愛した人を殺しますか?――はい/いいえ
第45話 高潔な涙
『13人と依授』の一階で、わたしはラムズに声をかけられた。今まで話していたリューキに挨拶をして、わたしたちは部屋に向かう。
近くにいた怜苑やロゼリィも、もう自分たちの宿に帰ったみたいね。
わたしが先に部屋に入り、ラムズは扉を閉めて鍵をかけた。
もう夜分遅く、部屋の隅には闇が落ちている。窓からの明かりも少し漏れているけど、大して手助けにはなってない。外の街灯も少ないからね
(街灯は魔道具で高価だから、たくさんは作っていられないのよ。王都ならもう少し多いわ。ここは栄えている港町アゴールだし、まだマシな方だとは思うけどね)。
黄色い月が窓から見えて、それが部屋を怪しく照らしている。反射した月明かりのせいか、ベッドの白さだけがぼんやりと闇に浮かんで見える。
ラムズは部屋にある、小さな棚に置いてあった服を手に取った。
「これ、着替えておけ。寝る時に着るものだから」
「え? 分かったわ……」
いちいち服なんて着替えるんだ。今まで寝る前に着替えたことなんてなかったな。わたしが服を受け取ると、ラムズはまたわたしに綺麗にする魔法をかけた。
全身に魔法をかけたせいか、少しよれていた服も元通りになる。この魔法、便利ね。わたしも使えるようにしようかな。今度教えてもらおう
(この魔法で服も綺麗になるなら、そもそも着替える必要なんてないんじゃないの? という疑問は心の内に閉まっておいた)。
「まだ鱗は変色しているんだろ?」
「ええ、まぁね……」
「じゃあ俺が後ろを向いている間に着替えろ」
鱗のこと、忘れてた。服に隠れていつもは見えないから……。
思い出すと落ち込む。だって本当に、見ていられないくらい汚かったから。身体についている鱗は段々自然治癒していくと思うけど、治るのにどのくらいかかるんだろう。
ラムズが背を向けたので、わたしは急いで着替え始めた。なるべく鱗を見ないようにして。
ラムズにとってわたしの鱗は宝石と同じだから、変色した鱗を見るのは辛いんだって、ジウが言ってた。わたしの鱗のことを同じくらい悲しく思う人がいるのは、辛い気持ちがちょっとは和らぐかな。
──あ、さっき着ていた服よりも着やすい。たしかにこれで寝る方が身体を休めることができるような気がする。
着替えが終わったので、ラムズに声をかける。わたしはベッドに座った。ぼふんと音がする。
「もう寝るわ。疲れちゃった、お酒も飲んだし」
「また飲みすぎたのか?」
「飲みすぎてないわよ。この前みたいに倒れてないでしょ」
「ああ、たしかに。リューキはけっこう飲ませてくるからな。気をつけろよ」
はあい、とテキトウに返事をして、倒れるようにベッドへ横たわった。ベッドは部屋の左側に縦向きに置いてあり、片側が壁にくっついている。だからわたしはベッドの左側に体を寄せた
(ラムズが寝られるようにするために決まっているじゃない)。
布団を掛けて、首まですっぽりと収まった。枕は一つしかなかったから、同じく枕の左側に頭を載せる
(二人で寝るんだから、枕くらい二人分用意してくれてもいいのにね。これじゃあ船のハンモックの方がまだ寝心地いいかも)。
布団の中でラムズを見ていたけど、彼は一向にベッドに入る気配がない。着替えてもいないし。
まだ眠くないのかな。でも後でラムズが布団に入ってきて、起きちゃうのも嫌だし。
「ねえラムズ、寝ないの?」
「俺は別に眠くないしな」
「でも寝ないと起きられなくなるわよ。せっかく空けたんだから寝たら?」
わたしはそう言って、布団の右側をぽんぽんと叩いた。ラムズは小首を傾げている。わたし変なことしたかな、もしかしてもっと空けてほしいってこと?
