桐島記憶堂

ぽた

27.出立予定

「居たなら声を掛けてくださいよ…」

 ピアノの鍵盤蓋を閉めながら僕がそう言うと、小夜子さんは淑やかに笑って、大輔さんはすまんと申し訳なさそうに頬を掻いた。
 桐島さんは満足気に手を叩いている。

 とても褒められたものではない気がするのは、やはり自分の演奏だからか。
 しかし、笑って聴いてもらえていたのは喜ばしいことだ。とても恥ずかしいけれど。

「男の子にしては、繊細な音を鳴らしますよね」

 と小夜子さん。
 一歩踏み込んで、うっとりとした様子で頬に手を添えている。

「その所為で、革命や幻想即興曲といった派手な曲は性に合いませんけれども」

「いえいえ。自分に合っているジャンルで戦えるのは、凄く良いことですよ」

「それは有難いですけれど……うぅ、やっぱり元プロの前では弾きたくありませんね」

「あらあら。以前、既に聴いてますけれど?」

 それはそうなのだけれど。
 改めて意識をすると、穴があったら入りたい――いや埋めて欲しいくらいだ。

 肩を落としていると、少し遅れて楠さんが扉を三度ノックした。
 前回まではずっと二度だったのに。
 首を傾げる僕に、桐島さんがすかさず注釈を入れた。
 二度は自身の入室時、三度は他に人がいる時の入室時。

 現在、僕以外にはこのお屋敷に人は来ていない筈だ。
 つまり。

『向子様をお連れしました』

 寝たきり、と前回来た時に紹介だけされた、桐島さんの祖母だった。

 扉向こうから楠さんはそう言うと、ゆっくりとその扉を開けて、ご老体を乗せた車椅子を押して入って来た。

「随分と綺麗な、けれど知らない音色が聴こえると思ったら、来客だったのね。どちら様かしら?」

 ゆったりとした口調で、しかし見た目よりも随分と流暢な滑りで話しかけて来た。

「こ、神前真と申します。えと……お孫さん、藍子さんのお店で雇われております、大学一年生です」

 もういい加減、名乗りも慣れて来たと思っていたのにな。
 桐島さんとの初対面時と同じく、噛み噛みで詰まりっぱなしの自己紹介。

 向子さんは笑って、両手を胸の前で合わせた。

「あら、藍ちゃんのお仕事仲間なの。ごめんなさいね、おもてなしも出来なくて」

「い、いえ、そんな…! ご自分のお屋敷ですし、ともすれば客人である僕の方が遠慮をするところです…!」

「ふふ。良いのよ、遠慮はしなくて。ゆっくりと寛いで頂戴」

「は、はい、ありがとうございます」

 桐島さん、小夜子さんとはまた違った笑みを浮かべる人だ。
 場が一気に温かくなった。

 とりあえずの会話を終えると、入れ替わるようにして桐島さんが前に出た。
 少し困り顔で、向子さんの方へと近付いて行く。

 しゃがみ込み、その手を取るのだけれど――どう話して良いのか分からないようで、口を開いては閉じ、開いては閉じ。
 三度ほど繰り返しても、なかなか声が喉を過ぎて出てこない。
 久方ぶりに帰って来て、まだ話が出来ていなかったようだ。

 すると、向子さんは握られた右手の上から、左手を重ねて膝の上に置いた。
 そうして優しく、温かく微笑み、

「おかえりなさい、藍ちゃん」

 本来なら部外者である僕の胸にもすっと溶ける、透明な声。
 それを聞いた途端、桐島さんはその大きな瞳に涙を滲ませた。

 ピアノを弾いている時のそれとは違う、愛する者に再会した喜びに満ちた、心の涙だ。

「ただいま……ただいま、おばあちゃん…我儘な家出は、これでおしまいです…」



 みっともなく泣いて、泣いて、涙が枯れると。
大胆にも袖で目元を拭い、何故か僕へと振り返り、

「神前さんの所為です…!」

 それはそれは理不尽が過ぎる言い分を放った。
 実家に戻って来てからの桐島さんが、幾分と幼く見えてしまうのは、きっと僕だけではない筈だ。
 尊敬の対象として見ている葵には見せられないな。

