転しているのか、意味の分からない理論でも素直に受け入れた。そしてなされるがまま、ずっとラムズの冷たい腕の中で凍えていた。
そのあいだ、ラムズは化系殊人のジョーカーについても考えていた。
「メアリ、船内で変なことがなかったか?」
「変なこと?」
「なんていうか……。誰かがありえない事実を信じている、というか」
「ありえない事実? うーん」
「何でもいい。何か違和感を感じたことはないか?」
──ジョーカー。
それはまた、厄介な化系殊人だった。黒い瞳と、他者に嘘を信じ込ませるという神力を持つ。相手の目をじっと見ることで、ジョーカーの信じ込ませたい事柄を、相手に真実として刷り込むことが出来るのだ。
黒い瞳しか特徴がないため、ジョーカーが誰かを見抜くのは至難の業だ。黒い瞳を持っていても、ジョーカーではない人間などは当たり前にいるのだ。また、例えジョーカーが誰か分かっても、一度信じ込まされた嘘を自分で見破ることは出来ない。
それを見破ることが出来るのは、高い光属性の魔法の威力を持つ、アークエンジェルとフェアリー、そして嘘を見抜く神力を持つ能系殊人のみだった。
商人のメルケル・タゲールのような、嘘を見抜く神力を持つ能系殊人は、まるでジョーカーと対を成すかのように生まれた存在だった。
まだ悩んでいるメアリに、ラムズは優しく声をかける。
「分からないなら、大丈夫だ」
「そうね……。あ、そういえば、あれは変だったんじゃない?」
「何だ?」
「宝石が盗まれて獣人を拷問した時、最初ルドのことも犯人だって言っていたでしょ。それなのに彼を外したじゃない。ルドは拷問している時、余裕そうな表情だったのよ。だからわたしもルドは怪しいと思ったんだけど、ラムズが『彼は違ったんだ』って言うから……」
「ああ、ルドは違ったんだ。でもメアリがそう言うなら、もしかすると俺は嘘を信じ込まされているのかもしれない。ジョーカーはルドだ」
ラムズは、ようやくメアリを身体から離した。メアリの頭をぽんぽんと撫でる。
メアリはきょとんとした顔でラムズを見た。そして今まで抱きしめられていたことを再度思い出したのか、ラムズの目を見て俯いた。
「メアリ、ありがとう。元気になった」
「……本当? よかった。そろそろ寒かったのよ」
「ああ、そうだったな。悪いな」
ラムズは自分の身体を見ながら、やはり冷たいことは不便だろうかと少し考えた。メアリに泣いている様子はもうない。ラムズの顔から悲哀の仮面が剥がれたからだろう。
宝石を盗んだ犯人はルドではないと考えるラムズであったが、ルドがジョーカーらしいと見当を付ける。おそらくルドが、一人でルテミス全員に嘘を触れ回ったのだろう。
ルドの本名はルド・アネル。先ほどのルデルス、アルディ、アリルン──咄嗟に考えた偽名だから、どれも名前が似ているのだろう。
「俺は商人で、ルドではない」などと言えば、皆がその通りに信じる。いくら見た目がルドであり、貴族や商人、冒険者に見えないとしても、彼らはその嘘を信じ込んでしまうのだ。
ラムズはぽつりと呟いた。
「面倒なことになった。これはスワトが関係してるのか? それともルドが独りで行ったことか……?」
「ルドがどうかしたの?」
「あいつは化系殊人だったんだ。ジョーカーという」
「ジョーカー? 何それ?」
説明が必要かと一瞬迷ったが、最近は一応優しくしようと心がけている。面倒だと思いながらも、それを感じさせない口調で、ラムズは淡々と返す。
「ジョーカーは瞳の色が黒くなり、他者にどんな嘘でも信じ込ませることができるという神力を持つ。また性格も、周りを混乱させたいと思うようになる。光の神フシューリアに依授されるからな」
「混乱させたい……。あぁ、光神教と同じね。"無秩序"だっけ」
「そうだ。だからルドは、もしかしたらただ単独で混乱させようとしていただけかもしれない。だがスワトと通じているような気も、するんだ……」
メアリは眉をひそめて、むっと唇を歪ませた。何やら考え込んでいるようだ。
ラムズはベッドから腰を上げた。
ルテミスが全員離れたのは痛手だったが、メルケルやフェアリーを使えば信じ込まされた嘘に気付くことが出来る。そうすれば彼らは全員戻ってくるだろう。時間はかかるかもしれないが、大したことはない。
船が使えない件についても、どうせ海は渦のせいで自由が効かない。すると、今は船員は必要ないだろう。ロミューだけでも戦力としては十分だ。
ジウの泣き顔が頭によぎるが、ラムズは文字通り何も思わなかった。
いずれまたジウも見つかるだろう。ジウはラムズのことを相当慕っていた。むしろ何もせずとも、こちらを頼ってくるかもしれない。今は必要ないのだから、離れていても全く問題ない。
そう考えると、時の神ミラームが選んだ運命はやはり満足のいくものだった。
抱きしめているあいだ、メアリは肩が強ばっていたような気がしたのだ。彼女を見た時もどうやらかなり緊張しているみたいだったし、少なくとも何らかの意識はしているようだった。
また人魚が悲しみに同情するという事実は、かなり有意義な情報だった。人魚はあまり海から出ないのもあって、ラムズはそれほど深く人魚の性格を熟知してはいなかったのである。
──泣き落としでも何とかなるかもしれない。
ラムズは秘かに嗤う。彼らの歪な歯車が、カチカチと回り始めていた。
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