気持ち左にずれたら、ラムズはベッドに腰掛けた。ぎしりとベッドが軋む。
しばらく待っていたけど、ラムズは座っているだけで一向に寝ない。まだ狭いって思っているのかしら。でもわたしはもう壁のギリギリまで来ているんだけどな。
「寝ないの?」
「そんなに寝てほしいのか。そこまで言うなら、じゃあ寝てやるよ」
ラムズは面白そうにわたしを見たあと、隣に寝転んだ。布団はかぶってない。
そこまで言うならってよく分からないけど、あとで起こされるよりいいわよね。わたしは疲れているから、できれば朝まで寝ていたいの
(船では交代制で寝るせいで、いつも少ししか寝られない。夜に三時間寝たら交代して、また昼頃に寝たりとかね。長い時間寝続けることってあんまりないわ)。
それにしてもベッドが狭いわね。ちょっと動いたらラムズに当たるし。もしもラムズが寝相悪かったらどうしよう? あ、でも、わたしの方が壁側だから、ベッドから落ちる心配はないか。
ラムズはしばらく仰向けで寝ていたけど、わたしの方を向いて、枕の上で頬杖をついた。
「メアリ、サフィアという男の話、どうなった?」
「え、あぁ……」
そういえば、いつか教えようかなって思ってたんだっけ。
わたしは身体をもぞもぞと動かした。布団に足が当たる。布団に入るって行為も、わたしには今も違和感しかない
(最初に陸を歩いた時は大変だったわよ。というか歩けなかった。頑張って練習したの)。
ベッドで寝ることも、陸を歩くことも、跳ぶことも、毎日太陽に照らされることも、全部、変な感じがしている。下半身が人間になってからもう二年経つけど、わたしはまだ慣れなかった。
そして、海が恋しかった。
でも、これも全てわたしが悪かったんだ。だって『人魚の呪い』の話は知っていたのに、人間を好きになったんだから。どうして好きになっちゃったんだろう。ううん、そんなの分かってる────。
あと二年で見つけられるかな。よく思い出してみれば、やっぱりサフィアは貴族だったような気がする。貴族のことは陸に上がってからもあまり分かっていないけど、でも普通の人より豪華な服を着ているってくらいは知ってる。そして彼も、そうだったと思う。
それに彼と最後に別れた時、やってきた衛兵たちが彼のことを守っていた。人魚は危険だから、ってね。その衛兵の一人に、攻撃されそうになったことも覚えてる。
考えたくなかったけど、やっぱり彼は貴族なんだと思う。でもそうしたら、どうやって見つけたらいい。海賊が、しかも半分人魚のわたしが、どうやって貴族と繋がりを持てばいいの──。
どうしてあんな馬鹿なことしちゃったんだろう。彼と何度も会ったりなんて、しなきゃよかった。1回だけならきっと恋に落ちることなんてなかったのに。
人間の足なんて────。
「メアリ」
低く冷たい温度の声が、わたしの耳に触れた。そのあと、頬にひんやりとした何かがつーっと動いた。ラムズの手だ。
彼の手が湿っているのを感じて、わたしは自分が泣いていたことに気付く。それに気付いたら、また涙が零れた。
目尻から落ちた雫が一筋の線を作って、ラムズがそれに触れた。あまりに冷たい指に、わたしの瞼がパチパチと瞬く。
わたしはラムズの手をどかした。
「……あんまり、見ないで」
「暗いから見えない」
「……でも泣いてるの、分かったんでしょ」
布団をもっと上までかぶって、わたしはそうモゴモゴと呟いた。
泣き顔を人に見られるなんて。人間の足ってだけでもう人魚として恥晒しなのに。わたしって本当、ダメね。
この前鱗が変色していた時も涙が止まらなかった。ノアが気を遣って出ていってくれたから、まだ良かったけど。
「見られたくないのか」
「……ええ」
「人魚はみんな涙を見せない?」