 言い返す気も起らず、呆れて溜息を吐くと、また何故か桐島さん本人ではなく、向子さんが僕と目を合わせて、ごめんなさいね、と眉根を下げて言った。

「昔からこうなの。そっちではどうか分からないけれど、本当はまだ、とっても子どもっぽいのよ?」

「お、おばあちゃん…!」

「それは十二分に知っています」

「神前さん!」

 僕の時だけ少し圧が強かったのは、気にしないでおこう。

 桐島さんが頬を膨らませて憤慨すると、ようやくそこでひと笑い。
 本来の桐島家の形であろう、柔らかな空気へと変わった。

「何だか調子が良いから、と向子様にお願いされまして、お庭へと出て花々を愛でていたのです。そうしましたら、神前さんの奏でるピアノの音色が聴こえ、向子様も私も、しばし聞き惚れておりました」

「お、お恥ずかしい……外にも漏れていたのですね」

「晴天に恵まれた今日は、風に揺れる花々が、喜んでいるようにも見えました」

 そう言われると、素直に喜ぶほかない。
 いやぁ、と頭を掻いて苦笑い。

「秋空に映える、素敵な音色だったわ。ちょっと、元気も出て来た気分よ」

「無茶は駄目ですからね、おばあちゃん。夜はちゃんとお休みになってください」

「分かってるわ、ちゃんと休みますとも」

 穏やかに笑って、桐島さんの言い分を受け入れる向子さん。

 前と同じように、さて、という小夜子さんの柏手で以って場の視線を全て集めると、今後のことについて話し合おうかという運びになった。
 桐島さんが実家に戻るのか。そう勘繰る僕に、心配はいりませんよと小夜子さん。
 修二さんから依頼の旨を聞いていて、その内容に関してのことだった。

 受けた依頼はあと一つ。
 僕が――基、岸姉妹の力を借り、葵に支えて貰いながら調べ上げた場所、礼文島。
 そこへ今一度赴きたい、というものだった。

 桐島さんにそれを伝えるや、まだそんなことが、と驚いた。

「都合は付けますから、藍子の行きたい時を言ってください。今回の件、言わなかった私たちに非は大いにありますから。貴女に合わせます」

 今更ではあるけれど、僕がピアノを弾いて待っていた一時間と少しの間に、どのような話し合いがもたれ、どのように落ち着いたのかは分からない。
 けれど、険悪にはなっていない様子を見ると、上手い事いったらしいな。

 それを受けての桐島さんの答え。
 否定をするか、甘えるか。

「私は――」

 一拍置いて、

「すぐにでも……飛行機は予約二ヶ月ですから、その直ぐには行きたいと――」

 そう言うや。

「聞きましたか、楠さん。払い戻しの件は無しです。修二にも連絡を」

「心得ております」

 何が何やら。
 口を開けて固まって、僕は桐島さんと顔を見合わせて首を傾げた。

 ごめんなさい、と小夜子さん。
 何でも、二ヶ月弱前から既にチケットを取っていて、この時期に来なければ、あるいは来ても許してもらえなければ、払い戻し、なかったことにしようと計画をしていたらしい。

「二ヶ月弱って……」

 よもや、既に計画されていたことだったとは。
 流石の桐島さんにも予想はんかったようで、驚きっぱなしである。

「来週の土曜日を取ってあります。その日、私と大輔さん、あと修二も、三人ともお休みなので、あとは藍子が「行く」と言ってくれれば、それで決定です」

「……そういうことでしたか」

 何かに得心した様子の桐島さん。
 理由を尋ねると、あの封筒のことだと言った。

「神前さんから受け取った、母からのお手紙。あれ、中に白紙二枚しか入れていませんでしたね?」

 訳の分からないそんな指摘に、小夜子さんは当然のように頷いた。

「昔、一度だけあったのです。両親二人で珍しく一週間の旅行に出かけた時に」

 高々七日の内に、どうして手紙が。
 それも、白紙二枚だけの。

 意味が分からないまま、父母の帰りを待ち、尋ねた所、手紙を人に贈る時、一枚で内容を書き終えた際は、白紙を一枚追加して出すのが一般らしいことが分かった。
 しかし、白紙二枚――内容が無し、とは。

「白紙を追加する理由は幾つかありますが、その内の一つに“本当はもっと話したいことがある”という旨を伝える為だというものがあります。静かに理由を伝える、奥ゆかしい方法ですね」

