異世界の定義

水乃谷 アゲハ

異世界のルール

 鳥居の先は全く別の世界になっていた。見渡す限り森しかなかった。立ち上がろうとして、手を地面につくとそこにはかなり古い一冊の本が落ちていた。手に取って題名を見る。
「……『異世界のルール』だと?」
 汚れた小さな本の茶色い表紙には確かに『異世界のルール』とだけ書かれている。多分これは、あの巫女が言っていた使命、というものではないのだろう。
「……」
 ペラリと表紙をめくる。よく見るとこの本、ページがない。一枚の分厚い紙が入っているだけだ。紙の真ん中に小さく書いてあったのはただ一言。『ここでの異世界、つまり自分の世界の話はしてはならない』だった。
「世界の話をしない事、か。……!?」
 ルールを確認して本を閉じると、ボンッと音を立てて本は消えてしまった。あたりを見回しても本はもう見当たらない。
「……な、なるほど。流石に異世界ってわけだ。さてさて?」
 まず何からしたものか分からないので、とりあえず森の中を探索することにした。
 正直あそこにずっといても、ただただ時間を消費するだけであるし、何より食料を確保しないといけない。
「きゃあぁぁぁ! 助けてぇ!」
 その時、俺は確かに女性の耳を聞いた。森の中では叫ぶ声はよく目立ち聞き間違えるはずもない。
 すぐに声のした方向を振り返る。どうやら近くにいるらしい。急いで声の主を探す。
「いた!」
 そして俺は見た。湖で溺れかけている女が必死に水面に顔を出そうともがいている。
「おいあんた! 大丈夫かっ!? ……あれ?」
 急いで少女のいる湖に飛び込むが、俺の腰当たりまでしか水はない。とりあえず慌てている女を支える。
「お、おい。落ち着け。大丈夫だここは浅いから」
 声が聞こえていないのか、女はまだ目をつぶって暴れている。め、めんどくせぇ……。
 俺は女を抱えると、水から出た。そこでようやく彼女も落ち着きを取り戻し、キョロキョロ周りを確認して、自分が湖にいない事が分かると、次に俺の顔を見た。
「だ、誰?」
 もちろん俺も聞きたい。とりあえず少女を地面に下す。
 見た目は俺と同じくらいだろうか? 茶色の髪に緑の目、耳が尖っているのが印象強いが、人間と同じ姿をしている。服は水に完全に濡れてしまっていて、目のやりどころに困る。
「あ、あぁ、あの! う、後ろを向いていてくださいっ!」
「と、というか! 俺、ここから消えるわ! 助かって良かったな、それじゃあ気をつけてな!」
 急いで回れ右をして歩き出そうとすると、服を引っ張られる。後ろを振り返ると、女が俺の服を引っ張っていた。
「ここで、後ろ向いてくれればいいから、行かないで」
 もはや半泣きの目と上目遣いで頼んでくる。流石にこれは断れない……。
「分かったから変な気分になる前に早くしてくれ……そこの木の裏にいるから」
「う、うん」
 微かな布擦れの音を聞き流しながら、俺は空を見る。
 すでに太陽が沈みかけている。この森の広さによっては野宿をすることになるかもしれない。
「あ、あの、もういい……よ?」
 少し待っていると、そんな声が聞こえた。
 警戒しながら顔を出すと、女はどこに持っていたのかきれいな服に着替えていた。
「さ、さっきはありがと……。私はメイル……です」
 赤い顔をして、モジモジとしながら彼女は自分の名前を口にした。
「わ、私金槌で泳げないからどうなるかと思った……。名前って聞いちゃだめ?」
「俺は紅葉もみじ 一風いちかぜ。腰当たりしかない水に溺れるって、お前相当な金槌なんだな。で、なんでそれをわかって湖に?」
 湖を振り返るが、見る限り魚が泳いでる気配は全くない。水の中に光る珍しい物もない。見る限り本当に普通の湖だ。
「探し物です。丸い鈴なんですが、転がっていってしまったみたいで……。坂道を転がっていったのかと思って探してたら足を滑らして落ちてしまったんです……」
 確かにこの湖は坂の下にある作りになっているから、上から落とすと転がっていく可能性が高い。すずが丸いならなおさらだ。
「日が暮れる前に探して上げなきゃ妹が今夜眠れないの。お願い、一緒に探してもらえないかな? お礼はするから、ね?」
 ねってなんだ……。とはいえ、ここでするべきことも決まっていないから別に問題はない。
「……鈴の特徴は?」
「丸いの。穴が開いてなくて、それでもいい音がするっていう変わった鈴なの。赤くて花の絵が描いてあったかな。一番の特徴は顔ぐらいの大きさだってことだね」
 それは大きいな。なのに見つからないっていうのか。
 あたりを見回すが、それらしい赤い物は見当たらない。と、湖のわきに奇妙なものを見つけた。
「……なんか、おかしくないかあそこ」
 いや、俺が見つめてる先に何かがあるわけではないのだ。ただそこの空間? っていうのがおかしく見えるのだ。少し膨れ上がっている様な?
「え? いや、何もわからないけど?」
 俺の肩から顔を出して俺の視線の先あたりを見るが、何も気が付かないらしい。
 恐る恐る近づき、その違和感へと手を伸ばす。コツっと何かが触れた。それを滑らないように慎重に抱える。確かに何かを抱えてる感触はある。しかし、何も見えない。透明な空気の塊をもっている気分だ。
「どうしたの?」
 俺の横に歩いてきたメイルは、俺の抱えてる透明な何かを見る。そして俺の顔をまじまじと見て、もう一度その何かへと視線を戻す。
「えっと、何のポーズ?」
 こいつには見えてないのか……? 手を差し出せと、手に持ったものを渡す素振りを見せる。
「え? ……え?」
 俺からその見えない何かを受け取ると、俺とそれを交互に見比べる。そして何を思ったか上に投げた。
 重力に引っ張られ、それはすぐに落ちてくる。地面に落ちた時、それは確かにきれいな鈴の音を辺りに響かせた。
「鈴の音……」
 これが多分、言っていた鈴なのだろう。落ちてきたそれをしっかりと両手で抱える……つもりが見えていないために、両手は空を切っていた。
 すぐに俺が手を伸ばして、空中でキャッチする。そしてそれを持って振り返る。
「家はどのあたりなんだ? 見えてないのなら俺が運ぶよ」
「え、あ、ありがとう。こっちよ」
 そう言うと、俺の前を歩き出した。
 これが、この世界で初めて出会った人間の少女、メイルだった。

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