「え? あぁ、たしかにそうかも。誰の泣いた顔も見たことないわ。みんな泣かないのかもね」
「人魚は高潔っていうからな。だから誰かに泣いているところを見せたくないのかもしれないな」
「そっか。そんな話聞いたことあるかも。でも、こんなに泣き虫なのって、嫌よね」
「水の神ポシーファルは、悲しみの神だとも聞いた」
「そっか……。じゃあ、仕方ないのかな」
「ああ、気にするな。サフィアのことを話さないのも、同じ理由か?」
「うーん、その。誰も協力してくれなくなっちゃうかなって」
「……そうか」
布団から顔を出したわたしの耳元に、ラムズの冷たい息がかかる
(本当のことを言うと、寒いわ)。
わたしは話そうか迷った。ラムズは人間じゃないみたいだから、もしかしたら軽蔑しないかも。むしろ助けてくれるかもしれない。あの時もそう言ってくれたものね……。
そっか。だって、今まで一人で探していても見つからなかったんだ。それなら違うやり方を取る方がいいはず。同じ失敗を繰り返すのは良くないわ。
──やっぱり、話してみよう。
「……あのね」
「ああ」
「わたし、足が人間でしょ」
「そうだな」
「『人魚の呪い』なの」
「呪い?」
「うん。あと二年以内に解けなかったら、人間になっちゃう」
「ああ」
「身体の鱗が消えて、使族が変わっちゃうの」
「……なるほど」
「わたし、人間の足なんて嫌なの」
「人魚でありたいからか?」
「うん。人魚なのに、変でしょ。人魚じゃないわ、こんな姿」
「それで?」
「だから、戻したいの。でも戻すためには──」
「ああ」
瞼から、また涙が落ちた。そしてもう止まらなくなって、はらはらと涙が零れていく。視界が、海の中にいるみたいに揺れて潤んだ。
いつも夜に泣いてたの、ちゃんと直しておけばよかった。船の中じゃみんなイビキをかいて寝ているし、こんなに近い距離でもないし、宿は一人だし。直す必要はないからじゃんじゃん泣いてた。
──あーあ、嫌だなあ。人間の足なんて。
ラムズは、また手を伸ばしてわたしの頬に触れた。涙を拭ったあと、彼はわたしの身体を横に向ける。
月の光は、なんだか忍び寄るみたいにしてラムズの顔を照らしていた。髪の毛がダイアモンドのように煌めく。あんまり綺麗だから、泣いているのも忘れて、わたしはそれに見とれた。
ラムズはわたしの頭にポンと手を載せた。
「戻すために、どうするんだ?」
「…………サフィアを、殺すの」
彼の髪の毛は、依然光っているままだった。
また涙が溢れて、視界が水浸しになった。ラムズはわたしの顔に、そっと触れた。彼の顔は無表情のままだけど、なんとなく優しい瞳をしているような気もする。
ラムズはしばらく、何も言わなかった。
わたしは小さな声で、ごめんと謝った。こんな悪い雰囲気にして、申し訳なくなったのだ。人を殺すために探しているなんて、やっぱりラムズも軽蔑したのかもしれない。
「なぜ謝る?」
「軽蔑……したかなって」
「今更だろ。俺が宝石を盗まれて殺しているのも、軽蔑されていてもおかしくはない」
「それ、気付いてたんだ」
「まあな」
ラムズはふっと唇を歪ませた。
ラムズはわたしの頭から手をどかして、さらさらになったわたしの髪を撫でた
(海の中じゃ髪は揺れているから、あんまりこういうことってされたことない。不思議な感覚になるわね、これって)。
「……協力、してくれない? きっと貴族だと思うの。貴族の知り合いなんて、いなくて」
「ああ、分かった。俺もあまり多くはないが、当たってみるよ」
「ありがとう」
ラムズはわたしの頭の方を見て、そのまま髪を撫でている。だから目は合わない。
彼の瞳をじっと見た。青色の眼は濁り一つなく澄んでいて、朝の海みたいだ。わたしも同じ青色なんだけどね。わたしの目なんてこんなに綺麗だったかな。