「二枚とも、というのは?」

「これは母のオリジナルだったのですけれど――筆では語れない、声でのコミュニケーションにて伝えたい事が多い、という意味でした」

 つまり。
 あの時、桐島さんが手紙を開け、中身を確認していれば、なるほど“家に来い”か“電話をしろ”ということなのだろう、と分かったらしい。
 元より、小夜子さんの方が一枚上手だったというわけだ。

きっかけ一つで、その実凄く来て欲しかったとは。

「凄く、優しい両親じゃないですか」

「……えぇ、本当に」

 困ったように笑ってみせる桐島さん。
 ようやく、これで本当に、元通りだ。

「さて――僕はそろそろ帰ります」

「泊まっていっても構わんが」

「お気持ちは大変ありがたく思います。ですが、すいません。明日はもう一つ、重要な仕事がありまして」

 葵の所へ行かなくてはいけない。

「それに――」

 少し溜めて、僕はわざと、桐島さんの意識を向けさせた。
 もはやその表情に、一つの曇りもないことを確認して。

「せっかくの再開なのです。月曜になれば、自然、皆さんお仕事ですから、親子水入らずを楽しんで頂きたい」

「神前さん……ありがとうございます」

「礼なら全て、大輔さんに小夜子さん、楠さん、そして修二さんに。楠さんに代わって、貴女がメールを打ってあげてください」

「……分かりました。ちょっと、照れくさいですけれど」

「いい大人の家出に対する、バツということで一つ」

 なんて。
 桐島さんがメールを打った方が、絶対良いに決まっているだけだ。

 すると、部屋を後にしようとする僕に、桐島さんが声を掛けて来た。

 礼文島には一緒に行きますよね、と。

 何をそんなに好かれてしまったのかは分からないけれど、僕はてっきり、家族だけで行くものだと思っていた。
 それが自然なことで、家族の思い出巡りということは、部外者は極力いない方が良いのが道理だ。

 しかし、普通に話せるようになったとは言え、まだ少し緊張感や抵抗というものはあるようで、桐島さんの瞳は少し潤んでいた。

「そうですね…桐島さんが僕のお金を持つなら、考えてあげます」

「勿論です…!」

「即答ですか。まぁ冗談半分ですけれど……大輔さん、小夜子さんは、それでも構わないんですか?」

 なんて。
 いくら桐島さんがそうは言っても、来週に控えた飛行機のチケットなど、今から取れる筈もない。
 と、思っていたのだけれど。

「構いませんよ、一枚予備はありますから」

「……へ?」

 思わず素っ頓狂な声が漏れてしまった。
 予備、と言ったか、この人。

「修二が、依頼を出す前に、藍子のお店について少し調べていたのです。そうしたら、アルバイトが一人いるという話ではありませんか。藍子に直接言う事は不可能だろうからと、そこから計画を練り、神前さんを介して――という話に。すいません、隠していて」

「それは構わないのです……つまり、二枚も上手だった訳だ」

「神前さんを介してこの件に触れれば、藍子が一人で来る筈はありませんから。しかし、あくまで予備として取っておいたというわけです」

「貴女もまぁまぁ人が悪いですね。娘さんといい勝負だ」

「あらあら、それは照れてしまいますね、ふふ」

 褒めてはいないのだけれど。

 しかし、結果オーライ。なぜか、僕の問題は片がついてしまったというわけだ。
 わざわざ取っていたということは、大輔さんも小夜子さんも、修二さんに関しても、僕の存在は認めているということなのだから。

――神前真さん、ですね。ご相談があります――

 あの日、かけられた言葉。
 今思えば、どうして僕の名前を知っているのかという話だ。

 あの以前から僕の存在を知っていたから、今回のこの件について任せようなどと。

「またお邪魔になってしまい……ありがとうございました。では、来週」

「えぇ。空港までは楠さんに車を回して貰いますから、当日は藍子と一緒にここへ来てください。何なら、これから駅まで送ってさしあげても――」

「あぁいえ、それはどうかお構いなく。当日の件は了解しました。向子さん、わざわざ出て来て頂いたのに、そそっかしくてすいません」

「いいえぇ、楽しかったわよ。久しぶりに誰かとお話できて」

「有難い言葉です。それでは、失礼します」

「はい。お気をつけて」

 最後に僕を見送ったのは、桐島さんの自然な笑顔。
 薄い仮面の無くなった、晴れやかな表情だった。

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