わたしはふと、ヴァンピールについて思い出した。青い瞳とは対照的なイメージがあるけど、むしろだからこそ思い出したのかもしれない。
「ねえラムズ」
「なんだ?」
「ラムズってヴァンピールなの?」
ラムズは一瞬髪を触っている手を止めた。でも、またすぐに動かす。表情からは何も読み取れない。
「どうしてそう思う?」
「だって……いつか言ってたわ。ブラッドを飲んでるって。ブラッドって、血のことでしょ」
「ああ。そうだな」
ラムズはわたしの髪を触りながら、じっとそれを見ている。何かを考えているみたいだ。
あの時ラムズが船長室で飲んでいたあれ。ドロドロしていて、色も赤黒くて、本人の言う通り、あれはブラッド──血だった。
ラムズはやっぱりヴァンピールなんだ。だけど教えたくないのかな、自分がそれだって。
ラムズはすっと髪を梳いたあと、口を開いた。
「ああ、俺はヴァンピールだ」
「……そっか。ヴァンピールって、魔力が無限だったのね」
「リューキに聞いたのか」
「ええ」
「そうだな、無限だ」
「わたしの血は飲みたくないの?」
「飲みたい」
わたしの台詞に被せるように、ラムズはそう言った。髪の毛を触るのをやめて、わたしの事をじっと見下ろしている。
彼の視線になぜかドキリとして、わたしは目を逸らした。人魚の血でも、いいのかな。もしかして人間の血が……混ざっているのかな。
「まあ、今は大丈夫だ。腹も減ってないし」
「血は全部は飲まないんでしょ?」
「ああ。だから飲まれても死んだりしない」
「普段はどうしてるの?」
「テキトウに飲んでる」
「美味しいとか、あるの?」
「んー、あるかな。メアリのは、美味しそうだな?」
ラムズはそう言って、わたしの頬をさらりと撫でた。ひやりとして、全身に鳥肌が立った。彼はもう寝ろ、と言って仰向けになる。
しばらくして、わたしも天井の方を見た。冷たい手だったはずなのに、ラムズに触られていた髪や頬が、僅かに熱を持っている気がした。
近くにいた怜苑やロゼリィも、もう自分たちの宿に帰ったみたいね。
わたしが先に部屋に入り、ラムズは扉を閉めて鍵をかけた。
もう夜分遅く、部屋の隅には闇が落ちている。窓からの明かりも少し漏れているけど、大して手助けにはなってない。外の街灯も少ないからね
(街灯は魔道具で高価だから、たくさんは作っていられないのよ。王都ならもう少し多いわ。ここは栄えている港町アゴールだし、まだマシな方だとは思うけどね)。
黄色い月が窓から見えて、それが部屋を怪しく照らしている。反射した月明かりのせいか、ベッドの白さだけがぼんやりと闇に浮かんで見える。
ラムズは部屋にある、小さな棚に置いてあった服を手に取った。
「これ、着替えておけ。寝る時に着るものだから」
「え? 分かったわ……」
いちいち服なんて着替えるんだ。今まで寝る前に着替えたことなんてなかったな。わたしが服を受け取ると、ラムズはまたわたしに綺麗にする魔法をかけた。
全身に魔法をかけたせいか、少しよれていた服も元通りになる。この魔法、便利ね。わたしも使えるようにしようかな。今度教えてもらおう
(この魔法で服も綺麗になるなら、そもそも着替える必要なんてないんじゃないの? という疑問は心の内に閉まっておいた)。
「まだ鱗は変色しているんだろ?」
「ええ、まぁね……」
「じゃあ俺が後ろを向いている間に着替えろ」
鱗のこと、忘れてた。服に隠れていつもは見えないから……。
思い出すと落ち込む。だって本当に、見ていられないくらい汚かったから。身体についている鱗は段々自然治癒していくと思うけど、治るのにどのくらいかかるんだろう。
ラムズが背を向けたので、わたしは急いで着替え始めた。なるべく鱗を見ないようにして。
ラムズにとってわたしの鱗は宝石と同じだから、変色した鱗を見るのは辛いんだって、ジウが言ってた。わたしの鱗のことを同じくらい悲しく思う人がいるのは、辛い気持ちがちょっとは和らぐかな。
──あ、さっき着ていた服よりも着やすい。たしかにこれで寝る方が身体を休めることができるような気がする。
着替えが終わったので、ラムズに声をかける。わたしはベッドに座った。ぼふんと音がする。
「もう寝るわ。疲れちゃった、お酒も飲んだし」
「また飲みすぎたのか?」
「飲みすぎてないわよ。この前みたいに倒れてないでしょ」
「ああ、たしかに。リューキはけっこう飲ませてくるからな。気をつけろよ」
はあい、とテキトウに返事をして、倒れるようにベッドへ横たわった。ベッドは部屋の左側に縦向きに置いてあり、片側が壁にくっついている。だからわたしはベッドの左側に体を寄せた
(ラムズが寝られるようにするために決まっているじゃない)。
布団を掛けて、首まですっぽりと収まった。枕は一つしかなかったから、同じく枕の左側に頭を載せる
(二人で寝るんだから、枕くらい二人分用意してくれてもいいのにね。これじゃあ船のハンモックの方がまだ寝心地いいかも)。
布団の中でラムズを見ていたけど、彼は一向にベッドに入る気配がない。着替えてもいないし。
まだ眠くないのかな。でも後でラムズが布団に入ってきて、起きちゃうのも嫌だし。
「ねえラムズ、寝ないの?」
「俺は別に眠くないしな」
「でも寝ないと起きられなくなるわよ。せっかく空けたんだから寝たら?」
わたしはそう言って、布団の右側をぽんぽんと叩いた。ラムズは小首を傾げている。わたし変なことしたかな、もしかしてもっと空けてほしいってこと?
気持ち左にずれたら、ラムズはベッドに腰掛けた。ぎしりとベッドが軋む。
しばらく待っていたけど、ラムズは座っているだけで一向に寝ない。まだ狭いって思っているのかしら。でもわたしはもう壁のギリギリまで来ているんだけどな。
「寝ないの?」
「そんなに寝てほしいのか。そこまで言うなら、じゃあ寝てやるよ」
ラムズは面白そうにわたしを見たあと、隣に寝転んだ。布団はかぶってない。
そこまで言うならってよく分からないけど、あとで起こされるよりいいわよね。わたしは疲れているから、できれば朝まで寝ていたいの
(船では交代制で寝るせいで、いつも少ししか寝られない。夜に三時間寝たら交代して、また昼頃に寝たりとかね。長い時間寝続けることってあんまりないわ)。
それにしてもベッドが狭いわね。ちょっと動いたらラムズに当たるし。もしもラムズが寝相悪かったらどうしよう? あ、でも、わたしの方が壁側だから、ベッドから落ちる心配はないか。
ラムズはしばらく仰向けで寝ていたけど、わたしの方を向いて、枕の上で頬杖をついた。
「メアリ、サフィアという男の話、どうなった?」
「え、あぁ……」
そういえば、いつか教えようかなって思ってたんだっけ。
わたしは身体をもぞもぞと動かした。布団に足が当たる。布団に入るって行為も、わたしには今も違和感しかない
(最初に陸を歩いた時は大変だったわよ。というか歩けなかった。頑張って練習したの)。
ベッドで寝ることも、陸を歩くことも、跳ぶことも、毎日太陽に照らされることも、全部、変な感じがしている。下半身が人間になってからもう二年経つけど、わたしはまだ慣れなかった。
そして、海が恋しかった。
でも、これも全てわたしが悪かったんだ。だって『人魚の呪い』の話は知っていたのに、人間を好きになったんだから。どうして好きになっちゃったんだろう。ううん、そんなの分かってる────。
あと二年で見つけられるかな。よく思い出してみれば、やっぱりサフィアは貴族だったような気がする。貴族のことは陸に上がってからもあまり分かっていないけど、でも普通の人より豪華な服を着ているってくらいは知ってる。そして彼も、そうだったと思う。
それに彼と最後に別れた時、やってきた衛兵たちが彼のことを守っていた。人魚は危険だから、ってね。その衛兵の一人に、攻撃されそうになったことも覚えてる。
考えたくなかったけど、やっぱり彼は貴族なんだと思う。でもそうしたら、どうやって見つけたらいい。海賊が、しかも半分人魚のわたしが、どうやって貴族と繋がりを持てばいいの──。
どうしてあんな馬鹿なことしちゃったんだろう。彼と何度も会ったりなんて、しなきゃよかった。1回だけならきっと恋に落ちることなんてなかったのに。
人間の足なんて────。
「メアリ」
低く冷たい温度の声が、わたしの耳に触れた。そのあと、頬にひんやりとした何かがつーっと動いた。ラムズの手だ。
彼の手が湿っているのを感じて、わたしは自分が泣いていたことに気付く。それに気付いたら、また涙が零れた。
目尻から落ちた雫が一筋の線を作って、ラムズがそれに触れた。あまりに冷たい指に、わたしの瞼がパチパチと瞬く。
わたしはラムズの手をどかした。
「……あんまり、見ないで」
「暗いから見えない」
「……でも泣いてるの、分かったんでしょ」
布団をもっと上までかぶって、わたしはそうモゴモゴと呟いた。
泣き顔を人に見られるなんて。人間の足ってだけでもう人魚として恥晒しなのに。わたしって本当、ダメね。
この前鱗が変色していた時も涙が止まらなかった。ノアが気を遣って出ていってくれたから、まだ良かったけど。
「見られたくないのか」
「……ええ」
「人魚はみんな涙を見せない?」
「え? あぁ、たしかにそうかも。誰の泣いた顔も見たことないわ。みんな泣かないのかもね」
「人魚は高潔っていうからな。だから誰かに泣いているところを見せたくないのかもしれないな」
「そっか。そんな話聞いたことあるかも。でも、こんなに泣き虫なのって、嫌よね」
「水の神ポシーファルは、悲しみの神だとも聞いた」
「そっか……。じゃあ、仕方ないのかな」
「ああ、気にするな。サフィアのことを話さないのも、同じ理由か?」
「うーん、その。誰も協力してくれなくなっちゃうかなって」
「……そうか」
布団から顔を出したわたしの耳元に、ラムズの冷たい息がかかる
(本当のことを言うと、寒いわ)。
わたしは話そうか迷った。ラムズは人間じゃないみたいだから、もしかしたら軽蔑しないかも。むしろ助けてくれるかもしれない。あの時もそう言ってくれたものね……。
そっか。だって、今まで一人で探していても見つからなかったんだ。それなら違うやり方を取る方がいいはず。同じ失敗を繰り返すのは良くないわ。
──やっぱり、話してみよう。
「……あのね」
「ああ」
「わたし、足が人間でしょ」
「そうだな」
「『人魚の呪い』なの」
「呪い?」
「うん。あと二年以内に解けなかったら、人間になっちゃう」
「ああ」
「身体の鱗が消えて、使族が変わっちゃうの」
「……なるほど」
「わたし、人間の足なんて嫌なの」
「人魚でありたいからか?」
「うん。人魚なのに、変でしょ。人魚じゃないわ、こんな姿」
「それで?」
「だから、戻したいの。でも戻すためには──」
「ああ」
瞼から、また涙が落ちた。そしてもう止まらなくなって、はらはらと涙が零れていく。視界が、海の中にいるみたいに揺れて潤んだ。
いつも夜に泣いてたの、ちゃんと直しておけばよかった。船の中じゃみんなイビキをかいて寝ているし、こんなに近い距離でもないし、宿は一人だし。直す必要はないからじゃんじゃん泣いてた。
──あーあ、嫌だなあ。人間の足なんて。
ラムズは、また手を伸ばしてわたしの頬に触れた。涙を拭ったあと、彼はわたしの身体を横に向ける。
月の光は、なんだか忍び寄るみたいにしてラムズの顔を照らしていた。髪の毛がダイアモンドのように煌めく。あんまり綺麗だから、泣いているのも忘れて、わたしはそれに見とれた。
ラムズはわたしの頭にポンと手を載せた。
「戻すために、どうするんだ?」
「…………サフィアを、殺すの」
彼の髪の毛は、依然光っているままだった。
また涙が溢れて、視界が水浸しになった。ラムズはわたしの顔に、そっと触れた。彼の顔は無表情のままだけど、なんとなく優しい瞳をしているような気もする。
ラムズはしばらく、何も言わなかった。
わたしは小さな声で、ごめんと謝った。こんな悪い雰囲気にして、申し訳なくなったのだ。人を殺すために探しているなんて、やっぱりラムズも軽蔑したのかもしれない。
「なぜ謝る?」
「軽蔑……したかなって」
「今更だろ。俺が宝石を盗まれて殺しているのも、軽蔑されていてもおかしくはない」
「それ、気付いてたんだ」
「まあな」
ラムズはふっと唇を歪ませた。
ラムズはわたしの頭から手をどかして、さらさらになったわたしの髪を撫でた
(海の中じゃ髪は揺れているから、あんまりこういうことってされたことない。不思議な感覚になるわね、これって)。
「……協力、してくれない? きっと貴族だと思うの。貴族の知り合いなんて、いなくて」
「ああ、分かった。俺もあまり多くはないが、当たってみるよ」
「ありがとう」
ラムズはわたしの頭の方を見て、そのまま髪を撫でている。だから目は合わない。
彼の瞳をじっと見た。青色の眼は濁り一つなく澄んでいて、朝の海みたいだ。わたしも同じ青色なんだけどね。わたしの目なんてこんなに綺麗だったかな。
わたしはふと、ヴァンピールについて思い出した。青い瞳とは対照的なイメージがあるけど、むしろだからこそ思い出したのかもしれない。
「ねえラムズ」
「なんだ?」
「ラムズってヴァンピールなの?」
ラムズは一瞬髪を触っている手を止めた。でも、またすぐに動かす。表情からは何も読み取れない。
「どうしてそう思う?」
「だって……いつか言ってたわ。ブラッドを飲んでるって。ブラッドって、血のことでしょ」
「ああ。そうだな」
ラムズはわたしの髪を触りながら、じっとそれを見ている。何かを考えているみたいだ。
あの時ラムズが船長室で飲んでいたあれ。ドロドロしていて、色も赤黒くて、本人の言う通り、あれはブラッド──血だった。
ラムズはやっぱりヴァンピールなんだ。だけど教えたくないのかな、自分がそれだって。
ラムズはすっと髪を梳いたあと、口を開いた。
「ああ、俺はヴァンピールだ」
「……そっか。ヴァンピールって、魔力が無限だったのね」
「リューキに聞いたのか」
「ええ」
「そうだな、無限だ」
「わたしの血は飲みたくないの?」
「飲みたい」
わたしの台詞に被せるように、ラムズはそう言った。髪の毛を触るのをやめて、わたしの事をじっと見下ろしている。
彼の視線になぜかドキリとして、わたしは目を逸らした。人魚の血でも、いいのかな。もしかして人間の血が……混ざっているのかな。
「まあ、今は大丈夫だ。腹も減ってないし」
「血は全部は飲まないんでしょ?」
「ああ。だから飲まれても死んだりしない」
「普段はどうしてるの?」
「テキトウに飲んでる」
「美味しいとか、あるの?」
「んー、あるかな。メアリのは、美味しそうだな?」
ラムズはそう言って、わたしの頬をさらりと撫でた。ひやりとして、全身に鳥肌が立った。彼はもう寝ろ、と言って仰向けになる。
しばらくして、わたしも天井の方を見た。冷たい手だったはずなのに、ラムズに触られていた髪や頬が、僅かに熱を持っている気がした。
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